我は猫である。そうであれと望まれたから。
名前はない。猫であればよいから。
果たして猫である必要があったのかといえば、それはよく分からん。言い出した科学者に聞け。シュレなんとかと言ったはずだ──死んでいる?そうか。
死んでいると言えば、我も死んでいる。そして、生きてもいる。そういう設定だからな。なにも半死半生のゾンビ猫とかそういう話ではないから、肝の小さい者も安心しろ。なにしろ、我の姿を見た者はいないのだから。
そう、我はどこにもいなくて、どこにでもいる。シュレなんとかが我を考えだして、それを広めた瞬間に、我は彼の者の頭のなかのみならず多くの人々の頭のなかに棲むことになった。そうして、彼の者が死のうとも、今のところ存在しているわけである。いや、存在していないのだが。
人々が知っていることによって、生死はともかく猫としての我のかたち──想像という意味だ──がある。それは、信仰と言えるかもしれぬ。信仰に依って立つといえば、神とか妖怪とかと大枠で同じかもしれぬな。実際に目にできる者もいるのかもしれないが、多くの者には視認できまい。
ฅ
我はとある密閉された箱の中にいて、我の側には毒ガス発生器があり、様子は外から見えない。難しいことは省くが、とにかく毒ガスが出るか出ないかは半々の確率だ。そもそも密閉されている段階で少し死の側に寄っているような気がしなくもないが、それはそれだ。
さて、この状態において我の生死がどの段階で決まるのか…。立場は二分されている。
一方は毒ガスが出るか出ないか決まった時点で、観測されずとも我の生死は決定されるとする。
他方は、誰かが箱を開けて確かめたときに初めて、我の生死が決定されるとする。それまでは、我は生きている状態と死んでいる状態のどちらでもあるらしい。
勘違いされがちだが、シュレなんとかは前者の立場だ。だがまあ、皮肉なことに後者を説明するための材料として使われたわけであるな。それゆえに我は生きていて死んでいるまま、存在せずに存在しているわけだから、良かったのか悪かったのか。
ฅ
好奇心は猫をも殺すと誰かが言った。ふむ、では我が自分で毒ガス発生器の小瓶を割ったなら、どうか──死にそうには思えるな。では、生の可能性を残すには、走り回ることもできない箱の中でじっとしているしかない。
しかし、また別の誰かは退屈は人を殺すとも言った。それが猫に適用できるかは知らぬが、できるのなら、じっとしているのも退屈だから、死にそうだな。
つまりこの空間とは、実は死に満ちているのはではないかという気もしてくるが、残念ながら我は生きていて死んでいるので新たに死ぬこともない。
そして我は各人の想像上でのみ、しかも我を知る者の数だけ同時に存在しうるわけだから、結果的に生きているのか死んでいるのか、統計的に言って一意には決まらない……おやおや、これがリョーシリキガクというやつだな。
空間として死に満ちているのに、生の可能性が残っているから、こうして我は理屈をこねているわけだ。生の可能性あって理屈をこねられるが、理屈をこねていても我は生きているのか死んでいるのか分からない。おい、デカなんとか聞いているか。聞いていないか。死んでいるもんな。
ฅ
まあそういうわけで……む? 何だ、疲れたのか。我はまだ喋り足りない。
少し休んで、暇つぶしに付き合え。