5 急変(前)
ー/ー 園庭に降り立ったあと。
善夜は下される命令のままに、正門へ続く通路を歩いていた。
頭の中にはまだ、ヒドゥンの声がこびりついている。
なぜ、彼が自分の名前を知っているだろうか。
『――止まってください』
正門へ続く通路の先。
地上3メートルほどの高さに張られた鎖の足場に、ヒドゥンは立っていた。
傷口は塞がっているようだが、右腕は半分が失われたままだった。
彼は善夜の姿を認めるや否や、
「来たか……!」
残った左手で首をごきりと鳴らしながら、口の端を上げた。
笑っているようで、笑っていない。
追い詰められた獣が威嚇しているような、緊迫した表情。
『公務執行を再開します』
「――契約について知りたいんだったら命令に逆らえ!!」
オフィサーの宣言と同時に、ヒドゥンが声を張り上げた。
彼ギラついた目が、善夜の震える瞳を捉える。
――命令に逆らえば、動けなくなる。
それでも。
善夜はぎゅっと目を閉じて、前方に倒れ込むように身を投げ出した。
彼女の身体は、まるで糸の切れた操り人形のように――くたり、とその場に崩れ伏す。
なぜ彼が『契約』を知っているのか。
なぜ彼が『自分の名前』を知っているのか。
彼がそうであるならば、願いは叶えられるのか――確かめなければならない。
身体は、先ほどオフィサーが忠告したとおりになった。
手足に力が入らない。
ただ、支配状態の時と同様、首だけは動かすことができる。
善夜は何とか顔を上げて、じっとヒドゥンを見る。
「……いい子だ」
緊張と気迫に満ちた目つきのまま。
ヒドゥンはニヤリと笑って口を開いた。
「やっと気付いたみてーだな」
やはり、契約しているのは彼だった。
なのに、相変わらず虐げられている。
そして、彼は自分とオフィサーを襲ってきた。
「約束は……?」
これから果たされることを願って。
善夜は震える声で尋ねた。
ヒドゥンは、答えない。
こちらの反応を楽しむように、ニヤニヤと笑っている。
嫌な予感しかしない。でも――
不意に、彼の目の様子が変わった。
蛇のように細く鋭くなり、瞳が淡い緑色に光る。
次の瞬間。
善夜の視界に、無数の鎖が浮かび上がった。
ヒドゥンの瞳と同じ色の光を放っている。
それらは全て、倒れたままの自分の身体から伸びており――周囲の児童や職員たちと繋っていた。
屋上へ伸びている鎖もある。
高橋たちとも繋がっているのだろう。
「――な? ちゃんと『人気者』にしてやっただろ?」
投げ込まれたのは、得意気な声。
恐る恐る視線を戻すと、そこには会心の笑みを浮かべるヒドゥンの顔があった。
「……!!」
しばらくの間、善夜は息をするのを忘れていた。
気づいて呼吸を再開するが、思考が邪魔して上手くできない。
これがわたしの願い?
違う。こんなのじゃない。
わたしの願いは――
『ヒドゥンの能力は、「悪意の結紮」です』
オフィサーの声が、耳に飛び込んできた。
右手から、漆黒のモヤが滲み出る。
うねるように立ち上がった黒が、オフィサーの姿になる。
「あなたが期待するような、友好的なものではありません」
傍らに立った彼はヒドゥンに目を向けたまま、淡々と続けた。
「よって、先ほどの質問に関する答えですが――この契約で、あなたの願いは叶いません」
ようやくわかった結論に、次第に呼吸が落ち着いていく。
ややあって、
「…………そっか」
善夜は、ゆっくりと身を起こした。
心は完全に凪いでいる。
ずっと欲しかったものは、得られない。
最後の最後に信じた希望は、叶わない。
今度こそ全部、諦められる。
オフィサーが、珍しく眉をひそめてこちらを見ている。
穏やかな表情を浮かべているのが不思議なのだろう。
と、そこへ――
「もらったぁ!!」
ヒドゥンが複数の鎖を従えて善夜へと飛びかかってきた。
善夜はまだ地面に座り込んでいる。
オフィサーがすぐに手を掴めない――支配状態に移行できない距離。
彼女に動く気はない。
「代行者がいない公僕なんか怖くねぇ!」
しかし、オフィサーは無彩剣を振るった。
黒い柄頭が、側面からヒドゥンを捉え打ち据える。
吹っ飛ばされた彼は、通路脇に立った児童に直撃した。
「――がっ……!?」
児童の伸びた手が、彼の胸を貫く。
傷口から、暗緑色のアニマを昇っていく。
「テメー……っ……直接攻撃は……」
「代行者抜きの公務は禁じられている――そう思い込んでいるようですが」
体勢を戻し、オフィサーは動けなくなったヒドゥンに告げた。
「魔力を消費する実体での公務が非効率ゆえの対策にすぎません」
「く……そ……!」
ヒドゥンが歯噛みする。
次にオフィサーは、善夜に「あなたもあなたです」と視線を落とす。
「『滅びるまでアニマを捧げる契約を結んだ頭のおかしな人間がいる』と通報を受けた時は、正直耳を疑いましたが……」
うずくまったままの彼女の耳に、彼の声は滔々と流れ込んでくる。
全てが終わった今、ありとあらゆる言葉はただ通り過ぎるだけの音に過ぎない。
――はずなのだが、
「まさか何の知識もなく、言われるがままに手続きを進めていたとは……」
まるで、小さな水の流れがコンクリートを削っていくようだった。
少しずつ、少しずつ――
「しかも『人気者になりたい』という、そんな些細な理由で……」
彼は言葉を切った。
変化のない善夜を見て、これ以上の苦情は無駄だと判断したのだろう。
「さあ、立ってください。支配状態はとっくに解除されています」
言いながら、オフィサーは彼女の腕を掴み引っ張り上げる。
僅かな痛みを伴い、身体が無理やり引き上げられる。
「公務はもうすぐ終わります。こちらも代行者制度に対する実績が必要なのです。公務さえ終わればあとはお好きに……」
「――些細なんかじゃない!!!」
気が付くと、善夜は叫んでいた。
どこにこんな気力が残っていたのだろうか。
自分でも不思議だった。
ダムが決壊したように吹き出した、感情の濁流が止まらない。
「私にとっては…………っ……!」
水中から叫ぶように、声が嗚咽に飲み込まれる。
溢れた涙で、視界が滲む。
それでも善夜はオフィサーを睨み――ぶつけるように声を張り上げた。
「愛されたいって願うことって、そんなにいけないことですか!?」
こちらを見つめる彼の目は驚いたように見開かれていた。
今回ばかりは、善夜も目をそらさない。
――と、その時。
善夜の腕を掴んでいた彼の、手の力が弱まった。
ストンと身体が落ちて、彼女は再び地面に座り込む。
ピリリとした感覚が、鼻孔を刺激する。
何が起こったのかわからず、改めて彼を見ると――
「え……?」
大量のアニマを放出しながら――オフィサーの身体が、崩れるように倒れていくところだった。
善夜は下される命令のままに、正門へ続く通路を歩いていた。
頭の中にはまだ、ヒドゥンの声がこびりついている。
なぜ、彼が自分の名前を知っているだろうか。
『――止まってください』
正門へ続く通路の先。
地上3メートルほどの高さに張られた鎖の足場に、ヒドゥンは立っていた。
傷口は塞がっているようだが、右腕は半分が失われたままだった。
彼は善夜の姿を認めるや否や、
「来たか……!」
残った左手で首をごきりと鳴らしながら、口の端を上げた。
笑っているようで、笑っていない。
追い詰められた獣が威嚇しているような、緊迫した表情。
『公務執行を再開します』
「――契約について知りたいんだったら命令に逆らえ!!」
オフィサーの宣言と同時に、ヒドゥンが声を張り上げた。
彼ギラついた目が、善夜の震える瞳を捉える。
――命令に逆らえば、動けなくなる。
それでも。
善夜はぎゅっと目を閉じて、前方に倒れ込むように身を投げ出した。
彼女の身体は、まるで糸の切れた操り人形のように――くたり、とその場に崩れ伏す。
なぜ彼が『契約』を知っているのか。
なぜ彼が『自分の名前』を知っているのか。
彼がそうであるならば、願いは叶えられるのか――確かめなければならない。
身体は、先ほどオフィサーが忠告したとおりになった。
手足に力が入らない。
ただ、支配状態の時と同様、首だけは動かすことができる。
善夜は何とか顔を上げて、じっとヒドゥンを見る。
「……いい子だ」
緊張と気迫に満ちた目つきのまま。
ヒドゥンはニヤリと笑って口を開いた。
「やっと気付いたみてーだな」
やはり、契約しているのは彼だった。
なのに、相変わらず虐げられている。
そして、彼は自分とオフィサーを襲ってきた。
「約束は……?」
これから果たされることを願って。
善夜は震える声で尋ねた。
ヒドゥンは、答えない。
こちらの反応を楽しむように、ニヤニヤと笑っている。
嫌な予感しかしない。でも――
不意に、彼の目の様子が変わった。
蛇のように細く鋭くなり、瞳が淡い緑色に光る。
次の瞬間。
善夜の視界に、無数の鎖が浮かび上がった。
ヒドゥンの瞳と同じ色の光を放っている。
それらは全て、倒れたままの自分の身体から伸びており――周囲の児童や職員たちと繋っていた。
屋上へ伸びている鎖もある。
高橋たちとも繋がっているのだろう。
「――な? ちゃんと『人気者』にしてやっただろ?」
投げ込まれたのは、得意気な声。
恐る恐る視線を戻すと、そこには会心の笑みを浮かべるヒドゥンの顔があった。
「……!!」
しばらくの間、善夜は息をするのを忘れていた。
気づいて呼吸を再開するが、思考が邪魔して上手くできない。
これがわたしの願い?
違う。こんなのじゃない。
わたしの願いは――
『ヒドゥンの能力は、「悪意の結紮」です』
オフィサーの声が、耳に飛び込んできた。
右手から、漆黒のモヤが滲み出る。
うねるように立ち上がった黒が、オフィサーの姿になる。
「あなたが期待するような、友好的なものではありません」
傍らに立った彼はヒドゥンに目を向けたまま、淡々と続けた。
「よって、先ほどの質問に関する答えですが――この契約で、あなたの願いは叶いません」
ようやくわかった結論に、次第に呼吸が落ち着いていく。
ややあって、
「…………そっか」
善夜は、ゆっくりと身を起こした。
心は完全に凪いでいる。
ずっと欲しかったものは、得られない。
最後の最後に信じた希望は、叶わない。
今度こそ全部、諦められる。
オフィサーが、珍しく眉をひそめてこちらを見ている。
穏やかな表情を浮かべているのが不思議なのだろう。
と、そこへ――
「もらったぁ!!」
ヒドゥンが複数の鎖を従えて善夜へと飛びかかってきた。
善夜はまだ地面に座り込んでいる。
オフィサーがすぐに手を掴めない――支配状態に移行できない距離。
彼女に動く気はない。
「代行者がいない公僕なんか怖くねぇ!」
しかし、オフィサーは無彩剣を振るった。
黒い柄頭が、側面からヒドゥンを捉え打ち据える。
吹っ飛ばされた彼は、通路脇に立った児童に直撃した。
「――がっ……!?」
児童の伸びた手が、彼の胸を貫く。
傷口から、暗緑色のアニマを昇っていく。
「テメー……っ……直接攻撃は……」
「代行者抜きの公務は禁じられている――そう思い込んでいるようですが」
体勢を戻し、オフィサーは動けなくなったヒドゥンに告げた。
「魔力を消費する実体での公務が非効率ゆえの対策にすぎません」
「く……そ……!」
ヒドゥンが歯噛みする。
次にオフィサーは、善夜に「あなたもあなたです」と視線を落とす。
「『滅びるまでアニマを捧げる契約を結んだ頭のおかしな人間がいる』と通報を受けた時は、正直耳を疑いましたが……」
うずくまったままの彼女の耳に、彼の声は滔々と流れ込んでくる。
全てが終わった今、ありとあらゆる言葉はただ通り過ぎるだけの音に過ぎない。
――はずなのだが、
「まさか何の知識もなく、言われるがままに手続きを進めていたとは……」
まるで、小さな水の流れがコンクリートを削っていくようだった。
少しずつ、少しずつ――
「しかも『人気者になりたい』という、そんな些細な理由で……」
彼は言葉を切った。
変化のない善夜を見て、これ以上の苦情は無駄だと判断したのだろう。
「さあ、立ってください。支配状態はとっくに解除されています」
言いながら、オフィサーは彼女の腕を掴み引っ張り上げる。
僅かな痛みを伴い、身体が無理やり引き上げられる。
「公務はもうすぐ終わります。こちらも代行者制度に対する実績が必要なのです。公務さえ終わればあとはお好きに……」
「――些細なんかじゃない!!!」
気が付くと、善夜は叫んでいた。
どこにこんな気力が残っていたのだろうか。
自分でも不思議だった。
ダムが決壊したように吹き出した、感情の濁流が止まらない。
「私にとっては…………っ……!」
水中から叫ぶように、声が嗚咽に飲み込まれる。
溢れた涙で、視界が滲む。
それでも善夜はオフィサーを睨み――ぶつけるように声を張り上げた。
「愛されたいって願うことって、そんなにいけないことですか!?」
こちらを見つめる彼の目は驚いたように見開かれていた。
今回ばかりは、善夜も目をそらさない。
――と、その時。
善夜の腕を掴んでいた彼の、手の力が弱まった。
ストンと身体が落ちて、彼女は再び地面に座り込む。
ピリリとした感覚が、鼻孔を刺激する。
何が起こったのかわからず、改めて彼を見ると――
「え……?」
大量のアニマを放出しながら――オフィサーの身体が、崩れるように倒れていくところだった。
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