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3 馴れ初め(後半)

ー/ー



 ドライアイスの煙のような見た目だが、温度は感じない。ただ、雨雲よりも暗い色が不気味だった。

「何、これ……?」

 反射的にモヤが出ている場所を探して視線を下げて――自分の身体から出ていた。

「ほわあああああ!!?」

 この鈍色のモヤを掻き消そうと、半狂乱になって両手を振り回した途端――

「…………え?」

 糸の切れた操り人形のようにクタリと、その場に崩れ落ちた。

(…………体が、動かない……?)

 意志に反して動かぬ四肢に怯えながら、善夜は屋上の床に口づけしている顔を何とか横に向ける。

(あ……頭は動いた……)
『人間界において』

 再び、オフィサーの声がすぐ近くから聞こえる。

『我々――魔人はアニマを消費しなければ実体状態を保つことができません』

 所在不明の彼が滔々と語っている間にも、幾条もの鎖が床に転がったままの彼女めがけて降り注ぐ。

 かんっ、ききんっ、かきんっ

 金属音が連続する。
 善夜の右腕が、まるで独立した生き物のように躍動し、降り注ぐ鎖を次々と弾いていく。
 弾かれた鎖は寮舎や庭木、人々に絡まり、足場を作っていく。

『しかし実体状態にならなければ公務を執行できません』

 不意に右腕が左方向にググッと旋回し、

「わっ……!?」

 善夜は引きずられるように仰向けにひっくり返る。一瞬遅れて彼女の足があった場所に鎖が叩きつけられた。

『よって、元々実体のある人間の身体を「支配」することでアニマの消費を抑えています』
「アニマ……!? 支配って……!?」

 目の前で、剣を持った自分の右腕が降り注ぐ鎖を捌き続ける光景に圧倒されながら、喚くように尋ねる善夜。

『詳細はあとで説明いたします。ひとまずは立ち上がって私に従ってください』
「わっ……」

 前方に真っ直ぐ伸びる右腕に引っ張られるように身を起こし、彼女は相変わらずどこにいるかもわからないオフィサーに向かって話しかけようとした時。

「そんなこと、急に言われて……――きゃあっ!?」

 再び動いた善夜の右腕の剣が、しつこく飛来した鎖を絡め取った。

「補足します」

 声がした瞬間――

「――ぅわあああっ!?」

 自分の手から滲み出た漆黒のモヤが、一瞬にして人の形を形成し――オフィサーになった。
 尻もちをついた善夜を見下ろす彼の右手には、彼女が持っていたはずの剣がある。
 鎖は変わらず、漆黒の剣身に絡め取られていた。
 驚きで目を丸くした彼女の体から、再び鈍色のもやが滲み昇っていく。

「『契約』を交わした以上、私の命令なしに動くことはできません」
「け、契約……って……?」

 善夜の胸の奥がずん、と重くなる。
 知らない世界が自分を飲み込もうとしてるようで、怖い。
 オフィサーは剣に絡めた鎖を振り飛ばすと、懐から取り出した先ほどの黒いカードの裏面を善夜に見せた。

「あなたの印が、この特別臨時契約書にあります」

 カードの裏面には『特別臨時契約書』というタイトル。
 その下に、太字で『以下の内容を確認のうえ了承いただける場合は、親指・人差し指・中指・薬指・小指のいずれかの指で押捺してください』という一文。
 続く細かな文字列の上に――善夜の指紋が、人差し指から小指まで白く押捺されていた。
 ハッとした善夜は立ち上がり――遠慮気味ではあるが非難するようにオフィサーを見る。

「こんなの……さ、詐欺じゃないですか……!」

 契約って、双方の同意が必要なはず。なのに、名刺のフリをしたカードに触れただけで……こんなの、理不尽すぎる。それ以前に――彼の公務に協力する気はさらさらない。自分なんかができるわけない。勉強も運動も苦手で、何の取り柄もない自分が、魔界の公務員の仕事を代行するなんて……

「いいえ。詐欺ではありません」

 彼女の思考を遮り、オフィサーは言い切った。
 そして、先ほどと全く同じように再び彼女に手を伸ばす。反射的に自分を庇う形に両手を上げて目を閉じる善夜。右手を握られる感覚。

「ひ、開き直らないでください……!」

 やはり先ほどと全く同じように右手に出現した黒い剣が飛来する鎖を剣で次々と捌いていく中、善夜は精一杯のしかめっ面を浮かべる。

『あなたの質問に答えただけですが』
「っ……とにかく、もう放っといて……」
『迫害が止まるとしてもですか?』
「――!?」

 善夜の心臓が、大きく跳ねた。

 迫害が、止まる――?

 17年間、耐え続けてきた日々が、終わる?

「それって、どういう……」

 続きを聞こうとした瞬間――

 チッ。

 舌打ちが聞こえた。

「――!?」

 善夜の身体が、反射的に強張る。
 あの職員の男と同じ、威圧的な音。でも――振り向くと、高橋は相変わらず時間固定されたまま動いていない。
 じゃあ、今の舌打ちは――

「少しは当たれよな……!」

 落ち着きのないトゲトゲしい声が、上から降ってきた。
 振り返り見上げると――
 いつの間にか張り巡らされていた鎖の足場の1本に、男が立っていた。
 両耳のピアス、緑がかった短髪、着崩したシャツ――ショッピング街で時折見かけるような、ガラの悪そうな若い男。年齢は二十代前半といったところか。
 でも、右腕だけが異様だった。
 甲冑のような白銀色の篭手に覆われ、甲の部分からは無数の鎖が――まるで生き物のように、ゆらゆらと揺れている。
 男は明らかにイラついた顔で、鎖の足場の上にチンピラのようにしゃがんだ。
 彼の細められた目に睨まれ、善夜の背筋がゾクリと凍った。

 この人、危ない――

 言葉にならない恐怖が、彼女の喉を締め付け呼吸を忘れさせる。
 その時――善夜の右手から、闇色のモヤが流れ出た。人の形を作ったそれがオフィサーの姿になるやいなや、彼の背中に隠れるようにして彼女は身を縮める。
 ここでようやく、忘れていた呼吸を再開した。

結紮する者(リゲーター)・ヒドゥン」

 オフィサーは男に向かって淡々と告げる。

「在留資格不正取得罪及び人間襲撃の現行犯で身柄を確保します。おとなしくご同行ください」
「はっ、冗談じゃねぇ」

 ヒドゥンは鎖の足場の上で吐き捨て、

連合政府(上のやつら)が勝手に作ったルールなんて、知ったこっちゃねーよ!」

 言うが早いか――篭手に覆われた右腕を、善夜めがけて振り下ろした。



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 ドライアイスの煙のような見た目だが、温度は感じない。ただ、雨雲よりも暗い色が不気味だった。
「何、これ……?」
 反射的にモヤが出ている場所を探して視線を下げて――自分の身体から出ていた。
「ほわあああああ!!?」
 この鈍色のモヤを掻き消そうと、半狂乱になって両手を振り回した途端――
「…………え?」
 糸の切れた操り人形のようにクタリと、その場に崩れ落ちた。
(…………体が、動かない……?)
 意志に反して動かぬ四肢に怯えながら、善夜は屋上の床に口づけしている顔を何とか横に向ける。
(あ……頭は動いた……)
『人間界において』
 再び、オフィサーの声がすぐ近くから聞こえる。
『我々――魔人はアニマを消費しなければ実体状態を保つことができません』
 所在不明の彼が滔々と語っている間にも、幾条もの鎖が床に転がったままの彼女めがけて降り注ぐ。
 かんっ、ききんっ、かきんっ
 金属音が連続する。
 善夜の右腕が、まるで独立した生き物のように躍動し、降り注ぐ鎖を次々と弾いていく。
 弾かれた鎖は寮舎や庭木、人々に絡まり、足場を作っていく。
『しかし実体状態にならなければ公務を執行できません』
 不意に右腕が左方向にググッと旋回し、
「わっ……!?」
 善夜は引きずられるように仰向けにひっくり返る。一瞬遅れて彼女の足があった場所に鎖が叩きつけられた。
『よって、元々実体のある人間の身体を「支配」することでアニマの消費を抑えています』
「アニマ……!? 支配って……!?」
 目の前で、剣を持った自分の右腕が降り注ぐ鎖を捌き続ける光景に圧倒されながら、喚くように尋ねる善夜。
『詳細はあとで説明いたします。ひとまずは立ち上がって私に従ってください』
「わっ……」
 前方に真っ直ぐ伸びる右腕に引っ張られるように身を起こし、彼女は相変わらずどこにいるかもわからないオフィサーに向かって話しかけようとした時。
「そんなこと、急に言われて……――きゃあっ!?」
 再び動いた善夜の右腕の剣が、しつこく飛来した鎖を絡め取った。
「補足します」
 声がした瞬間――
「――ぅわあああっ!?」
 自分の手から滲み出た漆黒のモヤが、一瞬にして人の形を形成し――オフィサーになった。
 尻もちをついた善夜を見下ろす彼の右手には、彼女が持っていたはずの剣がある。
 鎖は変わらず、漆黒の剣身に絡め取られていた。
 驚きで目を丸くした彼女の体から、再び鈍色のもやが滲み昇っていく。
「『契約』を交わした以上、私の命令なしに動くことはできません」
「け、契約……って……?」
 善夜の胸の奥がずん、と重くなる。
 知らない世界が自分を飲み込もうとしてるようで、怖い。
 オフィサーは剣に絡めた鎖を振り飛ばすと、懐から取り出した先ほどの黒いカードの裏面を善夜に見せた。
「あなたの印が、この特別臨時契約書にあります」
 カードの裏面には『特別臨時契約書』というタイトル。
 その下に、太字で『以下の内容を確認のうえ了承いただける場合は、親指・人差し指・中指・薬指・小指のいずれかの指で押捺してください』という一文。
 続く細かな文字列の上に――善夜の指紋が、人差し指から小指まで白く押捺されていた。
 ハッとした善夜は立ち上がり――遠慮気味ではあるが非難するようにオフィサーを見る。
「こんなの……さ、詐欺じゃないですか……!」
 契約って、双方の同意が必要なはず。なのに、名刺のフリをしたカードに触れただけで……こんなの、理不尽すぎる。それ以前に――彼の公務に協力する気はさらさらない。自分なんかができるわけない。勉強も運動も苦手で、何の取り柄もない自分が、魔界の公務員の仕事を代行するなんて……
「いいえ。詐欺ではありません」
 彼女の思考を遮り、オフィサーは言い切った。
 そして、先ほどと全く同じように再び彼女に手を伸ばす。反射的に自分を庇う形に両手を上げて目を閉じる善夜。右手を握られる感覚。
「ひ、開き直らないでください……!」
 やはり先ほどと全く同じように右手に出現した黒い剣が飛来する鎖を剣で次々と捌いていく中、善夜は精一杯のしかめっ面を浮かべる。
『あなたの質問に答えただけですが』
「っ……とにかく、もう放っといて……」
『迫害が止まるとしてもですか?』
「――!?」
 善夜の心臓が、大きく跳ねた。
 迫害が、止まる――?
 17年間、耐え続けてきた日々が、終わる?
「それって、どういう……」
 続きを聞こうとした瞬間――
 チッ。
 舌打ちが聞こえた。
「――!?」
 善夜の身体が、反射的に強張る。
 あの職員の男と同じ、威圧的な音。でも――振り向くと、高橋は相変わらず時間固定されたまま動いていない。
 じゃあ、今の舌打ちは――
「少しは当たれよな……!」
 落ち着きのないトゲトゲしい声が、上から降ってきた。
 振り返り見上げると――
 いつの間にか張り巡らされていた鎖の足場の1本に、男が立っていた。
 両耳のピアス、緑がかった短髪、着崩したシャツ――ショッピング街で時折見かけるような、ガラの悪そうな若い男。年齢は二十代前半といったところか。
 でも、右腕だけが異様だった。
 甲冑のような白銀色の篭手に覆われ、甲の部分からは無数の鎖が――まるで生き物のように、ゆらゆらと揺れている。
 男は明らかにイラついた顔で、鎖の足場の上にチンピラのようにしゃがんだ。
 彼の細められた目に睨まれ、善夜の背筋がゾクリと凍った。
 この人、危ない――
 言葉にならない恐怖が、彼女の喉を締め付け呼吸を忘れさせる。
 その時――善夜の右手から、闇色のモヤが流れ出た。人の形を作ったそれがオフィサーの姿になるやいなや、彼の背中に隠れるようにして彼女は身を縮める。
 ここでようやく、忘れていた呼吸を再開した。
「|結紮する者《リゲーター》・ヒドゥン」
 オフィサーは男に向かって淡々と告げる。
「在留資格不正取得罪及び人間襲撃の現行犯で身柄を確保します。おとなしくご同行ください」
「はっ、冗談じゃねぇ」
 ヒドゥンは鎖の足場の上で吐き捨て、
「|連合政府《上のやつら》が勝手に作ったルールなんて、知ったこっちゃねーよ!」
 言うが早いか――篭手に覆われた右腕を、善夜めがけて振り下ろした。