侵入
ー/ー 意識が、ゆっくりと現実へ引き戻されていった。
誰も、すぐには口を開けなかった。
勇斗は、うつむいたまま肩を震わせているランパを見た。何か言わなければと思うのに、かける言葉が見つからない。
ランパはしばらく黙ったまま、手の中の精霊樹の枝を強く握りしめていた。やがて、かすれた声でぽつりとこぼす。
「……オイラ、ほんとに、あいつに助けられてばっかだったんだな」
その一言が、胸に重く落ちた。
「……ええと」
張りつめた空気をやわらげようとしたのか、シグネリアが気丈に微笑んだ。
「悲しいけれど……とても、美しいお話だったわね。ユートも、そう思うでしょう?」
「う、うん。そうだね」
勇斗は曇った声で答えた。無意識に両手を組もうとして、そこで左腕がないことに気づく。唇を噛み、右手だけを握りしめた。
少年が、死んだ親友を蘇らせるために女神の試練を受ける。試練を越えた果てに、再び親友と出会う――昔読んだ古い物語によく似ていた。どうして、あんな話が自分のいた世界にあるのだろう。
その時、どこからともなく澄みきった声が響いた。
「お帰りなさい、ランパ。そして、よく来ましたね、ユート」
勇斗たちの目の前、湖の上に光が集まり始める。
無数の光は水面の上でゆらめきながら一つの形を結び、やがて、ひとりの女性が姿を現した。
長く流れるエメラルドグリーンの髪。肩から腰にかけて羽衣のような薄布が揺らめき、全身が淡い光をまとっている。その布は空気に溶けるようにゆらぎ、輪郭さえ曖昧だった。
「チキサ様!」
ランパが顔を上げ、声を張り上げた。
「あなたが、マナの女神チキサ」
「そう。私はこの世界の命の流れを見守る者」
チキサの眼差しが勇斗へ向く。
「ユート。あなたがここへ来た理由も、胸の中に抱えている願いも、私は知っています」
「……元の世界に戻りたいんです」
勇斗は一歩前へ出た。
「高日町に帰りたい。帰って、元の生活に――」
そこまで言いかけて、言葉が詰まった。自分の体を思い浮かべる。元の生活など、すでに壊れ始めているのかもしれない。でも――
「もし方法があるなら、教えてください」
「帰ること。それは、あなたの世界とこの世界、その両方が救われてこそ叶うものです」
「両方が……?」
チキサは静かにうなずいた。
「魔神の再誕によって、世界を隔てる境が崩れ始めています。このままでは、この世界だけでなく、あなたの世界にも災いが及びます」
「そんな……」
勇斗は浮かない表情をした。
「じゃあ、どうすればいいんですか!」
思わず声が大きくなる。
「諸悪の根源たる魔神を倒すのです」
「魔神を……倒す」
勇斗は右手を握りしめた。そんな自分に、本当にそんなことができるのか。無理だ、と言いたいのに言えない。言ってしまえば、すべてが終わる気がした。
「魔神の居城は、ミケーレ大陸のはるか南。火山の地下にあります。シンターを使えば辿り着けるでしょう」
「……わかりました」
口が勝手にそう答えていた。
ただ帰りたいだけだったはずなのに、気づけば二つの世界の行く末が自分の肩にのしかかっている。不安に押しつぶされそうだ。
「大丈夫だよ、ユート」
ランパがいつもの調子で、ぐっと親指を立てる。
「お前ならやれる。オイラたちもついてるし、チャチャっと魔神をやっつけちゃおーぜ!」
無理にでも笑おうとしているのがわかった。
それでも、その明るさに救われる。
チカップも、シグネリアも、静かにうなずいた。
「みんな、ありがとう」
勇斗は小さく息を吐いた。胸の奥に、かすかな熱が灯る。
「チキサ様、自分も質問していいっスか?」
チカップが遠慮がちに一歩前へ出た。
「ルークは魔神を封印したあと、どうなったんスか? 伝承では姿をくらましたって聞いたんスけど」
「姿をくらましたのは、本当です」
チキサは遠くを見るように目を細めた。
「ルークは魔神を封印したあと、武具を信頼できる人間に託しました。その頃には魔族も鳴りをひそめていましたからね」
そこで一度、言葉を切る。
「けれど彼は、思いつめた表情で私に告げたのです。このままでは世界が再び危険にさらされる、そのために新たな旅に出る――と」
「それで、戻らなかったんスね」
「ええ。二度と」
チキサは静かに天を仰いだ。
その横顔には、母としての寂しさがわずかに滲んでいた。
短い沈黙ののち、シグネリアが一歩前に出て深く頭を下げた。
「チキサ様、お初にお目にかかります。私はソレイン王国の王女、シグネリアと申します」
「シグネリア」
チキサはふっと微笑んだ。
「……あの娘によく似ていますね」
「え?」
「いいえ、何でもありません」
チキサはやわらかく首を振る。
「あなたは悩んでいますね」
「はい。私は国も、家族も失いました」
シグネリアは唇を引き結んだ。
「これから、どう生きればよいのかわからないのです」
「その答えは、あなた自身の意思で見つけなさい」
チキサの声は静かだったが、揺るがなかった。
「シグネリア。あなたが進む先が正しくても、間違っていても構いません。それこそが、命に与えられた唯一の特権なのだから」
「私自身で……」
シグネリアはうつむき、指先を強く握る。やがて小さく、しかし確かにうなずいた。
「はい」
「よしっ!」
空気を変えるように、ランパが勢いよく精霊樹の枝を掲げた。
「じゃあみんな、準備はいいか? 今から魔神の居城に突撃するぞー!」
その瞬間、大地が激しく揺れた。
「うわっ!」
ランパはバランスを崩し、そのまま尻もちをつく。
湖面が波立ち、花園がざわめいた。
「まさか……あちらから乗り込んできたというのですか?」
チキサの表情が一変する。穏やかだった瞳に、鋭い緊張が宿った。
次の瞬間、翼がはためく重い音が空を裂いた。
勇斗たちが見上げる。
「あのドラゴンは……」
赤い飛竜が、湖の上を大きく旋回しながら降下してくる。灼けつくような熱風が巻き起こり、光の花々が一斉にはじけて散った。
飛竜が花園に着地する。
飛竜の背から、魔神が軽やかに降り立った。続いてソーマも、羽のように軽く地を踏む。
「ここがマナの聖域。綺麗なところですわねぇ」
ソーマは小さくあくびをして、うんと伸びをした。
「でも、すぐに灰になってしまいますけど」
ソーマの姿は、以前の黒いゴシックドレスとは違っていた。露出の多い衣装に変わり、肩からは黒羽のような布が広がっている。まるで、人の形をしたカラスだった。
「さて、魔神様。行きましょうか」
魔神は勇斗たちへ向かって、ゆっくり歩き出す。
漆黒の鎧が、カチャリ、カチャリと冷たい音を立てた。顔はフルフェイスの兜に覆われ、素顔は見えない。背丈は勇斗より少し高いほどしかない。だが、その存在は空気そのものを押し潰すような威圧感を放っていた。
「聖域には結界が張り巡らされていたはず――どうやって入ってきた?」
チキサが怒りを含んだ声で問う。
「うふふ。これを持っていたら、簡単に入れましてよ」
ソーマが取り出したのは、氷漬けにされた勇斗の左腕だった。
「それは、僕の腕!」
勇斗の声が裏返る。
「あらユート。お久しぶりですわね。生きていてくださって、うれしいですわ」
ソーマはくすくすと笑う。
「ユートの左腕に残された紋様が、外側から聖域と同調した。結果として、内と外の境界が一時的に曖昧になったということですね。迂闊でした」
チキサは唇をきつく噛んだ。
「難しいことはよくわかりませんけど、入れたのだから、そういうことですわね」
ソーマは氷塊を軽く持ち上げる。
「では、もうこれは必要ありませんわ」
指先で、ぱちんと弾いた。
次の瞬間、氷は粉々に砕け散った。勇斗の左腕もまた、細かな破片となって宙へ舞った。
喉の奥からかすれた息が漏れ、勇斗はその場に崩れるように膝をついた。
戻るかもしれないと、心のどこかでまだ思っていた。その最後の欠片まで、目の前で砕けた。辛くて胸が張り裂けそうだった。
「さて」
ソーマが首をかしげる。
「わたくしたちがここへ来た理由、もうおわかりですわよね?」
「私の力を奪うこと」
チキサが険しい顔をした。
「そうですわ。では、さっさと始めましょう。ねぇ、魔神様」
魔神は静かにうなずくと、右手を天へ掲げた。
空に闇の渦が生まれる。
その中心から、巨大な斧がゆっくりとせり出した。刃には深紅の紋様が浮かび、周囲の光を吸い込んでいく。
魔神はその斧を握りしめ、無言のまま構えを取った。
マナの聖域に、重く冷たい殺気が満ちていく。
「ユート、構えろ! チキサ様を守るんだ!」
ランパが叫ぶ。
勇斗はゆらりと立ち上がった。マントの内側からドラシガーを一本取り出し、咥える。
ガントレットの宝珠から青白い炎を放ち、底面を炙る。瞬く間に緑煙が立ち上り、勇斗の周囲をゆらゆらと包み込んだ。
聖剣クトネシスを抜く。刃が光を放ち、空気が震える。
魔神へ向かって踏み出そうとした。
だが、足が動かない。
圧倒的な威圧感。
闇そのものが壁のように立ちはだかり、勇斗の身体を縛りつける。
魔神が一歩、前へ出た。
その瞬間、右目が熱を帯びた。
無数の線が視界を埋め尽くす。だが、あまりにも巨大で、あまりにも複雑すぎた。
読めない。避けられない。そう思った瞬間、勇斗の身体は吹き飛んでいた。地を滑り、背中が岩に叩きつけられる。
「ぐっ――!」
息が潰れる。
勇斗だけではなかった。ランパも、チカップも、シグネリアも、まとめて地面に転がされている。
魔神はそのまま、じりじりとチキサへ近づいていく。
「さ、させないっス!」
チカップが息も絶え絶えに羽ペンを取り出し、地に魔法陣を描く。赤と青の紋様が交わり、炎と水の矢が空を裂いて飛んだ。
だが、魔神は一歩も動かない。ただ手を払った。それだけで魔法は霧のように掻き消えた。
「そんな……」
チカップの声が震える。
魔神はチキサの前で立ち止まった。
「お前の力は、俺がもらう」
くぐもった声だった。だが、その奥に妙な甲高さがあった。どこか子どもの声のようだった。
勇斗の背筋を冷たいものが走る。
この声、どこで聞いたような。
考える間もなく、魔神の腕がチキサの胸を貫いた。
「うっ、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
チキサの悲鳴が聖域に響く。
時間が止まったようだった。
その身体が、ゆっくりと崩れていく。
灰となって舞い上がり、女神の光が風に溶けて消えていった。
「チキサ、様……」
ランパが嗚咽を漏らした。
地面に落ちた精霊石が砕け散る。
その瞬間、精霊樹がゆっくりと枯れ始めた。周囲の草花も次々に灰色へ変わり、風が止む。聖域そのものが、静かに死に始めていた。
魔神は手を開いたり閉じたりしながら、自分の掌を確かめるような仕草を見せた。そして、何事もなかったように踵を返す。
「待ちなさい!」
シグネリアが剣を構えて叫ぶ。
「あらぁ、お姫様。勇敢ですこと」
ソーマが嘲るように歩み寄る。
「でも、その剣先――震えていましてよ?」
黒羽のような衣が、ゆらりと揺れた。
「その顔、本当に癇に障りますわね」
指を鳴らす。
霧の刃が出現し、鋭い音とともに空気を切り裂いた。
「死になさいな」
まずい。シグネリアが危ない。
勇斗は無理やり身体を起こした。地面を蹴り、手を伸ばす。
その刹那、ソーマが悲鳴に近い声を上げた。
「ちょ、魔神様!? 何を……!」
魔神が霧の刃を掴んでいた。
刃はその手の中で、音もなく消える。
無言のまま、魔神はシグネリアの腰を抱きかかえた。
「きゃっ――!」
シグネリアが息を呑む。
そのまま魔神は、赤い飛竜の背へ向かって跳躍した。
「魔神様、待ってくださいませーっ!」
ソーマも慌てて飛び乗る。
飛竜は翼をはためかせ、濃い雲を切り裂くように空へ昇っていった。
地上に、重く沈んだ静寂だけが残る。
「ねーちゃん、攫われちゃったぞ……」
四つん這いのまま、ランパが顔を上げた。
「どうして、魔神はソーマの攻撃を止めたんスかね」
チカップが息を切らせながら呟く。
「わかんねぇ。そんなことより、ここはもう危険だ」
ランパが精霊樹を見上げる。
「精霊樹が完全に枯れたら、この聖域は崩壊する。行くぞ、ユート!」
精霊樹の枝を掲げ、空へ向かって叫ぶ。
「来い、シンター!」
光の筋が走った。
空から舟が降りてくる。勇斗たちは急いで乗り込み、大空へと舞い上がった。
下を見下ろす。マナの聖域が、ゆっくりと海中へ沈み始めていた。青白い光が泡のようにはじけ、花園も、湖も、精霊樹も、すべてが暗い海へ呑まれていく。
「マナの聖域が……チキサ様……」
うずくまったランパが、かすれた声で呟いた。
何も言えなかった。起こったことすべてが、まだ現実だと思えない。一気に奪われすぎた。
勇斗はどうしようもない感情を押さえきれず、拳でシンターの床を叩いた。
誰も、すぐには口を開けなかった。
勇斗は、うつむいたまま肩を震わせているランパを見た。何か言わなければと思うのに、かける言葉が見つからない。
ランパはしばらく黙ったまま、手の中の精霊樹の枝を強く握りしめていた。やがて、かすれた声でぽつりとこぼす。
「……オイラ、ほんとに、あいつに助けられてばっかだったんだな」
その一言が、胸に重く落ちた。
「……ええと」
張りつめた空気をやわらげようとしたのか、シグネリアが気丈に微笑んだ。
「悲しいけれど……とても、美しいお話だったわね。ユートも、そう思うでしょう?」
「う、うん。そうだね」
勇斗は曇った声で答えた。無意識に両手を組もうとして、そこで左腕がないことに気づく。唇を噛み、右手だけを握りしめた。
少年が、死んだ親友を蘇らせるために女神の試練を受ける。試練を越えた果てに、再び親友と出会う――昔読んだ古い物語によく似ていた。どうして、あんな話が自分のいた世界にあるのだろう。
その時、どこからともなく澄みきった声が響いた。
「お帰りなさい、ランパ。そして、よく来ましたね、ユート」
勇斗たちの目の前、湖の上に光が集まり始める。
無数の光は水面の上でゆらめきながら一つの形を結び、やがて、ひとりの女性が姿を現した。
長く流れるエメラルドグリーンの髪。肩から腰にかけて羽衣のような薄布が揺らめき、全身が淡い光をまとっている。その布は空気に溶けるようにゆらぎ、輪郭さえ曖昧だった。
「チキサ様!」
ランパが顔を上げ、声を張り上げた。
「あなたが、マナの女神チキサ」
「そう。私はこの世界の命の流れを見守る者」
チキサの眼差しが勇斗へ向く。
「ユート。あなたがここへ来た理由も、胸の中に抱えている願いも、私は知っています」
「……元の世界に戻りたいんです」
勇斗は一歩前へ出た。
「高日町に帰りたい。帰って、元の生活に――」
そこまで言いかけて、言葉が詰まった。自分の体を思い浮かべる。元の生活など、すでに壊れ始めているのかもしれない。でも――
「もし方法があるなら、教えてください」
「帰ること。それは、あなたの世界とこの世界、その両方が救われてこそ叶うものです」
「両方が……?」
チキサは静かにうなずいた。
「魔神の再誕によって、世界を隔てる境が崩れ始めています。このままでは、この世界だけでなく、あなたの世界にも災いが及びます」
「そんな……」
勇斗は浮かない表情をした。
「じゃあ、どうすればいいんですか!」
思わず声が大きくなる。
「諸悪の根源たる魔神を倒すのです」
「魔神を……倒す」
勇斗は右手を握りしめた。そんな自分に、本当にそんなことができるのか。無理だ、と言いたいのに言えない。言ってしまえば、すべてが終わる気がした。
「魔神の居城は、ミケーレ大陸のはるか南。火山の地下にあります。シンターを使えば辿り着けるでしょう」
「……わかりました」
口が勝手にそう答えていた。
ただ帰りたいだけだったはずなのに、気づけば二つの世界の行く末が自分の肩にのしかかっている。不安に押しつぶされそうだ。
「大丈夫だよ、ユート」
ランパがいつもの調子で、ぐっと親指を立てる。
「お前ならやれる。オイラたちもついてるし、チャチャっと魔神をやっつけちゃおーぜ!」
無理にでも笑おうとしているのがわかった。
それでも、その明るさに救われる。
チカップも、シグネリアも、静かにうなずいた。
「みんな、ありがとう」
勇斗は小さく息を吐いた。胸の奥に、かすかな熱が灯る。
「チキサ様、自分も質問していいっスか?」
チカップが遠慮がちに一歩前へ出た。
「ルークは魔神を封印したあと、どうなったんスか? 伝承では姿をくらましたって聞いたんスけど」
「姿をくらましたのは、本当です」
チキサは遠くを見るように目を細めた。
「ルークは魔神を封印したあと、武具を信頼できる人間に託しました。その頃には魔族も鳴りをひそめていましたからね」
そこで一度、言葉を切る。
「けれど彼は、思いつめた表情で私に告げたのです。このままでは世界が再び危険にさらされる、そのために新たな旅に出る――と」
「それで、戻らなかったんスね」
「ええ。二度と」
チキサは静かに天を仰いだ。
その横顔には、母としての寂しさがわずかに滲んでいた。
短い沈黙ののち、シグネリアが一歩前に出て深く頭を下げた。
「チキサ様、お初にお目にかかります。私はソレイン王国の王女、シグネリアと申します」
「シグネリア」
チキサはふっと微笑んだ。
「……あの娘によく似ていますね」
「え?」
「いいえ、何でもありません」
チキサはやわらかく首を振る。
「あなたは悩んでいますね」
「はい。私は国も、家族も失いました」
シグネリアは唇を引き結んだ。
「これから、どう生きればよいのかわからないのです」
「その答えは、あなた自身の意思で見つけなさい」
チキサの声は静かだったが、揺るがなかった。
「シグネリア。あなたが進む先が正しくても、間違っていても構いません。それこそが、命に与えられた唯一の特権なのだから」
「私自身で……」
シグネリアはうつむき、指先を強く握る。やがて小さく、しかし確かにうなずいた。
「はい」
「よしっ!」
空気を変えるように、ランパが勢いよく精霊樹の枝を掲げた。
「じゃあみんな、準備はいいか? 今から魔神の居城に突撃するぞー!」
その瞬間、大地が激しく揺れた。
「うわっ!」
ランパはバランスを崩し、そのまま尻もちをつく。
湖面が波立ち、花園がざわめいた。
「まさか……あちらから乗り込んできたというのですか?」
チキサの表情が一変する。穏やかだった瞳に、鋭い緊張が宿った。
次の瞬間、翼がはためく重い音が空を裂いた。
勇斗たちが見上げる。
「あのドラゴンは……」
赤い飛竜が、湖の上を大きく旋回しながら降下してくる。灼けつくような熱風が巻き起こり、光の花々が一斉にはじけて散った。
飛竜が花園に着地する。
飛竜の背から、魔神が軽やかに降り立った。続いてソーマも、羽のように軽く地を踏む。
「ここがマナの聖域。綺麗なところですわねぇ」
ソーマは小さくあくびをして、うんと伸びをした。
「でも、すぐに灰になってしまいますけど」
ソーマの姿は、以前の黒いゴシックドレスとは違っていた。露出の多い衣装に変わり、肩からは黒羽のような布が広がっている。まるで、人の形をしたカラスだった。
「さて、魔神様。行きましょうか」
魔神は勇斗たちへ向かって、ゆっくり歩き出す。
漆黒の鎧が、カチャリ、カチャリと冷たい音を立てた。顔はフルフェイスの兜に覆われ、素顔は見えない。背丈は勇斗より少し高いほどしかない。だが、その存在は空気そのものを押し潰すような威圧感を放っていた。
「聖域には結界が張り巡らされていたはず――どうやって入ってきた?」
チキサが怒りを含んだ声で問う。
「うふふ。これを持っていたら、簡単に入れましてよ」
ソーマが取り出したのは、氷漬けにされた勇斗の左腕だった。
「それは、僕の腕!」
勇斗の声が裏返る。
「あらユート。お久しぶりですわね。生きていてくださって、うれしいですわ」
ソーマはくすくすと笑う。
「ユートの左腕に残された紋様が、外側から聖域と同調した。結果として、内と外の境界が一時的に曖昧になったということですね。迂闊でした」
チキサは唇をきつく噛んだ。
「難しいことはよくわかりませんけど、入れたのだから、そういうことですわね」
ソーマは氷塊を軽く持ち上げる。
「では、もうこれは必要ありませんわ」
指先で、ぱちんと弾いた。
次の瞬間、氷は粉々に砕け散った。勇斗の左腕もまた、細かな破片となって宙へ舞った。
喉の奥からかすれた息が漏れ、勇斗はその場に崩れるように膝をついた。
戻るかもしれないと、心のどこかでまだ思っていた。その最後の欠片まで、目の前で砕けた。辛くて胸が張り裂けそうだった。
「さて」
ソーマが首をかしげる。
「わたくしたちがここへ来た理由、もうおわかりですわよね?」
「私の力を奪うこと」
チキサが険しい顔をした。
「そうですわ。では、さっさと始めましょう。ねぇ、魔神様」
魔神は静かにうなずくと、右手を天へ掲げた。
空に闇の渦が生まれる。
その中心から、巨大な斧がゆっくりとせり出した。刃には深紅の紋様が浮かび、周囲の光を吸い込んでいく。
魔神はその斧を握りしめ、無言のまま構えを取った。
マナの聖域に、重く冷たい殺気が満ちていく。
「ユート、構えろ! チキサ様を守るんだ!」
ランパが叫ぶ。
勇斗はゆらりと立ち上がった。マントの内側からドラシガーを一本取り出し、咥える。
ガントレットの宝珠から青白い炎を放ち、底面を炙る。瞬く間に緑煙が立ち上り、勇斗の周囲をゆらゆらと包み込んだ。
聖剣クトネシスを抜く。刃が光を放ち、空気が震える。
魔神へ向かって踏み出そうとした。
だが、足が動かない。
圧倒的な威圧感。
闇そのものが壁のように立ちはだかり、勇斗の身体を縛りつける。
魔神が一歩、前へ出た。
その瞬間、右目が熱を帯びた。
無数の線が視界を埋め尽くす。だが、あまりにも巨大で、あまりにも複雑すぎた。
読めない。避けられない。そう思った瞬間、勇斗の身体は吹き飛んでいた。地を滑り、背中が岩に叩きつけられる。
「ぐっ――!」
息が潰れる。
勇斗だけではなかった。ランパも、チカップも、シグネリアも、まとめて地面に転がされている。
魔神はそのまま、じりじりとチキサへ近づいていく。
「さ、させないっス!」
チカップが息も絶え絶えに羽ペンを取り出し、地に魔法陣を描く。赤と青の紋様が交わり、炎と水の矢が空を裂いて飛んだ。
だが、魔神は一歩も動かない。ただ手を払った。それだけで魔法は霧のように掻き消えた。
「そんな……」
チカップの声が震える。
魔神はチキサの前で立ち止まった。
「お前の力は、俺がもらう」
くぐもった声だった。だが、その奥に妙な甲高さがあった。どこか子どもの声のようだった。
勇斗の背筋を冷たいものが走る。
この声、どこで聞いたような。
考える間もなく、魔神の腕がチキサの胸を貫いた。
「うっ、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
チキサの悲鳴が聖域に響く。
時間が止まったようだった。
その身体が、ゆっくりと崩れていく。
灰となって舞い上がり、女神の光が風に溶けて消えていった。
「チキサ、様……」
ランパが嗚咽を漏らした。
地面に落ちた精霊石が砕け散る。
その瞬間、精霊樹がゆっくりと枯れ始めた。周囲の草花も次々に灰色へ変わり、風が止む。聖域そのものが、静かに死に始めていた。
魔神は手を開いたり閉じたりしながら、自分の掌を確かめるような仕草を見せた。そして、何事もなかったように踵を返す。
「待ちなさい!」
シグネリアが剣を構えて叫ぶ。
「あらぁ、お姫様。勇敢ですこと」
ソーマが嘲るように歩み寄る。
「でも、その剣先――震えていましてよ?」
黒羽のような衣が、ゆらりと揺れた。
「その顔、本当に癇に障りますわね」
指を鳴らす。
霧の刃が出現し、鋭い音とともに空気を切り裂いた。
「死になさいな」
まずい。シグネリアが危ない。
勇斗は無理やり身体を起こした。地面を蹴り、手を伸ばす。
その刹那、ソーマが悲鳴に近い声を上げた。
「ちょ、魔神様!? 何を……!」
魔神が霧の刃を掴んでいた。
刃はその手の中で、音もなく消える。
無言のまま、魔神はシグネリアの腰を抱きかかえた。
「きゃっ――!」
シグネリアが息を呑む。
そのまま魔神は、赤い飛竜の背へ向かって跳躍した。
「魔神様、待ってくださいませーっ!」
ソーマも慌てて飛び乗る。
飛竜は翼をはためかせ、濃い雲を切り裂くように空へ昇っていった。
地上に、重く沈んだ静寂だけが残る。
「ねーちゃん、攫われちゃったぞ……」
四つん這いのまま、ランパが顔を上げた。
「どうして、魔神はソーマの攻撃を止めたんスかね」
チカップが息を切らせながら呟く。
「わかんねぇ。そんなことより、ここはもう危険だ」
ランパが精霊樹を見上げる。
「精霊樹が完全に枯れたら、この聖域は崩壊する。行くぞ、ユート!」
精霊樹の枝を掲げ、空へ向かって叫ぶ。
「来い、シンター!」
光の筋が走った。
空から舟が降りてくる。勇斗たちは急いで乗り込み、大空へと舞い上がった。
下を見下ろす。マナの聖域が、ゆっくりと海中へ沈み始めていた。青白い光が泡のようにはじけ、花園も、湖も、精霊樹も、すべてが暗い海へ呑まれていく。
「マナの聖域が……チキサ様……」
うずくまったランパが、かすれた声で呟いた。
何も言えなかった。起こったことすべてが、まだ現実だと思えない。一気に奪われすぎた。
勇斗はどうしようもない感情を押さえきれず、拳でシンターの床を叩いた。
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