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2.45GHzの等価交換

ー/ー




​ その日、レンジに入れたのはコンビニの冷凍カルボナーラだった。
​「あたため」ボタンを押し、残り時間が一分を切った頃、異変は起きた。



 ブーンという低い駆動音に混じって、シュルシュルと何かが高速回転するような、聞いたこともない高音が響き始めたのだ。

​ 故障を疑い、指が「取消」ボタンに触れる直前。窓の向こうで容器が眩い白光に包まれた。パチンと弾けるような音がして、キッチンに不自然な沈黙が戻る。


 恐る恐る扉を開けると、そこにはパスタの姿はなかった。
​ 代わりにターンテーブルの上で鎮座していたのは、見たこともない奇妙な「ガジェット」だった。


​ 掌に乗るほどの大きさの半透明キューブ。内部には銀色の砂のような粒が浮遊しており、それらが複雑な幾何学模様を描きながら、ゆっくりと脈動している。


 触れた瞬間、頭の中に直接涼やかな声が響いた。
​『――エネルギー充填、完了。事象改変プログラム、待機中』


​ キューブはふわふわと宙に浮き、目の高さで固定された。
『私は「時間節約型事象置換機」。あなたは五百ワットで三分間、この空間を励起させた。それにより、私の起動エネルギーが確保されたのです』


​ キューブの中の銀色の砂が、一瞬で砂時計の形に変わった。


『お礼に、今日の「一番無駄だった時間」を、別の価値ある時間と取り替えましょう。何を選択しますか?』


​ 呆然としながら、今日の出来事を思い返す。不毛な会議、降り出しの雨、満員電車。
​「……じゃあ、今日の一時間にも及んだ、あの説教じみた会議を消して」



 半信半疑でそう呟くと、キューブが激しく明滅した。
『了解。事象を置換します。あなたの今日から、会議の一時間を削除し、同等の「幸福な休息」を挿入しました』



​ 直後、強烈な目まいに襲われた。
 視界が歪み、気づけば再びレンジの前に立ち尽くしていた。


 電子音が「ピー」と鳴り、扉を開けると、そこには今度こそ熱々のカルボナーラが鎮座していた。


​ だが、何かがおかしかった。
 体は驚くほど軽く、肌には見覚えのない日焼けの跡がある。

 手元のスマホを確認すると、同僚から身に覚えのない写真が届いていた。そこには、昼下がりの公園で、見たこともない晴れやかな笑顔で芝生に寝転ぶ自分の姿が写っている。


​ 確かに、会議の記憶は消えていた。
その代わりに手に入れたはずの「幸福な休息」の記憶も、自分の頭の中には存在しなかった。

​ 自分の人生でありながら、自分の知らない「空白の幸福」が、記録の中にだけ積み重なっていく。


​ フォークを手に取ったが、食欲は消え失せている。
 レンジの上の空間には、もうあの物体は存在しない。


 ただ、窓の外に広がる夜闇を眺めていると、自分がさっきまで誰であったのか、その輪郭が少しずつ滲んでいくような、冷ややかな感覚だけが残っていた。





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​ その日、レンジに入れたのはコンビニの冷凍カルボナーラだった。
​「あたため」ボタンを押し、残り時間が一分を切った頃、異変は起きた。
 ブーンという低い駆動音に混じって、シュルシュルと何かが高速回転するような、聞いたこともない高音が響き始めたのだ。
​ 故障を疑い、指が「取消」ボタンに触れる直前。窓の向こうで容器が眩い白光に包まれた。パチンと弾けるような音がして、キッチンに不自然な沈黙が戻る。
 恐る恐る扉を開けると、そこにはパスタの姿はなかった。
​ 代わりにターンテーブルの上で鎮座していたのは、見たこともない奇妙な「ガジェット」だった。
​ 掌に乗るほどの大きさの半透明キューブ。内部には銀色の砂のような粒が浮遊しており、それらが複雑な幾何学模様を描きながら、ゆっくりと脈動している。
 触れた瞬間、頭の中に直接涼やかな声が響いた。
​『――エネルギー充填、完了。事象改変プログラム、待機中』
​ キューブはふわふわと宙に浮き、目の高さで固定された。
『私は「時間節約型事象置換機」。あなたは五百ワットで三分間、この空間を励起させた。それにより、私の起動エネルギーが確保されたのです』
​ キューブの中の銀色の砂が、一瞬で砂時計の形に変わった。
『お礼に、今日の「一番無駄だった時間」を、別の価値ある時間と取り替えましょう。何を選択しますか?』
​ 呆然としながら、今日の出来事を思い返す。不毛な会議、降り出しの雨、満員電車。
​「……じゃあ、今日の一時間にも及んだ、あの説教じみた会議を消して」
 半信半疑でそう呟くと、キューブが激しく明滅した。
『了解。事象を置換します。あなたの今日から、会議の一時間を削除し、同等の「幸福な休息」を挿入しました』
​ 直後、強烈な目まいに襲われた。
 視界が歪み、気づけば再びレンジの前に立ち尽くしていた。
 電子音が「ピー」と鳴り、扉を開けると、そこには今度こそ熱々のカルボナーラが鎮座していた。
​ だが、何かがおかしかった。
 体は驚くほど軽く、肌には見覚えのない日焼けの跡がある。
 手元のスマホを確認すると、同僚から身に覚えのない写真が届いていた。そこには、昼下がりの公園で、見たこともない晴れやかな笑顔で芝生に寝転ぶ自分の姿が写っている。
​ 確かに、会議の記憶は消えていた。
その代わりに手に入れたはずの「幸福な休息」の記憶も、自分の頭の中には存在しなかった。
​ 自分の人生でありながら、自分の知らない「空白の幸福」が、記録の中にだけ積み重なっていく。
​ フォークを手に取ったが、食欲は消え失せている。
 レンジの上の空間には、もうあの物体は存在しない。
 ただ、窓の外に広がる夜闇を眺めていると、自分がさっきまで誰であったのか、その輪郭が少しずつ滲んでいくような、冷ややかな感覚だけが残っていた。