どうして僕はバスに乗ってしまったのだろう。
窓側の平瀬は正しく前を向いていた。耳に透明のシークレットピアスを挿している。暑いと言う理由で髪を上げているから、そもそも色など問題にならない。校則でピアスは禁止だ。
あの耳がまっさらだった頃より日はすっかり長くなっていた。窓の外はまだまだ眩しく、掌の汗を制服のズボンが吸っている。バスはガラガラで、冷房ならば行き届いている筈だ。暑かった。
「穴に行こうと思うんだけど」
下校時の駐輪場だった。
平瀬は唐突だった。唐突すぎて僕は「なにそれ」と口先で笑っていた。天気だとか挨拶だとか愚痴だとか、そんなものと同列であるかのようにその言葉は落とされた。
同時に、ひとつの納得のような感覚が目の前の顔を塗り替えた。いつもは自転車で通学しているのに、今日彼女はそれをしなかった。
「だから、穴に行こうと思うんだけど。これから」
僕は息を止めた。隙間無く地雷が埋められた道を探知機なしに渡れと命じられたような気分だった。どうしたって正解はない。
僕と平瀬の会話のない会話を横目に何人かが帰宅していった。やがて彼女は見切りをつけたように「じゃ」と言って歩き出した。軽く振った腕は夏が避けたように白かった。
どうして僕はバスに乗ってしまったのだろう。
彼女の姿が見えなくなってから、自転車を置いて後を追った。角を曲がる度にあの姿が見えない事を安堵しながら。追いついたのはバス停だった。穴へ行くには東三八系統のバスに乗らなくてはならない。
平瀬はすぐ僕に気付いたようだった。無感動に「なに」と言った。僕の中に言葉がなにもないことを知っているように見えた。
「穴に行くって」
「そう言ったじゃない」
「やめた方がいいと思う」
彼女は少し笑った。小馬鹿にしているように見えた。それはそうだろう。
「どうして」
どうしたって正解はない。平瀬はそれ以上何も言わなかった。僕は何かを言うべきだった。 蝉だけが鳴いていた。バスが来てしまった。
穴は有名だ。自殺スポットとして。
***
乗降する者のないバスは不思議と信号に引っかかることなく粛々と住宅街を抜け出した。ここから先しばらくは工場が建ち並んでいて、人の気配が心なしか薄い。居並ぶパイプや配管の間から空が見えた。少し遠い。穴は見えなかった。
どうしてバスに乗ってしまったのだろう。
彼女の母親が亡くなったのは春先で、父親は既にいない。それから程なくピアスが空いた。それだけだった。だから、僕は余計に言うべき言葉がわからない。
バス停を一つ過ぎて二つ過ぎて、平瀬がスッと立ち上がった。見覚えのない大きめの青いスポーツバッグを抱えるように持ち上げている。僕は通路側に座っていた。
「どいてよ。両替するから」
バスの掲示板に「常磐五丁目」が点灯していた。穴へ行くにはここで降りるのが近道らしい。平瀬の行く手を僕の足が邪魔している。足を動かすことをしてはならないと思った。してはならない。出来る筈もない。
「言いたい事があるなら言って欲しいんだけど」
苛ついたような声がした。
「やめようよ、平瀬。こんな事しちゃいけない」
一呼吸あって、スカートの裾が手に触れた。同時に青色が僕の顔を擦りながら過ぎていく。平瀬が足を跨ぎ越えて通路に出て、そして僕を見下ろした。
「どうして」
どうしたって正解がない。平瀬は背を向けてバスの前方へ歩き出した。僕は何かを返すべきだった。気付けば両替機が動いていた。降車ボタンが軽やかに鳴った。
バスがゆっくりと減速し、そして停止した。重みのない足音がして、平瀬の姿がバスから消える。機械的に扉が閉まった。バスが走り出した。
窓の外に平瀬がいた。振り返ろうともしない。遠くに穴が空いていた。この街は空に一カ所、穴があいている。
隣に、平瀬のどうしてと言う声が座っているような気がした。僕は膝に視線を落とす。少しも動いていない。動かすわけにはいかなかった。
どうして。バスに乗ってしまったのか。
彼女を止めたかったのではない。
僕は彼女を止めようとしたと言い訳をしたかったのだ。近い将来、必ず受ける質問に対して。
バスがカーブに差し掛かっていた。僕はゆっくり傾いていった。