表示設定
表示設定
目次 目次




第11話:酒粕が溶かす孤独の鎧(豚汁)

ー/ー



 1. 04:30 寒い雨の日の帰宅(二宮 颯太・26歳)

 朝の4時半。外は冷たい雨が降っていた。季節は冬の名残を残す春先。
 二宮颯太は、夜通しのコンビニバイトを終え、全身を冷やしてマンションのエレベーターに乗り込んだ。築40年のマンションは、深夜の静寂の中で、冷たいコンクリートの塊のように鎮座している。

(ああ、最悪だ。今日は特に冷える……)

 役者業のために始めた深夜バイトは、もはや彼の生活の一部だ。疲労は限界を超えているが、発声練習と筋トレは欠かさない。しかし、この雨と寒さは、彼のストイックな理性にまで影響を及ぼしていた。

 エレベーターが4階で開き、自室へと向かう。いつもならこの時間、飯田菜々子の部屋は完全に静まり返っているはずだ。彼女はWebデザイナーとして朝早くから動くため、この時間は眠っている。

 しかし、微かに換気扇から温かい香りの残り香が漂っているのに気づいた。

「……豚汁、か」

 味噌と豚肉、根菜が溶け込んだ、滋味深い香りの余韻。
 彼は気づいた。きっと飯田さんは、週末の開放感で昨夜遅くまで作り、そして今、温め直しているのだろう。

(飯田さんは、もう28歳か。俺より一つ年上……)

 いつしか彼女の年齢や誕生日を気にかけ、知っているかのように振る舞うようになっていた。1年間の飯テロを経て、彼女の存在はもはや「隣人」ではなく、彼の「生活の基盤」になっていた。

 2. 05:00 予期せぬノック(飯田 菜々子・28歳)

 飯田は、朝早くから打ち合わせがあるため、早起きして身支度を整えていた。夜中に仕込んでおいた豚汁を温め直している最中だった。

「よし、完璧ね」

 最後に酒粕を少量溶かし入れる。酒粕の芳醇な香りは、ただの豚汁を「特別な冬のご褒美」へと昇華させた。

 その瞬間、ドアがノックされた。いつもの元気なノックではなく、微かで、ためらいがちな音だった。

 ドアを開けると、冷え切った顔の二宮が立っていた。目元は眠気と疲労で潤み、身体はバイトの制服の上からでも震えているのがわかる。

「ポチ。こんな朝早くにどうしたの? また腹筋でも割れた?」

 飯田はいつものようにからかうが、彼の尋常ではない冷え方に気づいた。

「い、飯田さん。あの、その……」

 二宮は、香りの誘惑と、飯田に迷惑をかけているという羞恥心で、言葉が出ない。

「……お腹が、空きました。そして、体も、心も冷え切ってしまって……」

 3. 05:15 完璧な定食(飯田 菜々子・28歳)

 飯田はすぐに状況を理解した。彼の深夜バイトと、この寒い雨の日。

「まったく、仕方ないわね」

 飯田は二宮くんを自室へと招き入れた。初めてではない。この一年で、体調が悪い時や、特別な料理を分ける時、二宮くんは飯田の部屋で食事をすることが増えていた。

「そこに座ってなさい」

 二宮は、飯田の部屋の「家庭の温かさ」と「生活感」が混ざり合った空間に、ホッと息をついた。

 飯田は、素早く完璧な和定食をトレイに乗せる。

 メインは、酒粕を少量溶かした滋味深い豚汁。
 サイドには、アジの開き(一夜干し)、そしてだし巻き卵。トレイの脇には、二宮くん専用の、少し青みがかった箸が、当たり前のように置かれていた。

「完璧でしょ? 豚汁には、仕上げに酒粕を少し溶かし入れたわ。体が芯から温まるわよ。アジの開きはタンパク質、それに、卵好きのポチのために、だし巻き卵は特大よ。さあ、遠慮なく食べなさい」

 酒粕の芳醇な香りが立ち昇る豚汁を、二宮は一口すすった。

「……っ、温かい」

 その味は、豚バラ肉のコク、味噌の塩気、そして酒粕のほのかな甘みと香りが合わさり、疲労困憊の体に染み渡る。

「焼き魚の香ばしさと、だし巻き卵の優しい出汁の味。完璧な定食……。飯田さん、もうポチじゃないですよ」

 二宮は、抗議の言葉を口にするが、その声には抗議の意図よりも、甘えと安堵が滲んでいた。

「あら、そう? ポチじゃなかったら、誰なの?」

 飯田は、にっこりと微笑む。

(まったく。可愛い子犬に、こうまで尽くすなんて。彼がいてくれるおかげで、私の深夜の料理が報われる。そう、これは愛情じゃない。年下の、手の掛かる子への、奉仕よ)

 彼女は、彼の中に隠されている「自分への特別な甘え」を感じ取っていた。飯田にとって、彼の存在は、深夜の孤独を埋める「誰かの喜び」へと昇華していた。それは、彼女の心が満たされる瞬間だった。

 4. 05:30 豚汁の温もり

 二宮は、黙々と豚汁と定食を食べ進める。豚汁の温かさが彼の冷え切った体と心を芯から温め、彼は久しぶりに心から安堵した。

(この温かさは、僕がストイックな生活を続けるための、唯一の救済だ)

 彼は、飯田の料理が単なる高カロリーな誘惑ではなく、自分を支える「命綱」となっていることを痛感した。

「ごちそうさまでした。とても、美味しかったです」

「はい、よく食べたわね」

 飯田は、満足そうに頷く。

 二宮はトレイを持って立ち上がった。

「あの、これ、洗ってきます」

「いいわよ、私がやるから。早く寝なさい」

 飯田はトレイを奪い取ろうとするが、二宮はそれを拒む。

「いいえ。これは僕の仕事ですから。……ポチ、ですから」

 彼はそう言って、少し照れたように俯きながら、台所へと向かった。飯田は、彼のその照れ隠しの行動を見て、思わず笑みをこぼした。彼の反論の中に、飯田さんのためになりたいという「愛情の片鱗」を感じたからだ。




スタンプを贈って作者を応援しよう!



みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



 1. 04:30 寒い雨の日の帰宅(二宮 颯太・26歳)
 朝の4時半。外は冷たい雨が降っていた。季節は冬の名残を残す春先。
 二宮颯太は、夜通しのコンビニバイトを終え、全身を冷やしてマンションのエレベーターに乗り込んだ。築40年のマンションは、深夜の静寂の中で、冷たいコンクリートの塊のように鎮座している。
(ああ、最悪だ。今日は特に冷える……)
 役者業のために始めた深夜バイトは、もはや彼の生活の一部だ。疲労は限界を超えているが、発声練習と筋トレは欠かさない。しかし、この雨と寒さは、彼のストイックな理性にまで影響を及ぼしていた。
 エレベーターが4階で開き、自室へと向かう。いつもならこの時間、飯田菜々子の部屋は完全に静まり返っているはずだ。彼女はWebデザイナーとして朝早くから動くため、この時間は眠っている。
 しかし、微かに換気扇から温かい香りの残り香が漂っているのに気づいた。
「……豚汁、か」
 味噌と豚肉、根菜が溶け込んだ、滋味深い香りの余韻。
 彼は気づいた。きっと飯田さんは、週末の開放感で昨夜遅くまで作り、そして今、温め直しているのだろう。
(飯田さんは、もう28歳か。俺より一つ年上……)
 いつしか彼女の年齢や誕生日を気にかけ、知っているかのように振る舞うようになっていた。1年間の飯テロを経て、彼女の存在はもはや「隣人」ではなく、彼の「生活の基盤」になっていた。
 2. 05:00 予期せぬノック(飯田 菜々子・28歳)
 飯田は、朝早くから打ち合わせがあるため、早起きして身支度を整えていた。夜中に仕込んでおいた豚汁を温め直している最中だった。
「よし、完璧ね」
 最後に酒粕を少量溶かし入れる。酒粕の芳醇な香りは、ただの豚汁を「特別な冬のご褒美」へと昇華させた。
 その瞬間、ドアがノックされた。いつもの元気なノックではなく、微かで、ためらいがちな音だった。
 ドアを開けると、冷え切った顔の二宮が立っていた。目元は眠気と疲労で潤み、身体はバイトの制服の上からでも震えているのがわかる。
「ポチ。こんな朝早くにどうしたの? また腹筋でも割れた?」
 飯田はいつものようにからかうが、彼の尋常ではない冷え方に気づいた。
「い、飯田さん。あの、その……」
 二宮は、香りの誘惑と、飯田に迷惑をかけているという羞恥心で、言葉が出ない。
「……お腹が、空きました。そして、体も、心も冷え切ってしまって……」
 3. 05:15 完璧な定食(飯田 菜々子・28歳)
 飯田はすぐに状況を理解した。彼の深夜バイトと、この寒い雨の日。
「まったく、仕方ないわね」
 飯田は二宮くんを自室へと招き入れた。初めてではない。この一年で、体調が悪い時や、特別な料理を分ける時、二宮くんは飯田の部屋で食事をすることが増えていた。
「そこに座ってなさい」
 二宮は、飯田の部屋の「家庭の温かさ」と「生活感」が混ざり合った空間に、ホッと息をついた。
 飯田は、素早く完璧な和定食をトレイに乗せる。
 メインは、酒粕を少量溶かした滋味深い豚汁。
 サイドには、アジの開き(一夜干し)、そしてだし巻き卵。トレイの脇には、二宮くん専用の、少し青みがかった箸が、当たり前のように置かれていた。
「完璧でしょ? 豚汁には、仕上げに酒粕を少し溶かし入れたわ。体が芯から温まるわよ。アジの開きはタンパク質、それに、卵好きのポチのために、だし巻き卵は特大よ。さあ、遠慮なく食べなさい」
 酒粕の芳醇な香りが立ち昇る豚汁を、二宮は一口すすった。
「……っ、温かい」
 その味は、豚バラ肉のコク、味噌の塩気、そして酒粕のほのかな甘みと香りが合わさり、疲労困憊の体に染み渡る。
「焼き魚の香ばしさと、だし巻き卵の優しい出汁の味。完璧な定食……。飯田さん、もうポチじゃないですよ」
 二宮は、抗議の言葉を口にするが、その声には抗議の意図よりも、甘えと安堵が滲んでいた。
「あら、そう? ポチじゃなかったら、誰なの?」
 飯田は、にっこりと微笑む。
(まったく。可愛い子犬に、こうまで尽くすなんて。彼がいてくれるおかげで、私の深夜の料理が報われる。そう、これは愛情じゃない。年下の、手の掛かる子への、奉仕よ)
 彼女は、彼の中に隠されている「自分への特別な甘え」を感じ取っていた。飯田にとって、彼の存在は、深夜の孤独を埋める「誰かの喜び」へと昇華していた。それは、彼女の心が満たされる瞬間だった。
 4. 05:30 豚汁の温もり
 二宮は、黙々と豚汁と定食を食べ進める。豚汁の温かさが彼の冷え切った体と心を芯から温め、彼は久しぶりに心から安堵した。
(この温かさは、僕がストイックな生活を続けるための、唯一の救済だ)
 彼は、飯田の料理が単なる高カロリーな誘惑ではなく、自分を支える「命綱」となっていることを痛感した。
「ごちそうさまでした。とても、美味しかったです」
「はい、よく食べたわね」
 飯田は、満足そうに頷く。
 二宮はトレイを持って立ち上がった。
「あの、これ、洗ってきます」
「いいわよ、私がやるから。早く寝なさい」
 飯田はトレイを奪い取ろうとするが、二宮はそれを拒む。
「いいえ。これは僕の仕事ですから。……ポチ、ですから」
 彼はそう言って、少し照れたように俯きながら、台所へと向かった。飯田は、彼のその照れ隠しの行動を見て、思わず笑みをこぼした。彼の反論の中に、飯田さんのためになりたいという「愛情の片鱗」を感じたからだ。