夕方、寺の門をくぐってきたのは、
近所のスーパーで働いている篠宮さんだった。
年の頃は五十前後。
いつもレジに立っていて、声を張りすぎず、愛想もいい。
俺にとっては、顔見知りのおばさん、という距離感の人だ。
「突然、ごめんなさいね」
少し申し訳なさそうに頭を下げる。
親父の一誠は、いつもの調子で受け止めた。
「いえいえ。どうされました?」
篠宮さんは、しばらく言葉を探してから、ぽつりと話し始めた。
「最近……自分が、ちゃんと働いてる感じがしなくて」
それは霊の話でも、不思議な体験でもなかった。
・気づくと時間が飛んでいる
・仕事はしているはずなのに、実感がない
・周りから「さっき見た」と言われることがある
けれど、自分にはその記憶がない。
「疲れてるだけだと思うんですけどね」
そう言って笑うが、
その表情はどこか薄かった。
親父は、ゆっくりとうなずく。
「無理は、されてませんか」
「休みは……取ってます」
「ちゃんと、眠れてます?」
「……寝てるはず、なんですけど」
霊の話は出ない。
親父も、決めつけるようなことは言わない。
ただ、人として話を聞いている。
俺はお茶を運びながら、篠宮さんの足元を見ていた。
影が、ほんのわずかに二重になっている。
壊れてはいない。
ただ、外を向いている。
話が一段落したところで、親父は言った。
「はっきりしたことは言えませんが……
念のため、お経をあげておきましょうか」
篠宮さんは、ほっとしたようにうなずいた。
読経は派手なものじゃない。
低く、一定の声。
木魚の音。
夕方の風が、障子をわずかに揺らす。
空気は、確かに落ち着いた。
けれど――
影は、まだ戻っていない。
篠宮さんが帰り支度をしたとき、
俺はぽつりと声をかけた。
「篠宮さん」
振り返る。
「今を忘れて、
思いっきり好きなことして遊ぶといいですよ」
一瞬、きょとんとした顔をして、
それから困ったように笑った。
「そんなこと……
何年もしてないわ」
「だから、です」
それだけ言った。
篠宮さんは、少し考えてから
「ありがとう」と言って帰っていった。
その夜。
縁側に腰を下ろしている俺のところへ、
風を切るみたいに、ひゅっと何かが飛んできた。
アヤメだ。
「経はね、間違ってないよ」
俺は黙って聞く。
「でも、魂を引っ張ってくるのは、
安心じゃなくて、楽しさなんだ」
「置いてきた場所が、
楽しかったところなら、なおさらね」
翌日。
学校の帰りに、スーパーへ寄った。
レジに、篠宮さんの姿はなかった。
「ああ、篠宮さん?」
声をかける前に、店長が言った。
「有給まとめて取ってさ。
一か月、沖縄に家族旅行だって」
本当に、何でもないことのように。
俺は、それ以上、何も聞かなかった。
ドッペルゲンガーは、死の前触れじゃない。
生きているのに、
自分を置いてきた時に現れる。
魂は壊れない。
ただ、迷うだけだ。
だから俺たちは、
追い払わない。
帰る場所を、思い出させるだけだ。