1. 20:00 巨大な誘惑(飯田 菜々子・27歳)
金曜の夜。飯田菜々子は、帰宅するなり、築40年ほどの小規模なマンションの玄関フロアで立ち往生した。
目の前には、彼女の実家である地方の農家から送られてきた、腰の高さほどもある巨大な段ボール箱。飯田は在宅勤務の日は作業に集中したいため、受け取り対応が不要な「置き配」を常時設定していた。誰にも動かされていない状態で鎮座している。側面には、マジックで力強く『じゃがいも、かぼちゃ、土つき!』と書かれている。
「はぁ……もう、お母さんったら。こんなに大きな箱を……」
中には土の匂いを纏った新鮮な根菜がぎっしり詰まっている。その重さは、Webデザイナーの彼女が一人で持ち運べるレベルを遥かに超えていた。マンションのエレベーターから自分の部屋の前まで、どう運ぶか。彼女はスマホで運送業者を調べる気力すら失い、大きな箱にもたれかかった。
「今日はもう諦めて、ここで寝ようかな」
その時、エレベーターのドアが開き、トレーニングウェア姿の二宮颯太が姿を現した。彼は稽古を終えて帰宅したところだろう。鍛え上げられた体はまだ熱を持っているようだが、その表情はクールでストイックそのままだ。
二宮は、飯田と巨大な段ボールを一瞥した。一瞬、無関心を装おうとしたが、箱の側面に書かれた『じゃがいも』の文字、そして飯田が箱に凭れかかっている姿を見て、足を止める。
「……何か、お困りですか」
冷たく、事務的な声。しかし、その声には微かな「役者」としての抑揚がついており、どこか聞き取りやすい。
飯田は、この隣人が放つ「高タンパク低カロリー」な雰囲気が、いつも自分の「深夜の背徳感」と対極にあることを知っている。
彼女はわざとらしく大きなため息をついた。
「見ての通りよ、二宮くん。実家からの暴力的な愛よ。これが『最高の肉じゃが』になるのはわかっているんだけど、運ぶ労力に見合わないのよねぇ」
2. 20:15 肉じゃがという引力(二宮 颯太・25歳)
二宮颯太は、飯田のその一言で、全身の筋肉が強張るのを感じた。
「最高の肉じゃが」
彼が家族との関係が冷える前、唯一覚えている「家庭の味」の記憶。母が忙しい合間に、ため息交じりに作ってくれた、甘辛い醤油の香り。
彼は即座に「高カロリー、高炭水化物」という警告を頭の中で鳴らした。しかし、目の前の段ボールから微かに漏れる土の香りと、飯田の屈託のない、しかし少し困ったような涼しげな笑顔が、その警告音をかき消していく。
颯太はプロテインシェイカーを握りしめ、自分を律しようとした。
「それは……飯田さんのご事情でしょう。僕は、これから夜の稽古の準備があるので」
彼はそう言って去ろうとする。彼のストイックな理性の壁は、まだ健在だ。
飯田はそんな彼の様子を、まるで手玉に取るかのように観察していた。彼女は知っている。このストイックな子犬が、真に求めているものが何であるかを。
飯田は身を乗り出し、悪魔のように囁いた。
「そう。お稽古、頑張ってね。でもね、二宮くん」
彼女は箱をトントンと叩き、その響きを強調する。
「このじゃがいもは、最高の肉じゃがになるのよ。そして、私はこれを今夜、美味しく煮込む。」
そして、追い討ちをかけるように、飯田は続けた。
「この荷物を私の部屋まで運んでくれたら、最高級の肉じゃがを、お駄賃として分けてあげる。もちろん、ジャガイモは少なめにしてあげるから、カロリーの心配はいらないわよ」
3. 20:25 忠犬化の第一歩
「お駄賃」という言葉。それは、二宮が飯田に屈辱的な「交渉」をした前回の「水餃子」とは違う、正当な対価という響きを持っていた。
最高の肉じゃが。家庭の味。
二宮の脳内は、役者としての成功を目指す「理性」と、家庭の温かさに飢えた「本能」で激しく揺さぶられた。
彼は、飯田の「屈託のない笑顔」と、肉じゃがの「家庭の味」という抗いがたい引力に負けた。そして、この荷物運びは、壁越しに理性を崩されるだけの受動的な行為ではなく、飯田の役に立つという能動的な行為だという点も、彼の自尊心をわずかに満足させた。
「……わかりました」
観念したように、颯太はため息をついた。
「カロリーは、今日の筋力トレーニングで消費した分で相殺します。肉じゃがは……一口だけ、お願いします」
「はい、ポチ。よくできたわね」
飯田は満足げに微笑んだ。この瞬間、彼女の中で二宮颯太は、完全に「飢えた子犬(ポチ)」として位置づけられた。
「……ポチ、はやめてください」
颯太は低く、抗議の声を上げたが、それは微かに震えていた。
「ポチよ。だって、忠犬、でしょ?」
飯田は楽しそうに訂正し、彼に手を振った。
二宮は、分厚い段ボール箱を軽々と肩に担ぎ上げた。鍛えられた肉体が、飯田の「ご褒美」のために使われる。
4. 23:30 煮崩れ寸前の香り
数時間後、夜も深まった23時半。
二宮は自室で夜の稽古の台本を読み進めていたが、集中力は底を尽きかけていた。彼の頭の中は、先ほどの荷物運びの献身的な行為よりも、飯田の部屋から漂う香りで満たされていた。
飯田は、実家から届いたじゃがいもを一度素揚げし、大根や人参、そして糸こんにゃくといった具材を、肉は極々少量にして煮込み始めていた。
醤油と砂糖が煮詰まる、懐かしくも濃厚な甘辛い香りが換気扇を抜けて、二宮の部屋へ流れ込んでくる。
「くそっ……。この香りは、僕の心の防御壁を破る……」
彼は呻き、ついに我慢できずに自室のドアの前に体育座りをした。ドアに背を預け、香りの波動を全身で受け止める。
やがて、飯田の部屋のドアが開く音がした。
「二宮くん。体育座りなんて、情けないわよ。ほら、お駄賃」
飯田が差し出したのは、ホクホクとしたじゃがいもと、味がしっかり染み込んだ大根、人参、糸こんにゃく、そして極々少量の牛肉が乗った小皿。付け合わせには、実家から届いた野菜を使ったぬか漬けも添えられていた。
「このじゃがいもは煮崩れ寸前のホクホク感。そして、見て。大根や人参にも出汁の旨みが芯まで染み込んでいる。ぬか漬けの酸味で口直ししなさい」
颯太は皿を両手で受け取り、一口、じゃがいもを口に入れた。
その瞬間、故郷の味に涙ぐむほどの衝撃が走った。彼は肉の量に頼らない、純粋な家庭の味の深さに打ちのめされ、家族との冷えた関係を思い出し、その寂しさが、この温かい家庭の味によって一時的に埋められていくのを感じた。
飯田は、そんな彼の様子を静かに見つめ、優しく声をかけた。
「あなたの頑張りには、これくらいのご褒美が必要よ」
二宮は、もう反論できなかった。彼女の料理が、自分のストイックな鎧を脱がせ、心の中の「孤独」を慰めていることに気づいたからだ。
飯田の料理は、単なる飯テロではない。それは、彼にとって抗いがたい「愛情」の引力だった。
彼の忠犬化は、こうして完成した。