赤い「枚方准教授」のプレートを裏返して隣に目をやると、やはり講師の名前は赤くなっていた。もう帰宅したのだろう。席につくと丸めた白衣の横に学生の論文草案が無造作に置いてあった。手に取り中をざっと見てみれば最初の一頁で眉間に皺が寄る。いつも通りである。
書類の山に論文を戻しながら、枚方は先程バスで見た光景を思い出していた。件の女がいたのだ。今日はガスの点検に立ち会う為に一時的に研究室を抜けたのであって、いつもの出勤時間ではない。それでも女がいた。
頭を切り換えた方がいいかもしれない。
コーヒーの色がすっかり染みついたマグカップを手に取り、インスタントの粉を入れた。給湯ポットは隣の部屋にある。彼が所属する研究室では講師も准教授も生徒も一つの居室に詰め込まれているが、今部屋にいるのは自分だけである。誰も彼も実験中らしい。通り過ぎた講師のデスクの上に、彼の子供の写真が二枚飾られていた。講師は枚方より年長である。子供の歳は知らない。
空調の風がカレンダーを揺らしていた。その奥に掛かる時計が午後六時半を指している。彼は瞬き数回程の時間立ち止まり、今度は己のデスクへカップを戻して財布を取った。腹は減っていないがタイミングと言うものがある。
「あ、先生。論文出したんですけど」
声の主を見ると、実験の途中で物を取りに来ただけなのだろう。よれた白衣に首からストップウォッチを提げた学生が急ごしらえの笑みを貼り付けている。
「後で見ます。直しが多いです」
ニコリともしない枚方の言葉に、ですよねー、と言い残して若い背中が退散した。扉が閉まると同時に四方がピタリと封じられてしまったような息苦しさを感じる。彼は食堂へ歩き出した。
***
建物の外は蒸していた。日差し自体は温んでおり風も僅かに吹き始めていたが、それでもこびり付いた湿気を拭うには全く足りない。珍しく枚方を後悔が襲った。せめてもう少し待てば良かった。坂を上って食堂に辿り着いた時、案の定、額にうっすらと汗をかいていた。
夕食には時間が早いせいか、食堂内に人の姿はまばらである。いつも通り窓側の人気がない席へ向かいながら、枚方はここ一ヶ月程目にする女の姿をなぞっていた。
まず、黒ずくめである。夏だと言うのに肌色がない。当然日傘をさしている。これも黒である。陽炎のように白昼その姿は揺らいでいて、一度目を離すともう見つけられない。いつも朝のバス停にいるのだが、本日は夕方であるにも関わらず同様だった。ちょうどそこで少年が降車したが女に気付いた様子はなかった。
女の表情はいつも読めなかった。後姿だとか横顔だとか俯いているだとかそんな具合で、なぜかこちらを向いていないのである。あの目にどの感情が刻まれているのか、そう考える事を枚方は早々に放棄していた。陰惨な顔をしているに決まっている。
幽霊。しかし科学者たる自分がそう断じるのはいかがなものか。
ふと目を向ければ、談笑する学生の映像ばかりが窓越しに流れていた。さすがにこの暑さで時間も時間なだけに、昼のそれと比べると密度は小さい。だがささいな身振りひとつ取っても踊るような活気に充ちている。その眼前に酷い猫背で瀕死の頭髪を持つ中年が、幽霊だ何だと思案しながら鎮座する姿はどうにも酷く落ち零れているような気がした。
「枚方さん、早いですね」
さも健康そうな挨拶と同時に、枚方の前に若い男性が陣取った。若いと言っても枚方と比べての話で、当然院生らよりは上である。彼の盆の上に視線を移せば、学生のような内容が並んでいる。
「テニスですか」
片岡は夏に相応しく焼けた肌をしていた。彼は講師で、彼が所属する研究室の教授がテニス好きな為か、およそ週一でテニスに興じている。夏は夕方にスタートするらしい。
「今週はないんですよ。深刻な人員不足です。枚方さんいかがですか」
反射的に枚方は断った。百人いたら百人が社交辞令だとわかるだろう。短いゴボウが平謝りしているような自分をゲームに加えたところで双方に不幸なだけである。
「いやね。常磐のサンプル回収があるんですよ」
「ああ。今の時期なら適温でしょう」
片岡は肉厚の手を振った。
「寒いぐらいですよ。この暑いのに防寒具を積んで行くわけです」
クーラーを効かせた車内にこの夏の男と厚手の生地の防寒具である。絵にしてみれば暑苦しい。
「それにしても、知ってますか。若者の間では常磐が自殺スポットらしいんですよ」
わざとらしく眉も声も顰めている。枚方は先程乗ってきたバスを思い出した。確か中学生と思しき少女が降車した筈だ。
「学生が騒いでましてね。ほら、僕は見るからに気弱そうでしょ。全く、嫌な噂が立ったもんです」
さすがの枚方も、「気弱そう」と言われては笑うしかない。
大学では助手、講師、准教授、教授、と階級が上がるのだが、年齢もこの通りになるわけではない。実際に枚方が所属する研究室では講師の方が枚方より年上である。そして目の前の片岡は枚方よりかなり若いが講師である。つまり他の講師の面々と比較すると一人だけ格段に若い。しかし全くもって堂々たる講師である。気弱と主張しようものなら、気弱が裸足で逃げ出すに違いない。
「あの一帯は都市伝説と言うんでしょうか。十年以上前にも何か噂があったと思います」
その頃も枚方は東三八系統のバスに乗っていた。毎日同じような日常を積み重ねて十年以上経っていたのだ。
ふいに、ある感覚が脳裏に浮かび上がった。あの当時、あるバス停、同じ時間に、女が立ってはいなかったか。
「幽霊の話もあったかもしれません」
思い出そうとしたが、その女の姿形は忘れてしまっていた。しかし最近見る黒い女とは違うと妙な確信がある。
片岡が驚いたような顔をしながら腕時計に目を落とした。その手元を見れば皿が綺麗に片付いている。一方の枚方は半分も食べていない。
「じゃあすみません。ちょっと準備があるのでお先に」
最後にもう一度笑いながら挨拶をして、片岡は食堂から出て行った。
窓の外は褪せた日没の色をして、電灯が目立たない程度に点り始めている。
片岡が所属する研究室は今准教授が空席になっている。どこか他大学の准教授が滑って来るのか、どこかの講師が上がるのか片岡が上がるのか。だからなのだろう。ここ二、三ヶ月で片岡に頻繁に話しかけられるようになった気がする。情報が欲しいのだ。
枚方は浅く息を吐いた。自分は先程笑っていたなと思った。これが日常になるのかもしれない。もう一度息を吐き、そしてゆっくりと薄い頬を叩いた。
***
日は暮れ始めると早い。
枚方がもたもたと日替わりの定食を片付けた頃、外はすっかり暗くなり窓ガラスに己の顔が映っていた。四十代独身、痩せ型で研究以外の趣味もない。車もない。髪はなくなるばかりである。しみじみとこのままなのだろうと思った。
窓ガラスは今、食堂内を映している。枚方が来た時より人が増え賑わいを見せ始めたようだ。その中に研究室の学生の姿を認め、何の気なしに食堂の方へ目を移した。
黒い女がいた。
学生と並びながら夕食を選んでいる。やはりこちらを見ていないが談笑しているようだ。その様子は普通の、ごく一般的な女子学生に見えた。
吐こうとした息が胸で詰まる。それが燃えて胃の腑を溶かすような心地がする。
陰惨な目をしていなければならない。憎悪に歪んでいなければならない。とにかくとにかく笑ってはならない。
女の表情が須く枚方の足場を崩した。幽霊でないことはどうでも良かった。
人はとにかく笑うものだ。他者へ負の感情を現わす時、そこにだけは嘘がない。
己は偏屈だと思う。だから枚方と誰かとの間には必ず笑顔の壁が挟まっている。だから、幽霊だけは笑ってはならなかった。
枚方は窓ガラスに目を戻した。すぐ目の前に酷く陰惨な目をした男が映った。どうしようもなく満足して、彼は席を立った。