1. 19:00 実家便の余波と心の悩み(二宮 颯太・26歳)
平日の夜。二宮は、家族からの長文のメールを読み終え、スマートフォンを強く握りしめた。メッセージの冷たさが、画面越しにも伝わってくる。
内容は、相変わらず役者という不安定な道への批判と、早く堅実な仕事に就くべきという説教だった。
二宮は都内が実家だ。成功を約束された将来を蹴り、覚悟を決めて家を出たのに、この数年間、彼は小さな劇団の公演、撮影現場での雑用バイト、そしてセリフもないエキストラ出演を繰り返しているだけだった。
(もう26歳だ。演劇の世界では、才能があればとっくに芽が出ている頃だ。家族の言う通り、年々可能性は小さくなっているのは、誰よりも僕自身が自覚している)
彼の胸には、「成功しなければならない」という強迫観念と、それが果たされないことへの耐えがたいほどの強い焦りが、重くのしかかっていた。この孤独と焦燥感が、彼の心を硬く、冷たく締めつけていた。
壁の向こう側から、飯田の独り言が聞こえてきた。
「はぁ、困ったわねぇ。あの箱のせいで、もう部屋がカボチャだらけよ。こんなに消費できないわ」
飯田の実家から届いた、またしても巨大な段ボール箱。今回は、大量のカボチャが主役だった。
「ねぇ、ポチ。カボチャの大量消費レシピ、何か知らない? 今夜はこれを使って、カボチャを煮崩したほうとうを作ろうと思うんだけど、カボチャって甘いから、ストイックなあなたは嫌いかしら」
飯田の声は、少し困ったような、しかしどこか楽しそうなトーンだった。
二宮は、自分の心の冷え込みと、飯田が持つ「家族の温かさ(実家便)」の対比に、激しい羨望を覚えた。
「飯田さん……ほうとうは、カロリーは高いですが、味噌とカボチャの甘みは、体に優しいと思います。……僕は、温かければ、何でも」
彼は、家族からの反対で冷え切った心に、その「優しい温かさ」が差し込むことを無意識に期待していた。
飯田は、二宮の言葉に大きく頷いた。
「なるほどね! 『カロリーは高いけど、体に優しい』。それ、採用!! あなたの言う通りよ、ポチ。疲れているときは、優しい味が一番のご褒美よね。決定、ほうとうにしましょう!」
2. 21:00 カボチャが溶け出す優しい香り
飯田は調理を開始した。ほうとうは、煮込み時間が長い。味噌と醤油の懐かしい香りが立ち上るが、今日一番の飯テロは、カボチャの甘みが味噌に溶け込む瞬間だった。
「フツフツ……」
飯田はほうとうの準備と並行して、カボチャの大量消費を試みる。カボチャを薄切りにし、鶏ひき肉を少量加えたあんかけ煮物を、鍋の隅で調理し始めた。
「これもポチのために、低脂質の鶏ひき肉を使ったあんかけよ。カロリーは気にしないの!」
鍋の中でカボチャが煮崩れ、甘みが味噌の塩気と混ざり合い、スープに優しさととろみを与えていく。それに、あんかけ煮物から立ち上るカボチャと生姜、鶏肉の優しい香りが加わり、その濃厚な甘い香りは、二宮が知っている今までの飯田料理の「背徳感」とは違い、純粋な「家庭の味」だった。
二宮は、その香りに耐えきれず、いつものように壁際に体育座りをした。
(この匂いは……母の味に似ている。でも、もっと温かい。僕の孤独を、このほうとうが……)
彼の頭の中は、先ほどの家族からの冷たいメールと、鍋から漂う温かい味噌の香りでいっぱいになった。
飯田は、最後の仕上げに、いなり寿司も添えていた。ほうとうという炭水化物に、さらに炭水化物を加えるという悪魔的な優しさ。
3. 22:00 屈服と愛情の確信
ノックの音は、もはや躊躇のないものだった。
「飯田さん。お駄賃は何でもします。どうか、この悪魔的な優しさを、僕に分けてください」
二宮は、飯田の部屋に入ると、トレイに乗せられたほうとうといなり寿司を見て、ついに観念したように息をついた。
「あら、ポチ。今回は、悪魔的な優しさ、という評価なのね」
飯田は、彼の疲弊した様子を見て、少し心配そうな表情を浮かべた。
「今日は特別よ。このほうとうは、カボチャの甘みと味噌の塩気が絶妙なの。体が温まるわよ。それに、いなり寿司は、一口サイズにしたわ。カロリーは気にしないの!」
二宮は、箸を取り、厚く切られたほうとうの麺と、煮崩れてとろみを帯びたカボチャを一緒に口に入れた。
「……っ、う、うまい」
その温かさが、家族との確執で冷え切った彼の心をじんわりと溶かしていく。それは、今までのどの料理よりも、優しく、深く、彼の心の寂しさに語りかけてくる味だった。
二宮は、箸を置いて、飯田の目を見つめた。
「飯田さん……僕は、負けました。これは、単なるカロリーへの敗北じゃない」
飯田は、彼の真剣な眼差しと、「孤独を埋めてくれる」という言葉の重みに、心臓が激しく脈打つのを感じた。
「……あなたの作る料理は、僕の血の繋がりでさえ、埋められなかった孤独を埋めてくれる」
二宮は、まるで告白するかのようにそう言った。
飯田は、その言葉を遮るように、からかうような笑顔を作った。
「ふふ。それは、ちょっとずるい言い方ね、ポチ」
彼女の鼓動は、年下の男の真剣さと彼の夢の不安定さに板挟みになっていた。
(この子は、私にとってただのポチじゃない。でも、私が安易に受け止めてしまったら、彼の役者としての覚悟を邪魔してしまうかもしれない)
飯田は、年上の女としての責任と、自分の感情を「世話焼き」という枠に押し込めることで、抗いがたい「愛情」から一時的に目を逸らした。