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第19話:ガラムマサラと公園の誓い(チキンカレー)

ー/ー



 1. 19:00 スパイスの誘惑と、オーディション前の焦り(二宮 颯太・26歳)

 五月の週末の夜。二宮颯太は一週間後に控えたオーディションのため、台本の読み込みに集中していた。最近は演劇指導の資料に時間を割いているが、役者としての最後のチャンスだと決めていた。

 その壁の向こう側で、飯田菜々子は本格的なチキンカレーを仕込み始めた。
 いつもの家庭料理とは違う、儀式的な「音」と「香り」が響く。

 カリカリ……。

 飯田が、ガラムマサラを直前に煎って挽く音だ。スパイスが熱せられ、芳醇で刺激的な香りが部屋中に広がり、換気扇へと流れていく。
 鶏骨付き肉とヨーグルトでコクを出すための仕込みも進み、キッチンは熱気に包まれていた。

「やめてくれ……! これは、これまでで一番強烈だ!」

 二宮は全身の理性を腹筋に集めようとしたが、まるで防弾チョッキを着ていない腹部に銃弾を撃ち込まれたような衝撃だった。

(このスパイスの香りは、僕の集中力を完全に奪う。今夜、このままではオーディションの準備ができない)

 彼は、理性の崩壊寸前で立ち上がり、飯田の部屋のドアをノックした。

 2. 19:30 公園での密談と、煮込み時間の共有(飯田 菜々子・28歳)

 飯田は、タオルで汗を拭いながらドアを開けた。二宮の顔は、ストイックな理性を保ちながらも、完全に食欲に敗北した子犬の瞳をしていた。

「あ、ポチ。ちょうど良かったわ。この匂い、さすがに耐えられないでしょう?」

「……ええ。正直、これ以上の誘惑はないと確信しました。飯田さん、これは僕のために作ったんですか?」

 二宮の言葉は、まるで真意を探るような、少し真剣なものだった。

 飯田は、その問いに微笑みで応じた。

「そうよ。正確には、あなたがいるから、作り甲斐があるの。誰にも邪魔されずに、最高のスパイスで煮込む。でもね」

 飯田は、鍋から立ち上る湯気を眺めた。

「本格的なカレーは、ここからが長いの。最低でも一時間は煮込みの時間が必要だわ。一度火を落として寝かせるのが極意。だから、火をつけたまま部屋を空けるのは危ないでしょう? で、この煮込みを待っている間、気分転換に近くの公園にでも行かない?」

「え……公園、ですか?」

 二宮は、自宅のマンションを出て、飯田と二人で出かけるという、恋人らしい行動に動揺した。

「そう。煮込みを待っている間、ここにいると、あなたも集中できないでしょう? 缶コーヒーでも飲みながら、カレーを口実に、人生でも語らいましょーよ」

 飯田はそう言って、パーカーを羽織った。

 3. 20:00 公園のベンチと、夢の輪郭(二宮 颯太・26歳)

 二人は築古マンションから徒歩数分の、夜の公園のベンチに並んで座った。微かに聞こえるのは、微かな夜風の音と、遠くを走る車の音だけだ。

 缶コーヒーを飲みながら、二宮は口を開いた。

「飯田さんが、僕のいる場所を離れて、外に出ようって誘ってくれるなんて、初めてですね」

「そうね。だって、あなたのストイックな修行を邪魔する権利は、私にはないでしょう? でも、私の孤独を埋めてくれる権利は、あなたにはあるわ。」

 飯田はそう言って、彼の方を向いた。

 二宮は、公園という開放的な場所で、隣に座る飯田の存在を、深く、そして強く意識した。彼の胸にある焦燥感と、飯田の安定した存在。

「飯田さんは、夢とか、ありますか」

 飯田は缶コーヒーを飲み干し、静かに答えた。

「昔はね。でも、今は……あなたがいるから、作り甲斐がある。私の作る料理が、誰かの力になること。それが、今の私にとって一番大切なことかもね」

 その言葉に、二宮の心臓が強く打った。飯田の「作り甲斐」は、彼自身の「成功しなければならない」という強迫観念を打ち破る、優しい光だった。

「そういえば」

 飯田はふと、夜空を見上げた。高い建物に遮られ、わずかな光しか見えない都会の空だ。

「ここって、星が全然見えないわね。私、実家が兼業農家だから、夜になると星が降ってくるみたいに見えるの。あんな星空の下で育ったのに、今は都会のネオンの下で、一人でご飯作ってるって、なんか滑稽よね」

 飯田は自嘲気味に微笑んだが、その表情には微かな寂しさが滲んでいた。

「飯田さんの、料理への『手間』って、その実家での温かい記憶が原点にあるんでしょうね」

 二宮は、飯田のその寂しさを察し、静かに頷いた。彼の故郷(都内)は、親との関係が冷え切っている。だからこそ、飯田の持つ「実家の温かさ」は、彼にとってかけがえのないものなのだ。

「僕の役者としての夢を、飯田さんの料理が支えてくれている。そう確信しました。僕も、飯田さんのように、誰かの支えになるような仕事を、見つけたい」

 彼は、演劇の指導や裏方という、役者以外の道を模索し始めた決意を、初めて飯田に暗示する。

 飯田は、そんな彼の変化に安堵し、優しく微笑んだ。

「そうね。あなたの笑顔を見てると、そう思うわ」

 二人は静かに立ち上がり、煮込みを終えたカレーの待つ部屋へと戻っていった。

「ねえ、ポチ」

 エレベーターを待つ間、飯田は少しだけ悩んだように口を開いた。

「このカレー、ヘルシーなチキンカレーにしたけれど、オーディションの願掛けなら、カツカレーにすべきだったかしら?」

 その言葉に、二宮は思わず吹き出した。

「ふはっ。飯田さん……。今は、カツを食べるほどの『重さ』は要らないんです。このカレーの持つ、『支え』の優しさが、僕を助けてくれる」

 二宮はそう言って、心からの笑顔を飯田に向けた。

 彼の夢と、彼女の料理が、今夜、深く結びついたのだった。





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 1. 19:00 スパイスの誘惑と、オーディション前の焦り(二宮 颯太・26歳)
 五月の週末の夜。二宮颯太は一週間後に控えたオーディションのため、台本の読み込みに集中していた。最近は演劇指導の資料に時間を割いているが、役者としての最後のチャンスだと決めていた。
 その壁の向こう側で、飯田菜々子は本格的なチキンカレーを仕込み始めた。
 いつもの家庭料理とは違う、儀式的な「音」と「香り」が響く。
 カリカリ……。
 飯田が、ガラムマサラを直前に煎って挽く音だ。スパイスが熱せられ、芳醇で刺激的な香りが部屋中に広がり、換気扇へと流れていく。
 鶏骨付き肉とヨーグルトでコクを出すための仕込みも進み、キッチンは熱気に包まれていた。
「やめてくれ……! これは、これまでで一番強烈だ!」
 二宮は全身の理性を腹筋に集めようとしたが、まるで防弾チョッキを着ていない腹部に銃弾を撃ち込まれたような衝撃だった。
(このスパイスの香りは、僕の集中力を完全に奪う。今夜、このままではオーディションの準備ができない)
 彼は、理性の崩壊寸前で立ち上がり、飯田の部屋のドアをノックした。
 2. 19:30 公園での密談と、煮込み時間の共有(飯田 菜々子・28歳)
 飯田は、タオルで汗を拭いながらドアを開けた。二宮の顔は、ストイックな理性を保ちながらも、完全に食欲に敗北した子犬の瞳をしていた。
「あ、ポチ。ちょうど良かったわ。この匂い、さすがに耐えられないでしょう?」
「……ええ。正直、これ以上の誘惑はないと確信しました。飯田さん、これは僕のために作ったんですか?」
 二宮の言葉は、まるで真意を探るような、少し真剣なものだった。
 飯田は、その問いに微笑みで応じた。
「そうよ。正確には、あなたがいるから、作り甲斐があるの。誰にも邪魔されずに、最高のスパイスで煮込む。でもね」
 飯田は、鍋から立ち上る湯気を眺めた。
「本格的なカレーは、ここからが長いの。最低でも一時間は煮込みの時間が必要だわ。一度火を落として寝かせるのが極意。だから、火をつけたまま部屋を空けるのは危ないでしょう? で、この煮込みを待っている間、気分転換に近くの公園にでも行かない?」
「え……公園、ですか?」
 二宮は、自宅のマンションを出て、飯田と二人で出かけるという、恋人らしい行動に動揺した。
「そう。煮込みを待っている間、ここにいると、あなたも集中できないでしょう? 缶コーヒーでも飲みながら、カレーを口実に、人生でも語らいましょーよ」
 飯田はそう言って、パーカーを羽織った。
 3. 20:00 公園のベンチと、夢の輪郭(二宮 颯太・26歳)
 二人は築古マンションから徒歩数分の、夜の公園のベンチに並んで座った。微かに聞こえるのは、微かな夜風の音と、遠くを走る車の音だけだ。
 缶コーヒーを飲みながら、二宮は口を開いた。
「飯田さんが、僕のいる場所を離れて、外に出ようって誘ってくれるなんて、初めてですね」
「そうね。だって、あなたのストイックな修行を邪魔する権利は、私にはないでしょう? でも、私の孤独を埋めてくれる権利は、あなたにはあるわ。」
 飯田はそう言って、彼の方を向いた。
 二宮は、公園という開放的な場所で、隣に座る飯田の存在を、深く、そして強く意識した。彼の胸にある焦燥感と、飯田の安定した存在。
「飯田さんは、夢とか、ありますか」
 飯田は缶コーヒーを飲み干し、静かに答えた。
「昔はね。でも、今は……あなたがいるから、作り甲斐がある。私の作る料理が、誰かの力になること。それが、今の私にとって一番大切なことかもね」
 その言葉に、二宮の心臓が強く打った。飯田の「作り甲斐」は、彼自身の「成功しなければならない」という強迫観念を打ち破る、優しい光だった。
「そういえば」
 飯田はふと、夜空を見上げた。高い建物に遮られ、わずかな光しか見えない都会の空だ。
「ここって、星が全然見えないわね。私、実家が兼業農家だから、夜になると星が降ってくるみたいに見えるの。あんな星空の下で育ったのに、今は都会のネオンの下で、一人でご飯作ってるって、なんか滑稽よね」
 飯田は自嘲気味に微笑んだが、その表情には微かな寂しさが滲んでいた。
「飯田さんの、料理への『手間』って、その実家での温かい記憶が原点にあるんでしょうね」
 二宮は、飯田のその寂しさを察し、静かに頷いた。彼の故郷(都内)は、親との関係が冷え切っている。だからこそ、飯田の持つ「実家の温かさ」は、彼にとってかけがえのないものなのだ。
「僕の役者としての夢を、飯田さんの料理が支えてくれている。そう確信しました。僕も、飯田さんのように、誰かの支えになるような仕事を、見つけたい」
 彼は、演劇の指導や裏方という、役者以外の道を模索し始めた決意を、初めて飯田に暗示する。
 飯田は、そんな彼の変化に安堵し、優しく微笑んだ。
「そうね。あなたの笑顔を見てると、そう思うわ」
 二人は静かに立ち上がり、煮込みを終えたカレーの待つ部屋へと戻っていった。
「ねえ、ポチ」
 エレベーターを待つ間、飯田は少しだけ悩んだように口を開いた。
「このカレー、ヘルシーなチキンカレーにしたけれど、オーディションの願掛けなら、カツカレーにすべきだったかしら?」
 その言葉に、二宮は思わず吹き出した。
「ふはっ。飯田さん……。今は、カツを食べるほどの『重さ』は要らないんです。このカレーの持つ、『支え』の優しさが、僕を助けてくれる」
 二宮はそう言って、心からの笑顔を飯田に向けた。
 彼の夢と、彼女の料理が、今夜、深く結びついたのだった。