表示設定
表示設定
目次 目次




第12話:煮込み時間と心の距離(牛すじ煮込み)

ー/ー



 1. 14:00 平日の昼下がりと牛すじの下処理(飯田 菜々子・28歳)

 平日の午後二時。飯田菜々子は在宅勤務で新しいWebサイトのデザイン案を練っていた。しかし、昼食の準備を兼ねて、牛すじ肉の丁寧な下処理を始めたところだった。

「よし、アク取り完了。この手間が、後の旨みになるのよ」

 牛すじの塊から立ち上る、獣臭を帯びた湯気を換気扇に送り込みながら、飯田は大きな鍋に牛すじと香味野菜を入れ、弱火にかける。長時間かけてじっくり煮込むことで、牛すじはトロトロになり、スープは深いコクを生む。

 飯田は、ふと壁の向こうに意識を向けた。二宮くんは、昼間の稽古がない日は、部屋で役者用の資料作成や発声練習に集中していることが多い。

「ねぇ、ポチ。牛すじを煮込んでいると、なんだか鍋料理って気分になるわね」

 飯田は、壁に向かって独り言のように話しかけた。

「もつ鍋とか、水炊きとか、ヘルシーなのもあるわねぇ。そういえば、あなたは何鍋が好き?」

 彼女は二宮くんのストイックな食生活を把握しているため、高カロリーな「もつ鍋」や「味噌ラーメン鍋」といった背徳的な選択肢は、彼を試す意地悪な質問だった。

 壁の向こうから、微かな声が返ってきた。

「……飯田さん。今は稽古の資料作成に集中しているので……」

「あら、ごめんあそばせ。でも、煮込み時間は長いんだから、ちょっとくらいサボってもバチは当たらないわよ。あなた、冬の間に何鍋を食べてたの?」

 二宮は、牛すじの香ばしい匂いが換気扇から微かに漏れてくるのを感じ、集中力が途切れかけていた。

(この匂いは……豚汁や生姜焼きとは違う、もっと深い旨みだ。これが、煮込み料理の魔力)

 彼は諦めたように、微かな声で答えた。

「僕は……その、鍋は水炊きか、鶏だしのおでんくらいです。味付けがシンプルで、カロリー計算がしやすいので」

「ふーん。やっぱりストイックね。でも、シンプルイズベストって言うわね」

 飯田は、彼の回答に満足したように頷き、「あなたの好みの鍋も、今度試してみるわね」と、さらなる飯テロを予告した。

 2. 18:00 炊き込みご飯の香りの爆発

 夕方になり、牛すじの煮込みは絶頂期を迎える。肉はトロトロになり、スープは濃厚な褐色に染まっていた。牛すじの持つ「手間と時間」の深みが、部屋中に満ちていた。

 その頃、二宮は昼間の資料作りが全く進まず、煮詰まっていた。役者としての将来への不安、家族との冷え切った関係。彼の「成功しなければならない」という強迫観念が、彼を孤独に追い込んでいた。

 飯田は牛すじ煮込みを休憩し、夕食の準備を始める。
 今夜のサイドメニューは、サバ缶と生姜を使った簡単炊き込みご飯。

「手間暇かけた牛すじの合間に、手軽に作れる美味しいご飯。これが、私の仕事術と一緒なのよね」

 飯田はそう独り言を呟き、炊飯器のスイッチを入れた。

 そして数十分後。

「よし、炊きあがったわ!」

 飯田が炊飯器の蓋を開けた瞬間、サバ缶の芳醇な魚介の香りと、生姜の爽やかな香りが、牛すじの濃厚な煮込みの香りと混ざり合い、強烈な香りの爆発を起こした。

 二宮の部屋の壁の向こう側から、大きな音は聞こえない。しかし、換気扇の隙間から流れ込む「濃厚な旨み」と「手軽な幸せ」の複合的な香りは、煮詰まっていた二宮の理性を一気に崩壊させた。

「やめてくれ……! これは……手間暇の深さと、手軽さの幸せのギャップだ……!」

 二宮は、飯田の料理の「二面性」を、彼女自身の「仕事のできるクールさ」と「家庭的な優しさ」の二面性と重ね合わせ、抗いがたい引力を感じた。

 3. 20:00 濃厚な煮込みと温かい孤独

 二宮は、もはや躊躇することなくドアをノックした。

「飯田さん。お駄賃として、何か手伝うことはありますか」

 彼は、もう言い訳をしなかった。「牛すじ煮込み」と「炊き込みご飯」という、手間暇と知恵が詰まった最高の組み合わせを前に、理性を保つ意味がないと悟ったからだ。

「あら、ポチ。いいところに来たわね。今日の報酬は、特別豪華よ」

 飯田は、楽しそうに笑った。


(正直、今すぐ手伝ってほしいことはないんだけど……報酬がないと、この子も申し訳ないだろうし、それに、次の約束も取り付けたい)

 飯田は腕を組み、考えてみせる。


「そうね……じゃあ、無償じゃないわよ。今すぐは特にないんだけど、次の週末に、あなたにしか頼めない力仕事があるの。その時に改めて手伝ってちょうだい。今日の報酬はその予約金ね」

「わ、わかりました。次の週末、ですね。いつでもお声がけください!」

 二宮は、飯田との次の約束と、目の前の料理への期待で瞳を輝かせた。

 飯田は、炊き込みご飯の香りを満たしたトレイを二宮の部屋に運んだ。

 二宮は、箸で牛すじを掴む。長時間煮込まれた牛すじは、まるでゼラチンのようにプルプルと震え、箸で簡単に切れた。

「……っ!」

 口に入れると、黒糖と醤油の濃厚な甘辛いタレと、トロトロになった肉の旨みが広がる。そして、サバ缶の炊き込みご飯が、その濃厚さを優しく受け止めた。

「どう? この牛すじは、昨日の昼からずっと煮込んでいるのよ」

「手間暇と……知恵ですね。飯田さんの料理は、いつもそうです」

 二宮は、飯田の料理の奥深さに感動した。それは、彼の役者としてのキャリア、そして人生にも通じる「地味だけど手を抜かないひと手間」の価値を示していた。

 飯田は、牛すじ煮込みを食べながら、彼の寂しさが少しでも埋まることを願っていた。

(この子に、私の料理の手間暇の裏にある知恵が伝わった。この関係は、単なる餌付けじゃないのかもしれない)

 飯田は、二宮が自分の孤独を埋める存在であるように、二宮は飯田の料理に彼女自身の二面性の魅力を見出し、互いに惹かれ合っていくのを感じていた。




スタンプを贈って作者を応援しよう!



みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



 1. 14:00 平日の昼下がりと牛すじの下処理(飯田 菜々子・28歳)
 平日の午後二時。飯田菜々子は在宅勤務で新しいWebサイトのデザイン案を練っていた。しかし、昼食の準備を兼ねて、牛すじ肉の丁寧な下処理を始めたところだった。
「よし、アク取り完了。この手間が、後の旨みになるのよ」
 牛すじの塊から立ち上る、獣臭を帯びた湯気を換気扇に送り込みながら、飯田は大きな鍋に牛すじと香味野菜を入れ、弱火にかける。長時間かけてじっくり煮込むことで、牛すじはトロトロになり、スープは深いコクを生む。
 飯田は、ふと壁の向こうに意識を向けた。二宮くんは、昼間の稽古がない日は、部屋で役者用の資料作成や発声練習に集中していることが多い。
「ねぇ、ポチ。牛すじを煮込んでいると、なんだか鍋料理って気分になるわね」
 飯田は、壁に向かって独り言のように話しかけた。
「もつ鍋とか、水炊きとか、ヘルシーなのもあるわねぇ。そういえば、あなたは何鍋が好き?」
 彼女は二宮くんのストイックな食生活を把握しているため、高カロリーな「もつ鍋」や「味噌ラーメン鍋」といった背徳的な選択肢は、彼を試す意地悪な質問だった。
 壁の向こうから、微かな声が返ってきた。
「……飯田さん。今は稽古の資料作成に集中しているので……」
「あら、ごめんあそばせ。でも、煮込み時間は長いんだから、ちょっとくらいサボってもバチは当たらないわよ。あなた、冬の間に何鍋を食べてたの?」
 二宮は、牛すじの香ばしい匂いが換気扇から微かに漏れてくるのを感じ、集中力が途切れかけていた。
(この匂いは……豚汁や生姜焼きとは違う、もっと深い旨みだ。これが、煮込み料理の魔力)
 彼は諦めたように、微かな声で答えた。
「僕は……その、鍋は水炊きか、鶏だしのおでんくらいです。味付けがシンプルで、カロリー計算がしやすいので」
「ふーん。やっぱりストイックね。でも、シンプルイズベストって言うわね」
 飯田は、彼の回答に満足したように頷き、「あなたの好みの鍋も、今度試してみるわね」と、さらなる飯テロを予告した。
 2. 18:00 炊き込みご飯の香りの爆発
 夕方になり、牛すじの煮込みは絶頂期を迎える。肉はトロトロになり、スープは濃厚な褐色に染まっていた。牛すじの持つ「手間と時間」の深みが、部屋中に満ちていた。
 その頃、二宮は昼間の資料作りが全く進まず、煮詰まっていた。役者としての将来への不安、家族との冷え切った関係。彼の「成功しなければならない」という強迫観念が、彼を孤独に追い込んでいた。
 飯田は牛すじ煮込みを休憩し、夕食の準備を始める。
 今夜のサイドメニューは、サバ缶と生姜を使った簡単炊き込みご飯。
「手間暇かけた牛すじの合間に、手軽に作れる美味しいご飯。これが、私の仕事術と一緒なのよね」
 飯田はそう独り言を呟き、炊飯器のスイッチを入れた。
 そして数十分後。
「よし、炊きあがったわ!」
 飯田が炊飯器の蓋を開けた瞬間、サバ缶の芳醇な魚介の香りと、生姜の爽やかな香りが、牛すじの濃厚な煮込みの香りと混ざり合い、強烈な香りの爆発を起こした。
 二宮の部屋の壁の向こう側から、大きな音は聞こえない。しかし、換気扇の隙間から流れ込む「濃厚な旨み」と「手軽な幸せ」の複合的な香りは、煮詰まっていた二宮の理性を一気に崩壊させた。
「やめてくれ……! これは……手間暇の深さと、手軽さの幸せのギャップだ……!」
 二宮は、飯田の料理の「二面性」を、彼女自身の「仕事のできるクールさ」と「家庭的な優しさ」の二面性と重ね合わせ、抗いがたい引力を感じた。
 3. 20:00 濃厚な煮込みと温かい孤独
 二宮は、もはや躊躇することなくドアをノックした。
「飯田さん。お駄賃として、何か手伝うことはありますか」
 彼は、もう言い訳をしなかった。「牛すじ煮込み」と「炊き込みご飯」という、手間暇と知恵が詰まった最高の組み合わせを前に、理性を保つ意味がないと悟ったからだ。
「あら、ポチ。いいところに来たわね。今日の報酬は、特別豪華よ」
 飯田は、楽しそうに笑った。
(正直、今すぐ手伝ってほしいことはないんだけど……報酬がないと、この子も申し訳ないだろうし、それに、次の約束も取り付けたい)
 飯田は腕を組み、考えてみせる。
「そうね……じゃあ、無償じゃないわよ。今すぐは特にないんだけど、次の週末に、あなたにしか頼めない力仕事があるの。その時に改めて手伝ってちょうだい。今日の報酬はその予約金ね」
「わ、わかりました。次の週末、ですね。いつでもお声がけください!」
 二宮は、飯田との次の約束と、目の前の料理への期待で瞳を輝かせた。
 飯田は、炊き込みご飯の香りを満たしたトレイを二宮の部屋に運んだ。
 二宮は、箸で牛すじを掴む。長時間煮込まれた牛すじは、まるでゼラチンのようにプルプルと震え、箸で簡単に切れた。
「……っ!」
 口に入れると、黒糖と醤油の濃厚な甘辛いタレと、トロトロになった肉の旨みが広がる。そして、サバ缶の炊き込みご飯が、その濃厚さを優しく受け止めた。
「どう? この牛すじは、昨日の昼からずっと煮込んでいるのよ」
「手間暇と……知恵ですね。飯田さんの料理は、いつもそうです」
 二宮は、飯田の料理の奥深さに感動した。それは、彼の役者としてのキャリア、そして人生にも通じる「地味だけど手を抜かないひと手間」の価値を示していた。
 飯田は、牛すじ煮込みを食べながら、彼の寂しさが少しでも埋まることを願っていた。
(この子に、私の料理の手間暇の裏にある知恵が伝わった。この関係は、単なる餌付けじゃないのかもしれない)
 飯田は、二宮が自分の孤独を埋める存在であるように、二宮は飯田の料理に彼女自身の二面性の魅力を見出し、互いに惹かれ合っていくのを感じていた。