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第4話:ラードの誘惑と、ネギ塩の気遣い(野菜炒め)

ー/ー



 1. 01:30 背徳の調理音(飯田 菜々子・27歳)


 金曜の深夜。飯田は、Webデザインのクライアントからのフィードバックに四苦八苦し、時計の針が一時半を指す頃、ようやく作業を終えた。

「あー、もう、疲れた。今日はもう野菜をひたすら摂って、早く寝るに限るわ」

 飯田が住む築40年ほどの小規模なマンションは、都心では信じられないほど家賃が安いが、エレベーターがある割に防音性は皆無に等しい、築年数の古い鉄骨造だ。彼女はその壁の薄さを知っているからこそ、換気扇を最大にし、さらにキッチンの窓を数センチだけ開けている。しかし、これは単なる換気ではない。深夜の解放感と、「ご褒美」を隠し切れないという悪意にも似た愉悦だった。

 冷蔵庫を開けると、実家から届いたキャベツと人参が顔を出す。手軽さこそ正義だが、どうせなら満足感も欲しい。彼女の脳裏に浮かんだのは、ラードだった。

「カロリーは、ご褒美。ひと手間かける手間すら惜しい時は、背徳感をブーストさせるに限る」

 飯田は引き締まったウエストを撫でながら、開き直るように笑った。
 彼女はすぐに髪を手首でクイッと束ね直すと、野菜炒めの準備にかかった。
 深夜の静寂を破る、飯田の「背徳的な儀式」が始まる。

 まず、中華鍋を強火にかける。そして、躊躇なく一塊のラードを投入した。

 ジュワアアアア……ッ!

 ラードが一瞬で溶け、高温の油になった瞬間、飯田は豚バラ肉を一気に投入する。肉の脂がラードと混ざり合い、濃厚な香りが瞬く間に換気扇と、開けられた窓から近隣に拡散していく。



 2. 01:35 理性の壁を破る香り(二宮 颯太・25歳)



 深夜バイトから帰宅したばかりの二宮颯太は、シャワーを浴び、翌日の稽古に向けて台本を読み進めていた。体脂肪率は低く保ち、夕食はサラダチキンで済ませている。高カロリーな脂質は断固として避けている。

 彼の部屋は静寂に包まれていた。聞こえるのは、台本を読む自身の声と、時折壁の向こうから聞こえる飯田の微かな生活音だけだった。

 その時、その音が、壁を破った。

 シャキ! シャキシャキシャキッ!

 飯田が、火力を最大にした中華鍋に野菜を投入した音だ。野菜の水分が一瞬で飛び、醤油とオイスターソースが一気に焦げ付く芳ばしい匂い。それは、単なる調理の音ではない。ラードと豚肉の脂が醸し出す、罪の香りの波だった。

「くそ……今日はダメだ。脂と醤油の背徳感が強すぎる……!」

 二宮は、エレベーターがある割に壁が薄すぎるこのマンションの構造を呪った。彼の体が、栄養素を求めて飢餓状態にあることを知っている。

 しかし、飯田はさらに追い打ちをかける。

 シャア!ッ、シャア!ッ!

 鍋を振る飯田の力強い音。そして、熱されたネギの芳醇な香りが、換気扇を通して直接、二宮の脳を刺激した。

「やめてください……水餃子とは違う……これは、脂質のテロだ!」

 彼は呻いた。理性の壁が、ミシミシと音を立てて崩壊していく。彼の胃は、「今すぐその熱いものを!」と絶叫していた。



 3. 01:40 皿を持って駆け込む忠犬



 二宮は、ついに理性を保てなくなった。彼の忠犬としての本能が、彼を突き動かした。

 彼は、自宅で普段ササミを乗せている、アルミ製の小さな皿を手に取り、飯田の部屋へと駆け込んだ。

 コンコン。

 彼のノックは、いつになく荒々しく、切実なものだった。

 ドアが開くと、飯田は涼しげな目元で彼を見下ろした。彼女の顔には、汗一つかいていない。まるでプロのシェフのように、髪はきっちりまとまり、満足げに微笑んでいる。

「あら、ポチじゃない。今度は何の貢ぎ物? それとも、勝手に盛り付けろって?」

 飯田は面白そうに尋ねた。

 二宮は息を切らし、絞り出すような声で懇願した。

「い、飯田さん。あの……一口。一口だけで結構です。この……この香りに、僕はもう……!」

 彼は皿を差し出し、情けないほどに瞳をうるませた。

 飯田は、そんな彼の様子を観察し、ふと彼の皿に目を留めた。彼の皿は、いつもサラダチキンやササミが乗っているのを知っている。

 飯田は悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「一口だけ、ね。いいわよ。でも、全部野菜炒めじゃ芸がないでしょ」

 飯田はシャキシャキの野菜炒めを彼の皿に少量乗せると、キッチンを漁り、別の小皿に「鶏むね肉のネギ塩冷製」を盛り付けた。彼が普段食べているササミに、ごま油、ネギ、鶏ガラスープの素を和えたシンプルな一品。

「こっちは、あんたがいつも食べてるササミよ。ネギ塩で香りだけはご褒美にしてあげたわ。野菜炒めを食べたら、これで口直ししなさい」



 4. 01:50 世話焼きの優しさ



 二宮は、差し出された二つの皿を見て、驚きを隠せなかった。

「え……飯田さん、僕が普段ササミばかり食べていることを、知っていたんですか?」

「そりゃ、あれだけストイックな生活音が響いていればね。ポチの体調管理はご主人様の責任よ」

 飯田はそう言って、彼をからかう。しかし、彼の食生活を理解し、その上で「カロリーを抑えながらも、最大限の満足感」を与えようとするその行為に、二宮の心の壁は完全に崩れた。

 彼はまず、野菜炒めを口に入れた。ラードのコクと醤油の香りが、彼の舌を一気に支配する。

「う、美味い……!」

 高カロリーへの罪悪感よりも、圧倒的な満足感が彼を包んだ。彼は野菜のシャキシャキとした心地よい歯応えに夢中になった。

 そして、飯田から渡されたネギ塩冷製を食べる。ササミでありながら、ネギ油とごま油の芳醇な香りが、彼に究極の安らぎを与えた。

 二宮は、ネギ塩冷製を一口食べた後、静かに目を閉じて、その安らぎを噛み締めた。その様子を見て、飯田はさらに追い打ちをかける。

「どう? カロリー敵(かたき)のはずなのに、そんな顔して。まさか、私に飼い慣らされちゃった?」

 飯田は意地悪な笑みを浮かべた。

 二宮はハッと目を開け、ネギ塩冷製の小皿をギュッと握りしめた。

「そ、そんなことは……! これは、た、体調管理のためです。栄養摂取の、一環……!」

「はいはい、わかったわかった。じゃあ、これで、また明日も頑張れるでしょ、ポチ」

「……はい、飯田さん」

 二宮は情けない自分に悔しさを覚えるが、飯田の料理の引力と、その優しさは、抗いがたかった。彼は彼女の料理の前では、ストイックである意味がないことに気づき始める。




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 1. 01:30 背徳の調理音(飯田 菜々子・27歳)
 金曜の深夜。飯田は、Webデザインのクライアントからのフィードバックに四苦八苦し、時計の針が一時半を指す頃、ようやく作業を終えた。
「あー、もう、疲れた。今日はもう野菜をひたすら摂って、早く寝るに限るわ」
 飯田が住む築40年ほどの小規模なマンションは、都心では信じられないほど家賃が安いが、エレベーターがある割に防音性は皆無に等しい、築年数の古い鉄骨造だ。彼女はその壁の薄さを知っているからこそ、換気扇を最大にし、さらにキッチンの窓を数センチだけ開けている。しかし、これは単なる換気ではない。深夜の解放感と、「ご褒美」を隠し切れないという悪意にも似た愉悦だった。
 冷蔵庫を開けると、実家から届いたキャベツと人参が顔を出す。手軽さこそ正義だが、どうせなら満足感も欲しい。彼女の脳裏に浮かんだのは、ラードだった。
「カロリーは、ご褒美。ひと手間かける手間すら惜しい時は、背徳感をブーストさせるに限る」
 飯田は引き締まったウエストを撫でながら、開き直るように笑った。
 彼女はすぐに髪を手首でクイッと束ね直すと、野菜炒めの準備にかかった。
 深夜の静寂を破る、飯田の「背徳的な儀式」が始まる。
 まず、中華鍋を強火にかける。そして、躊躇なく一塊のラードを投入した。
 ジュワアアアア……ッ!
 ラードが一瞬で溶け、高温の油になった瞬間、飯田は豚バラ肉を一気に投入する。肉の脂がラードと混ざり合い、濃厚な香りが瞬く間に換気扇と、開けられた窓から近隣に拡散していく。
 2. 01:35 理性の壁を破る香り(二宮 颯太・25歳)
 深夜バイトから帰宅したばかりの二宮颯太は、シャワーを浴び、翌日の稽古に向けて台本を読み進めていた。体脂肪率は低く保ち、夕食はサラダチキンで済ませている。高カロリーな脂質は断固として避けている。
 彼の部屋は静寂に包まれていた。聞こえるのは、台本を読む自身の声と、時折壁の向こうから聞こえる飯田の微かな生活音だけだった。
 その時、その音が、壁を破った。
 シャキ! シャキシャキシャキッ!
 飯田が、火力を最大にした中華鍋に野菜を投入した音だ。野菜の水分が一瞬で飛び、醤油とオイスターソースが一気に焦げ付く芳ばしい匂い。それは、単なる調理の音ではない。ラードと豚肉の脂が醸し出す、罪の香りの波だった。
「くそ……今日はダメだ。脂と醤油の背徳感が強すぎる……!」
 二宮は、エレベーターがある割に壁が薄すぎるこのマンションの構造を呪った。彼の体が、栄養素を求めて飢餓状態にあることを知っている。
 しかし、飯田はさらに追い打ちをかける。
 シャア!ッ、シャア!ッ!
 鍋を振る飯田の力強い音。そして、熱されたネギの芳醇な香りが、換気扇を通して直接、二宮の脳を刺激した。
「やめてください……水餃子とは違う……これは、脂質のテロだ!」
 彼は呻いた。理性の壁が、ミシミシと音を立てて崩壊していく。彼の胃は、「今すぐその熱いものを!」と絶叫していた。
 3. 01:40 皿を持って駆け込む忠犬
 二宮は、ついに理性を保てなくなった。彼の忠犬としての本能が、彼を突き動かした。
 彼は、自宅で普段ササミを乗せている、アルミ製の小さな皿を手に取り、飯田の部屋へと駆け込んだ。
 コンコン。
 彼のノックは、いつになく荒々しく、切実なものだった。
 ドアが開くと、飯田は涼しげな目元で彼を見下ろした。彼女の顔には、汗一つかいていない。まるでプロのシェフのように、髪はきっちりまとまり、満足げに微笑んでいる。
「あら、ポチじゃない。今度は何の貢ぎ物? それとも、勝手に盛り付けろって?」
 飯田は面白そうに尋ねた。
 二宮は息を切らし、絞り出すような声で懇願した。
「い、飯田さん。あの……一口。一口だけで結構です。この……この香りに、僕はもう……!」
 彼は皿を差し出し、情けないほどに瞳をうるませた。
 飯田は、そんな彼の様子を観察し、ふと彼の皿に目を留めた。彼の皿は、いつもサラダチキンやササミが乗っているのを知っている。
 飯田は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「一口だけ、ね。いいわよ。でも、全部野菜炒めじゃ芸がないでしょ」
 飯田はシャキシャキの野菜炒めを彼の皿に少量乗せると、キッチンを漁り、別の小皿に「鶏むね肉のネギ塩冷製」を盛り付けた。彼が普段食べているササミに、ごま油、ネギ、鶏ガラスープの素を和えたシンプルな一品。
「こっちは、あんたがいつも食べてるササミよ。ネギ塩で香りだけはご褒美にしてあげたわ。野菜炒めを食べたら、これで口直ししなさい」
 4. 01:50 世話焼きの優しさ
 二宮は、差し出された二つの皿を見て、驚きを隠せなかった。
「え……飯田さん、僕が普段ササミばかり食べていることを、知っていたんですか?」
「そりゃ、あれだけストイックな生活音が響いていればね。ポチの体調管理はご主人様の責任よ」
 飯田はそう言って、彼をからかう。しかし、彼の食生活を理解し、その上で「カロリーを抑えながらも、最大限の満足感」を与えようとするその行為に、二宮の心の壁は完全に崩れた。
 彼はまず、野菜炒めを口に入れた。ラードのコクと醤油の香りが、彼の舌を一気に支配する。
「う、美味い……!」
 高カロリーへの罪悪感よりも、圧倒的な満足感が彼を包んだ。彼は野菜のシャキシャキとした心地よい歯応えに夢中になった。
 そして、飯田から渡されたネギ塩冷製を食べる。ササミでありながら、ネギ油とごま油の芳醇な香りが、彼に究極の安らぎを与えた。
 二宮は、ネギ塩冷製を一口食べた後、静かに目を閉じて、その安らぎを噛み締めた。その様子を見て、飯田はさらに追い打ちをかける。
「どう? カロリー敵(かたき)のはずなのに、そんな顔して。まさか、私に飼い慣らされちゃった?」
 飯田は意地悪な笑みを浮かべた。
 二宮はハッと目を開け、ネギ塩冷製の小皿をギュッと握りしめた。
「そ、そんなことは……! これは、た、体調管理のためです。栄養摂取の、一環……!」
「はいはい、わかったわかった。じゃあ、これで、また明日も頑張れるでしょ、ポチ」
「……はい、飯田さん」
 二宮は情けない自分に悔しさを覚えるが、飯田の料理の引力と、その優しさは、抗いがたかった。彼は彼女の料理の前では、ストイックである意味がないことに気づき始める。