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侵入

ー/ー



 飛竜の背から、魔神が軽やかに降り立った。
 
 続けてソーマも、細い足で砂を踏むように着地する。

「ここがマナの聖域。綺麗なところですわねぇ」

 ソーマは小さくあくびをして、うんと伸びをした。
 
「でも、すぐに灰になってしまいますけど」

 その姿は、以前の黒いゴシックドレスではなかった。露出の多い衣装に変わっており、黒羽のような布が肩から広がっている。まるで人の形をしたカラスのようだった。

「さて、魔神様。行きましょうか」

 魔神はゆっくりと勇斗たちに向かって歩き出す。漆黒の鎧が、カチャリ、カチャリと冷たい音を立てた。顔はフルフェイスの兜に覆われて見えない。身長は勇斗よりわずかに高い程度。それでも、その存在は空気そのものを押し潰すような威圧感を放っていた。

「聖域には結界が張り巡らされていたはず――どうやって入ってきた?」

 チキサは怒りを含んだ声で問う。

「うふふ。これを持っていたら簡単に入れましてよ」

 ソーマが取り出したのは、氷漬けにされた勇斗の左腕だった。

「それは、僕の腕!」

 勇斗は声を張り上げた。

「あらユート。お久しぶりですわね。生きていてくださって嬉しいですわ」

「ユートの左腕に残された紋様が、外側から聖域座標と同調した。結果として、内と外の境界が一時的に曖昧になったということですね。迂闊でした」

 チキサは唇をきつく噛んだ。

「難しいことはよくわかりませんが、まぁ、入れたのだからそういうことですわね。じゃ、もうこれはいりませんわ」

 ソーマは氷を持ち上げると、指先で軽く弾いた。
 
 次の瞬間、氷は粉々に砕け散った。
 
 勇斗の左腕が、細かな破片となって宙を舞い、光の粒とともに消える。

 あぁ、と嘆いた勇斗は、崩れるように膝をついた。

「さて、わたくしたちがここに来た理由、もうおわかりですわね?」

「私の力を奪うこと」

「そうですわ。では、さっさと始めましょう。ねぇ、魔神様」

 魔神は静かにうなずくと、右手を天へ掲げた。

 闇の渦が空に生まれ、そこから巨大な斧がせり出す。刃には深紅の紋様が浮かび上がり、周囲の光を吸い込んでいく。

 魔神はその斧を握りしめ、無言のまま構えを取った。

 マナの聖域に、重く冷たい殺気が満ちていった。

「ユート、構えろ! チキサ様を守るんだ!」

 ランパが叫んだ。

 勇斗は立ち上がり、マントの内側からドラシガーを一本取り出し、咥えた。
 
 ガントレットの宝珠から放たれる青白い炎で底面を炙る。瞬く間に緑煙が立ち上り、勇斗の周囲をゆらゆらと包み込んだ。

 勇斗は鞘から聖剣クトネシスを抜いた。刃が光を放ち、空気が震える。

 魔神に向かって走ろうとした――だが、足が動かない。

 圧倒的な威圧感。
 
 闇そのものが壁のように立ちはだかり、勇斗の身体を縛りつける。

 魔神が一歩、前へ出た。
 
 その瞬間、精霊眼が発動する。視界に走るのは、無数の線。しかし、それらはあまりにも巨大で、複雑すぎた。

 避けられない――そう思った瞬間、勇斗の身体が吹き飛んだ。地を滑り、背中が岩に叩きつけられる。

 勇斗だけではない。ランパも、チカップも、シグネリアも地面に転がっていた。

 魔神がじりじりとチキサへ近づく。

「さ、させないっス!」

 チカップが、息も絶え絶えに羽ペンを取り出し、地に魔法陣を描く。赤と青の紋様が交わり、炎と水の矢が空を裂いて飛んだ。

 だが、魔神は一歩も動かず、ただ手を払った。それだけで、魔法は霧のように消えた。

「そんな」

 チカップの声が震える。

「お前の力、この俺が貰う」

 魔神はチキサの前で立ち止まり、静かに言う。

 その声は、兜にこもってくぐもっていたが、どこか子供のように甲高い。

 勇斗の背筋に冷たいものが走った。
 
 この声、どこかで――

 考える間もなく、魔神の腕がチキサの胸を貫いた。

「うっ、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 チキサの悲鳴が聖域に響く。その身体がゆっくりと崩れ、灰となって舞い上がる。

 女神の光が、風に溶けて消えていった。

 精霊石が地面に落下し、砕け散った。

 精霊樹が、ゆっくりと枯れ始めた。周囲の草花も次々と灰色に変わり、風が止む。

 魔神は、手を開いたり閉じたりを繰り返しながら、踵を返した。

「待ちなさい!」

 シグネリアが、剣を構えて叫ぶ。

「あらぁ、お姫様。勇敢ですわねぇ。でも、その剣先――震えてましてよ?」

 ソーマが嘲笑いながら歩み寄る。黒い羽のような衣がゆらりと揺れた。

「ふん、その顔、いつ見ても腹が立ちますわね」

 指を鳴らすと、霧の刃が出現した。鋭い音とともに、空気が切り裂かれる。

「また死になさいな」

 まずい、シグネリアが危ない。

 勇斗は必死に身体を起こした。地面を蹴り、手を伸ばす。

 その刹那、ソーマが奇声に近い声を上げた。

「ちょ、魔神様!? 何を――!」

 魔神が霧の刃を掴んでいた。刃はその手の中で音もなく消えた。

 無言のまま、魔神はシグネリアの腰を抱きかかえる。そして、赤い飛竜の背に向かって跳躍した。

「魔神様、待ってくださいませーっ!」

 ソーマも慌てて飛び乗った。

 飛竜は翼をはためかせ、濃い雲を切り裂くように空へと昇っていく。

 地上に、重く沈んだ静寂が残った。

「ねーちゃん、攫われちゃったぞ!」

 四つん這いの格好で、ランパが顔を上げる。

「どうして、魔神はソーマの攻撃を止めたんスかね」

 チカップが息を切らせながら呟いた。

「わかんねぇ。そんなことより、ここはもう危険だ。精霊樹が完全に枯れたら、この聖域は崩壊する。行くぞ、ユート!」

 精霊樹の枝を掲げたランパが、空へ向かって叫ぶ。

「来い、シンター!」

 光の筋が走り、空から白銀の舟が降りてきた。勇斗たちは急いで乗り込み、大空へと舞い上がる。

 下を覗くと、マナの聖域がゆっくりと海中へ沈んでいくのが見えた。青白い光が泡のように弾け、やがてすべてが暗い海に飲まれていった。
 
「マナの聖域が――チキサ様――」

 うずくまったランパは、かすれた声で呟いた。

 勇斗は何も言えず、ただ拳を握りしめた。

 ◆

 魔神は、気を失ったシグネリアをそっと飛竜の背に寝かせた。

 なぜ助けたのか、自分でもわからなかった。本能的に身体が動いていた。この娘の顔を見ると、心がざわつく。胸の奥が、焼けるように痛む。

 俺は、一体何をやっている。

 たかが人間。殺しても何の問題もない。だが、それができなかった。この娘が王女だから? 違う。名も立場も関係ない。

 ――何だ、この感情は。胸が苦しい。

「魔神様ぁ? こんな女、連れてきてどうなさるおつもり? ああ、人質にでもするんですのね? それとも化け物にして、ユートたちにぶつけるおつもり?」

「黙れ」

 魔神は低く、静かに言った。

 ソーマの顔が一瞬で引きつる。

「この女は、ずっと俺の側に置いておく」

 魔神は、これまで魔族へと変化させてきた人間たちのことを思い出していた。砂漠の町で出会った金髪の男――力の加減を誤り、暴走させてしまった。次に変化させたソレイン王国の大臣は、理性を保ったまま忠実な部下として役に立ってくれた。

 だが、この女は違う。変化させる気にならない。ずっと、この顔を見ていたい。

 どこか晴れやかな気持ちになった魔神は、兜の下で頬を緩めた。

「はぁ、新しい魔神様の考えていることは、ほんっとうにわかりませんわ」

 ソーマは不満げに肩をすくめ、深くため息をついた。

 やがて、火山の上空へと差しかかった。赤く煮えたぎる溶岩の光が、鎧の縁を血のように照らす。

 飛竜は旋回しながらゆっくりと下降する。

 魔神は、シグネリアを抱えたまま玉座の間へと進んだ。配下の魔族たちは、主の腕の中に人間の娘がいるのを見て、怪訝な表情を浮かべる。だが、誰も何も言わなかった。

 玉座の間の奥。鉄格子付きの部屋の中に、魔神はシグネリアをそっと寝かせた。

 死なれては困る。目が覚めたら、水だけは与えておこう。

 魔神はしばらく、彼女の顔を黙って見つめた。そして鉄格子を下ろし、ゆっくりと玉座に戻る。

 漆黒の玉座に腰を下ろし、足を組む。静かに息を吐く。

 やがて勇者たちが来るだろう。だが、今の自分に敵う者などいない。マナの女神の力を手に入れたこの身は、もはや世界そのものを凌駕している。

「――ふ、ふふ。くくく――あははははははは!」

 笑い声が玉座の間に響き渡る。それは、勝者の嘲笑にも似ていた。だがその奥底には、誰も気づかないほど微かな痛みが混じっていた。

「上機嫌だな、魔神様」

 玉座の間に通じる扉が音を立てて開く。
 
 竜人型の魔族が姿を現した。口には葉巻を咥え、隙間から白い煙をゆっくりと吐き出している。

「ギナスか。何の用だ?」

「マナの女神の力を吸収したそうじゃねぇか。そいつを褒めに来たのさ。おめでとさん」

「随分と上から目線だな」

「てめぇより長生きしてるんでな」

 ギナスは葉巻を口から離し、勢いよく煙を吐く。白い煙が明かりに溶けて、霞のように揺らめいた。

「だが、力も立場も、今は俺の方が上だ。少しは配下らしくしたらどうだ?」

 魔神は低く唸るように言った。

「悪いが、俺様はてめぇを主だなんて思っちゃいねぇ。縛られるのは性に合わねぇんだよ」

 ギナスは口端を吊り上げ、くぐもった笑いを漏らす。

 踵を返したギナスは、去り際に葉巻を床に投げ捨てた。煙を噴き上げたまま、ころころと転がる。

「どこに行くつもりだ?」

「ちょいと散歩だ」

 軽く手を振るようにして、ギナスは扉を押し開けた。

「じゃあな」

 鉄扉の閉まる音が、重く玉座の間に響く。

 静寂が戻る。

 チッ。

 舌打ちが漏れる。胸の奥に、じくじくとした苛立ちが滞る。

 ギナスめ――あいつは危険だ。放っておけば、いつかこの楽園を壊す。

 今、殺るか? いや、まだその時じゃない。

 まずは勇者だ。

 勇者を潰してから――ギナスを殺る。

「ふっ」

 来るがいい、日向勇斗。完膚なきまでに叩き潰してやる。邪魔者をすべて消し去り、この手で理想の楽園を築く。すべての人間を配下に変え、永遠の王として君臨する。

 魔神は再び、甲高い笑い声をあげた。

 その笑いは、誰よりも孤独だった。


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 飛竜の背から、魔神が軽やかに降り立った。
 続けてソーマも、細い足で砂を踏むように着地する。
「ここがマナの聖域。綺麗なところですわねぇ」
 ソーマは小さくあくびをして、うんと伸びをした。
「でも、すぐに灰になってしまいますけど」
 その姿は、以前の黒いゴシックドレスではなかった。露出の多い衣装に変わっており、黒羽のような布が肩から広がっている。まるで人の形をしたカラスのようだった。
「さて、魔神様。行きましょうか」
 魔神はゆっくりと勇斗たちに向かって歩き出す。漆黒の鎧が、カチャリ、カチャリと冷たい音を立てた。顔はフルフェイスの兜に覆われて見えない。身長は勇斗よりわずかに高い程度。それでも、その存在は空気そのものを押し潰すような威圧感を放っていた。
「聖域には結界が張り巡らされていたはず――どうやって入ってきた?」
 チキサは怒りを含んだ声で問う。
「うふふ。これを持っていたら簡単に入れましてよ」
 ソーマが取り出したのは、氷漬けにされた勇斗の左腕だった。
「それは、僕の腕!」
 勇斗は声を張り上げた。
「あらユート。お久しぶりですわね。生きていてくださって嬉しいですわ」
「ユートの左腕に残された紋様が、外側から聖域座標と同調した。結果として、内と外の境界が一時的に曖昧になったということですね。迂闊でした」
 チキサは唇をきつく噛んだ。
「難しいことはよくわかりませんが、まぁ、入れたのだからそういうことですわね。じゃ、もうこれはいりませんわ」
 ソーマは氷を持ち上げると、指先で軽く弾いた。
 次の瞬間、氷は粉々に砕け散った。
 勇斗の左腕が、細かな破片となって宙を舞い、光の粒とともに消える。
 あぁ、と嘆いた勇斗は、崩れるように膝をついた。
「さて、わたくしたちがここに来た理由、もうおわかりですわね?」
「私の力を奪うこと」
「そうですわ。では、さっさと始めましょう。ねぇ、魔神様」
 魔神は静かにうなずくと、右手を天へ掲げた。
 闇の渦が空に生まれ、そこから巨大な斧がせり出す。刃には深紅の紋様が浮かび上がり、周囲の光を吸い込んでいく。
 魔神はその斧を握りしめ、無言のまま構えを取った。
 マナの聖域に、重く冷たい殺気が満ちていった。
「ユート、構えろ! チキサ様を守るんだ!」
 ランパが叫んだ。
 勇斗は立ち上がり、マントの内側からドラシガーを一本取り出し、咥えた。
 ガントレットの宝珠から放たれる青白い炎で底面を炙る。瞬く間に緑煙が立ち上り、勇斗の周囲をゆらゆらと包み込んだ。
 勇斗は鞘から聖剣クトネシスを抜いた。刃が光を放ち、空気が震える。
 魔神に向かって走ろうとした――だが、足が動かない。
 圧倒的な威圧感。
 闇そのものが壁のように立ちはだかり、勇斗の身体を縛りつける。
 魔神が一歩、前へ出た。
 その瞬間、精霊眼が発動する。視界に走るのは、無数の線。しかし、それらはあまりにも巨大で、複雑すぎた。
 避けられない――そう思った瞬間、勇斗の身体が吹き飛んだ。地を滑り、背中が岩に叩きつけられる。
 勇斗だけではない。ランパも、チカップも、シグネリアも地面に転がっていた。
 魔神がじりじりとチキサへ近づく。
「さ、させないっス!」
 チカップが、息も絶え絶えに羽ペンを取り出し、地に魔法陣を描く。赤と青の紋様が交わり、炎と水の矢が空を裂いて飛んだ。
 だが、魔神は一歩も動かず、ただ手を払った。それだけで、魔法は霧のように消えた。
「そんな」
 チカップの声が震える。
「お前の力、この俺が貰う」
 魔神はチキサの前で立ち止まり、静かに言う。
 その声は、兜にこもってくぐもっていたが、どこか子供のように甲高い。
 勇斗の背筋に冷たいものが走った。
 この声、どこかで――
 考える間もなく、魔神の腕がチキサの胸を貫いた。
「うっ、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 チキサの悲鳴が聖域に響く。その身体がゆっくりと崩れ、灰となって舞い上がる。
 女神の光が、風に溶けて消えていった。
 精霊石が地面に落下し、砕け散った。
 精霊樹が、ゆっくりと枯れ始めた。周囲の草花も次々と灰色に変わり、風が止む。
 魔神は、手を開いたり閉じたりを繰り返しながら、踵を返した。
「待ちなさい!」
 シグネリアが、剣を構えて叫ぶ。
「あらぁ、お姫様。勇敢ですわねぇ。でも、その剣先――震えてましてよ?」
 ソーマが嘲笑いながら歩み寄る。黒い羽のような衣がゆらりと揺れた。
「ふん、その顔、いつ見ても腹が立ちますわね」
 指を鳴らすと、霧の刃が出現した。鋭い音とともに、空気が切り裂かれる。
「また死になさいな」
 まずい、シグネリアが危ない。
 勇斗は必死に身体を起こした。地面を蹴り、手を伸ばす。
 その刹那、ソーマが奇声に近い声を上げた。
「ちょ、魔神様!? 何を――!」
 魔神が霧の刃を掴んでいた。刃はその手の中で音もなく消えた。
 無言のまま、魔神はシグネリアの腰を抱きかかえる。そして、赤い飛竜の背に向かって跳躍した。
「魔神様、待ってくださいませーっ!」
 ソーマも慌てて飛び乗った。
 飛竜は翼をはためかせ、濃い雲を切り裂くように空へと昇っていく。
 地上に、重く沈んだ静寂が残った。
「ねーちゃん、攫われちゃったぞ!」
 四つん這いの格好で、ランパが顔を上げる。
「どうして、魔神はソーマの攻撃を止めたんスかね」
 チカップが息を切らせながら呟いた。
「わかんねぇ。そんなことより、ここはもう危険だ。精霊樹が完全に枯れたら、この聖域は崩壊する。行くぞ、ユート!」
 精霊樹の枝を掲げたランパが、空へ向かって叫ぶ。
「来い、シンター!」
 光の筋が走り、空から白銀の舟が降りてきた。勇斗たちは急いで乗り込み、大空へと舞い上がる。
 下を覗くと、マナの聖域がゆっくりと海中へ沈んでいくのが見えた。青白い光が泡のように弾け、やがてすべてが暗い海に飲まれていった。
「マナの聖域が――チキサ様――」
 うずくまったランパは、かすれた声で呟いた。
 勇斗は何も言えず、ただ拳を握りしめた。
 ◆
 魔神は、気を失ったシグネリアをそっと飛竜の背に寝かせた。
 なぜ助けたのか、自分でもわからなかった。本能的に身体が動いていた。この娘の顔を見ると、心がざわつく。胸の奥が、焼けるように痛む。
 俺は、一体何をやっている。
 たかが人間。殺しても何の問題もない。だが、それができなかった。この娘が王女だから? 違う。名も立場も関係ない。
 ――何だ、この感情は。胸が苦しい。
「魔神様ぁ? こんな女、連れてきてどうなさるおつもり? ああ、人質にでもするんですのね? それとも化け物にして、ユートたちにぶつけるおつもり?」
「黙れ」
 魔神は低く、静かに言った。
 ソーマの顔が一瞬で引きつる。
「この女は、ずっと俺の側に置いておく」
 魔神は、これまで魔族へと変化させてきた人間たちのことを思い出していた。砂漠の町で出会った金髪の男――力の加減を誤り、暴走させてしまった。次に変化させたソレイン王国の大臣は、理性を保ったまま忠実な部下として役に立ってくれた。
 だが、この女は違う。変化させる気にならない。ずっと、この顔を見ていたい。
 どこか晴れやかな気持ちになった魔神は、兜の下で頬を緩めた。
「はぁ、新しい魔神様の考えていることは、ほんっとうにわかりませんわ」
 ソーマは不満げに肩をすくめ、深くため息をついた。
 やがて、火山の上空へと差しかかった。赤く煮えたぎる溶岩の光が、鎧の縁を血のように照らす。
 飛竜は旋回しながらゆっくりと下降する。
 魔神は、シグネリアを抱えたまま玉座の間へと進んだ。配下の魔族たちは、主の腕の中に人間の娘がいるのを見て、怪訝な表情を浮かべる。だが、誰も何も言わなかった。
 玉座の間の奥。鉄格子付きの部屋の中に、魔神はシグネリアをそっと寝かせた。
 死なれては困る。目が覚めたら、水だけは与えておこう。
 魔神はしばらく、彼女の顔を黙って見つめた。そして鉄格子を下ろし、ゆっくりと玉座に戻る。
 漆黒の玉座に腰を下ろし、足を組む。静かに息を吐く。
 やがて勇者たちが来るだろう。だが、今の自分に敵う者などいない。マナの女神の力を手に入れたこの身は、もはや世界そのものを凌駕している。
「――ふ、ふふ。くくく――あははははははは!」
 笑い声が玉座の間に響き渡る。それは、勝者の嘲笑にも似ていた。だがその奥底には、誰も気づかないほど微かな痛みが混じっていた。
「上機嫌だな、魔神様」
 玉座の間に通じる扉が音を立てて開く。
 竜人型の魔族が姿を現した。口には葉巻を咥え、隙間から白い煙をゆっくりと吐き出している。
「ギナスか。何の用だ?」
「マナの女神の力を吸収したそうじゃねぇか。そいつを褒めに来たのさ。おめでとさん」
「随分と上から目線だな」
「てめぇより長生きしてるんでな」
 ギナスは葉巻を口から離し、勢いよく煙を吐く。白い煙が明かりに溶けて、霞のように揺らめいた。
「だが、力も立場も、今は俺の方が上だ。少しは配下らしくしたらどうだ?」
 魔神は低く唸るように言った。
「悪いが、俺様はてめぇを主だなんて思っちゃいねぇ。縛られるのは性に合わねぇんだよ」
 ギナスは口端を吊り上げ、くぐもった笑いを漏らす。
 踵を返したギナスは、去り際に葉巻を床に投げ捨てた。煙を噴き上げたまま、ころころと転がる。
「どこに行くつもりだ?」
「ちょいと散歩だ」
 軽く手を振るようにして、ギナスは扉を押し開けた。
「じゃあな」
 鉄扉の閉まる音が、重く玉座の間に響く。
 静寂が戻る。
 チッ。
 舌打ちが漏れる。胸の奥に、じくじくとした苛立ちが滞る。
 ギナスめ――あいつは危険だ。放っておけば、いつかこの楽園を壊す。
 今、殺るか? いや、まだその時じゃない。
 まずは勇者だ。
 勇者を潰してから――ギナスを殺る。
「ふっ」
 来るがいい、日向勇斗。完膚なきまでに叩き潰してやる。邪魔者をすべて消し去り、この手で理想の楽園を築く。すべての人間を配下に変え、永遠の王として君臨する。
 魔神は再び、甲高い笑い声をあげた。
 その笑いは、誰よりも孤独だった。