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第6話:忠犬の報酬(生姜焼き定食)

ー/ー



 1. 19:00 組み立ての音と依頼(飯田 菜々子・27歳)


 木曜の夕方。飯田菜々子は、在宅勤務の作業スペースを拡大するため、大きなIKEAの棚を注文した。帰宅した彼女の部屋の前には、長さ1.5メートルはある薄い段ボール箱が立てかけられている。

「はぁ……! これは自力で組み立てるには腰がもたないな……」

 飯田は、過去に二宮颯太に重い段ボールを運んでもらった経験から、彼が「世話焼きの気質」と「家庭の味への飢え」を持っていることを知っていた。彼女は部屋に入る前に、あえて大げさにため息をつき、段ボールをズルズルと引きずって、組み立ての工具(六角レンチ)をガチャガチャと鳴らした。

 その音は、もちろん壁を隔てた隣の部屋に響く。

 二宮は、自室で台本のセリフをチェックしていたが、集中力が散漫になる。聞こえてくるのは、慣れない女性が大型家具の組み立てに悪戦苦闘する、情けない音だ。

「何やってるんですか、飯田さん。うるさいですよ」

 二宮は苛立ちを隠せないまま、ドアを開け、飯田の部屋の前に立つ。

 飯田は工具を床に放り投げ、疲れた顔を装って二宮を見上げた。

「あら、二宮くん。ごめんなさいね。仕事で使う棚なんだけど、どうにも組み立てが難しくて。このままじゃ今夜の作業ができないわ」

 二宮は、その箱の薄さと大きさに、組み立ての面倒臭さを察した。彼の理性が「関わるな」と警報を鳴らす。しかし、飯田の疲弊した顔は、彼の中の「困っている人を放っておけない」という本能を刺激した。

 そして、何よりも。

(これは……お駄賃が発生する流れだ)

 彼は、前回のお駄賃(肉じゃが)で、飯田からの報酬が、彼の飢えを満たす唯一の「家庭の味」であることを知っていた。彼の頭の中には、すでに湯気を立てた温かい料理の幻影が微かに漂っているような気がしていた。

「……どれくらいで終わりますか」

 二宮は低い声で尋ねた。

 飯田は、勝利の笑みを隠すように、優しく微笑んだ。その涼しげな目元が、一瞬だけいたずらっぽく細められるのを、二宮は見逃さなかった。

「ありがとう、ポチ。30分もあれば終わるでしょう? その代わり、最高のご褒美を用意するわ」

 二宮は一瞬、顔を硬直させた。

「ポチはやめてください!」

 その強い抗議に、飯田は「あら」と少し驚いたふりをする。

「あら、ごめんなさい。でも、頼りになる忠犬、でしょ?」

 飯田は、なおも二宮をからかい、その無防備な笑顔に、二宮はドギマギしながらも、反射的に棚の段ボールを掴んだ。



 2. 19:30 忠犬の働きと飯テロの準備(二宮 颯太・25歳)



 二宮は、プロテインシェイカーを飯田の部屋の隅に置き、黙々と組み立て作業に取り掛かった。

 役者を目指す二宮の体は、ただ大きいだけでなく、動作が滑らかで無駄がない。彼の手にかかると、説明書を見ても苦戦していた飯田が嘘のように、六角レンチがリズミカルに動き出す。

 カチッ、カチッ、スッ……

 正確で、美しい動き。飯田は、そんな彼のストイックな集中力と、頼りになる背中を静かに見つめていた。

「すごいわね、二宮くん。あっという間だわ」

「慣れているだけです。早く終わらせて、筋トレに戻りたいので」

 二宮が最後のネジを締め終えた頃、飯田はキッチンに立っていた。彼女の顔には、棚が完成したことへの満足感と、これから始まる料理への高揚感が混じっていた。

 飯田は、豚ロース肉の塊を丁寧に筋切りし、玉ねぎのスライスと、たっぷりのすりおろし生姜を用意する。

 そして、飯田がフライパンを火にかける。

 ジュワアアアア……!

 まず、熱したフライパンに油をならす軽い摩擦音が響いた後、豚肉が触れた瞬間、壁を越えてくるのは、「生姜と醤油の、甘辛く、肉々しい香り」だ。

 二宮は、精密な作業の最中にもかかわらず、無意識に鼻をヒクつかせた。

 フライパンの上で豚ロース肉が焼かれ、脂が熱で溶け出し、ジュウジュウと音を立てる。

「くそっ……!」

 棚のネジを締める手が、僅かに緩んだ。

 飯田は、さらにタレと玉ねぎを投入した。タレが熱いフライパンに触れた瞬間、「ジュッ」という威勢のいい音と共に、玉ねぎの甘さと、醤油、生姜の香りが、一気に蒸気となって立ち上る。

 二宮は、この多層的な高カロリーの誘惑が、もはや棚の組み立ても、もはや修行の一つだと理解する。目の前にある、彼にとって最高レベルの高カロリーの誘惑。彼は腹筋に力を入れ、この抗いがたい香りの暴力に耐えようとした。

 

3. 19:45 生姜焼き定食というご褒美



 二宮は、組み立てを終えた棚の横で、静かにプロテインを飲み始める。彼の理性の最後の砦だ。

 しかし、壁の向こうから飯田の声がする。

「ポチ、完成よ。お駄賃を受け取りにいらっしゃい」

 二宮は、一度大きく息を吐き、静かに立ち上がった。

(ポチ、か……。もう、どうでもいい。この身体が、最高の料理を求めている。この手伝いのおかげで、正当な報酬として受け取れるのだ)

 彼の心は、悔しさよりも「料理への期待」に傾倒していた。

 飯田の部屋に入ると、そこには湯気を立てた生姜焼き定食が並べられていた。

 皿の上には、テリとツヤのある濃い茶色の生姜焼き 。醤油と砂糖が煮詰まって、肉に絡みつき、一切れ食べるだけでご飯が進む最高のビジュアルだ。肉の下には、玉ねぎがシャキシャキ感を残して敷かれている。

 付け合わせは、千切りのキャベツの山。そして、土鍋で炊いたふっくらしたご飯と、豆腐とわかめの味噌汁だ。

 飯田は、満足そうに腕を組み、二宮を見つめた。

「どう? 完璧でしょう? この生姜は、新鮮な生姜をたっぷり使って、疲労回復よ。キャベツのビタミンも摂れるわ。ポチ、もしかして、呼ばれ慣れて照れてる?」

 二宮は、その挑発に一瞬カッとなったが、生姜焼きの湯気と香りに思考を中断された。

 飯田は、カロリーと栄養の両方で、彼を完全に手玉に取ろうとしている。

 二宮は、目の前の定食を見て、理性を完全に手放した。もはや「一口だけ」などと言えるレベルではない。

「……いただきます」

 彼は、椅子に座るやいなや、生姜焼きを一口。

 濃い甘辛いタレと、ピリッとした生姜の風味。豚肉の旨味が口いっぱいに広がり、そのタレをご飯に絡めて掻き込む。

「う、うまい……!」

 その瞬間、彼の頭の中の「高カロリー警報」は鳴り止んだ。役者としてのストイックな生活の中で、彼は「家庭の味」に飢えていたのだ。

 飯田は、満足そうに微笑みながら、彼の姿を見た。

「ふふ。ポチ、よく食べたわね。お駄賃って、最高のモチベーションになるでしょう?」
「は、はい!!」
「でしょー!?」

 飯田は、さらにもう一歩踏み込み、挑戦的な笑みを浮かべた。その表情は、彼女が先ほど「ポチ」と呼んだ時よりもずっと無邪気で、それだけに二宮の心臓を強く打った。

 二宮は、顔を赤くしながら、味噌汁を勢いよく飲み干した。彼はもう抗議しなかった。飯田の「ご褒美」が、彼の人生に必要なエネルギー源であることを、彼の体が知ってしまったからだ。

「次は、何を組み立てましょうか、飯田さん」

 彼は、もはや「お駄賃」という名の「ご褒美」を、自ら求めるようになっていた。
 忠犬(ポチ)の生活が、こうして本格的に始まったのだ。




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 1. 19:00 組み立ての音と依頼(飯田 菜々子・27歳)
 木曜の夕方。飯田菜々子は、在宅勤務の作業スペースを拡大するため、大きなIKEAの棚を注文した。帰宅した彼女の部屋の前には、長さ1.5メートルはある薄い段ボール箱が立てかけられている。
「はぁ……! これは自力で組み立てるには腰がもたないな……」
 飯田は、過去に二宮颯太に重い段ボールを運んでもらった経験から、彼が「世話焼きの気質」と「家庭の味への飢え」を持っていることを知っていた。彼女は部屋に入る前に、あえて大げさにため息をつき、段ボールをズルズルと引きずって、組み立ての工具(六角レンチ)をガチャガチャと鳴らした。
 その音は、もちろん壁を隔てた隣の部屋に響く。
 二宮は、自室で台本のセリフをチェックしていたが、集中力が散漫になる。聞こえてくるのは、慣れない女性が大型家具の組み立てに悪戦苦闘する、情けない音だ。
「何やってるんですか、飯田さん。うるさいですよ」
 二宮は苛立ちを隠せないまま、ドアを開け、飯田の部屋の前に立つ。
 飯田は工具を床に放り投げ、疲れた顔を装って二宮を見上げた。
「あら、二宮くん。ごめんなさいね。仕事で使う棚なんだけど、どうにも組み立てが難しくて。このままじゃ今夜の作業ができないわ」
 二宮は、その箱の薄さと大きさに、組み立ての面倒臭さを察した。彼の理性が「関わるな」と警報を鳴らす。しかし、飯田の疲弊した顔は、彼の中の「困っている人を放っておけない」という本能を刺激した。
 そして、何よりも。
(これは……お駄賃が発生する流れだ)
 彼は、前回のお駄賃(肉じゃが)で、飯田からの報酬が、彼の飢えを満たす唯一の「家庭の味」であることを知っていた。彼の頭の中には、すでに湯気を立てた温かい料理の幻影が微かに漂っているような気がしていた。
「……どれくらいで終わりますか」
 二宮は低い声で尋ねた。
 飯田は、勝利の笑みを隠すように、優しく微笑んだ。その涼しげな目元が、一瞬だけいたずらっぽく細められるのを、二宮は見逃さなかった。
「ありがとう、ポチ。30分もあれば終わるでしょう? その代わり、最高のご褒美を用意するわ」
 二宮は一瞬、顔を硬直させた。
「ポチはやめてください!」
 その強い抗議に、飯田は「あら」と少し驚いたふりをする。
「あら、ごめんなさい。でも、頼りになる忠犬、でしょ?」
 飯田は、なおも二宮をからかい、その無防備な笑顔に、二宮はドギマギしながらも、反射的に棚の段ボールを掴んだ。
 2. 19:30 忠犬の働きと飯テロの準備(二宮 颯太・25歳)
 二宮は、プロテインシェイカーを飯田の部屋の隅に置き、黙々と組み立て作業に取り掛かった。
 役者を目指す二宮の体は、ただ大きいだけでなく、動作が滑らかで無駄がない。彼の手にかかると、説明書を見ても苦戦していた飯田が嘘のように、六角レンチがリズミカルに動き出す。
 カチッ、カチッ、スッ……
 正確で、美しい動き。飯田は、そんな彼のストイックな集中力と、頼りになる背中を静かに見つめていた。
「すごいわね、二宮くん。あっという間だわ」
「慣れているだけです。早く終わらせて、筋トレに戻りたいので」
 二宮が最後のネジを締め終えた頃、飯田はキッチンに立っていた。彼女の顔には、棚が完成したことへの満足感と、これから始まる料理への高揚感が混じっていた。
 飯田は、豚ロース肉の塊を丁寧に筋切りし、玉ねぎのスライスと、たっぷりのすりおろし生姜を用意する。
 そして、飯田がフライパンを火にかける。
 ジュワアアアア……!
 まず、熱したフライパンに油をならす軽い摩擦音が響いた後、豚肉が触れた瞬間、壁を越えてくるのは、「生姜と醤油の、甘辛く、肉々しい香り」だ。
 二宮は、精密な作業の最中にもかかわらず、無意識に鼻をヒクつかせた。
 フライパンの上で豚ロース肉が焼かれ、脂が熱で溶け出し、ジュウジュウと音を立てる。
「くそっ……!」
 棚のネジを締める手が、僅かに緩んだ。
 飯田は、さらにタレと玉ねぎを投入した。タレが熱いフライパンに触れた瞬間、「ジュッ」という威勢のいい音と共に、玉ねぎの甘さと、醤油、生姜の香りが、一気に蒸気となって立ち上る。
 二宮は、この多層的な高カロリーの誘惑が、もはや棚の組み立ても、もはや修行の一つだと理解する。目の前にある、彼にとって最高レベルの高カロリーの誘惑。彼は腹筋に力を入れ、この抗いがたい香りの暴力に耐えようとした。
3. 19:45 生姜焼き定食というご褒美
 二宮は、組み立てを終えた棚の横で、静かにプロテインを飲み始める。彼の理性の最後の砦だ。
 しかし、壁の向こうから飯田の声がする。
「ポチ、完成よ。お駄賃を受け取りにいらっしゃい」
 二宮は、一度大きく息を吐き、静かに立ち上がった。
(ポチ、か……。もう、どうでもいい。この身体が、最高の料理を求めている。この手伝いのおかげで、正当な報酬として受け取れるのだ)
 彼の心は、悔しさよりも「料理への期待」に傾倒していた。
 飯田の部屋に入ると、そこには湯気を立てた生姜焼き定食が並べられていた。
 皿の上には、テリとツヤのある濃い茶色の生姜焼き 。醤油と砂糖が煮詰まって、肉に絡みつき、一切れ食べるだけでご飯が進む最高のビジュアルだ。肉の下には、玉ねぎがシャキシャキ感を残して敷かれている。
 付け合わせは、千切りのキャベツの山。そして、土鍋で炊いたふっくらしたご飯と、豆腐とわかめの味噌汁だ。
 飯田は、満足そうに腕を組み、二宮を見つめた。
「どう? 完璧でしょう? この生姜は、新鮮な生姜をたっぷり使って、疲労回復よ。キャベツのビタミンも摂れるわ。ポチ、もしかして、呼ばれ慣れて照れてる?」
 二宮は、その挑発に一瞬カッとなったが、生姜焼きの湯気と香りに思考を中断された。
 飯田は、カロリーと栄養の両方で、彼を完全に手玉に取ろうとしている。
 二宮は、目の前の定食を見て、理性を完全に手放した。もはや「一口だけ」などと言えるレベルではない。
「……いただきます」
 彼は、椅子に座るやいなや、生姜焼きを一口。
 濃い甘辛いタレと、ピリッとした生姜の風味。豚肉の旨味が口いっぱいに広がり、そのタレをご飯に絡めて掻き込む。
「う、うまい……!」
 その瞬間、彼の頭の中の「高カロリー警報」は鳴り止んだ。役者としてのストイックな生活の中で、彼は「家庭の味」に飢えていたのだ。
 飯田は、満足そうに微笑みながら、彼の姿を見た。
「ふふ。ポチ、よく食べたわね。お駄賃って、最高のモチベーションになるでしょう?」
「は、はい!!」
「でしょー!?」
 飯田は、さらにもう一歩踏み込み、挑戦的な笑みを浮かべた。その表情は、彼女が先ほど「ポチ」と呼んだ時よりもずっと無邪気で、それだけに二宮の心臓を強く打った。
 二宮は、顔を赤くしながら、味噌汁を勢いよく飲み干した。彼はもう抗議しなかった。飯田の「ご褒美」が、彼の人生に必要なエネルギー源であることを、彼の体が知ってしまったからだ。
「次は、何を組み立てましょうか、飯田さん」
 彼は、もはや「お駄賃」という名の「ご褒美」を、自ら求めるようになっていた。
 忠犬(ポチ)の生活が、こうして本格的に始まったのだ。