1. 22:00 猛暑と限界(二宮 颯太・25歳)
季節は真夏。暦は8月に入ろうとしていた。
二宮颯太は、この猛暑の中で連日屋外の稽古が続いており、体は鍛えられていても、内臓が熱を帯びて食欲を失っていた。シャワーを浴びた後も汗が引かず、彼は部屋の隅で、もはやプロテインを飲む気力すら失っていた。
(いけない。これでは体力が落ちる。だが……固形物が喉を通らない)
彼の部屋は、ストイックさゆえか、冷房の設定温度も低めに保たれていたが、心身の疲労は冷気では癒やされなかった。彼はただ、冷たい水だけを飲んでいた。
その時、壁の向こうから、飯田の涼しげな声が聞こえた。どうやらWeb会議を終えたところらしい。
「ふう。やっぱり、夏は冷たいものに限るわね」
二宮は耳を塞ぎたくなった。この時期、飯田が作るものは、彼のストイックな食生活を徹底的に破壊する、「夏バテ撃退」をテーマにした背徳の料理と相場が決まっているからだ。
2. 22:30 冷たい酸味の襲来
案の定、飯田の換気扇から微かな香りが流れ込んできた。
今日の香りは、揚げ物や煮込み料理のような熱による濃厚さはない。代わりに、ツンと鼻を刺激する冷たい酸味が、二宮の嗅覚を鮮やかに叩き起こした。
醤油、酢、ごま油、そしてほんのわずかな生姜。
冷やし中華のタレの香りだ。
二宮は、猛暑で失っていた食欲が、その冷たい酸味によって蘇るのを感じ、思わず立ち上がった。
「くそ……! なんだ、この香り。脳が覚醒する」
飯田は、丁寧に準備を進めていた。
鶏肉は茹でてから細かく裂き、キュウリと錦糸卵と共に美しく盛り付ける。麺を冷水で締め、氷の上に載せる。その全てが、二宮の飢えた本能を直接刺激する、視覚と嗅覚のテロだった。
チャッ、チャッ、チャッ!
飯田が包丁でキュウリを細切りにする、リズムの良い音が響く。
飯田は、二宮がこの音に誘われることを知っていた。この数ヶ月で、二宮が壁を隔てた飯テロに屈して「お駄賃」を要求するまで、二人の間には「音と香りによる儀式」が確立されていたのだ。
3. 23:00 冷やし中華は看病飯
二宮は、もはや我慢できなかった。彼はすぐに部屋着の上にTシャツを羽織り、飯田の部屋のドアの前へ。
ノックをすると、飯田が少し驚いたような表情でドアを開けた。
「あら、二宮くん。どうしたの、こんな時間に。顔色が悪いわよ」
「飯田さん……あの、その……」
二宮は、喉が渇ききっていて、うまく言葉が出なかった。しかし、冷やし中華のタレの香りが、彼の理性を凌駕し、口から出た言葉はただ一つ。
「今日の……冷たい……ご褒美を、分けてもらえませんか」
飯田は、彼の憔悴ぶりと、その直球な懇願を見て、笑いをこらえきれないといった表情になる。
「ポチったら、夏バテで弱ってるのね。もちろんよ。絶対に来ると思って二人分作ってるわ。しかも、見て」
飯田は、二宮の部屋へトレイを持っていく。トレイの上には、色鮮やかな冷やし中華と、小さな冷たい鶏出汁スープが乗っていた。
「錦糸卵、多めにしてあるわよ。あなたの好物でしょう?」
二宮は、その言葉に思わず息を飲んだ。いつ、そんな個人的な情報まで握られたのか。彼の無防備な食欲に対する飯田の洞察力は、もはや恐怖だった。
二宮の殺風景な部屋で、二人の夜食が始まる。
「タレは、醤油、ゴマ味噌、あと自家製のXO醤入りピリ辛ソース、どれにする? 醤油は甘口と酸味強めの二種類あるわよ」
飯田は、選択肢を並べ立てた。二宮は、視線を自家製のXO醤入りピリ辛ソースに釘付けにした。
「……えっと、XO醤? それ、なんですか。油っぽい、ジャンクな調味料、ですか?」
二宮のストイックさが、本能的にカロリーの元を排除しようと抵抗する。
飯田は、そんな彼の質問に、優越感に満ちた微笑みを浮かべた。
「ふふ。ポチは知らないのね。これはね、干し貝柱や金華ハムを使った最高級の旨みよ。カロリーは少し増えるけど、これなしじゃ、私の冷やし中華は完成しないの」
「最高級の……旨み……」
二宮は、理性と本能の板挟みになりながら、反射的に答えた。
「……しょ、醤油の、酸味強めでお願いします。一番、高タンパク低カロリーに近いですから」
飯田は、フッと鼻で笑った。二宮のストイックな選び方に、面白さを覚えたのだ。
「ふふ。わかったわ。でもね、ポチ。疲れている時は、ちょっと甘やかしてあげないとね」
飯田は、トレイから醤油だれの小皿を取り上げ、ごく少量、自家製XO醤を忍ばせる。
「はい、どうぞ」
「……あ、ありがとうございます」
二宮は、飯田のその行動が、自分の選んだタレをさらに美味しくする「ひと工夫」であることを察した。彼の理性を尊重しつつ、最大限の喜びを与えるその姿勢に、二宮は強い信頼感を覚えた。
「ほら、食べて。この鶏むね肉は高タンパクよ。麺を冷水でしっかり締めたから、ツルツル入るわ」
二宮が差し出された冷やし中華は、タレが別添えになっており、二宮はそれを麺の上から静かに回しかける。
冷たいタレが、氷のように締まった麺にゆっくりと吸い込まれていく。
二宮は、箸を取り、まず一口。
ツルツルと喉を滑り落ちる麺。そこに絡みつく、醤油と酢の強烈な酸味。しかし、その奥には、微かにXO醤の芳醇な旨みとコクが潜んでいる。
「っ……!」
その瞬間に、夏バテで塞がれていた胃袋が、グッと開くのを感じた。
「最高級のタンパク質と、最高級の背徳感ね。どう、ポチ?」
飯田は、いたずらっぽく微笑む。
「……飯田さん」
二宮は、冷やし中華を貪りながら、顔を赤くして飯田を見つめる。
「これは、ご褒美なんかじゃありません。これは……麻薬です」
冷たい酸味と、鶏むね肉の旨み。そして何よりも、この料理が自分だけに用意されていたという優しさが、二宮の心を完全に掌握する。
飯田は、その言葉を聞いて、大げさに肩をすくめた。しかし、彼女の瞳の奥には、二宮の無防備な食欲に対する、満足と、少しの切なさが浮かんでいた。
(頑張ってXO醤を自作した甲斐があったわ。彼の無防備な笑顔が見たかっただけなのに、なんでこんなに……)
彼女の胸の奥には、彼がこの料理を必要としている「孤独」を自分が埋めているという満足感と、この関係がいつか終わってしまうかもしれないという切なさが同居していた。
この夏、二宮は稽古で疲れ果て、飯田は在宅勤務のストレスに苛まれる。そんな二人の「孤独な生活」は、冷たい麺を食べる音と、甘酸っぱいタレの香りで、静かに慰められていった。