1. 19:00 合格後の新しい日常と、3日目のカレー
10月上旬。夏の猛暑はすっかり影を潜め、空気には秋の冷たさが混じり始めていた。
二宮颯太(26歳)は、無事にプロ養成コースの面接に合格し、現在は学校に通いながら、舞台技術の基礎を学んでいる。昼間は学校、夜はWebデザインの自習、深夜はコンビニのバイトという、相変わらずハードな日々を送っていたが、その顔には確固たる目標を持った者の充実感が宿っていた。
「ただいま、菜々子さん」
「おかえり、颯太くん。今日も遅くまでお疲れ様」
飯田菜々子(28歳)の部屋のテーブルには、昨日から仕込まれたビーフカレーが温められていた。今日は、仕込みから3日目。
飯田は、再加熱の直前に隠し味のチョコレートとチャツネを少量加え、さらに煮込むことで、カレーを究極の熟成へと導いていた。鍋からは、スパイスの芳醇な香りの中に、チョコレートのほのかな甘いコクが立ち上っている。
二宮は、その香りに誘われるようにテーブルについた。
「この匂いは……! 3日目のカレー特有の、理性を破壊する究極の熟成臭ですね」
二宮はそう言いながら、思わずスプーンを手に取った。
2. 19:30 菜々子のカレー愛と、究極のコク
飯田は、そんな二宮の様子を微笑ましく見つめながら、チーズナンをオーブンから取り出した。
「ふふ。3日目のカレーは、もはや料理じゃなくて、愛の証だと思ってるの」
飯田は、自分のカレー愛について語り始めた。
「カレーって、具材やスパイスはもちろん大切だけど、『安定』が一番大切なの。一晩寝かせて味が馴染む。二晩寝かせると、深みが出る。時間をかけて、じっくりと関係を煮詰めていく私たちみたいでしょう?」
飯田は、目を輝かせながらビーフカレーの魅力を熱弁する。
「私にとってカレーは、単なる週末のごちそうじゃないの。『いつでも変わらない、絶対的な安心感』の象徴なの。だから、私はカレーが大好き。どんなに仕事で疲れても、どんなに将来が不安でも、このカレーがあれば、私たちは大丈夫だって思える」
二宮は、その言葉を真剣に聞きながら、3日目のカレーを一口掬った。
「……うまっ!」
肉は繊維まで完全にほぐれ、深紅のルゥはねっとりとした舌触り。牛肉の旨みと野菜の甘みが溶け込み、そこにチョコレートとチャツネがもたらす複雑で深いコクが、一口で全身を包み込む。それは、二宮のストイックな理性を完全に麻痺させる『背徳の極致』だった。
「このカレーは、菜々子さんの愛情が、時間というスパイスで究極まで熟成された味ですね」
3. 20:00 覚悟を示す「実家訪問」の提案
二宮は、チーズナンで残ったルゥを一滴残らず拭い、皿を綺麗に平らげた後、ラッシーを飲み干した。
「ごちそうさまでした。最高のエネルギーがチャージされました」
二宮は、皿を片付けながら、菜々子に向かって切り出した。その口調は、真剣そのものだった。
「菜々子さん。実は、来週末、僕の実家に、菜々子さんを連れて行きたいと思っています」
飯田は、突然の具体的な提案に、持っていたラッシーのグラスを取り落としそうになった。
「えっ? ちょ、ちょっと待って颯太くん。気が早すぎるんじゃないの? 面接の許可はもらったけど、まだプロコースに入ったばかりで、実地での収入も全然安定していないでしょう?」
菜々子もまた、二宮のキャリアがまだ不安定な段階であることを理解し、彼の両親に対する配慮から、慎重な姿勢を見せた。
「確かに、まだ実地研修で報酬を得る機会は見えてきたばかりで、安定していません。でも、だからこそ、今なんです」
二宮は、菜々子の手を握り、まっすぐに彼女の瞳を見つめた。
4. 20:30 安定を待たない、揺るぎない覚悟
「僕は、安定してから菜々子さんを家族に会わせるつもりはありません」
二宮は、力強く宣言した。
「僕が今、一生懸命学んでいること、そして菜々子さんと一緒にいる未来こそが、僕の人生の『真の安定』なんです。それを、言葉だけじゃなく、菜々子さんという存在で、両親に示したい」
「両親に会わせることで、僕のこの新しい道、そして菜々子さんとの関係に対する揺るぎない覚悟を、物理的に確定させるんです。菜々子さんが不安がっている間に、僕が未来を先に作ってしまう」
二宮は、一度区切りをつけ、少し申し訳なさそうに、しかし真剣に続けた。
「ただ、今回はまだ、ご紹介という形です。僕の不安定な現状はわかっていますし、菜々子さんを一生支える準備が整ったわけではない。だから、プロポーズは、もう少しだけ待ってほしい」
二宮の、焦りながらも誠実であろうとするその態度に、飯田の心は深く揺さぶられた。彼女の顔には、もう迷いはなかった。
「……もう、颯太くんたら。本当に困った子ね」
飯田は、目を潤ませながら、優しく微笑んだが、すぐに真剣な表情に戻る。
「はいはい。じゃあ聞くけど、『もう少し』って、いつまで? 私、もう若くないのよ? 一応、主任として忙しいから、予定は早めに教えてくれないと困るの」
それは、年上の女性としての切実な本音を、意地悪なジョークで包んだ質問だった。
二宮は、その言葉に一瞬たじろぎながらも、まっすぐな目線で答えた。
「菜々子さんが『Webデザイナーとしてのキャリア』を可能な限り続けられるように、最高の舞台を整えるまで。その期間は、長くても二年。もしかしたら、一年でカタをつけるつもりです」
二宮は、強い意志を込めた言葉を続けた。
「この具体的な期間を伝えることが、絵空事ではない、僕の覚悟の証明になると思ったんです。菜々子さんの年齢やキャリアも考えています。だからこそ、僕にチャンスをください。そして、待っていてください」
二宮の言葉を聞き終えた飯田の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。彼女は、主任としての仮面を剥がされ、年上の女性として抱えていた不安と孤独が、年下の恋人の揺るぎない覚悟によって完全に消し去られたことを知った。
「ふ、ふふ……」
飯田は、涙を拭うことなく、嬉しそうに笑った。
(ご飯を上げているのは私なのに、いつの間にか、ポチに逆に飼われている気分だわ)
「わかったわ。じゃあ、私という名の最強のスパイスを、あなたのご両親に、しっかり味わってもらいましょう。来週末、よろしくね、颯太くん」
二宮は、満面の笑みを浮かべ、強く頷いた。
究極に熟成した3日目のビーフカレーの濃厚な余韻のように、二人の間には、もう揺るぎようのない、深く確かな未来の熱が満ちていた。