1. 02:45 深夜の贅沢(飯田 菜々子・27歳)
金曜、ではなく、土曜の深夜。飯田菜々子は出社日で、クライアントとのミーティングや資料作成が続き、帰宅したのは午前3時を回る直前だった。体は鉛のように重く、疲労困憊だ。
「今日はもう、本当に動けない……でも、この疲労を癒やすのは、コンビニ飯じゃない」
マンションのすぐ近くにあるコンビニに立ち寄った。目的は一つ。冷蔵ケースの奥にある、一パック二千円近くする、木箱入りの高級卵だ。
レジにいたのは、隣人の二宮颯太だった。彼は、Tシャツとエプロン姿。深夜バイト特有の疲労の色は見せず、ストイックなまでに無表情だ。
飯田は、レジに卵を置くと、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「こんな時間に、こんなものを買ってごめんなさいね。私のご褒美なの」
二宮は、その高級卵を見て、一瞬、瞳の奥が揺れた。この卵は、彼のバイト代の時給数時間分に相当する。この背徳的な消費行為に、彼のストイックな心はざわつく。
飯田はそんな二宮の反応を面白がるように、追撃した。
「ふふ。最高の卵かけご飯、そうTKGにするの。土鍋で炊いたご飯と、この卵と、ちょっと炙ったおにぎりがあれば、すべてが報われるのよ」
「……」
二宮は黙ってバーコードを読み取る。高級卵に続き、飯田がレジに置いたのは、削りたての鰹節パックだった。
(鰹節まで……! 鰹節と炙り醤油で、香りを重ねるつもりか……!)
二宮の脳内は警報が鳴り響く。彼は、飯田がこれから自室で繰り広げる「飯テロ」の全貌を、バイト先で知ってしまったのだ。
「あの……」
二宮は、反射的に声を出しそうになったが、寸前で飲み込んだ。
飯田は、支払い終えた袋を手に、颯太に向かって優雅に手を振った。
「じゃあ、またね、二宮くん。バイト、頑張って。美味しいものが食べられるように、祈っているわ」
それは、祈りではなく、極上の宣戦布告だった。
2. 03:00 ドアノブを握る手(二宮 颯太・25歳)
二宮颯太は、自宅から数ブロック離れたコンビニでの深夜バイトの休憩時間を利用し、一時的にマンションに戻っていた。
彼らが住むのは、築40年ほどの小規模なマンションだ。エレベーターはついているが、壁の薄さは致命的。都心では破格の安さだったが、飯田の料理の音と香りが筒抜けになるという代償を払っている。
朝まで続くバイトのために、体力回復と精神統一を図ろうと、彼はベッドに横たわっていた。
「寝るな。筋トレメニューの確認をしろ」
自分に言い聞かせるが、体は正直だ。深夜の極度の疲労が襲い、その抵抗力は著しく低下していた。
その時、壁の向こうから、恐ろしいほどの芳醇な香りが流れ込んできた。
まずは、土鍋ご飯の再加熱の湯気と、焼きおにぎりの「炙り醤油の香ばしさ」。それは、彼の理性の壁を焼くように侵入してくる。
「くそっ、今度はご飯……! 炭水化物は……!しかも土鍋の匂いなんて……」
そして、トドメは、卵の濃厚な香りだった。高級卵特有の、生臭さを完全に凌駕する、まろやかでクリーミーな匂い。さらに、飯田が焼きおにぎりに醤油を塗り、その上から削りたての鰹節をふわりと乗せた瞬間だった。
ジュウッ……
鰹節に熱が伝わり、醤油と混ざり合う。磯の風味と焦げた醤油の香ばしさが、換気扇と壁の隙間から二宮の部屋に直撃した。
(まさか……あの時の卵か? あの二千円の卵を、鰹節まで使ってTKGに……! 究極すぎる……!)
彼はベッドから飛び起き、ただ理性を保つために、自室のドアノブをギュッと握りしめた。ドアノブは冷たかったが、彼の心臓は熱かった。
「やめてください……この時間に、米と卵と鰹節なんて……最高の誘惑だ」
3. 03:10 至福の咀嚼音と弄び
飯田は、完璧なTKGを完成させた。土鍋ご飯の上に、コンビニで買った高級卵の黄身を割り入れ、数滴の出汁醤油を垂らす。黄身は瑞々しく、箸で掴めるほどの弾力で、濃厚なオレンジ色を放っていた。
そして、炙り醤油の香る焼きおにぎりにかぶりつく。
彼女は音を立てて掻き込む。
まず、TKGを一口。
クチャ、クチャ……。はふっ、ふはあ……
そして、焼きおにぎりを大胆に食べる。
「カリッ!」「パリッ!」という、香ばしい海苔と醤油の音。噛みしめるたびに、鰹節の濃厚な風味が弾け、米の甘みと混ざり合う。飯田は、至福のあまり目を細め、小さく頷く。その顔は、仕事の疲労から完全に解放され、幸せに満ちていた。
二宮は、ドアノブを握りしめたまま、その「幸福な咀嚼音」を壁越しに聞かされた。それは、彼が今まで聞いたどの飯テロの音よりも、残酷な音だった。
(あの音は、満たされている音だ。そして、あの鰹節と醤油が混ざった究極の香りが……僕の役者としての理性を、一秒ごとに削っている!)
二宮の瞳は潤み、理性は崩壊寸前だった。彼はノックしようとした。しかし、その時、飯田の微かな声が聞こえた。
「ふふ、どう? ポチ。最高の贅沢よ。死ぬ前に食べるとしたら、やっぱこれよね~。お米は正義よね! 間違いない!!」
飯田は、まるで彼が壁の向こうで聞いていることを知っているかのように、わざと静かに、しかし明確に彼を挑発した。
二宮は、ドアノブから手を離した。時刻は午前4時を目前としていた。彼は自分の理性が完全に弄ばれたことに気づき、自室の毛布の中へ逃げ込む。だが、胃の痛みと空腹感は朝まで続き、疲労と空腹でかえって疲弊した。
「こんなに理性を崩される相手は初めてだ……この人は、僕にとって、最高の脅威だ」
彼の胃の痛みと空腹感こそが、飯田の魔性の料理と、彼女の存在を忘れられない、強烈な刷り込みとなった。
4. 08:30 始発前の差し入れ
朝の8時半。深夜バイトを終えた二宮颯太が、始発が動き出す時間帯に帰宅した。彼の目には寝不足と疲労の色が濃い。
マンションのエレベーターを降り、自分の部屋に向かうと、ドアノブに小さな袋が掛けられているのに気づいた。
そこには飯田菜々子からの、走り書きのメッセージが添えられていた。
『ごめんね、ポチ。寝不足の忠犬にはご褒美が必要よ。これはカロリー低めよ。ちゃんと食べて、ゆっくり休むの。― 飯田』
袋の中には、温かいチキンスープの入った小さな魔法瓶と、全粒粉のサンドイッチが入っていた。チキンスープからは、鶏ガラの優しい香りが微かに漏れていた。
二宮は、その温かい差し入れと、皮肉めいた飯田の優しさに、思わず立ち尽くした。
(こんなことをするなら、昨夜、一口分けてくれればいいのに……!)
彼は理不尽さに抗議の声を上げそうになったが、疲労困憊の体は、そのスープの温かさと飯田の気遣いを拒否できなかった。
「……最悪だ」
そう呟きながらも、二宮はそっと、差し入れのスープを抱きしめた。