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第21話:二重のご褒美、未来への活力(焼き魚と唐揚げのW定食)

ー/ー



 1. 22:00 新しい生活音と、最強の誘惑(飯田 菜々子・28歳)

 六月に入り、雨の日が多くなってきた。深夜。飯田の部屋には、以前のような二宮の「発声練習の音」は聞こえてこない。代わりに、壁の向こうからは、参考書をめくる微かな紙の音や、演劇指導の資格取得に向けたオンライン講義の音声が、微かに漏れてくる。

(ふふ。ポチじゃなくて、二宮くん。本当に頑張ってるわね)

 飯田は、そんな彼の新しい生活音に安堵しつつ、自分の深夜の食事の準備を始めた。

 今日は、彼の新しい挑戦への「Wご褒美」を奮発することに決めていた。焼き魚定食と、唐揚げ定食という、罪悪感と満足感を両立させた「究極のW定食」だ。

 飯田は、実家から送られてきた一夜干しの魚を、網に乗せ、遠火の強火でじっくり焼き始めた。焼き上がりの準備として、大根をおろし、柑橘の効いたポン酢を添える。

 じゅわ……

 魚の皮がパリッと張り、醤油を思わせる香ばしい匂いが、部屋中に満ちていく。

 その匂いに、二宮の部屋からかすかなノックが聞こえた。いつもの遠慮がちな忠犬ノックだ。

「あら、二宮くん。今日は随分早いのね」

「す、すみません。換気扇から流れてくる魚の匂いが、あまりにも……健康的なのに、背徳的で」

 二宮は、手に持っていた参考書をギュッと握りしめていた。飯田は笑いながら、焼き網の魚を指さした。

「そうでしょう? 魚はEPAとか入っているから、頭に良いらしいわよ。勉強で疲れた二宮くんにはぴったりね」

 2. 22:30 究極の定食と、衣の音の破壊力(二宮 颯太・26歳)

 飯田は笑った。

「そうでしょう? 魚は栄養満点、低カロリー。でも、この香ばしさは最高の誘惑よ。でもね、二宮くん」

 飯田は、揚げ物用の鍋を火にかける。

「今日は、もっとすごいものを用意しているわ。魚が頭の栄養なら、これは勉強で疲れた体へのご褒美よ」

 鍋に油が満ち、適温に達した。飯田は、マヨネーズを揉み込み、W衣で二度揚げにした特製の鶏もも肉を投入する。

 ジュワアアアアアアアア!

 油が鶏肉を包み込み、凄まじい音を立てて熱の洗礼を与える。魚の香ばしさと、鶏肉と油の暴力的な旨みの香りが、二宮くんの部屋を襲う。

 二宮は、思わず自分の耳を塞いだ。

「やめてください……! 魚で理性を保っていたのに、その音は……僕の理性を焼き尽くす」

 飯田は楽しそうに、完璧な定食を完成させた。

 メインは、皮がパリッとして中がジューシーな一夜干しの焼き魚と、大根おろし、そして肉汁を閉じ込めた二度揚げの唐揚げ。サイドには、二宮の好物である出汁の効いただし巻き卵と、しじみの旨みが沁みた味噌汁。

 飯田は、二宮の部屋へトレイを運んだ。

「ほら、二宮くん。これが、あなたの新しい門出を祝う、『二重のご褒美定食』よ」

 二宮は、目の前の豪華絢爛な定食を見て、言葉を失った。

 3. 23:00 罪悪感と、年上の優しさ

「この唐揚げは、衣を剥がせばセーフなんて言わせないわよ」

 飯田は笑うが、二宮の瞳はすでに潤んでいた。彼は、唐揚げから立ち上る湯気と香りを、ただただ見つめる。

「……飯田さん。今日は、僕の勉強へのご褒美なんですよね?」

「そうよ。あなたの頑張りには、このくらいのカロリーは必要よ」

 二宮は、決意したように箸を唐揚げに伸ばした。一口。パリッとした衣から、肉汁が弾け出し、濃厚な旨みが口中に広がった。彼は思わず目を閉じた。

「これは……最高です!!」

 彼は、次に焼き魚を食べる。遠火で焼かれた魚の皮は香ばしく、身はふっくらとしていた。魚の身に、大根おろしとポン酢をたっぷりかけて口に入れる。

「どう? このバランスが大事なのよ。背徳感と、栄養と、癒やし、ね。ふふふ……」

 二宮は、唐揚げと魚を交互に食べながら、ふと箸を止めた。その視線は、飯田の顔を捉えられず、目の前のトレイの隅を何度か泳いだ後、恐る恐る尋ねた。

「あの……。飯田さんは……。僕が役者の道を完全に諦めても、こうしてご飯を作ってくれますか?」

 その質問は、飯田の胸に鋭く突き刺さった。それは、「恋人になる資格がないかもしれない僕を、それでも愛してくれますか?」という、二宮なりの確認だった。

 飯田は、微笑んだ。ビールジョッキを軽く呷り、彼の真剣な目を見つめる。

「私と二宮くんの関係は、あなたの夢や仕事の成功とは、何の関係もないわよ」

 彼女は、静かに、しかし力強く断言した。

「あなたがどんな道を選ぼうと、私はあなたの心の支えになる。それに、二宮くんがこれからどんなに成功しても、私の作った美味しいご飯を食べてくれるのは、あなたしかいないでしょう?」

 飯田のその言葉は、二宮の不安を完全に打ち消した。彼は、飯田の持つ「年上としての包容力」と、「誰にも負けない料理の力」を確信し、満面の笑みを浮かべた。二人の関係は、彼の新しい夢と共に、より確かなものへと進んでいった。

 4. 23:30 最後の誘惑、なめらかプリン

「さて、二宮くん」

 飯田は、二宮くんが定食を完食したのを確認し、トレイを下げようと立ち上がった。

「今日は、カロリーオーバーさせすぎたから、デザートは自粛しましょうか」

 そう言って、飯田が二宮の顔を伺うと、彼は理性を完全に失った子犬のように、静かに飯田を見つめていた。

「嘘よ。ここまで背徳の道を歩んだんだもの。最後も最高で締めましょう」

 飯田は、トレイの奥に隠していた小さな器を取り出した。

「待ってて。最高のプリンは冷蔵庫で冷やしているから、今持ってくるわ」

 そう言い残し、飯田はスキップするように自分の部屋へ戻った。数秒後、彼女は誇らしげにトレイを持ち、二宮くんの前に戻ってきた。

「はい!今日の『とどめ』よ。じゃっじゃーん、と音を立てて披露するのは、私の自信作、濃厚でなめらかな自家製カスタードプリン!」

 二宮は、そのプリンの艶やかな表面と、バニラの甘い香りに完全に降伏した。彼はスプーンでプリンを掬う。口に入れると、卵と牛乳のコクが舌の上で溶け、底のほろ苦いカラメルが最高のアクセントになる。

「……飯田さん」

 二宮は、瞳を潤ませ、かすれた声で言った。

「もう、あなたには勝てません」

 飯田は、そんな二宮の可愛らしい姿に、心の中で「ずるいわね」と囁いた。自分の作った最高の味が、年下の彼をこんなにも無防備にさせる。それが、何よりも飯田の孤独な深夜の心を温めていた。

 二人の部屋を隔てていたはずの薄い壁は、とうに音と香りの引力によって意味を失っていた。残された最後の物理的な壁も、この甘く温かいプリンの余韻の中で、完全に消え去った。

 その夜、二宮颯太は、彼の部屋と飯田の部屋を隔てる「壁」の向こう側へ、もう戻らなかった。




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 1. 22:00 新しい生活音と、最強の誘惑(飯田 菜々子・28歳)
 六月に入り、雨の日が多くなってきた。深夜。飯田の部屋には、以前のような二宮の「発声練習の音」は聞こえてこない。代わりに、壁の向こうからは、参考書をめくる微かな紙の音や、演劇指導の資格取得に向けたオンライン講義の音声が、微かに漏れてくる。
(ふふ。ポチじゃなくて、二宮くん。本当に頑張ってるわね)
 飯田は、そんな彼の新しい生活音に安堵しつつ、自分の深夜の食事の準備を始めた。
 今日は、彼の新しい挑戦への「Wご褒美」を奮発することに決めていた。焼き魚定食と、唐揚げ定食という、罪悪感と満足感を両立させた「究極のW定食」だ。
 飯田は、実家から送られてきた一夜干しの魚を、網に乗せ、遠火の強火でじっくり焼き始めた。焼き上がりの準備として、大根をおろし、柑橘の効いたポン酢を添える。
 じゅわ……
 魚の皮がパリッと張り、醤油を思わせる香ばしい匂いが、部屋中に満ちていく。
 その匂いに、二宮の部屋からかすかなノックが聞こえた。いつもの遠慮がちな忠犬ノックだ。
「あら、二宮くん。今日は随分早いのね」
「す、すみません。換気扇から流れてくる魚の匂いが、あまりにも……健康的なのに、背徳的で」
 二宮は、手に持っていた参考書をギュッと握りしめていた。飯田は笑いながら、焼き網の魚を指さした。
「そうでしょう? 魚はEPAとか入っているから、頭に良いらしいわよ。勉強で疲れた二宮くんにはぴったりね」
 2. 22:30 究極の定食と、衣の音の破壊力(二宮 颯太・26歳)
 飯田は笑った。
「そうでしょう? 魚は栄養満点、低カロリー。でも、この香ばしさは最高の誘惑よ。でもね、二宮くん」
 飯田は、揚げ物用の鍋を火にかける。
「今日は、もっとすごいものを用意しているわ。魚が頭の栄養なら、これは勉強で疲れた体へのご褒美よ」
 鍋に油が満ち、適温に達した。飯田は、マヨネーズを揉み込み、W衣で二度揚げにした特製の鶏もも肉を投入する。
 ジュワアアアアアアアア!
 油が鶏肉を包み込み、凄まじい音を立てて熱の洗礼を与える。魚の香ばしさと、鶏肉と油の暴力的な旨みの香りが、二宮くんの部屋を襲う。
 二宮は、思わず自分の耳を塞いだ。
「やめてください……! 魚で理性を保っていたのに、その音は……僕の理性を焼き尽くす」
 飯田は楽しそうに、完璧な定食を完成させた。
 メインは、皮がパリッとして中がジューシーな一夜干しの焼き魚と、大根おろし、そして肉汁を閉じ込めた二度揚げの唐揚げ。サイドには、二宮の好物である出汁の効いただし巻き卵と、しじみの旨みが沁みた味噌汁。
 飯田は、二宮の部屋へトレイを運んだ。
「ほら、二宮くん。これが、あなたの新しい門出を祝う、『二重のご褒美定食』よ」
 二宮は、目の前の豪華絢爛な定食を見て、言葉を失った。
 3. 23:00 罪悪感と、年上の優しさ
「この唐揚げは、衣を剥がせばセーフなんて言わせないわよ」
 飯田は笑うが、二宮の瞳はすでに潤んでいた。彼は、唐揚げから立ち上る湯気と香りを、ただただ見つめる。
「……飯田さん。今日は、僕の勉強へのご褒美なんですよね?」
「そうよ。あなたの頑張りには、このくらいのカロリーは必要よ」
 二宮は、決意したように箸を唐揚げに伸ばした。一口。パリッとした衣から、肉汁が弾け出し、濃厚な旨みが口中に広がった。彼は思わず目を閉じた。
「これは……最高です!!」
 彼は、次に焼き魚を食べる。遠火で焼かれた魚の皮は香ばしく、身はふっくらとしていた。魚の身に、大根おろしとポン酢をたっぷりかけて口に入れる。
「どう? このバランスが大事なのよ。背徳感と、栄養と、癒やし、ね。ふふふ……」
 二宮は、唐揚げと魚を交互に食べながら、ふと箸を止めた。その視線は、飯田の顔を捉えられず、目の前のトレイの隅を何度か泳いだ後、恐る恐る尋ねた。
「あの……。飯田さんは……。僕が役者の道を完全に諦めても、こうしてご飯を作ってくれますか?」
 その質問は、飯田の胸に鋭く突き刺さった。それは、「恋人になる資格がないかもしれない僕を、それでも愛してくれますか?」という、二宮なりの確認だった。
 飯田は、微笑んだ。ビールジョッキを軽く呷り、彼の真剣な目を見つめる。
「私と二宮くんの関係は、あなたの夢や仕事の成功とは、何の関係もないわよ」
 彼女は、静かに、しかし力強く断言した。
「あなたがどんな道を選ぼうと、私はあなたの心の支えになる。それに、二宮くんがこれからどんなに成功しても、私の作った美味しいご飯を食べてくれるのは、あなたしかいないでしょう?」
 飯田のその言葉は、二宮の不安を完全に打ち消した。彼は、飯田の持つ「年上としての包容力」と、「誰にも負けない料理の力」を確信し、満面の笑みを浮かべた。二人の関係は、彼の新しい夢と共に、より確かなものへと進んでいった。
 4. 23:30 最後の誘惑、なめらかプリン
「さて、二宮くん」
 飯田は、二宮くんが定食を完食したのを確認し、トレイを下げようと立ち上がった。
「今日は、カロリーオーバーさせすぎたから、デザートは自粛しましょうか」
 そう言って、飯田が二宮の顔を伺うと、彼は理性を完全に失った子犬のように、静かに飯田を見つめていた。
「嘘よ。ここまで背徳の道を歩んだんだもの。最後も最高で締めましょう」
 飯田は、トレイの奥に隠していた小さな器を取り出した。
「待ってて。最高のプリンは冷蔵庫で冷やしているから、今持ってくるわ」
 そう言い残し、飯田はスキップするように自分の部屋へ戻った。数秒後、彼女は誇らしげにトレイを持ち、二宮くんの前に戻ってきた。
「はい!今日の『とどめ』よ。じゃっじゃーん、と音を立てて披露するのは、私の自信作、濃厚でなめらかな自家製カスタードプリン!」
 二宮は、そのプリンの艶やかな表面と、バニラの甘い香りに完全に降伏した。彼はスプーンでプリンを掬う。口に入れると、卵と牛乳のコクが舌の上で溶け、底のほろ苦いカラメルが最高のアクセントになる。
「……飯田さん」
 二宮は、瞳を潤ませ、かすれた声で言った。
「もう、あなたには勝てません」
 飯田は、そんな二宮の可愛らしい姿に、心の中で「ずるいわね」と囁いた。自分の作った最高の味が、年下の彼をこんなにも無防備にさせる。それが、何よりも飯田の孤独な深夜の心を温めていた。
 二人の部屋を隔てていたはずの薄い壁は、とうに音と香りの引力によって意味を失っていた。残された最後の物理的な壁も、この甘く温かいプリンの余韻の中で、完全に消え去った。
 その夜、二宮颯太は、彼の部屋と飯田の部屋を隔てる「壁」の向こう側へ、もう戻らなかった。