戻ったか。
どこまで話をしていたかな?
空間として死に満ちているのに、生の可能性が残っているゆえ、こうして我は理屈をこねているわけだからデカなんとかに問いただしたいという話だったか。
…もう聞いた?そうか。なるほど、我の存在・非存在を確定させるためにすべてを観測するという手段は無理という話か。よく覚えていたな。
ฅ
では、すべてを観測して我を確定させるのが無理なのであれば、何が残るだろうか。そうなると、一部を観測して予想する……これは、人によって結果が異なる可能性があるので、だめだな。観測という行為が、合っていないということだ。99人が我を死んでいると判断しても1人が我を生きていると判断する限り我は消えぬのだからな。100人が100人とも、必ずおなじ結論に至らねばならぬ。
我が概念的存在である以上、ひとつ可能性がある。誰が言ったかは知らぬが、「人は誰からも思い出されなくなったとき、本当の死を迎える」という言葉がある。とりあえずこれを猫に適用できるものとしよう。
例えば、リョーシリキガクの説明のためにもっとよい例が見つかり、我がまったく語られなくなるような事態だ。あるいは、人間が理解するのを諦めて、「なんかよく分からんが動く」ということで妥協してしまう場合でもよいかもしれぬ。
…まあ、難しいがな。人間とは書物という形で記憶を残していく。一旦人々の頭から我が消えても、そこのどこかに我が載っていて、誰ぞが見た瞬間に、その者の中で我は再定義されるであろう。また、よりよい例が見つかる場合でも「あの猫の例よりもよいぞ」と意識される時点で我が思考に昇るわけだから、それもまた我を定義してしまう。
また、そもそもだが…観測して初めて状態──我の場合は生死──が確定するという前提があると、誰からも忘れられた場合、我を観測する者がいなくなる。観測されないのだから、結局我の生死は確定しないということになる。堂々巡りだな。
ฅ
まあ、色々言ったが…つまるところ、我の生死が誰にとっても確定的に決定することは、現実的になさそうだということだな。
…何だその顔は。2000文字くらい付き合わせておいて結局分からんという結論が不満か。
だが結局リョーシリキガクというやつは、賢者たちがウンウン唸って頭を捻って、「物質の状態は、完璧には分からん」と言っているのだ。ここで我が何かひらめいたら、それこそノーなんとかだろう。人間たちが賢者を讃えるアレだ。
そもそも初めに言わなかったか?我は退屈なのだ。暇なのだ。だから今こうして理屈をこねたのも暇つぶしだ。それに付き合ってもらったことは感謝するが、生産性が無いとか言われても困る。それを言い出したら、小説を読むことに生産性など無いであろう。こんなものは小説ではないとかは受け付けんぞ。呵々。
まあ、少なくとも当分は我が消えることはなさそうだ。ときどきは我の暇つぶしに付き合ってくれ。
ฅ