1. 崩壊したオフィスと、アパートの極寒
昨日のオフィスでの大騒動の結果、佐倉亮太の会社は一時的に営業停止となり、亮太は明日まで自宅待機を命じられた。賠償責任については「謎の故障と強風によるもの」として処理されたが、亮太の心証は地に落ちた。
と思っていたら、ルルが何かしたらしく、誰からも責められなかった……。
(魔法のおかげで助かったけど、助かったけどさ。魔法少女なんでもありで怖いよ……)
亮太がアパートに戻ると、ルル、エラシア、テアの三人は各々が自己反省(ルルとエラシアは嫉妬の炎を燃やし、テアは床下から地層のサンプルを掘っていた)をしていた。
そして、リビングはヒヨリのブリザードの名残で、まるで冷凍庫のようになっていた。
「我が王よ」
ヒヨリは白い息を吐きながら、いつものように畳の上に正座していた。その銀色の髪は、部屋の冷気で微かに光っている。
「昨日は、王を連れ戻せなかったこと、深くお詫び申し上げます。しかし、あの人間女(楓)の卑劣な誘惑から王を守るため、私は一切の妥協を許しません」
「ヒヨリさん、気持ちは嬉しいけど、俺は楓さんの先輩だろ? 後輩に公衆の面前で連れ出されるなんて、単純に職場の信用がゼロになったんだ。あと、部屋が寒すぎる。冷凍マグロになりそうだ」
ヒヨリはふむ、と一瞬考えた。
「では、温めることができぬのなら、王の体の内側から冷気を遮断するしかあるまい」
「え、どういうこと?」
ヒヨリはゆっくりと立ち上がると、亮太に一歩近づいた。彼女の周囲の空気は、一気に氷点下まで下がる。
「氷雪郷には、王族に伝わる『献身の儀』がある。王の体温を永遠に保つ、秘術だ」
「秘術!? 危ないものじゃないだろうな!」
「心配には及びません。ただし、王の体に氷雪の印を刻む必要があります」
ヒヨリはそう言うと、冷たく透き通った指先を、亮太の額にそっと触れさせた。
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2. 氷の印と、孤独な姫
ヒヨリの指が触れた瞬間、亮太の体中に、まるで雪解け水が流れるような、強烈な冷気が走った。
「うっ……つ、冷たっ!」
亮太が目を開けると、ヒヨリは目を閉じ、真剣な表情で何かを唱えていた。彼女の背後で、氷の結晶が舞い上がり、部屋の冷気が一瞬にしてヒヨリの周りに集中し、彼女を包み込む。
「王よ……私の体温を、あなたに」
次の瞬間、ヒヨリは自分の口元に両手を添えると、冷気を集めた息を、亮太の口に吹きかけた。
「冷たっっっっっ!!!」
それは、真冬の湖の底のような、皮膚の感覚を麻痺させるほどの極寒だった。亮太は思わず後ろに飛び退いた。
「な、何するんだヒヨリさん!? 本当に冷凍マグロになるかと思った!」
ヒヨリは顔を赤らめることなく、静かに言った。
「失礼いたしました。しかし、これで王の体温は外部の冷気に左右されぬ『絶対零度の結界』によって守られます。私の体温を少しばかり分け与えました」
「体温?あんた、常に氷点下じゃないか!」
「そうです。氷雪郷の姫は、感情を露わにすることを許されぬ。常に冷静沈着、高潔であること。それが、故郷と王を守る唯一の手段でした」
ヒヨリは窓の外を見つめた。その瞳には、遠い故郷の雪景色が映っているようだった。
「私の故郷は、絶えず猛吹雪が吹き荒れる、孤独な場所です。感情の乱れは、即ち世界の崩壊を意味します。王、あなたを探し当てるまで、私は一瞬たりとも、心を温めることを許されませんでした」
ヒヨリは亮太に背を向け、静かに続けた。
「ルルのような熱情も、エラシアのような激しい愛着も、私には理解できません。しかし、私は王を守ると誓いました。それが、氷雪郷の存在理由です」
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3. 冷たさの中の暖かさ
亮太はヒヨリの言葉を聞き、彼女の冷たさが、単なる性格ではなく、世界を背負うための『犠牲』であることを理解した。
「……ヒヨリさん」
亮太はゆっくりとヒヨリの背中に手を伸ばした。触れる指先は、刺すような冷たさだ。
「ヒヨリさんが、王とか世界とかじゃなくて、『誰かに』優しくしたいって思ったことはないの?」
亮太が手を触れた瞬間、ヒヨリの体が微かに震えた。彼女の周囲の冷気が、一瞬だけ、和らいだように感じられた。
「……愚問です。私の優しさは、全て王に捧げるために存在します」
ヒヨリはそう答えたが、その声は僅かに震えていた。そして、亮太の手が触れている肩のあたりから、一筋の雫が畳に落ちた。それは涙ではなく、一瞬にして融けた氷だった。
「…王の体温は、私の孤独を溶かします」
ヒヨリは振り返り、その青い瞳で亮太を見つめた。彼女の瞳には、初めて感情の波が宿っていた。
「私の国は、王の『暖かさ』を必要としています。それが、私たちが、あなたを連れ帰らねばならない理由です」
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4. 嫉妬の波動と、ヒヨリの敗北宣言
二人の間に流れる静かで暖かい時間も、長くは続かなかった。
突然、リビングの壁の奥から「ドンドンドン!」と尋常ではない激しい壁ドンが響き渡った。
「佐倉先輩! 中にいるんでしょう!? 今、部屋の温度が異常に下がっているわよ! 氷壁を作ったわね! 私の保護対象に、低温ハラスメントはやめて!」
楓さんの絶叫だ。
さらに、ルルとエラシア、そしてテアが、ヒヨリの「献身の儀」を見て、再び嫉妬の炎を燃やし始めた。
「王が氷漬けにされた!ヒヨリ、許すまじ!」(エラシア)
「私の体温を!返せであります!」(ルル)
「地層の温度が急変!研究データが狂う!」(テア)
亮太は再び絶叫した。
「もうやめてくれ! 俺の体は冷蔵庫とサウナと岩盤浴を繰り返してるんだ! 体調がおかしくなる!」
ヒヨリは、冷静を装い、扇子で口元を隠した。
「王よ。王に私の体温を分け与えたことで、私は少し……満たされてしまったようです。今宵は、もう、あなたを連れ帰る力は残っていません。私に勝利はありませんでした」
ヒヨリはそう言うと、静かに正座に戻り、壁ドンを無視して再び目を閉じた。ヒヨリの純粋な献身と孤独を知った亮太だったが、結局、彼女の行動もまた、亮太を巡る熾烈な独占バトルの一環でしかなかったのだ。
亮太は、冷気を放つヒヨリのそばで、その冷たさの中に、確かに暖かさと、そして絶対的な孤独があることを感じていた。