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第18話:弱さのフランベと、静かなる確信(シーフードパスタ)

ー/ー



 1. 22:00 海の香りと、飯田の弱さ(飯田 菜々子・28歳)

 四月上旬の夜。桜が散り始めた春先にしては、空気はまだ肌寒い。
 飯田菜々子は在宅勤務を早めに終え、リフレッシュのためにシーフードパスタを作り始めていた。
 今日のメインは、エビとイカ。飯田はそれらをフライパンに入れ、白ワインでフランベする。

 ファサッ……!

 フライパンから立ち上る、青く煌めく炎。一瞬でアルコールが飛び、魚介の旨みが凝縮される。そして、ハーブと白ワインの優雅な香りが、築古マンションの換気扇から静かに漏れ出した。

 飯田は、この優雅な香りに浸りながら、ふと、隣室の二宮のことが気になった。
 彼は昼間に肉体労働のアルバイトをこなしていたはずだ。最近、彼は演劇指導の資料や専門書を読むために、夜の時間も有効活用している。発声練習の音は、あの時以来、ぴたりと途絶えた。

(二宮くんがいるから、贅沢な料理をするようになった。私一人じゃ、こんなに頑張らないのに)

 飯田は、ふと、出来上がったパスタを見てため息をついた。

「あら。私一人だと、ちょっと多すぎるわね……」

 そこで彼女は、小さな躊躇いの後、意を決して壁に近づき、小さな声でノックをした。

「ね、ねぇ、二宮くん」

 壁の向こうにいるのは、トレーニングを終え、シャワーを浴びたばかりの二宮颯太だ。

「……はい」

 彼の声は低く、しかしすぐに反応した。

「あのね……私一人だと、このパスタ多すぎるの。助けて」

 飯田は、これまで彼を「ポチ」と呼び、上から目線で優しさを与えてきた。だが、今、彼女が使った言葉は「助けて」だった。それは、彼女にとって、年下の彼に初めて見せる「弱さの表明」だった。

 2. 22:15 弱さを包むパスタの優雅さ(二宮 颯太・26歳)

 二宮は、飯田のその言葉に、一瞬息を呑んだ。
 彼の頭の中では、フランベされた魚介の香りが、普段の背徳的な香りとは違う、「優雅なSOS」のように響いた。

(飯田さんが、助けを求めている?)

 彼は即座にドアを開け、飯田の部屋に駆け込んだ。飯田は、フライパンとソースを前に、少し赤らめた顔で立っていた。

「わ、分かりました。お任せください。助けます!」

 二宮は、まるで戦場に赴くかのように、飯田の部屋のテーブルに向かい合った。

「もう、オーバーリアクションね。ただ、食べるのを手伝ってほしいだけよ」

 飯田はそう言って笑ったが、内心では、彼がすぐに駆けつけてくれたことに、安堵と喜びを感じていた。

 二人が向かい合ってパスタを食べる。
 シーフードパスタのレモンとハーブの爽やかな酸味が、濃厚な魚介の旨みを引き立て、これまで食べてきた家庭料理とは一線を画す洗練された味だった。

「このパスタ、すごく優雅ですね。僕の殺風景な生活には、まるで似合わない」

 二宮は、パスタをフォークに絡ませながら言った。

「そう? たまには、こういう背伸びした贅沢もいいでしょ。一人じゃ寂しいから、あなたを呼んだのよ」

 飯田の瞳は、彼の真剣な横顔をじっと見つめていた。

 3. 22:45 絆を深める優雅な時間

 パスタを食べ終えた後、二宮は満足げに食器をまとめた。

「飯田さん。お任せください。食器くらい、僕が洗います」

「あら、ポチは気が利くわね」

 飯田がいつものようにからかうと、二宮は初めて、反論せずに答えた。

「ええ。飯田さんの弱さを見られたんです。これくらい、当然です」

 彼の言葉には、「ポチ」というよりも「対等な男性」としての強さが滲んでいた。

 飯田は、彼の変化に驚き、胸が熱くなるのを感じた。

(彼は、私が与える料理だけじゃなく、私の弱さや孤独さえも必要としてくれている)

 二宮は、飯田の部屋で静かに食器を洗う。彼の筋肉質な背中は、飯田の不安と孤独を全て受け止めてくれるように見えた。

「二宮くんの、そういうところが好きなのよ」

 飯田は、思わず口に出してしまった。

「……え?」

 二宮は振り返った。

「あっ、あのね。犬を、飼っていたの。その犬に似ているのよ。私の孤独を埋めてくれた、優しい子に」

 飯田は必死にそう誤魔化したが、二宮は飯田の動揺と必死な誤魔化しを察した。彼は、飯田がさらに何かを隠していると気づき、目を細めた。

 ちょうどその時、窓を少し開けていた飯田の部屋に、夜風に乗って桜の花びらが、ひらりと舞い込んできた。

「あ、見て! 桜……もう散ってるわね」

 飯田は、その花びらを慌てて話題にして、さらなる動揺を誤魔化した。

「あっ、あのね。そうそう、会社のチームで、お花見に行ったのよ。花見って言っても、ただ近くの公園で、ちょっとお酒を飲んで……」

 彼女は、犬を飼っていたという話で誤魔化しきれなかった本心を隠すために、ぎこちなく会社の話を始めた。

 二宮は、飯田の二段階の誤魔化しを静かに聴いていた。そして、飯田の料理がもたらす優雅さが、自分の殺風景な生活に「必要不可欠な要素」であると確信した。

(飯田さんの仕事のできるクールさと孤独な弱さ、そして料理の優雅さ。僕の人生に、この全てが必要なんだ。だから、僕は彼女にふさわしい男にならなければいけない)

 二宮の飯田への愛情は、この瞬間、彼のキャリアの不安定さをも乗り越える強い確信へと変わったのだった。




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 1. 22:00 海の香りと、飯田の弱さ(飯田 菜々子・28歳)
 四月上旬の夜。桜が散り始めた春先にしては、空気はまだ肌寒い。
 飯田菜々子は在宅勤務を早めに終え、リフレッシュのためにシーフードパスタを作り始めていた。
 今日のメインは、エビとイカ。飯田はそれらをフライパンに入れ、白ワインでフランベする。
 ファサッ……!
 フライパンから立ち上る、青く煌めく炎。一瞬でアルコールが飛び、魚介の旨みが凝縮される。そして、ハーブと白ワインの優雅な香りが、築古マンションの換気扇から静かに漏れ出した。
 飯田は、この優雅な香りに浸りながら、ふと、隣室の二宮のことが気になった。
 彼は昼間に肉体労働のアルバイトをこなしていたはずだ。最近、彼は演劇指導の資料や専門書を読むために、夜の時間も有効活用している。発声練習の音は、あの時以来、ぴたりと途絶えた。
(二宮くんがいるから、贅沢な料理をするようになった。私一人じゃ、こんなに頑張らないのに)
 飯田は、ふと、出来上がったパスタを見てため息をついた。
「あら。私一人だと、ちょっと多すぎるわね……」
 そこで彼女は、小さな躊躇いの後、意を決して壁に近づき、小さな声でノックをした。
「ね、ねぇ、二宮くん」
 壁の向こうにいるのは、トレーニングを終え、シャワーを浴びたばかりの二宮颯太だ。
「……はい」
 彼の声は低く、しかしすぐに反応した。
「あのね……私一人だと、このパスタ多すぎるの。助けて」
 飯田は、これまで彼を「ポチ」と呼び、上から目線で優しさを与えてきた。だが、今、彼女が使った言葉は「助けて」だった。それは、彼女にとって、年下の彼に初めて見せる「弱さの表明」だった。
 2. 22:15 弱さを包むパスタの優雅さ(二宮 颯太・26歳)
 二宮は、飯田のその言葉に、一瞬息を呑んだ。
 彼の頭の中では、フランベされた魚介の香りが、普段の背徳的な香りとは違う、「優雅なSOS」のように響いた。
(飯田さんが、助けを求めている?)
 彼は即座にドアを開け、飯田の部屋に駆け込んだ。飯田は、フライパンとソースを前に、少し赤らめた顔で立っていた。
「わ、分かりました。お任せください。助けます!」
 二宮は、まるで戦場に赴くかのように、飯田の部屋のテーブルに向かい合った。
「もう、オーバーリアクションね。ただ、食べるのを手伝ってほしいだけよ」
 飯田はそう言って笑ったが、内心では、彼がすぐに駆けつけてくれたことに、安堵と喜びを感じていた。
 二人が向かい合ってパスタを食べる。
 シーフードパスタのレモンとハーブの爽やかな酸味が、濃厚な魚介の旨みを引き立て、これまで食べてきた家庭料理とは一線を画す洗練された味だった。
「このパスタ、すごく優雅ですね。僕の殺風景な生活には、まるで似合わない」
 二宮は、パスタをフォークに絡ませながら言った。
「そう? たまには、こういう背伸びした贅沢もいいでしょ。一人じゃ寂しいから、あなたを呼んだのよ」
 飯田の瞳は、彼の真剣な横顔をじっと見つめていた。
 3. 22:45 絆を深める優雅な時間
 パスタを食べ終えた後、二宮は満足げに食器をまとめた。
「飯田さん。お任せください。食器くらい、僕が洗います」
「あら、ポチは気が利くわね」
 飯田がいつものようにからかうと、二宮は初めて、反論せずに答えた。
「ええ。飯田さんの弱さを見られたんです。これくらい、当然です」
 彼の言葉には、「ポチ」というよりも「対等な男性」としての強さが滲んでいた。
 飯田は、彼の変化に驚き、胸が熱くなるのを感じた。
(彼は、私が与える料理だけじゃなく、私の弱さや孤独さえも必要としてくれている)
 二宮は、飯田の部屋で静かに食器を洗う。彼の筋肉質な背中は、飯田の不安と孤独を全て受け止めてくれるように見えた。
「二宮くんの、そういうところが好きなのよ」
 飯田は、思わず口に出してしまった。
「……え?」
 二宮は振り返った。
「あっ、あのね。犬を、飼っていたの。その犬に似ているのよ。私の孤独を埋めてくれた、優しい子に」
 飯田は必死にそう誤魔化したが、二宮は飯田の動揺と必死な誤魔化しを察した。彼は、飯田がさらに何かを隠していると気づき、目を細めた。
 ちょうどその時、窓を少し開けていた飯田の部屋に、夜風に乗って桜の花びらが、ひらりと舞い込んできた。
「あ、見て! 桜……もう散ってるわね」
 飯田は、その花びらを慌てて話題にして、さらなる動揺を誤魔化した。
「あっ、あのね。そうそう、会社のチームで、お花見に行ったのよ。花見って言っても、ただ近くの公園で、ちょっとお酒を飲んで……」
 彼女は、犬を飼っていたという話で誤魔化しきれなかった本心を隠すために、ぎこちなく会社の話を始めた。
 二宮は、飯田の二段階の誤魔化しを静かに聴いていた。そして、飯田の料理がもたらす優雅さが、自分の殺風景な生活に「必要不可欠な要素」であると確信した。
(飯田さんの仕事のできるクールさと孤独な弱さ、そして料理の優雅さ。僕の人生に、この全てが必要なんだ。だから、僕は彼女にふさわしい男にならなければいけない)
 二宮の飯田への愛情は、この瞬間、彼のキャリアの不安定さをも乗り越える強い確信へと変わったのだった。