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第20話:グラタンと、夢の軌道修正(エビとブロッコリーのグラタン)

ー/ー



 1. 19:00 濃厚な安堵と、節目を祝うグラタン(飯田 菜々子・28歳)

 五月下旬の土曜日。飯田菜々子は、抱えていた大型Webデザイン案件を納品し終え、ひとつの「仕事の節目」を迎えていた。達成感と共に、次に何に取り組むべきかという、空虚な安堵感が彼女を包んでいた。

「ふう……やっと終わったわ。今日は自分にご褒美よ」

 飯田が選んだご褒美は、エビとブロッコリーのグラタン。ベシャメルソース(ホワイトソース)を手間暇かけて作り、オーブンでじっくり焼き上げる。部屋には、バターと牛乳のまろやかな香りが満ちていた。

 その香りにつられて、二宮颯太がいつものように現れた。

「飯田さん、この香りは……今日の料理は、また格別ですね」

 二宮は、いつものストイックな雰囲気はそのままながら、心なしか表情が穏やかになっていた。

「あら、ポチ。今日は私の『仕事打ち上げ』よ。あなたも、何かあったんでしょう? 私の勘はよく当たるの」

 飯田は、オーブンから取り出したグラタンをトレイに乗せ、二宮の部屋へと運んだ。グラタンの表面はきつね色に焦げ、チーズがパチパチと音を立てていた。二宮の部屋に、この濃厚で罪深い料理の香りが充満する。

 2. 19:30 オーディションの結果と、踏ん切り(二宮 颯太・26歳)

 二人は向かい合ってグラタンを食べ始めた。チーズとソースの濃厚さが、二人の心の緊張をゆっくりと解きほぐしていく。

「飯田さん、仕事の節目、おめでとうございます」

「ありがとう。でもね、大きな仕事が終わると、何だか寂しくなるのよね。次に何を燃やせばいいか、分からなくなるの」

 飯田は苦笑いしながら、熱々のグラタンをすくった。口の中いっぱいに広がるエビの旨みとブロッコリーの甘さ。

「それは、僕も同じです」

 二宮は静かに言った。そして、皿に顔を向けたまま、ぽつりと打ち明けた。

「実は、二週間前のオーディション……結果は、ダメでした。」

 飯田は一瞬箸を止めたが、二宮の顔を見て、何も言わなかった。彼の表情は、落胆というよりは、むしろどこか吹っ切れたような、清々しいものだったからだ。

「……そうですか。でも、二宮くん、あなたは、全然平気そうね」

「はい。今回は、全く悔いがありません。飯田さんと公園で話したことで、僕の中で、本当にやりたいこと、本当に大切なものが、明確になったからです」

 二宮は、グラタンのソースをパンにつけ、丁寧に口に運んだ。

「ちなみに、このパン。駅前にできた新しいパン屋さんので、あそこ、食パンがめちゃくちゃオススメよ! あなた、絶対行かないでしょうけどね」

 飯田は少し得意げに付け加えた。

「うーん……今度、行ってみようかな」

 二宮は、グラタンを一口咀嚼しながら、ぽつりと呟いた。

「えっ!?」

 飯田は目を丸くした。二宮が、自分のストイックな生活圏外に興味を示すのは珍しい。

「そうなの! じゃあ、絶対『塩バターロール』を試してほしいのよ! あれは表面がカリッとしてて、中はふんわりバターがジュワッと来て……あそこのパンは、私の中で歴代一位だわ!」

 飯田は興奮して熱弁したが、二宮が目を細めて笑っているのを見て、ハッと我に返った。

「ご、ごめん。脱線したわ。まさか二宮くんが興味示すなんて思わなかったから……っ」

 飯田は、自分の口に人差し指を当てて、ペロッと舌を出した。一瞬見せた年下への親愛と年上としての照れが混ざったような表情に、二宮の胸は強く打たれた。

 3. 20:00 新しい夢の告白と、飯田の苦笑い

 二宮は、飯田の目を見てまっすぐに語り始めた。

「役者として成功するという目標は、僕を孤独に追い込んでいたんです。ストイックな生活、家族との軋轢……でも、飯田さんの料理を知って、そうじゃないと気づいた」

 彼は、新しい決意を告白した。

「今は、演劇指導の資格取得の勉強をしています。そして、映像編集や裏方の技術を学ぶための職業訓練校の資料も集め始めました。役者の経験と知識を活かして、誰かを支える仕事がしたいんです」

 二宮は、飯田の「あなたがいるから、作り甲斐がある」という言葉に感銘を受け、飯田の生き方に自らの新しい夢を見出していた。

 飯田は、その言葉に目を見張った。二宮が、自分の殻を破り、外の世界に向けて動き出している。彼の変化を目の当たりにして、胸が熱くなる。

「すごいわ、二宮くん。本当に、あなたはすごいわね。私も、自分のことばかり考えていた……」

 飯田は、少し自嘲気味に、そして優しさに満ちた笑みを浮かべた。

「私にできるのは、こうして美味しいご飯を作って、あなたと一緒に食べるだけだけどね」

「それって、どういうこと、飯田さん?」

 二宮は、冷静に確認した。彼の真剣な眼差しに、飯田は思わずビールジョッキに手を伸ばした。

「ご、ごめんごめん! 忘れて。酔ってるのよ、きっと! 今日は仕事の節目で、ほら、ビールが美味しいじゃない。気にしないで!」

 飯田はビールを勢いよく煽り、言葉をごまかした。

「いいえ。飯田さん」

 二宮は、即座に否定した。

「それが、僕にとって最も必要なことです。飯田さんの料理が、僕の人生の軌道修正を可能にしてくれた。あなたは、僕の『心の支え』なんですから」

 焦げたチーズの香りが、二人の新しい門出を祝福するように、部屋を満たしていた。

 4. 20:30 片付けと、年上の不安(飯田 菜々子・28歳)

 二宮が自分の部屋に戻った後、飯田はトレイを片付けながら、冷めきったグラタンの皿を見つめていた。

「二宮くん……本当に、あなたはずるい子よ」

 飯田は、彼の真剣な告白を思い返す。彼の新しい夢は輝いている。一方の自分は、仕事の節目を迎えて空虚感を感じている。

(私にできるのは、ご飯を作ってあげることだけ……。彼はこれからもっと成長する。それに比べて、私は年上だし、この先、年上の私で本当に彼の隣にいていいのかな)

 飯田は自分の気持ちが「とっくに恋愛」だと気づいている。しかし、二宮が乗り越えようとしている「不安定さ」とは対照的に、自分自身が持つ「年上の女性としての自信のなさ」と「彼の夢を邪魔しないかという不安」が、彼女に踏みとどまらせていた。




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 1. 19:00 濃厚な安堵と、節目を祝うグラタン(飯田 菜々子・28歳)
 五月下旬の土曜日。飯田菜々子は、抱えていた大型Webデザイン案件を納品し終え、ひとつの「仕事の節目」を迎えていた。達成感と共に、次に何に取り組むべきかという、空虚な安堵感が彼女を包んでいた。
「ふう……やっと終わったわ。今日は自分にご褒美よ」
 飯田が選んだご褒美は、エビとブロッコリーのグラタン。ベシャメルソース(ホワイトソース)を手間暇かけて作り、オーブンでじっくり焼き上げる。部屋には、バターと牛乳のまろやかな香りが満ちていた。
 その香りにつられて、二宮颯太がいつものように現れた。
「飯田さん、この香りは……今日の料理は、また格別ですね」
 二宮は、いつものストイックな雰囲気はそのままながら、心なしか表情が穏やかになっていた。
「あら、ポチ。今日は私の『仕事打ち上げ』よ。あなたも、何かあったんでしょう? 私の勘はよく当たるの」
 飯田は、オーブンから取り出したグラタンをトレイに乗せ、二宮の部屋へと運んだ。グラタンの表面はきつね色に焦げ、チーズがパチパチと音を立てていた。二宮の部屋に、この濃厚で罪深い料理の香りが充満する。
 2. 19:30 オーディションの結果と、踏ん切り(二宮 颯太・26歳)
 二人は向かい合ってグラタンを食べ始めた。チーズとソースの濃厚さが、二人の心の緊張をゆっくりと解きほぐしていく。
「飯田さん、仕事の節目、おめでとうございます」
「ありがとう。でもね、大きな仕事が終わると、何だか寂しくなるのよね。次に何を燃やせばいいか、分からなくなるの」
 飯田は苦笑いしながら、熱々のグラタンをすくった。口の中いっぱいに広がるエビの旨みとブロッコリーの甘さ。
「それは、僕も同じです」
 二宮は静かに言った。そして、皿に顔を向けたまま、ぽつりと打ち明けた。
「実は、二週間前のオーディション……結果は、ダメでした。」
 飯田は一瞬箸を止めたが、二宮の顔を見て、何も言わなかった。彼の表情は、落胆というよりは、むしろどこか吹っ切れたような、清々しいものだったからだ。
「……そうですか。でも、二宮くん、あなたは、全然平気そうね」
「はい。今回は、全く悔いがありません。飯田さんと公園で話したことで、僕の中で、本当にやりたいこと、本当に大切なものが、明確になったからです」
 二宮は、グラタンのソースをパンにつけ、丁寧に口に運んだ。
「ちなみに、このパン。駅前にできた新しいパン屋さんので、あそこ、食パンがめちゃくちゃオススメよ! あなた、絶対行かないでしょうけどね」
 飯田は少し得意げに付け加えた。
「うーん……今度、行ってみようかな」
 二宮は、グラタンを一口咀嚼しながら、ぽつりと呟いた。
「えっ!?」
 飯田は目を丸くした。二宮が、自分のストイックな生活圏外に興味を示すのは珍しい。
「そうなの! じゃあ、絶対『塩バターロール』を試してほしいのよ! あれは表面がカリッとしてて、中はふんわりバターがジュワッと来て……あそこのパンは、私の中で歴代一位だわ!」
 飯田は興奮して熱弁したが、二宮が目を細めて笑っているのを見て、ハッと我に返った。
「ご、ごめん。脱線したわ。まさか二宮くんが興味示すなんて思わなかったから……っ」
 飯田は、自分の口に人差し指を当てて、ペロッと舌を出した。一瞬見せた年下への親愛と年上としての照れが混ざったような表情に、二宮の胸は強く打たれた。
 3. 20:00 新しい夢の告白と、飯田の苦笑い
 二宮は、飯田の目を見てまっすぐに語り始めた。
「役者として成功するという目標は、僕を孤独に追い込んでいたんです。ストイックな生活、家族との軋轢……でも、飯田さんの料理を知って、そうじゃないと気づいた」
 彼は、新しい決意を告白した。
「今は、演劇指導の資格取得の勉強をしています。そして、映像編集や裏方の技術を学ぶための職業訓練校の資料も集め始めました。役者の経験と知識を活かして、誰かを支える仕事がしたいんです」
 二宮は、飯田の「あなたがいるから、作り甲斐がある」という言葉に感銘を受け、飯田の生き方に自らの新しい夢を見出していた。
 飯田は、その言葉に目を見張った。二宮が、自分の殻を破り、外の世界に向けて動き出している。彼の変化を目の当たりにして、胸が熱くなる。
「すごいわ、二宮くん。本当に、あなたはすごいわね。私も、自分のことばかり考えていた……」
 飯田は、少し自嘲気味に、そして優しさに満ちた笑みを浮かべた。
「私にできるのは、こうして美味しいご飯を作って、あなたと一緒に食べるだけだけどね」
「それって、どういうこと、飯田さん?」
 二宮は、冷静に確認した。彼の真剣な眼差しに、飯田は思わずビールジョッキに手を伸ばした。
「ご、ごめんごめん! 忘れて。酔ってるのよ、きっと! 今日は仕事の節目で、ほら、ビールが美味しいじゃない。気にしないで!」
 飯田はビールを勢いよく煽り、言葉をごまかした。
「いいえ。飯田さん」
 二宮は、即座に否定した。
「それが、僕にとって最も必要なことです。飯田さんの料理が、僕の人生の軌道修正を可能にしてくれた。あなたは、僕の『心の支え』なんですから」
 焦げたチーズの香りが、二人の新しい門出を祝福するように、部屋を満たしていた。
 4. 20:30 片付けと、年上の不安(飯田 菜々子・28歳)
 二宮が自分の部屋に戻った後、飯田はトレイを片付けながら、冷めきったグラタンの皿を見つめていた。
「二宮くん……本当に、あなたはずるい子よ」
 飯田は、彼の真剣な告白を思い返す。彼の新しい夢は輝いている。一方の自分は、仕事の節目を迎えて空虚感を感じている。
(私にできるのは、ご飯を作ってあげることだけ……。彼はこれからもっと成長する。それに比べて、私は年上だし、この先、年上の私で本当に彼の隣にいていいのかな)
 飯田は自分の気持ちが「とっくに恋愛」だと気づいている。しかし、二宮が乗り越えようとしている「不安定さ」とは対照的に、自分自身が持つ「年上の女性としての自信のなさ」と「彼の夢を邪魔しないかという不安」が、彼女に踏みとどまらせていた。