1. 01:00 餃子の音(飯田 菜々子・27歳)
金曜日の深夜1時。飯田菜々子の部屋には、アルコールではなく、別の種類の熱気が充満していた。
在宅勤務は楽ではない。特に今週はWebサイトの大型リニューアルの納期に追われ、精神的な疲労は前話の比ではない。午前0時を回っても、彼女のディスプレイにはまだ青い光が灯っている。
「ちくしょう、このデザイン、一発OK出ないの……なんでよ」
飯田はマウスから手を離し、立ち上がった。ストレスがマックスに達した時、彼女が求めるのは静かな癒やしではない。暴力的なまでの満足感、そして、手間暇をかけて無心になれる作業だ。
今夜のメニューは、焼き餃子(羽根つき)。
冷蔵庫から出したキャベツを、心なしか乱暴に刻む。ザク、ザク、ザク。そして、ニンニクとニラを刻む独特の刺激臭が、深夜の空気に溶け出す。
彼女は豚ひき肉をボウルに入れ、餡をこね始めた。この作業こそが、彼女のストレス発散の儀式だった。
ぺたぺた、ぺたぺた!
ボウルの底に餡を叩きつける音、ひき肉と野菜が粘り気を出すまで力の限り混ぜ込む音。飯田はデザイン修正の苛立ちをそのまま餡にぶつけ、無心でこね続けた。
餡の味付けには、隠し味の味噌とオイスターソースを多めに投入する。これこそが、背徳感の源だ。高カロリーと高塩分の暴力的な組み合わせが、彼女の疲れた脳を直接叩く。
飯田は満足げに、餡をひとすくいして口に含んだ。
「んん……今日はちょっと辛口。完璧!」
満足した表情で頷き、彼女は手首でクイッと髪をまとめ直し、作業を再開した。
2. 01:15 壁越しの地獄(二宮 颯太・25歳)
隣室で発せられるその「暴力的な音」は、二宮颯太を文字通り追い詰めていた。
ぺたぺた……ぺたぺた……
それはまるで、獲物の肉を捌き、魂を込めているかのような、執拗で粘りつくような音。
颯太は、高カロリーを避けるため、今夜は水煮のサラダチキンとブロッコリーを食べていた。パサついた鶏むね肉を無理矢理胃に押し込み、喉の奥を冷たい水で潤す。
しかし、壁の向こうから、ニンニクの刺激臭と、味噌・オイスターソースの濃厚な香りが、換気扇の隙間を縫って、彼の部屋に流れ込んできた。
前夜、彼は鍋の優しい味に敗北した。だが、今回の香りは違う。純粋な「背徳の香り」だ。
「ダメだ……。これは、僕の理想とする食生活の、最も醜悪な敵だ」
彼は目を閉じ、体をよじり、意識を呼吸に集中させようとするが、鼻腔がそれを許さない。
餡の濃厚な香りは、彼の脳内で餃子という具体的なイメージに変わり、パリパリの皮、溢れ出す肉汁、そしてラー油をたっぷりとつけた姿となって具現化する。
「ううう……高カロリー! 脂質! 炭水化物! 敵! 敵!」
彼は己の欲望を罵倒し、ベッドの角に頭を打ちつけて自分を律した。
飯田の餃子包みは早い。一枚、また一枚と皮に餡が収まっていく。その静かな作業に、颯太は一瞬安堵する。これでテロは終わる、と。
3. 01:30 パリッ、ジュワッ、そして懇願
土鍋からフライパンへと舞台が移った。
餃子を並べ、熱が通る。そして飯田は、焼き水に片栗粉を溶いたものをフライパンに注ぎ入れた。
ジュワアアアアアア……!
水の代わりに油を注ぎ込んだかのような、凶悪な蒸発音。そして、すぐに蓋がされた。この片栗粉入りの焼き水こそ、羽根つき餃子を作るための飯田の「ひと手間」だ。
颯太は、音の洪水の中で、自分の体に異常を感じた。腹筋が痙攣し、唾液腺が爆発的に稼働する。これは、もう空腹ではない。飢餓だ。
蓋が取られ、水分が飛び、高温で羽根が焼かれていく。焦げ付く直前の、最高の香りが部屋に充満する。そして、飯田は餃子を皿に移す。
カンッ! フライパンを叩く音。
そして、その直後。
「パリッ……!」
飯田が箸で羽根を割った、その乾いた、小気味よい音が、颯太の耳に鮮明に届いた。
パリッ、ジュワッ。 続いて、噛み締めた肉汁の音が響く。
その瞬間、颯太は壁に駆け寄った。前夜の「ドンッ!」ではない。今回は、交渉だ。
「あの……! 飯田さん! お願いします……!」
彼はドアに耳を押し付け、半泣きの切実な声で懇願した。
「水餃子……! 水餃子にしてはもらえませんか! 焼くと……焼くと理性が持ちません……! カロリーも……!」
4. 01:45 初めての笑顔と悔しさ
飯田は、パリパリの羽根つき餃子を頬張りながら、突然の懇願に動きを止めた。
「水餃子……?」
彼女は、壁越しに彼の必死な声を聴き、そして、ハッと気づいた。
彼は、自分の欲望と制約(カロリー)を理解しつつも、このテロをやめろとは言わず、形を変えてくれと頼んでいる。
飯田は、声を出して笑った。心の底から、腹の底から、笑みがこぼれたのは、いつぶりだろうか。
「ふふ……っ。何よ、水餃子って。情けないわね、二宮くん」
飯田は冷静を取り戻し、水餃子用の小鍋を用意した。
「わかったわ。餡が余ってるから、水餃子にしてあげる。可哀想な子犬の特別サービスよ」
数分後、颯太のドアの前に置かれたのは、干しエビとネギの香りが濃厚に漂う、琥珀色の特製スープに浮かぶ水餃子の小皿だった。
「水餃子なら、脂質は抑えられるからね。茹でるお湯にも、ちょっとした出汁を効かせているのよ。水餃子はスープが命よ、二宮くん」
颯太はそれを手に取り、自室に戻った。皮はプルプルと柔らかく、中の餡は味噌とオイスターソースの濃厚な背徳感を保っている。口に入れると、餃子の香りの暴力はそのままに、干しエビの磯の風味とネギ油の芳ばしい香りが鼻腔を抜け、胃には優しく収まった。
「……美味い」
彼は涙ぐみそうになったが、すぐに熱い悔しさがこみ上げた。
壁越しに「水餃子にしろ」と懇願するほど、情けない自分。ストイックな決意が、たった一口の料理の誘惑に崩壊した事実。そして、それを飯田に完全に「見透かされている」屈辱。
しかし、その悔しさを上回る、抗いがたい引力が、この手料理にはあった。
飯田は、自分の部屋のドアを半開きにして、壁にもたれかかっていた。彼女自身の分の餃子はすでに食べ終えていたが、彼女の視線は二宮の部屋のドア、そしてその隙間からかすかに見える彼の影に向けられていた。
飯田の口元には、自然と微笑みが浮かんでいた。それは、仕事で成功した時のクールな笑みではない。
まるで、幼い子どもが夢中になっておもちゃで遊ぶ姿を見ているような、穏やかで、満たされた表情だった。
「水餃子じゃ、羽根のパリパリ感は出ないのよ。二宮くん。だから、次はもっと頑張って耐えなさい」
言葉は相変わらず上から目線だが、その声はどこか優しい。
誰かのために手間をかけ、その人が幸福な顔でそれを食すのを見る。
飯田は、隣人の孤独な子犬の食欲を満たすことで、深夜の孤独から解放されていることに気が付いた。日中のストレスが、二宮の「美味しい」という本能的な反応によって、ほんの少し、洗い流された気がした。
二宮は、自分が完全に飯田の料理の「術中」にハマったことを理解した。彼の「忠犬化」は、この夜、始まった。