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第7話:看病飯、とろける優しさ(親子丼)

ー/ー



 1. 23:00 疲労困憊の忠犬(二宮 颯太・25歳)


 季節は移り、暦は5月。外はもう、エアコンをつけたくなるほど生暖かい空気だ。

 二宮颯太は、連日の舞台稽古で喉が枯れ、全身が鉛のように重かった。深夜のバイトを終えた後、自宅に戻るエレベーターの中で、彼は自分の体調が良くないことを自覚していた。熱はないが、食欲がない。

(高タンパク低カロリー……。今は、ゼリー飲料で栄養補給するしかない……)

 しかし、そう心で唱えても、体は正直だ。特に、喉が枯れて、体力が落ちている時は、鶏のササミやプロテインの味すら受け付けない。彼のストイックな理性が弱っている隙に、別の本能が顔を出し始める。

(飯田さんの……あの温かい、家庭の味が欲しい)

 二宮は、この数ヶ月で、飯田菜々子の料理が単なる「背徳的なご褒美」ではなく、自分の「心の安定剤」になっていることを知っていた。壁を隔てていても、彼らの間に「最近どうですか?」といった、隣人よりも一歩踏み込んだ会話が増えていたのも、飯田の料理がもたらす安心感あってのことだ。



 2. 23:15 香ばしい誘惑



 二宮がシャワーを浴びて部屋着に着替えると、換気扇から微かな香りが流れ込んできた。

 今日の香りは、生姜焼きや餃子のような攻撃的な背徳感はない。代わりに漂ってくるのは、優しさという名の、甘い、甘い誘惑だった。

 その正体は、炙り鶏肉の香ばしさと、出汁を吸った卵を包む、甘い醤油とみりんが煮詰まる殺人的な匂い、そして出汁の温かい湯気だった。

 二宮は、親子丼だと瞬時に悟った。親子丼は、彼にとって「看病飯」に近い、心に効く料理だった。

 飯田は、親子丼の鶏肉を一度軽く炙り、香ばしさを加えていた。その手間を惜しまないひと工夫が、二宮の嗅覚を優しく刺激する。

 ジュッ、ジュワワ……!

「あ、美味しい……! やっぱり出汁は、心を落ち着かせるわね」

 飯田は、鶏肉を出汁で煮込み、溶き卵を「とろとろの半熟」と「ふわふわの二層」に分けてとじるという、手間のかかる「二段階とじ」の作業をしていた。

 その調理の音と、出汁の優しい香りが、疲労困憊の二宮の理性を崩壊させるのに、時間はかからなかった。

 彼は、我慢できずに飯田の部屋のドアノブに手をかける。

 3. 23:30 看病飯ですか?

 飯田の部屋のドアが開くと、二宮は憔悴しきった顔でその前に立っていた。その瞳は、いつものクールさとは程遠く、理性を失った子犬のように潤んでいた。

「飯田さん……あの、その、今日の……少し、分けてもらえませんか……?」

 飯田は、彼の嗄れた声と、弱り切った体を見て、すぐに状況を察した。

「あら、二宮くん。体調、悪そうね。稽古が立て込んでるって言ってたものね」

 飯田は、クスリと笑って、二宮の肩にそっと手を触れ、彼の部屋へ押し戻す。

「いいから、自分の部屋で座って。今日の料理はね、あなたのために作った看病飯よ。私が持っていくから」

「看病飯……ですか?」

 二宮は戸惑ったように呟いた。彼は、いつも「ご褒美」という名目で、どこか罪悪感を伴う形で料理を受け取っていた。しかし、「看病飯」という言葉は、飯田が心から自分の体を気遣ってくれたことを意味していた。

 飯田は、親子丼と鶏出汁の吸い物、そして柴漬けをトレイに乗せて、二宮の部屋へ持っていった。

 二宮の殺風景でストイックな部屋に、トレイに乗った温かい料理が持ち込まれ、二人の深夜の食事が始まった。

「ポチの体調管理はご主人様の責任でしょう? ほら、早く食べなさい。温かいうちに」

 飯田は、二宮に親子丼のお茶碗を差し出す。

「このお茶碗は私が味見した分。私、猫舌だしね。あなたは、熱々のをどうぞ」

 そう言いながら、飯田はいたずらな笑みを二宮に向けた。

 二宮は、目の前の親子丼を見た。

 炙られた鶏肉の香ばしさ、そして二段階とじの、とろとろの半熟卵が出汁を纏い、黄金色の輝きを放っている。

 彼は、静かに箸を取り、一口食べた。

 温かい出汁の旨みが、嗄れた喉と弱った胃袋に、優しく、深く染み渡る。

「う……」

 その優しい味に、二宮は心の壁が一つ崩れるのを感じた。

 彼は、箸を止めたまま、ぼうぜんとしている。

「どうしたの? 食べないの? それとも、まさか、三つ葉とか苦手だった?」

 飯田は、少し心配したような、しかし楽しそうな表情で問いかけた。

 二宮は、慌てて首を横に振った。

「い、いえっ! 苦手なんかじゃ……ただ、あまりにも、優しくて……言葉が出ませんでした」

 彼は、自分のことをここまで気遣ってくれる飯田の優しさに、強い安心感を覚えた。

 飯田は、そんな彼の様子を微笑ましく見つめた。そのとき、二宮の潤んだ瞳と、無防備な表情を見た飯田の胸の奥で、世話焼きの感情とは違う、胸の奥が「キュン」となる奇妙な感覚が走った。

(な、何よ、今の……。この子、こんな顔もするんだ……)

 飯田は、自分の心臓が一瞬跳ねたことに動揺し、すぐに平静を装う。

「ふふ。気に入った?」

「……はい。とても。ありがとうございます、飯田さん」

 二宮は、顔を赤くしながら、親子丼を黙々と食べ始めた。飯田は、自分の動揺を悟られないよう、彼が食事を終えるのを静かに待った。

 この看病飯を境に、二宮は飯田の料理を「自分だけの特別なもの」と認識し、甘えを見せ始める。飯田もまた、彼を「ポチ」と扱う裏側で、心から彼の体を心配していることに気づき始めた。

 二人の関係は、より深く、温かいものへと進んでいった、のかもしれない……。




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 1. 23:00 疲労困憊の忠犬(二宮 颯太・25歳)
 季節は移り、暦は5月。外はもう、エアコンをつけたくなるほど生暖かい空気だ。
 二宮颯太は、連日の舞台稽古で喉が枯れ、全身が鉛のように重かった。深夜のバイトを終えた後、自宅に戻るエレベーターの中で、彼は自分の体調が良くないことを自覚していた。熱はないが、食欲がない。
(高タンパク低カロリー……。今は、ゼリー飲料で栄養補給するしかない……)
 しかし、そう心で唱えても、体は正直だ。特に、喉が枯れて、体力が落ちている時は、鶏のササミやプロテインの味すら受け付けない。彼のストイックな理性が弱っている隙に、別の本能が顔を出し始める。
(飯田さんの……あの温かい、家庭の味が欲しい)
 二宮は、この数ヶ月で、飯田菜々子の料理が単なる「背徳的なご褒美」ではなく、自分の「心の安定剤」になっていることを知っていた。壁を隔てていても、彼らの間に「最近どうですか?」といった、隣人よりも一歩踏み込んだ会話が増えていたのも、飯田の料理がもたらす安心感あってのことだ。
 2. 23:15 香ばしい誘惑
 二宮がシャワーを浴びて部屋着に着替えると、換気扇から微かな香りが流れ込んできた。
 今日の香りは、生姜焼きや餃子のような攻撃的な背徳感はない。代わりに漂ってくるのは、優しさという名の、甘い、甘い誘惑だった。
 その正体は、炙り鶏肉の香ばしさと、出汁を吸った卵を包む、甘い醤油とみりんが煮詰まる殺人的な匂い、そして出汁の温かい湯気だった。
 二宮は、親子丼だと瞬時に悟った。親子丼は、彼にとって「看病飯」に近い、心に効く料理だった。
 飯田は、親子丼の鶏肉を一度軽く炙り、香ばしさを加えていた。その手間を惜しまないひと工夫が、二宮の嗅覚を優しく刺激する。
 ジュッ、ジュワワ……!
「あ、美味しい……! やっぱり出汁は、心を落ち着かせるわね」
 飯田は、鶏肉を出汁で煮込み、溶き卵を「とろとろの半熟」と「ふわふわの二層」に分けてとじるという、手間のかかる「二段階とじ」の作業をしていた。
 その調理の音と、出汁の優しい香りが、疲労困憊の二宮の理性を崩壊させるのに、時間はかからなかった。
 彼は、我慢できずに飯田の部屋のドアノブに手をかける。
 3. 23:30 看病飯ですか?
 飯田の部屋のドアが開くと、二宮は憔悴しきった顔でその前に立っていた。その瞳は、いつものクールさとは程遠く、理性を失った子犬のように潤んでいた。
「飯田さん……あの、その、今日の……少し、分けてもらえませんか……?」
 飯田は、彼の嗄れた声と、弱り切った体を見て、すぐに状況を察した。
「あら、二宮くん。体調、悪そうね。稽古が立て込んでるって言ってたものね」
 飯田は、クスリと笑って、二宮の肩にそっと手を触れ、彼の部屋へ押し戻す。
「いいから、自分の部屋で座って。今日の料理はね、あなたのために作った看病飯よ。私が持っていくから」
「看病飯……ですか?」
 二宮は戸惑ったように呟いた。彼は、いつも「ご褒美」という名目で、どこか罪悪感を伴う形で料理を受け取っていた。しかし、「看病飯」という言葉は、飯田が心から自分の体を気遣ってくれたことを意味していた。
 飯田は、親子丼と鶏出汁の吸い物、そして柴漬けをトレイに乗せて、二宮の部屋へ持っていった。
 二宮の殺風景でストイックな部屋に、トレイに乗った温かい料理が持ち込まれ、二人の深夜の食事が始まった。
「ポチの体調管理はご主人様の責任でしょう? ほら、早く食べなさい。温かいうちに」
 飯田は、二宮に親子丼のお茶碗を差し出す。
「このお茶碗は私が味見した分。私、猫舌だしね。あなたは、熱々のをどうぞ」
 そう言いながら、飯田はいたずらな笑みを二宮に向けた。
 二宮は、目の前の親子丼を見た。
 炙られた鶏肉の香ばしさ、そして二段階とじの、とろとろの半熟卵が出汁を纏い、黄金色の輝きを放っている。
 彼は、静かに箸を取り、一口食べた。
 温かい出汁の旨みが、嗄れた喉と弱った胃袋に、優しく、深く染み渡る。
「う……」
 その優しい味に、二宮は心の壁が一つ崩れるのを感じた。
 彼は、箸を止めたまま、ぼうぜんとしている。
「どうしたの? 食べないの? それとも、まさか、三つ葉とか苦手だった?」
 飯田は、少し心配したような、しかし楽しそうな表情で問いかけた。
 二宮は、慌てて首を横に振った。
「い、いえっ! 苦手なんかじゃ……ただ、あまりにも、優しくて……言葉が出ませんでした」
 彼は、自分のことをここまで気遣ってくれる飯田の優しさに、強い安心感を覚えた。
 飯田は、そんな彼の様子を微笑ましく見つめた。そのとき、二宮の潤んだ瞳と、無防備な表情を見た飯田の胸の奥で、世話焼きの感情とは違う、胸の奥が「キュン」となる奇妙な感覚が走った。
(な、何よ、今の……。この子、こんな顔もするんだ……)
 飯田は、自分の心臓が一瞬跳ねたことに動揺し、すぐに平静を装う。
「ふふ。気に入った?」
「……はい。とても。ありがとうございます、飯田さん」
 二宮は、顔を赤くしながら、親子丼を黙々と食べ始めた。飯田は、自分の動揺を悟られないよう、彼が食事を終えるのを静かに待った。
 この看病飯を境に、二宮は飯田の料理を「自分だけの特別なもの」と認識し、甘えを見せ始める。飯田もまた、彼を「ポチ」と扱う裏側で、心から彼の体を心配していることに気づき始めた。
 二人の関係は、より深く、温かいものへと進んでいった、のかもしれない……。