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4 チュートリアル

ー/ー



 貯水タンクの上に、男が立っていた。

 両耳のピアス、緑がかった短髪、着崩したシャツ。
 刑事ドラマに登場する、裏社会のチンピラのような出で立ちをしている。

 だが、右腕だけが異様だった。
 甲冑のような白銀色の篭手に覆われ、甲の部分からは無数の鎖が揺れている。
 もちろん、そんな腕を持つ人間はいない。

公僕(コウボク)がよぉ……もう嗅ぎつけて来やがったか」

 男は明らかにイラついていた。
 彼の視線がこちらに移る。
 その目が、スッと細まった。
 笑ったのか睨んだのか――とにかく、標的にされたような気がした。

結紮者(リゲーター)・ヒドゥン」

 オフィサーは男に向かって淡々と告げる。

「在留資格不正取得罪及び人間襲撃の現行犯で身柄を確保します。おとなしくご同行ください」

 難しいことを言っているが、『悪いことをしたから捕まえる』ということだろうか。

「はっ、冗談じゃねぇ」

 ヒドゥンは吐き捨てるように答えると、

連合政府(上のやつら)が勝手に作ったルールなんて、知ったこっちゃねーよ!」

 篭手に覆われた右腕を善夜めがけて振り下ろした。

 じゃらじゃらじゃらっ!
 ヒドゥンの繰り出した幾条もの鎖が、生き物のように四方八方に伸びていく。
 止まった空気を切り裂く甲高い音と――強まっていく金属の匂い。

 後方や側方へ飛んでいったものは建物や人に絡んで結び、張り巡らされて足場となる。
 前方へ飛んできたものは――善夜とオフィサーを狙っていた。

「支配状態に移行します。手を出してください」
「っ……」

 善夜は一瞬躊躇するも、

「……わかりました」

 結局、言われるがままに手を差し出した。
 オフィサーがその手を握ると同時に彼の姿が黒く染まり――一瞬で握った手に収束していく。

『攻勢をかけます』

 自分の中から聞こえるオフィサーの声に、装着された剣帯と右手の剣。
 善夜は下されるであろう命令に、意識という意識を集中させた。

 自分の右腕が力強く振るう無彩剣(アーテル)が、漆黒の弧を描く。
 推進力を失った鎖の破片が足元に落ち――先ほどと同じく溶けるように、暗緑色のモヤと化した。

『ヒドゥンに向かって飛びます』

 驚く時間すら与えず、オフィサーの声が命令を下す。
 貯水タンクの上に居座るヒドゥンとは結構な距離があるが――

「わかりました!」

 とりあえずは、言われたとおりに。
 善夜が屋上の床を踏切り跳んだ。

「へぇっ!?」

 思いのほか力強い踏み込みとともに、一瞬でヒドゥンに肉迫した。
 当然、斬撃も組み込まれている。

「ぅおっ!?」

 ヒドゥンは驚きつつも、何とか篭手で善夜の刃を受け止める。
 ――まではよかったが、その衝撃で彼は貯水タンクの上から投げ出された。

「……落ちちゃいましたね」
『すぐ下の鎖に飛び乗って、真っ直ぐに走ります』

 オフィサーの声は次なる命令を下した。
 見下ろすと、そこにも数本の鎖が縦横に張り巡らされていた。
 すこやか園の敷地内に建った、様々な棟や寮舎を不規則に結んで。

『急いでください』
「あ……はい!」

 相変わらず意図はわからないが、善夜は飛び降りた。
 園庭の上を縦断する鎖にストン、と軽やかに着地する。

 これもオフィサーの身体能力なのだろうか。
 走り出してからも、足元は鎖の『芯』にしっかり乗ったように安定している。
 善夜は『鎖の上を走る!』と念じつつ足を動かしているだけである。

 下は見ない。
 落ちたら死ぬような高い場所を、全力疾走で綱渡りしている。
 見下ろせるわけがない。

 ちょうどその時だった。

「あっぶね……」

 びよん、と。
 更に下の鎖から来たのだろうか。
 飛び上がるように、ヒドゥンが目の前に躍り出た。
 走る速度を緩めぬまま、善夜の右腕が動く。

 同時に剣が、変わった。
 それまで重さを感じなかった漆黒の刃に、ずしりとした圧が宿る。

 ――無彩剣(アーテル)全負荷(フルロード)

 がきんっ! と。
 水平に振るわれた黒い刃が、ヒドゥンの右腕を篭手ごと斬り落とした。
 さらに勢いのまま、胸部に食らいつく。

 傷口から血のように、暗緑色のモヤが吹き出した。
 深々と肉体を斬り裂く振動が、低く手に伝わる。

 唖然とする善夜をよそに、彼女の右腕は剣を振り切った。

「っ……!?」

 まともな悲鳴すら上げる間もなく。
 ヒドゥンと彼の右腕は、力なく落ちていった。

『――止まってください』

 オフィサーの命令は何とか聞けたものの。
 鎖の上に立ち尽くしていた。

 現実離れした出来事の連続で、脳がふわふわする。
 悪夢でも見ているようだった。
 それでも、善夜は必死で考えを巡らせる。

 落下音は聞こえなかった。
 彼の姿も、地上を覆うアニマに隠されて確認できない。
 でもこの高さから、あの傷で――ということは。

 一つの結論に達した途端。
 奥歯がガチガチと震え、罪悪感が胸を覆っていく。
 耳まで響く動悸を鎮めようと、善夜の左手が無意識に――胸に伸びかけた。

 その直後、全身の力が抜けた。

「え――」

 身体が、傾いていく。
 何とかバランスを取ろうとしても、腕にも脚にも力が入らない。
 視界の端を、銀色の何かが横切った。

 ざくっ。

 鈍い音が、自分の左肩のあたりで鳴った。
 鎖の先端が突き刺さっている。

 ――のに、痛みがない。

『動かないでください』

 オフィサーの声は鋭かった。
 命令に従って、善夜は身体を強ばらせて待つ。

 傾いた方向と反対側に向かって、右手の剣を素早く一振りされる。
 その勢いを利用したのか、傾きが直り――善夜の足が再び鎖の芯を捉えた。

 安堵の溜息をつきつつも、善夜は不安げに左肩を見る。
 鎖の刺さった傷口からは、漆黒のモヤが細く昇っている。

『支配状態時にあなたが負った損害は、全て私が肩代わりすることになっています』

 善夜の右手を介して、剣の切っ先で鎖を抜き捨てながら。
 オフィサーの声は淡々と述べる。
 傷が塞がり出血が止まるように、左肩のモヤが止まった。

「あ……」
『――もう1点。命令外の動きをすると行動不能に陥りますので、お気を付けください』

「! ごめんなさい……」
『ひとまず鎖を渡りきりましょう』
「はい……」

 暗鬱な気持ちが消えないまま、彼女は命令に従った。

 ***

 「……ヒドゥンさんは……死んじゃったんですか……?」

 低学年の児童の寮舎の屋根に到達し、善夜は恐る恐る問うた。
 右手から滲み出た漆黒のモヤが、隣に人の形を結ぶ。

「いいえ。魔人はアニマが尽きない限り消滅しません」

 現れたオフィサーが、眼下の園庭を見据えて答える。

「アニマが、尽きる……」

 善夜はふと、ヒドゥンの傷口から吹き出していた暗緑色のモヤを思い出した。

「あの……斬った時に出てた緑っぽいモヤも、アニマなんですか?」
「ええ。我々の身体はアニマで構成されています。傷を負えばそれが流出し……」

 彼の言葉が、不意に止まった。
 何かを感じ取ったように、鋭く周囲を見回す。
 つられて善夜も視線を巡らせる。
 均一に漂っていた辺り一帯のアニマが、まばらになっていた。

「おそらく、アニマを取り込み回復を図っているのでしょう」

 その声は相変わらず淡々としているが、善夜には小さな緊張が読み取れた。

「回復って……まだ戦うんですか……?」
「ええ。すぐに追撃を……」
「――待ってください!」

 オフィサーがこちらに視線を戻すと同時に、善夜は意を決して声を上げた。

「その前にっ……1つだけ、聞きたいことがあります……!」

 次の戦いが始まる前に、どうしても確認したかった。

「何でしょう」
「契約はどうなってるんですか……!?」

 なし崩し的にここまで来てしまったが。
 『願い事』が叶うか否か――これが彼女の全てである。
 もちろん、公務のあとに叶うのであれば、全力で協力するのだが……

 善夜は精いっぱい真剣な表情を作り、オフィサーを見上げる。
 彼もまた、真っ直ぐに善夜を見下ろして、

「その件につきましては、のちほどお答えいたします」

 ミもフタもなく答えた。
 あまりの素っ気なさに、唇がわななく。

「先ほど申し上げたように、急がなければ……」
「――お願いします!」

 オフィサーに詰め寄り、食い下がる善夜。
 こちらだって、譲れない。
 生きるか死ぬかの選択が懸かっているのだから。

「『はい』か『いいえ』だけでいいですからっ……『いいえ』だったら、理由はあとでも……」
「――出てこい七川 善夜(ななかわ よよ)おおおおおおお!!!」

 遮ったのはヒドゥンの声。
 どういうわけか、名指しだった。

「行きましょう」

 思わず言葉を失う善夜の手を、オフィサーが掴む。

『まっすぐ進み、地上に降ります』

 彼女を支配下に置くや否や、彼は命令を下した。 


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 貯水タンクの上に、男が立っていた。
 両耳のピアス、緑がかった短髪、着崩したシャツ。
 刑事ドラマに登場する、裏社会のチンピラのような出で立ちをしている。
 だが、右腕だけが異様だった。
 甲冑のような白銀色の篭手に覆われ、甲の部分からは無数の鎖が揺れている。
 もちろん、そんな腕を持つ人間はいない。
「|公僕《コウボク》がよぉ……もう嗅ぎつけて来やがったか」
 男は明らかにイラついていた。
 彼の視線がこちらに移る。
 その目が、スッと細まった。
 笑ったのか睨んだのか――とにかく、標的にされたような気がした。
「|結紮者《リゲーター》・ヒドゥン」
 オフィサーは男に向かって淡々と告げる。
「在留資格不正取得罪及び人間襲撃の現行犯で身柄を確保します。おとなしくご同行ください」
 難しいことを言っているが、『悪いことをしたから捕まえる』ということだろうか。
「はっ、冗談じゃねぇ」
 ヒドゥンは吐き捨てるように答えると、
「|連合政府《上のやつら》が勝手に作ったルールなんて、知ったこっちゃねーよ!」
 篭手に覆われた右腕を善夜めがけて振り下ろした。
 じゃらじゃらじゃらっ!
 ヒドゥンの繰り出した幾条もの鎖が、生き物のように四方八方に伸びていく。
 止まった空気を切り裂く甲高い音と――強まっていく金属の匂い。
 後方や側方へ飛んでいったものは建物や人に絡んで結び、張り巡らされて足場となる。
 前方へ飛んできたものは――善夜とオフィサーを狙っていた。
「支配状態に移行します。手を出してください」
「っ……」
 善夜は一瞬躊躇するも、
「……わかりました」
 結局、言われるがままに手を差し出した。
 オフィサーがその手を握ると同時に彼の姿が黒く染まり――一瞬で握った手に収束していく。
『攻勢をかけます』
 自分の中から聞こえるオフィサーの声に、装着された剣帯と右手の剣。
 善夜は下されるであろう命令に、意識という意識を集中させた。
 自分の右腕が力強く振るう|無彩剣《アーテル》が、漆黒の弧を描く。
 推進力を失った鎖の破片が足元に落ち――先ほどと同じく溶けるように、暗緑色のモヤと化した。
『ヒドゥンに向かって飛びます』
 驚く時間すら与えず、オフィサーの声が命令を下す。
 貯水タンクの上に居座るヒドゥンとは結構な距離があるが――
「わかりました!」
 とりあえずは、言われたとおりに。
 善夜が屋上の床を踏切り跳んだ。
「へぇっ!?」
 思いのほか力強い踏み込みとともに、一瞬でヒドゥンに肉迫した。
 当然、斬撃も組み込まれている。
「ぅおっ!?」
 ヒドゥンは驚きつつも、何とか篭手で善夜の刃を受け止める。
 ――まではよかったが、その衝撃で彼は貯水タンクの上から投げ出された。
「……落ちちゃいましたね」
『すぐ下の鎖に飛び乗って、真っ直ぐに走ります』
 オフィサーの声は次なる命令を下した。
 見下ろすと、そこにも数本の鎖が縦横に張り巡らされていた。
 すこやか園の敷地内に建った、様々な棟や寮舎を不規則に結んで。
『急いでください』
「あ……はい!」
 相変わらず意図はわからないが、善夜は飛び降りた。
 園庭の上を縦断する鎖にストン、と軽やかに着地する。
 これもオフィサーの身体能力なのだろうか。
 走り出してからも、足元は鎖の『芯』にしっかり乗ったように安定している。
 善夜は『鎖の上を走る!』と念じつつ足を動かしているだけである。
 下は見ない。
 落ちたら死ぬような高い場所を、全力疾走で綱渡りしている。
 見下ろせるわけがない。
 ちょうどその時だった。
「あっぶね……」
 びよん、と。
 更に下の鎖から来たのだろうか。
 飛び上がるように、ヒドゥンが目の前に躍り出た。
 走る速度を緩めぬまま、善夜の右腕が動く。
 同時に剣が、変わった。
 それまで重さを感じなかった漆黒の刃に、ずしりとした圧が宿る。
 ――|無彩剣《アーテル》・|全負荷《フルロード》
 がきんっ! と。
 水平に振るわれた黒い刃が、ヒドゥンの右腕を篭手ごと斬り落とした。
 さらに勢いのまま、胸部に食らいつく。
 傷口から血のように、暗緑色のモヤが吹き出した。
 深々と肉体を斬り裂く振動が、低く手に伝わる。
 唖然とする善夜をよそに、彼女の右腕は剣を振り切った。
「っ……!?」
 まともな悲鳴すら上げる間もなく。
 ヒドゥンと彼の右腕は、力なく落ちていった。
『――止まってください』
 オフィサーの命令は何とか聞けたものの。
 鎖の上に立ち尽くしていた。
 現実離れした出来事の連続で、脳がふわふわする。
 悪夢でも見ているようだった。
 それでも、善夜は必死で考えを巡らせる。
 落下音は聞こえなかった。
 彼の姿も、地上を覆うアニマに隠されて確認できない。
 でもこの高さから、あの傷で――ということは。
 一つの結論に達した途端。
 奥歯がガチガチと震え、罪悪感が胸を覆っていく。
 耳まで響く動悸を鎮めようと、善夜の左手が無意識に――胸に伸びかけた。
 その直後、全身の力が抜けた。
「え――」
 身体が、傾いていく。
 何とかバランスを取ろうとしても、腕にも脚にも力が入らない。
 視界の端を、銀色の何かが横切った。
 ざくっ。
 鈍い音が、自分の左肩のあたりで鳴った。
 鎖の先端が突き刺さっている。
 ――のに、痛みがない。
『動かないでください』
 オフィサーの声は鋭かった。
 命令に従って、善夜は身体を強ばらせて待つ。
 傾いた方向と反対側に向かって、右手の剣を素早く一振りされる。
 その勢いを利用したのか、傾きが直り――善夜の足が再び鎖の芯を捉えた。
 安堵の溜息をつきつつも、善夜は不安げに左肩を見る。
 鎖の刺さった傷口からは、漆黒のモヤが細く昇っている。
『支配状態時にあなたが負った損害は、全て私が肩代わりすることになっています』
 善夜の右手を介して、剣の切っ先で鎖を抜き捨てながら。
 オフィサーの声は淡々と述べる。
 傷が塞がり出血が止まるように、左肩のモヤが止まった。
「あ……」
『――もう1点。命令外の動きをすると行動不能に陥りますので、お気を付けください』
「! ごめんなさい……」
『ひとまず鎖を渡りきりましょう』
「はい……」
 暗鬱な気持ちが消えないまま、彼女は命令に従った。
 ***
 「……ヒドゥンさんは……死んじゃったんですか……?」
 低学年の児童の寮舎の屋根に到達し、善夜は恐る恐る問うた。
 右手から滲み出た漆黒のモヤが、隣に人の形を結ぶ。
「いいえ。魔人はアニマが尽きない限り消滅しません」
 現れたオフィサーが、眼下の園庭を見据えて答える。
「アニマが、尽きる……」
 善夜はふと、ヒドゥンの傷口から吹き出していた暗緑色のモヤを思い出した。
「あの……斬った時に出てた緑っぽいモヤも、アニマなんですか?」
「ええ。我々の身体はアニマで構成されています。傷を負えばそれが流出し……」
 彼の言葉が、不意に止まった。
 何かを感じ取ったように、鋭く周囲を見回す。
 つられて善夜も視線を巡らせる。
 均一に漂っていた辺り一帯のアニマが、まばらになっていた。
「おそらく、アニマを取り込み回復を図っているのでしょう」
 その声は相変わらず淡々としているが、善夜には小さな緊張が読み取れた。
「回復って……まだ戦うんですか……?」
「ええ。すぐに追撃を……」
「――待ってください!」
 オフィサーがこちらに視線を戻すと同時に、善夜は意を決して声を上げた。
「その前にっ……1つだけ、聞きたいことがあります……!」
 次の戦いが始まる前に、どうしても確認したかった。
「何でしょう」
「契約はどうなってるんですか……!?」
 なし崩し的にここまで来てしまったが。
 『願い事』が叶うか否か――これが彼女の全てである。
 もちろん、公務のあとに叶うのであれば、全力で協力するのだが……
 善夜は精いっぱい真剣な表情を作り、オフィサーを見上げる。
 彼もまた、真っ直ぐに善夜を見下ろして、
「その件につきましては、のちほどお答えいたします」
 ミもフタもなく答えた。
 あまりの素っ気なさに、唇がわななく。
「先ほど申し上げたように、急がなければ……」
「――お願いします!」
 オフィサーに詰め寄り、食い下がる善夜。
 こちらだって、譲れない。
 生きるか死ぬかの選択が懸かっているのだから。
「『はい』か『いいえ』だけでいいですからっ……『いいえ』だったら、理由はあとでも……」
「――出てこい|七川 善夜《ななかわ よよ》おおおおおおお!!!」
 遮ったのはヒドゥンの声。
 どういうわけか、名指しだった。
「行きましょう」
 思わず言葉を失う善夜の手を、オフィサーが掴む。
『まっすぐ進み、地上に降ります』
 彼女を支配下に置くや否や、彼は命令を下した。