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アルトⅦ

ー/ー



 アルトは光太に付き添い、真弘の見舞いで高日総合病院を訪れていた。

 五〇五号室の扉を開けると、白いベッドに腰掛けた黒髪の少年がいた。目は虚ろで、焦点が合っていない。それが、光太の弟の真弘だった。

 光太は何度も声をかけていたが、真弘は一度も反応しなかった。まるで中身だけが、どこか別の場所へ抜け落ちてしまったようだった。

「目を覚ましてから、ずっとこういう状態なんだよ」

 光太が小さく呟く。

 真弘は夏祭りの夜、神社の鳥居の下で倒れているのを見つけられたらしい。その後しばらくは普通に生活していたが、ときおり荒っぽい言動が目立つようになったという。そして神社の倉の地下を探検したあと、再び意識を失い、数日前に目を覚ました。以来、ずっとこの有様なのだという。

「マヒロが紅いカケラを持ってたことって、知ってるか?」

 アルトが尋ねると、光太は眉をひそめた。

「カケラって何だよ?」

 アルトは勇斗から聞いた話を、そのまま説明した。

 真弘が持っていたかもしれない、紅いカケラ。触れた者の内側に何かを起こす、あの異様な破片のことを。

「紅いカケラ……紅い……」

 光太は考え込み、ガリガリと頭を掻いた。

「うーん……思い出せそうで、思い出せねぇ。すまん」

 やがて面会時間が終わった。結局、何ひとつ確かなことはわからないまま、二人は病室を後にした。

 廊下へ出たところで、美咲と鉢合わせた。

「あんたらも見舞い?」

「そうだけど、美咲は陽介の見舞いか?」

「そう。相変わらず意識は戻らないけどね」

「そうか……」

 病院の廊下に重い沈黙が落ちた。どこか遠くで、ナースコールの電子音が小さく鳴っている。

 三人は言葉少なに出口へ向かった。自動ドアを抜けると、真冬の空気が鋭く肌を刺した。

 病院を出る頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。

 自転車にまたがり、住宅地の角を曲がる。すると、白いワンボックスカーが路肩に停まっているのが見えた。

「道狭いのに、こんなところに停めんなよ」

 光太がぼやく。

 そのまま小さな公園の前を通りかかった。街灯に照らされたブランコが、風もないのにかすかに揺れている。遊ぶ子どもの姿はなく、夜の静けさだけが広がっていた。

「何か飲む? おごるよ」

 美咲がポーチから小さな財布を取り出した。

「じゃ、おことばに甘えて。俺、ホットレモン」

「アルトは?」

「ボクはコーヒーでいい。ブラックな」

「了解。あっちのベンチで待ってて」

 美咲はそう言って、公園入口の自動販売機へ向かった。

「あーあ、明日からまた学校か。かったりーなー」

「課題はやったのか?」

「あ、当たり前だろ!」

 アルトと光太はベンチに腰を下ろし、夜空を見上げた。

「勇斗、今頃どうしてるんだろ。あれから連絡はないのか?」

「まったく来てない。心配か?」

「いや、全然。俺はあいつを信じてるからな。今頃、魔王の城にでも突っ込んでるんじゃね?」

 光太が口の端を上げて笑った。

「そうだな」

 アルトはポケットからスマートフォンを取り出し、無言で画面を見つめた。

 あの強さなら、大丈夫。

 そう思いたかった。

 その時だった。

 バタン、と硬い音が響いた。

 続いて、小さな悲鳴。缶が地面を転がる軽い音。

 二人は同時に顔を上げ、公園の入口を見た。

 白いワンボックスカーのスライドドアが開いている。中から出てきた三人の人間が、美咲を囲んでいた。全員、黒い服にサングラスとマスク。表情は見えない。

 次の瞬間、美咲の両腕がねじ上げられた。

「ちょっ――!」

 口元に布が押し当てられる。もがく間もなく、その身体は車内へ引きずり込まれた。

 スライドドアが閉まる。

 車はそのまま、何事もなかったかのように静かに発進した。

「ミサキ!」

「美咲!」

 アルトと光太は同時に立ち上がり、全速力で公園の入口へ駆けた。だが、白い車体はすでに角を曲がり、闇の中へ消えていた。

「追うぞ!」

 アルトが叫ぶ。

「わ、わかってるって! えーと、こういう時は……くそ、どうすんだっけ、えっと……」

 光太の声が上ずる。視線が泳ぎ、完全に取り乱していた。

 アルトはその肩を掴んだ。

「落ち着け。どうする」

 その一言で、光太の目に理性の光が戻った。

「と、とにかく俺は警察に電話する! この辺の道は狭くて入り組んでる。大通りに出るまで、車もスピードは出せないはずだ。俺が近道をナビするから、アルトは追え!」

「コータはどうやってナビするんだ?」

「GPSアプリを使う」

 先日、位置共有のためにアプリを入れさせられたことを思い出した。あの時はおせっかいだと思ったが、こんな形で役立つとは思わなかった。

 光太がワイヤレスイヤホンを取り出す。

「スマホ貸せ」

 アルトが差し出すと、光太は素早く接続した。

「行け、アルト。美咲を頼む」

「ああ!」

 アルトはイヤホンを耳に押し込み、自転車に飛び乗った。

 耳元で光太の声が響く。

「右に曲がれ、その先をまっすぐ! 抜け道だ!」

 アルトはペダルを踏み込んだ。夜風が頬を切る。住宅街の細い路地を、全力で駆け抜けていく。

 角を曲がる。さらに曲がる。足を止める暇はない。

 やがて大通りへ飛び出した瞬間、ヘッドライトの光が目を射た。

 白いワンボックスカーが、アルトの目の前を猛スピードで走り抜けていく。

「見つけた! 白いクルマだ、追いかける!」

 アルトはそのまま車道へ飛び出し、さらに強くペダルを踏み込んだ。車列の隙間を縫い、トラックの脇をかすめるように抜ける。ワンボックスカーのテールランプを、視界の端で必死に捉え続けた。

 やがて道は山道に変わった。上り坂。脚が急に重くなる。息は荒れ、喉の奥が切れそうに痛い。

 車との距離が、じわじわ開いていく。

 くそっ。

 心の中で舌打ちした。

 坂を登りきり、なだらかな直線に出る。アルトは一度だけブレーキをかけ、肩で息をした。

 まだ、行ける。

 ハンドルを握り直し、再びペダルを踏む。

 谷間の向こう、ガードレールの先に、白いワンボックスカーが停まっているのが見えた。ヘッドライトが闇の中に白く滲んでいる。

 見つけた。

 アルトは残った力を振り絞り、停車している車へ向かった。

 急ブレーキをかけ、自転車を倒すように降りる。

 近づくと、エンジンは止まっているのにライトだけが点いたままだった。

 不自然な静けさ。虫の声すら聞こえない。

 アルトは息を呑み、サイドガラスを覗き込んだ。車内には男が二人。どちらも前を向いたまま、微動だにしない。

 車内に美咲の姿はない。

 焦りがこみ上げると同時に、強烈な違和感が走った。

 なぜ、動かない?

 アルトは慎重にスライドドアへ手を伸ばした。ロックはかかっていない。ゆっくりとドアを開ける。

「おい。ミサキはどうした。答えろ」

 声をかけても反応はない。耳を澄ませても、呼吸音すら聞こえなかった。

「おいっ!」

 手近な男の服をつかみ、強く揺さぶる。その瞬間、手にねっとりとした感触が広がった。

 血だった。

 アルトは反射的に手を離し、後ずさる。目を凝らすと、男の胸にはナイフが深々と突き刺さっていた。もう助からないのは明らかだった。助手席の男も同じだ。

「くそっ」

 アルトは周囲を見渡した。あたりには人影がない。風もない。ただ、遠くで何かが軋む音だけが聞こえてくる。

 谷底を覗く。

 薄闇の中に、焦げた建物が見えた。

 見覚えがある。テレビのニュースで見た、取り壊し予定の旧校舎だ。

 その時、校舎の方角から甲高い悲鳴が響いた。

「あそこか!」

 アルトは即座に方向を定め、谷底への坂道を見下ろした。だが、真っ暗で足元が見えない。

「明かりは……」

 焦りながら助手席のドアを開ける。シートの下に懐中電灯が転がっていた。

「借りるぞ」

 アルトはそれを掴み、スイッチを入れる。白い光が闇を切り裂いた。

 深呼吸をひとつして、坂道を駆け下りる。

 立ち入り禁止のテープをくぐり抜け、旧校舎へ近づいた。
 

 近くで見る校舎は無残だった。壁は煤に覆われ、ほとんどの部分が焼け落ちている。かろうじて形を保っているだけで、強い風が吹けば崩れそうだった。

 アルトは足音を殺し、校舎の周囲を一周した。人影はない。静寂だけがある。

 中か。

 窓枠から内部へ身を滑り込ませた。焦げ臭い匂いが鼻を刺す。床には黒い炭のような粉が散らばり、靴底が軽く沈んだ。

 進むたびに、金属が軋むような音が響く。

 保健室だったと思われる部屋の前で足を止めた。中から、かすかな物音がする。

 アルトは息を殺し、懐中電灯の明かりを向けた。

 光の先に、床に倒れた美咲が見えた。

 その上に、男が馬乗りになっていた。

 男は荒い息を漏らしながら、美咲の肩や腕を押さえつけている。動きには明らかに理性がなかった。口元は半開きで、目の焦点も合っていない。そのすぐそばに、紅いカケラが転がっていた。

 何を、している。

 次の瞬間には、懐中電灯を投げ捨てていた。

 アルトは無我夢中で飛びかかり、拳を叩きつけた。鈍い衝突音。骨の軋む音。男の身体が揺れ、それでもなお意味のわからない声を漏らす。

 もう一発。

 さらに一発。

 ようやく男はぐったりと床へ沈んだ。

 荒い息を吐きながら、アルトは男の横に倒れ込む。視線を落とすと、男の指先がなお紅いカケラへ伸びていた。

 その瞬間、カケラが鋭い音を立てて砕け散った。

「ミサキ、大丈夫か」

 アルトは美咲の手足を縛っていたロープをほどき、口に貼られていたテープを剥がした。

「う、ぅぅ……」

 微かな唸り声が漏れる。

 生きている。

 その事実に、アルトは胸をなで下ろした。

 脱いだダウンジャケットを美咲にかぶせる。冷たい空気の中で、彼女の肩がわずかに震えていた。

 今度はその男をロープで縛り上げ、スマートフォンを取り出す。誰かを呼ぼうとしたが、圏外だった。

「電波が、入らないか」

 アルトは息を吐き、床に腰を下ろした。

 美咲が目を覚ますまで待つしかない。

 そう思った時だった。

 ――助けてくれ。

 どこからともなく声がした。

 アルトは顔を上げる。

「誰か、いるのか?」

 懐中電灯を拾い、廊下へ出た。

 導かれるように、階段へ向かう。

 ――ここじゃ、ここ。

 上から声がした。

 アルトは懐中電灯を握りしめ、慎重に階段を上った。

 階段を上りきると、月明かりが煤けた廊下を照らしていた。

 ――おーい、ここじゃ!

 アルトは声のする方へ歩いていく。

 廊下の奥に、淡い光が見えた。その中に、黒い霧のような糸でがんじがらめにされた鳥がいた。羽ばたこうともがいているが、霧が身体を締めつけていた。

「鳥? なんでこんなところに」

 ――ぼーっとしてないで助けてくれ!

 アルトは鳥に手を伸ばした。

 瞬間、右手首の四芒星の痣が淡く光る。

 鳥を縛っていた黒い霧が、煙のように消えていった。

 ――助かった、礼を言う!

 鳥がまぶしい光を放つ。アルトは思わず目を細めた。

 光が収まった時、そこに立っていたのはひとりの少年だった。

 黄土色の髪に、見慣れぬ衣――キモノってやつだ――をまとっている。背中には小さな羽があり、四つの渦巻きが絡み合った円形の文様が刻まれている。

 少年はニカッと笑い、甲高い声で言った。

「わしの名はヤト。よく来てくれた、ルークの魂を継ぐ者よ」


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 アルトは光太に付き添い、真弘の見舞いで高日総合病院を訪れていた。
 五〇五号室の扉を開けると、白いベッドに腰掛けた黒髪の少年がいた。目は虚ろで、焦点が合っていない。それが、光太の弟の真弘だった。
 光太は何度も声をかけていたが、真弘は一度も反応しなかった。まるで中身だけが、どこか別の場所へ抜け落ちてしまったようだった。
「目を覚ましてから、ずっとこういう状態なんだよ」
 光太が小さく呟く。
 真弘は夏祭りの夜、神社の鳥居の下で倒れているのを見つけられたらしい。その後しばらくは普通に生活していたが、ときおり荒っぽい言動が目立つようになったという。そして神社の倉の地下を探検したあと、再び意識を失い、数日前に目を覚ました。以来、ずっとこの有様なのだという。
「マヒロが紅いカケラを持ってたことって、知ってるか?」
 アルトが尋ねると、光太は眉をひそめた。
「カケラって何だよ?」
 アルトは勇斗から聞いた話を、そのまま説明した。
 真弘が持っていたかもしれない、紅いカケラ。触れた者の内側に何かを起こす、あの異様な破片のことを。
「紅いカケラ……紅い……」
 光太は考え込み、ガリガリと頭を掻いた。
「うーん……思い出せそうで、思い出せねぇ。すまん」
 やがて面会時間が終わった。結局、何ひとつ確かなことはわからないまま、二人は病室を後にした。
 廊下へ出たところで、美咲と鉢合わせた。
「あんたらも見舞い?」
「そうだけど、美咲は陽介の見舞いか?」
「そう。相変わらず意識は戻らないけどね」
「そうか……」
 病院の廊下に重い沈黙が落ちた。どこか遠くで、ナースコールの電子音が小さく鳴っている。
 三人は言葉少なに出口へ向かった。自動ドアを抜けると、真冬の空気が鋭く肌を刺した。
 病院を出る頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
 自転車にまたがり、住宅地の角を曲がる。すると、白いワンボックスカーが路肩に停まっているのが見えた。
「道狭いのに、こんなところに停めんなよ」
 光太がぼやく。
 そのまま小さな公園の前を通りかかった。街灯に照らされたブランコが、風もないのにかすかに揺れている。遊ぶ子どもの姿はなく、夜の静けさだけが広がっていた。
「何か飲む? おごるよ」
 美咲がポーチから小さな財布を取り出した。
「じゃ、おことばに甘えて。俺、ホットレモン」
「アルトは?」
「ボクはコーヒーでいい。ブラックな」
「了解。あっちのベンチで待ってて」
 美咲はそう言って、公園入口の自動販売機へ向かった。
「あーあ、明日からまた学校か。かったりーなー」
「課題はやったのか?」
「あ、当たり前だろ!」
 アルトと光太はベンチに腰を下ろし、夜空を見上げた。
「勇斗、今頃どうしてるんだろ。あれから連絡はないのか?」
「まったく来てない。心配か?」
「いや、全然。俺はあいつを信じてるからな。今頃、魔王の城にでも突っ込んでるんじゃね?」
 光太が口の端を上げて笑った。
「そうだな」
 アルトはポケットからスマートフォンを取り出し、無言で画面を見つめた。
 あの強さなら、大丈夫。
 そう思いたかった。
 その時だった。
 バタン、と硬い音が響いた。
 続いて、小さな悲鳴。缶が地面を転がる軽い音。
 二人は同時に顔を上げ、公園の入口を見た。
 白いワンボックスカーのスライドドアが開いている。中から出てきた三人の人間が、美咲を囲んでいた。全員、黒い服にサングラスとマスク。表情は見えない。
 次の瞬間、美咲の両腕がねじ上げられた。
「ちょっ――!」
 口元に布が押し当てられる。もがく間もなく、その身体は車内へ引きずり込まれた。
 スライドドアが閉まる。
 車はそのまま、何事もなかったかのように静かに発進した。
「ミサキ!」
「美咲!」
 アルトと光太は同時に立ち上がり、全速力で公園の入口へ駆けた。だが、白い車体はすでに角を曲がり、闇の中へ消えていた。
「追うぞ!」
 アルトが叫ぶ。
「わ、わかってるって! えーと、こういう時は……くそ、どうすんだっけ、えっと……」
 光太の声が上ずる。視線が泳ぎ、完全に取り乱していた。
 アルトはその肩を掴んだ。
「落ち着け。どうする」
 その一言で、光太の目に理性の光が戻った。
「と、とにかく俺は警察に電話する! この辺の道は狭くて入り組んでる。大通りに出るまで、車もスピードは出せないはずだ。俺が近道をナビするから、アルトは追え!」
「コータはどうやってナビするんだ?」
「GPSアプリを使う」
 先日、位置共有のためにアプリを入れさせられたことを思い出した。あの時はおせっかいだと思ったが、こんな形で役立つとは思わなかった。
 光太がワイヤレスイヤホンを取り出す。
「スマホ貸せ」
 アルトが差し出すと、光太は素早く接続した。
「行け、アルト。美咲を頼む」
「ああ!」
 アルトはイヤホンを耳に押し込み、自転車に飛び乗った。
 耳元で光太の声が響く。
「右に曲がれ、その先をまっすぐ! 抜け道だ!」
 アルトはペダルを踏み込んだ。夜風が頬を切る。住宅街の細い路地を、全力で駆け抜けていく。
 角を曲がる。さらに曲がる。足を止める暇はない。
 やがて大通りへ飛び出した瞬間、ヘッドライトの光が目を射た。
 白いワンボックスカーが、アルトの目の前を猛スピードで走り抜けていく。
「見つけた! 白いクルマだ、追いかける!」
 アルトはそのまま車道へ飛び出し、さらに強くペダルを踏み込んだ。車列の隙間を縫い、トラックの脇をかすめるように抜ける。ワンボックスカーのテールランプを、視界の端で必死に捉え続けた。
 やがて道は山道に変わった。上り坂。脚が急に重くなる。息は荒れ、喉の奥が切れそうに痛い。
 車との距離が、じわじわ開いていく。
 くそっ。
 心の中で舌打ちした。
 坂を登りきり、なだらかな直線に出る。アルトは一度だけブレーキをかけ、肩で息をした。
 まだ、行ける。
 ハンドルを握り直し、再びペダルを踏む。
 谷間の向こう、ガードレールの先に、白いワンボックスカーが停まっているのが見えた。ヘッドライトが闇の中に白く滲んでいる。
 見つけた。
 アルトは残った力を振り絞り、停車している車へ向かった。
 急ブレーキをかけ、自転車を倒すように降りる。
 近づくと、エンジンは止まっているのにライトだけが点いたままだった。
 不自然な静けさ。虫の声すら聞こえない。
 アルトは息を呑み、サイドガラスを覗き込んだ。車内には男が二人。どちらも前を向いたまま、微動だにしない。
 車内に美咲の姿はない。
 焦りがこみ上げると同時に、強烈な違和感が走った。
 なぜ、動かない?
 アルトは慎重にスライドドアへ手を伸ばした。ロックはかかっていない。ゆっくりとドアを開ける。
「おい。ミサキはどうした。答えろ」
 声をかけても反応はない。耳を澄ませても、呼吸音すら聞こえなかった。
「おいっ!」
 手近な男の服をつかみ、強く揺さぶる。その瞬間、手にねっとりとした感触が広がった。
 血だった。
 アルトは反射的に手を離し、後ずさる。目を凝らすと、男の胸にはナイフが深々と突き刺さっていた。もう助からないのは明らかだった。助手席の男も同じだ。
「くそっ」
 アルトは周囲を見渡した。あたりには人影がない。風もない。ただ、遠くで何かが軋む音だけが聞こえてくる。
 谷底を覗く。
 薄闇の中に、焦げた建物が見えた。
 見覚えがある。テレビのニュースで見た、取り壊し予定の旧校舎だ。
 その時、校舎の方角から甲高い悲鳴が響いた。
「あそこか!」
 アルトは即座に方向を定め、谷底への坂道を見下ろした。だが、真っ暗で足元が見えない。
「明かりは……」
 焦りながら助手席のドアを開ける。シートの下に懐中電灯が転がっていた。
「借りるぞ」
 アルトはそれを掴み、スイッチを入れる。白い光が闇を切り裂いた。
 深呼吸をひとつして、坂道を駆け下りる。
 立ち入り禁止のテープをくぐり抜け、旧校舎へ近づいた。
 近くで見る校舎は無残だった。壁は煤に覆われ、ほとんどの部分が焼け落ちている。かろうじて形を保っているだけで、強い風が吹けば崩れそうだった。
 アルトは足音を殺し、校舎の周囲を一周した。人影はない。静寂だけがある。
 中か。
 窓枠から内部へ身を滑り込ませた。焦げ臭い匂いが鼻を刺す。床には黒い炭のような粉が散らばり、靴底が軽く沈んだ。
 進むたびに、金属が軋むような音が響く。
 保健室だったと思われる部屋の前で足を止めた。中から、かすかな物音がする。
 アルトは息を殺し、懐中電灯の明かりを向けた。
 光の先に、床に倒れた美咲が見えた。
 その上に、男が馬乗りになっていた。
 男は荒い息を漏らしながら、美咲の肩や腕を押さえつけている。動きには明らかに理性がなかった。口元は半開きで、目の焦点も合っていない。そのすぐそばに、紅いカケラが転がっていた。
 何を、している。
 次の瞬間には、懐中電灯を投げ捨てていた。
 アルトは無我夢中で飛びかかり、拳を叩きつけた。鈍い衝突音。骨の軋む音。男の身体が揺れ、それでもなお意味のわからない声を漏らす。
 もう一発。
 さらに一発。
 ようやく男はぐったりと床へ沈んだ。
 荒い息を吐きながら、アルトは男の横に倒れ込む。視線を落とすと、男の指先がなお紅いカケラへ伸びていた。
 その瞬間、カケラが鋭い音を立てて砕け散った。
「ミサキ、大丈夫か」
 アルトは美咲の手足を縛っていたロープをほどき、口に貼られていたテープを剥がした。
「う、ぅぅ……」
 微かな唸り声が漏れる。
 生きている。
 その事実に、アルトは胸をなで下ろした。
 脱いだダウンジャケットを美咲にかぶせる。冷たい空気の中で、彼女の肩がわずかに震えていた。
 今度はその男をロープで縛り上げ、スマートフォンを取り出す。誰かを呼ぼうとしたが、圏外だった。
「電波が、入らないか」
 アルトは息を吐き、床に腰を下ろした。
 美咲が目を覚ますまで待つしかない。
 そう思った時だった。
 ――助けてくれ。
 どこからともなく声がした。
 アルトは顔を上げる。
「誰か、いるのか?」
 懐中電灯を拾い、廊下へ出た。
 導かれるように、階段へ向かう。
 ――ここじゃ、ここ。
 上から声がした。
 アルトは懐中電灯を握りしめ、慎重に階段を上った。
 階段を上りきると、月明かりが煤けた廊下を照らしていた。
 ――おーい、ここじゃ!
 アルトは声のする方へ歩いていく。
 廊下の奥に、淡い光が見えた。その中に、黒い霧のような糸でがんじがらめにされた鳥がいた。羽ばたこうともがいているが、霧が身体を締めつけていた。
「鳥? なんでこんなところに」
 ――ぼーっとしてないで助けてくれ!
 アルトは鳥に手を伸ばした。
 瞬間、右手首の四芒星の痣が淡く光る。
 鳥を縛っていた黒い霧が、煙のように消えていった。
 ――助かった、礼を言う!
 鳥がまぶしい光を放つ。アルトは思わず目を細めた。
 光が収まった時、そこに立っていたのはひとりの少年だった。
 黄土色の髪に、見慣れぬ衣――キモノってやつだ――をまとっている。背中には小さな羽があり、四つの渦巻きが絡み合った円形の文様が刻まれている。
 少年はニカッと笑い、甲高い声で言った。
「わしの名はヤト。よく来てくれた、ルークの魂を継ぐ者よ」