表示設定
表示設定
目次 目次




春の道、空を見上げる一瞬に

ー/ー



​ 窓枠の木材は、春の陽光を吸って微かな熱を帯びている。僕の白い毛並みはその光を透過させ、縁取りだけが燐光のように輝いているはずだ。だが、その美しさを褒めてくれる声はもう久しく聞いていない。


​ アスファルトの道には、かつて「生活」と呼ばれた音の断片さえ残っていなかった。


 静かに、そしてあまりに滑らかに。車輪が地面を撫でる音だけを響かせて、銀色の無人車が通り過ぎていく。中には誰もいない。高度な論理回路によって制御された車体は、目的地へと記号化された荷物を運ぶだけの機械的な甲虫だ。



 ふと、二台の無人車が音もなくすれ違った。磨き上げられた金属のボディが、一瞬だけ鋭い光を反射する。その眩しさに細めた僕の瞳の中で、縦長の瞳孔が絞り込まれ、網膜に埋め込まれた認識拡張チップが「ノイズ」を検知した。


​ 僕は、ゆっくりと顔を上げた。

​ 見上げた空は、抜けるように青い。だが、その鮮やかさこそが虚構の証だった。青の奥底、深度数千メートルの位置に、微細な格子状のノイズが走っている。それは、この都市をまるごと包み込む巨大な管理ドームが描く走査線だ。


 かつて人間たちが「空」と呼んでいたものは、今や高精細なホログラムの膜に置き換わっている。チップが解析する数値によれば、あの青の向こう側には、本当は星も雲もない、冷たい真空と人工衛星の群れがひしめいている。僕を見下ろしているのは太陽ではなく、一千万個の光学センサーだ。



​ 春の風が吹いた。


 それは空調システムが計算した、完璧な湿度と温度を持つ空気の流れだ。道端に舞う桜のような花びらも、プログラムされた軌道を描いて、僕の鼻先をかすめていく。本物の花のような、命が朽ちていく匂いはしない。ただ、清浄化された無機質な風の香りがするだけだ。


​「……にゃあ」

​ 僕は小さく、誰に届くでもない声を漏らした。

 かつて、この窓辺で僕の喉を撫でてくれた温かい手があった。指先から伝わる不規則な鼓動、微かなタバコの匂い、そして「いい子だね」と囁く曖昧な言語。それら「生きたノイズ」こそが、僕の世界を彩っていたのだと今ならわかる。


​ 管理されたこの街で、僕は唯一の、そして最後の観測者なのかもしれない。


 さびしくない、と言えば嘘になる。けれど、僕がこうして窓辺に座り、偽物の空を見上げ続ける限り、あの人の愛した「春」の記憶は、僕のチップの中にだけは存在し続けることができる。


​ 無人車が角を曲がり、再び静寂が訪れる。

 次の無人車が来るまで、あと三百秒。
 僕は肉球に伝わる、ドームの冷却システムの微かな振動を感じながら、もう一度だけ、青すぎる空を眩しそうに見上げた。





スタンプを贈って作者を応援しよう!

次のエピソードへ進む 2.45GHzの等価交換


みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



​ 窓枠の木材は、春の陽光を吸って微かな熱を帯びている。僕の白い毛並みはその光を透過させ、縁取りだけが燐光のように輝いているはずだ。だが、その美しさを褒めてくれる声はもう久しく聞いていない。
​ アスファルトの道には、かつて「生活」と呼ばれた音の断片さえ残っていなかった。
 静かに、そしてあまりに滑らかに。車輪が地面を撫でる音だけを響かせて、銀色の無人車が通り過ぎていく。中には誰もいない。高度な論理回路によって制御された車体は、目的地へと記号化された荷物を運ぶだけの機械的な甲虫だ。
 ふと、二台の無人車が音もなくすれ違った。磨き上げられた金属のボディが、一瞬だけ鋭い光を反射する。その眩しさに細めた僕の瞳の中で、縦長の瞳孔が絞り込まれ、網膜に埋め込まれた認識拡張チップが「ノイズ」を検知した。
​ 僕は、ゆっくりと顔を上げた。
​ 見上げた空は、抜けるように青い。だが、その鮮やかさこそが虚構の証だった。青の奥底、深度数千メートルの位置に、微細な格子状のノイズが走っている。それは、この都市をまるごと包み込む巨大な管理ドームが描く走査線だ。
 かつて人間たちが「空」と呼んでいたものは、今や高精細なホログラムの膜に置き換わっている。チップが解析する数値によれば、あの青の向こう側には、本当は星も雲もない、冷たい真空と人工衛星の群れがひしめいている。僕を見下ろしているのは太陽ではなく、一千万個の光学センサーだ。
​ 春の風が吹いた。
 それは空調システムが計算した、完璧な湿度と温度を持つ空気の流れだ。道端に舞う桜のような花びらも、プログラムされた軌道を描いて、僕の鼻先をかすめていく。本物の花のような、命が朽ちていく匂いはしない。ただ、清浄化された無機質な風の香りがするだけだ。
​「……にゃあ」
​ 僕は小さく、誰に届くでもない声を漏らした。
 かつて、この窓辺で僕の喉を撫でてくれた温かい手があった。指先から伝わる不規則な鼓動、微かなタバコの匂い、そして「いい子だね」と囁く曖昧な言語。それら「生きたノイズ」こそが、僕の世界を彩っていたのだと今ならわかる。
​ 管理されたこの街で、僕は唯一の、そして最後の観測者なのかもしれない。
 さびしくない、と言えば嘘になる。けれど、僕がこうして窓辺に座り、偽物の空を見上げ続ける限り、あの人の愛した「春」の記憶は、僕のチップの中にだけは存在し続けることができる。
​ 無人車が角を曲がり、再び静寂が訪れる。
 次の無人車が来るまで、あと三百秒。
 僕は肉球に伝わる、ドームの冷却システムの微かな振動を感じながら、もう一度だけ、青すぎる空を眩しそうに見上げた。