第4話 美少女との車デート
ー/ー窓の外を流れる極彩色の光の奔流が、徐々にその速度を緩めていく。 まるで万華鏡の中を疾走しているような非現実的な光景。けれど、背中に感じるシートの革の感触や、車内に漂う微かな柑橘系の芳香剤の匂いは、妙にリアルだった。
俺、七夕 双は、シートの隅に深く沈み込みながら、隣で優雅にタブレットを操作する赤い髪の少女を盗み見た。 スカーレット・ヴァーミリオン。 彼女は長い脚を組み、画面上の文字列を目で追いながら、まるでカフェでくつろいでいるかのように落ち着いている。
「……なぁ、スカーレットさん」
俺が声をかけると、彼女は視線だけをこちらに向けた。
「何かしら?」 「ここって、一体どこなんだ? さっき通ってきた光のトンネルもそうだし、窓の外も……どう考えても俺の知ってる地球じゃない」
俺の声は震えていた。 無理もない。ついさっきまで雨の降る日本の教室で、クラスメイトの死を目撃していたのだ。それなのに今は、SF映画のような乗り物に乗せられている。脳の処理が追いつかない。
スカーレットはタブレットの電源を落とし、ふぅ、と小さく息を吐いた。
「いい質問ね。パニックにならずに現状把握を優先するのは、長生きする秘訣よ」
彼女は窓の外を指差した。
「まず、あなたがさっきまで暮らしていた『表の世界』。私たちはあれを『第1階層』と呼んでいるわ」 「第1階層……?」 「そう。バグという外敵の侵攻から隠蔽され、偽りの平和を与えられた最表層の皮膜。あなたたちが『地球』だと思っている場所は、実は世界という巨大なタマネギの、一番外側の皮にすぎないのよ」
「皮、か……。じゃあ、俺たちは守られてたってことか?」 「言い方は悪いけれど、飼われていた、に近いかもね。真実を知ればパニックになるだけの無力な羊たち。それが一般人よ」
きつい言い方だ。でも、今の俺には否定できない。 俺たちは何も知らずに、ただ平和ボケしていただけだったんだから。
「そして、私たちが今いるのが『裏の世界』。位相空間を高度な魔術的アルゴリズムで折り畳んで作られた、多重構造の異空間よ」
スカーレットが窓をトントンと叩く。
「もうすぐ『壁』を越えるわ。……瞬きしないで見てなさい。まずは『第2階層』に入る」
彼女の言葉が終わるか終わらないかの瞬間だった。 車体が、見えない水の膜を突き抜けるような、不思議な振動に包まれた。 光の渦が弾け飛び、視界が一気にクリアになる。
「うわ……っ」
俺は思わず窓に張り付いた。 そこに広がっていたのは、息を呑むほど美しい街並みだった。
石畳の道路と、レンガ造りの重厚な建物。中世ヨーロッパのようなクラシックな景観だが、その建物の隙間を、青白く発光するネオンサインが彩っている。 空にはクジラのような形状をした巨大な飛行船がゆったりと泳ぎ、地上では人々が笑い合いながら歩いていた。
「な、なんだよこれ……映画のセットか?」
目に入ってくる情報量が多すぎる。 カフェのテラスでは、杖を持った老人が宙に浮くティーポットから紅茶を注いでいるし、広場では子供たちが光るスケートボードに乗って、重力を無視して壁を走っている。
「ここは『一般居住区』。通称『アルカディア』よ」 「アルカディア……」 「バグとの戦いを知る魔術師や科学者たちの家族、そして前線を引退した元エージェントたちが暮らす街ね。この世界の人口の8割はここに住んでいるわ」
スカーレットが、通り過ぎる幸せそうな家族連れを眩しそうに見つめた。
「彼らは『真実』を知っているけれど、戦う力は持たない。あるいは、もう戦えない人たち。だから、第1階層よりも安全で、かつ高度な魔法文明の恩恵を受けられるこの場所で暮らしているの」
「すごいな……こんな世界があったなんて」 「平和でしょう? ここはバグの脅威から最も遠い楽園よ。……でも、私たちが向かう場所はここじゃない」
スカーレットの声色が、ふっと冷たくなった。
「第3階層に向かって」
車は速度を上げた。 美しい居住区の風景が、高速で後方へと流れていく。 やがて前方に、巨大な関所のような黒いゲートが見えてきた。
ズズズズ……と重低音を響かせながら、ゲートが開く。 そこをくぐった瞬間、空気が一変した。
穏やかな暖色が消え失せる。 代わりに視界を埋め尽くしたのは、無機質なシルバーと、警告色である赤のライトだった。
「ここからが『第3階層』。私たちが所属する組織『世界修正委員会』の中枢であり、軍事拠点よ」
窓の外には、巨大な工場や格納庫のような施設が連なっていた。 空を裂くような爆音と共に、戦闘機――いや、可変式の機動兵器が編隊を組んで飛び去っていく。 地上では、巨大なゴーレムのような重機が資材を運搬し、武装した警備ドローンが赤いセンサーを光らせてパトロールしている。
さっきまでの『アルカディア』が夢の国だとしたら、ここは完全に戦場だ。
「すごい……まるで要塞だ」 「ええ。バグに対抗するための兵器、物資、そして人材。そのすべてはここで生産され、育成される」
スカーレットが、遠くに見える巨大な白い塔を指差した。
「あれが『アカデミー』の本部塔。あなたがこれから通うことになる場所よ」 「あんなところで……俺、やっていけるのかな」 「弱音を吐くのはまだ早いわ。……、、D区画にルート変更、『境界線』へ向かって」
スカーレットの突然の指示に、俺は驚いて振り返った。
「えっ? 学校に行くんじゃないんですか?」 「入学手続きの前に、見せておきたいものがあるの」
スカーレットは真紅の瞳を細め、意味深な笑みを浮かべた。
「あなたがこれから背負う現実を……その目に焼き付けておきなさい」
車はメインストリートを外れ、都市の端、荒涼とした岩場へと向かった。 人工的な建造物がなくなり、むき出しの岩肌と、吹き荒れる風の音だけが響く。 そして、車は断崖絶壁の縁ギリギリで停車した。
「降りて。下を見てみなさい」
促されるまま、俺は車を降りた。 風が強い。油と鉄錆、そして腐敗臭が混ざったような生暖かい風が、下から吹き上げてくる。 俺は恐る恐る、崖の縁から下を覗き込んだ。
「――――ッ!?」
息を呑んだ。心臓が早鐘を打ち、本能的な恐怖で足がすくむ。
そこは、闇だった。 底が見えないほどの深淵。光が一切届かないその暗闇の中で、無数の「何か」が蠢いていた。 赤黒い光の明滅。 耳を澄ませば、何億匹もの蟲が這い回るような音と、金属を擦り合わせたような不快な咆哮が、地鳴りのように響いてくる。
間違いない。さっき教室で見たあの怪物――バグの気配だ。 それが、一匹や二匹じゃない。何千、何万という数が、あの闇の中にひしめいている。
「あれが『第4階層』。またの名を『深淵』」
スカーレットが俺の隣に立ち、風に赤い髪をなびかせながら言った。彼女の表情は、今まで見たことがないほど険しい。
「世界の最下層にして、バグたちが巣食う汚染領域。奴らはあの闇から這い出し、上の階層へ侵略しようと常に爪を研いでいる」 「あんなのが……うじゃうじゃいるのか……? ここからすぐ下じゃないか!」 「そうよ。ここは防波堤の最前線。私たちがここで食い止めているから、第2階層の家族は笑っていられるし、第1階層のあなたはのんきに学校に通えていたの」
彼女は俺の方を向き、真剣な眼差しで告げた。
「もし私たちが負ければ、あの闇が溢れ出し、すべての階層を飲み込む。……あなたの好きだったあの子が死んだような悲劇が、世界中で起きるわ」
ドクン。 腹の中が熱くなった。 胃袋に埋め込まれた「シード」が、下の深淵に呼応するように脈打っているのがわかる。 怖い。吐きそうだ。逃げ出したい。 でも、逃げた先に待っているのは、三島さんのような理不尽な死だけだということも、俺は痛いほど理解していた。
「七夕くん。アカデミーに入るということは、ただの学生になることじゃない。あの闇と戦う力を手に入れ……そしていつかは、あの深淵に降り立つということよ」
スカーレットが、俺の目を覗き込む。
「覚悟はいい?」
俺は震える手で、自分の腹を強く押さえた。 痛みはある。恐怖もある。 だけど、もう「知らなかった頃」には戻れない。
「……やるしか、ないんですよね」
絞り出すように答えると、スカーレットはふっと表情を緩め、俺の肩をポンと叩いた。
「いい答えよ。……さあ、戻りましょうか。地獄の観光はおしまい。私たちの『戦場』へ案内するわ」
俺、七夕 双は、シートの隅に深く沈み込みながら、隣で優雅にタブレットを操作する赤い髪の少女を盗み見た。 スカーレット・ヴァーミリオン。 彼女は長い脚を組み、画面上の文字列を目で追いながら、まるでカフェでくつろいでいるかのように落ち着いている。
「……なぁ、スカーレットさん」
俺が声をかけると、彼女は視線だけをこちらに向けた。
「何かしら?」 「ここって、一体どこなんだ? さっき通ってきた光のトンネルもそうだし、窓の外も……どう考えても俺の知ってる地球じゃない」
俺の声は震えていた。 無理もない。ついさっきまで雨の降る日本の教室で、クラスメイトの死を目撃していたのだ。それなのに今は、SF映画のような乗り物に乗せられている。脳の処理が追いつかない。
スカーレットはタブレットの電源を落とし、ふぅ、と小さく息を吐いた。
「いい質問ね。パニックにならずに現状把握を優先するのは、長生きする秘訣よ」
彼女は窓の外を指差した。
「まず、あなたがさっきまで暮らしていた『表の世界』。私たちはあれを『第1階層』と呼んでいるわ」 「第1階層……?」 「そう。バグという外敵の侵攻から隠蔽され、偽りの平和を与えられた最表層の皮膜。あなたたちが『地球』だと思っている場所は、実は世界という巨大なタマネギの、一番外側の皮にすぎないのよ」
「皮、か……。じゃあ、俺たちは守られてたってことか?」 「言い方は悪いけれど、飼われていた、に近いかもね。真実を知ればパニックになるだけの無力な羊たち。それが一般人よ」
きつい言い方だ。でも、今の俺には否定できない。 俺たちは何も知らずに、ただ平和ボケしていただけだったんだから。
「そして、私たちが今いるのが『裏の世界』。位相空間を高度な魔術的アルゴリズムで折り畳んで作られた、多重構造の異空間よ」
スカーレットが窓をトントンと叩く。
「もうすぐ『壁』を越えるわ。……瞬きしないで見てなさい。まずは『第2階層』に入る」
彼女の言葉が終わるか終わらないかの瞬間だった。 車体が、見えない水の膜を突き抜けるような、不思議な振動に包まれた。 光の渦が弾け飛び、視界が一気にクリアになる。
「うわ……っ」
俺は思わず窓に張り付いた。 そこに広がっていたのは、息を呑むほど美しい街並みだった。
石畳の道路と、レンガ造りの重厚な建物。中世ヨーロッパのようなクラシックな景観だが、その建物の隙間を、青白く発光するネオンサインが彩っている。 空にはクジラのような形状をした巨大な飛行船がゆったりと泳ぎ、地上では人々が笑い合いながら歩いていた。
「な、なんだよこれ……映画のセットか?」
目に入ってくる情報量が多すぎる。 カフェのテラスでは、杖を持った老人が宙に浮くティーポットから紅茶を注いでいるし、広場では子供たちが光るスケートボードに乗って、重力を無視して壁を走っている。
「ここは『一般居住区』。通称『アルカディア』よ」 「アルカディア……」 「バグとの戦いを知る魔術師や科学者たちの家族、そして前線を引退した元エージェントたちが暮らす街ね。この世界の人口の8割はここに住んでいるわ」
スカーレットが、通り過ぎる幸せそうな家族連れを眩しそうに見つめた。
「彼らは『真実』を知っているけれど、戦う力は持たない。あるいは、もう戦えない人たち。だから、第1階層よりも安全で、かつ高度な魔法文明の恩恵を受けられるこの場所で暮らしているの」
「すごいな……こんな世界があったなんて」 「平和でしょう? ここはバグの脅威から最も遠い楽園よ。……でも、私たちが向かう場所はここじゃない」
スカーレットの声色が、ふっと冷たくなった。
「第3階層に向かって」
車は速度を上げた。 美しい居住区の風景が、高速で後方へと流れていく。 やがて前方に、巨大な関所のような黒いゲートが見えてきた。
ズズズズ……と重低音を響かせながら、ゲートが開く。 そこをくぐった瞬間、空気が一変した。
穏やかな暖色が消え失せる。 代わりに視界を埋め尽くしたのは、無機質なシルバーと、警告色である赤のライトだった。
「ここからが『第3階層』。私たちが所属する組織『世界修正委員会』の中枢であり、軍事拠点よ」
窓の外には、巨大な工場や格納庫のような施設が連なっていた。 空を裂くような爆音と共に、戦闘機――いや、可変式の機動兵器が編隊を組んで飛び去っていく。 地上では、巨大なゴーレムのような重機が資材を運搬し、武装した警備ドローンが赤いセンサーを光らせてパトロールしている。
さっきまでの『アルカディア』が夢の国だとしたら、ここは完全に戦場だ。
「すごい……まるで要塞だ」 「ええ。バグに対抗するための兵器、物資、そして人材。そのすべてはここで生産され、育成される」
スカーレットが、遠くに見える巨大な白い塔を指差した。
「あれが『アカデミー』の本部塔。あなたがこれから通うことになる場所よ」 「あんなところで……俺、やっていけるのかな」 「弱音を吐くのはまだ早いわ。……、、D区画にルート変更、『境界線』へ向かって」
スカーレットの突然の指示に、俺は驚いて振り返った。
「えっ? 学校に行くんじゃないんですか?」 「入学手続きの前に、見せておきたいものがあるの」
スカーレットは真紅の瞳を細め、意味深な笑みを浮かべた。
「あなたがこれから背負う現実を……その目に焼き付けておきなさい」
車はメインストリートを外れ、都市の端、荒涼とした岩場へと向かった。 人工的な建造物がなくなり、むき出しの岩肌と、吹き荒れる風の音だけが響く。 そして、車は断崖絶壁の縁ギリギリで停車した。
「降りて。下を見てみなさい」
促されるまま、俺は車を降りた。 風が強い。油と鉄錆、そして腐敗臭が混ざったような生暖かい風が、下から吹き上げてくる。 俺は恐る恐る、崖の縁から下を覗き込んだ。
「――――ッ!?」
息を呑んだ。心臓が早鐘を打ち、本能的な恐怖で足がすくむ。
そこは、闇だった。 底が見えないほどの深淵。光が一切届かないその暗闇の中で、無数の「何か」が蠢いていた。 赤黒い光の明滅。 耳を澄ませば、何億匹もの蟲が這い回るような音と、金属を擦り合わせたような不快な咆哮が、地鳴りのように響いてくる。
間違いない。さっき教室で見たあの怪物――バグの気配だ。 それが、一匹や二匹じゃない。何千、何万という数が、あの闇の中にひしめいている。
「あれが『第4階層』。またの名を『深淵』」
スカーレットが俺の隣に立ち、風に赤い髪をなびかせながら言った。彼女の表情は、今まで見たことがないほど険しい。
「世界の最下層にして、バグたちが巣食う汚染領域。奴らはあの闇から這い出し、上の階層へ侵略しようと常に爪を研いでいる」 「あんなのが……うじゃうじゃいるのか……? ここからすぐ下じゃないか!」 「そうよ。ここは防波堤の最前線。私たちがここで食い止めているから、第2階層の家族は笑っていられるし、第1階層のあなたはのんきに学校に通えていたの」
彼女は俺の方を向き、真剣な眼差しで告げた。
「もし私たちが負ければ、あの闇が溢れ出し、すべての階層を飲み込む。……あなたの好きだったあの子が死んだような悲劇が、世界中で起きるわ」
ドクン。 腹の中が熱くなった。 胃袋に埋め込まれた「シード」が、下の深淵に呼応するように脈打っているのがわかる。 怖い。吐きそうだ。逃げ出したい。 でも、逃げた先に待っているのは、三島さんのような理不尽な死だけだということも、俺は痛いほど理解していた。
「七夕くん。アカデミーに入るということは、ただの学生になることじゃない。あの闇と戦う力を手に入れ……そしていつかは、あの深淵に降り立つということよ」
スカーレットが、俺の目を覗き込む。
「覚悟はいい?」
俺は震える手で、自分の腹を強く押さえた。 痛みはある。恐怖もある。 だけど、もう「知らなかった頃」には戻れない。
「……やるしか、ないんですよね」
絞り出すように答えると、スカーレットはふっと表情を緩め、俺の肩をポンと叩いた。
「いい答えよ。……さあ、戻りましょうか。地獄の観光はおしまい。私たちの『戦場』へ案内するわ」
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
窓の外を流れる極彩色の光の奔流が、徐々にその速度を緩めていく。 まるで万華鏡の中を疾走しているような非現実的な光景。けれど、背中に感じるシートの革の感触や、車内に漂う微かな柑橘系の芳香剤の匂いは、妙にリアルだった。
俺、七夕 双《たなばた そう》は、シートの隅に深く沈み込みながら、隣で優雅にタブレットを操作する赤い髪の少女を盗み見た。 スカーレット・ヴァーミリオン。 彼女は長い脚を組み、画面上の文字列を目で追いながら、まるでカフェでくつろいでいるかのように落ち着いている。
「……なぁ、スカーレットさん」
俺が声をかけると、彼女は視線だけをこちらに向けた。
「何かしら?」 「ここって、一体どこなんだ? さっき通ってきた光のトンネルもそうだし、窓の外も……どう考えても俺の知ってる地球じゃない」
俺の声は震えていた。 無理もない。ついさっきまで雨の降る日本の教室で、クラスメイトの死を目撃していたのだ。それなのに今は、SF映画のような乗り物に乗せられている。脳の処理が追いつかない。
スカーレットはタブレットの電源を落とし、ふぅ、と小さく息を吐いた。
「いい質問ね。パニックにならずに現状把握を優先するのは、長生きする秘訣よ」
彼女は窓の外を指差した。
「まず、あなたがさっきまで暮らしていた『表の世界』。私たちはあれを『第1階層《レイヤー・ワン》』と呼んでいるわ」 「第1階層……?」 「そう。バグという外敵の侵攻から隠蔽され、偽りの平和を与えられた最表層の皮膜。あなたたちが『地球』だと思っている場所は、実は世界という巨大なタマネギの、一番外側の皮にすぎないのよ」
「皮、か……。じゃあ、俺たちは守られてたってことか?」 「言い方は悪いけれど、飼われていた、に近いかもね。真実を知ればパニックになるだけの無力な羊たち。それが一般人よ」
きつい言い方だ。でも、今の俺には否定できない。 俺たちは何も知らずに、ただ平和ボケしていただけだったんだから。
「そして、私たちが今いるのが『裏の世界』。位相空間を高度な魔術的アルゴリズムで折り畳んで作られた、多重構造の異空間よ」
スカーレットが窓をトントンと叩く。
「もうすぐ『壁』を越えるわ。……瞬きしないで見てなさい。まずは『第2階層《レイヤー・ツー》』に入る」
彼女の言葉が終わるか終わらないかの瞬間だった。 車体が、見えない水の膜を突き抜けるような、不思議な振動に包まれた。 光の渦が弾け飛び、視界が一気にクリアになる。
「うわ……っ」
俺は思わず窓に張り付いた。 そこに広がっていたのは、息を呑むほど美しい街並みだった。
石畳の道路と、レンガ造りの重厚な建物。中世ヨーロッパのようなクラシックな景観だが、その建物の隙間を、青白く発光するネオンサインが彩っている。 空にはクジラのような形状をした巨大な飛行船がゆったりと泳ぎ、地上では人々が笑い合いながら歩いていた。
「な、なんだよこれ……映画のセットか?」
目に入ってくる情報量が多すぎる。 カフェのテラスでは、杖を持った老人が宙に浮くティーポットから紅茶を注いでいるし、広場では子供たちが光るスケートボードに乗って、重力を無視して壁を走っている。
「ここは『一般居住区』。通称『アルカディア』よ」 「アルカディア……」 「バグとの戦いを知る魔術師や科学者たちの家族、そして前線を引退した元エージェントたちが暮らす街ね。この世界の人口の8割はここに住んでいるわ」
スカーレットが、通り過ぎる幸せそうな家族連れを眩しそうに見つめた。
「彼らは『真実』を知っているけれど、戦う力は持たない。あるいは、もう戦えない人たち。だから、第1階層よりも安全で、かつ高度な魔法文明の恩恵を受けられるこの場所で暮らしているの」
「すごいな……こんな世界があったなんて」 「平和でしょう? ここはバグの脅威から最も遠い楽園よ。……でも、私たちが向かう場所はここじゃない」
スカーレットの声色が、ふっと冷たくなった。
「第3階層に向かって」
車は速度を上げた。 美しい居住区の風景が、高速で後方へと流れていく。 やがて前方に、巨大な関所のような黒いゲートが見えてきた。
ズズズズ……と重低音を響かせながら、ゲートが開く。 そこをくぐった瞬間、空気が一変した。
穏やかな暖色が消え失せる。 代わりに視界を埋め尽くしたのは、無機質なシルバーと、警告色である赤のライトだった。
「ここからが『第3階層《レイヤー・スリー》』。私たちが所属する組織『世界修正委員会』の中枢であり、軍事拠点よ」
窓の外には、巨大な工場や格納庫のような施設が連なっていた。 空を裂くような爆音と共に、戦闘機――いや、可変式の機動兵器が編隊を組んで飛び去っていく。 地上では、巨大なゴーレムのような重機が資材を運搬し、武装した警備ドローンが赤いセンサーを光らせてパトロールしている。
さっきまでの『アルカディア』が夢の国だとしたら、ここは完全に戦場だ。
「すごい……まるで要塞だ」 「ええ。バグに対抗するための兵器、物資、そして人材。そのすべてはここで生産され、育成される」
スカーレットが、遠くに見える巨大な白い塔を指差した。
「あれが『アカデミー』の本部塔。あなたがこれから通うことになる場所よ」 「あんなところで……俺、やっていけるのかな」 「弱音を吐くのはまだ早いわ。……、、D区画にルート変更、『境界線』へ向かって」
スカーレットの突然の指示に、俺は驚いて振り返った。
「えっ? 学校に行くんじゃないんですか?」 「入学手続きの前に、見せておきたいものがあるの」
スカーレットは真紅の瞳を細め、意味深な笑みを浮かべた。
「あなたがこれから背負う現実《リアル》を……その目に焼き付けておきなさい」
車はメインストリートを外れ、都市の端、荒涼とした岩場へと向かった。 人工的な建造物がなくなり、むき出しの岩肌と、吹き荒れる風の音だけが響く。 そして、車は断崖絶壁の縁《ふち》ギリギリで停車した。
「降りて。下を見てみなさい」
促されるまま、俺は車を降りた。 風が強い。油と鉄錆、そして腐敗臭が混ざったような生暖かい風が、下から吹き上げてくる。 俺は恐る恐る、崖の縁から下を覗き込んだ。
「――――ッ!?」
息を呑んだ。心臓が早鐘を打ち、本能的な恐怖で足がすくむ。
そこは、闇だった。 底が見えないほどの深淵。光が一切届かないその暗闇の中で、無数の「何か」が蠢いていた。 赤黒い光の明滅。 耳を澄ませば、何億匹もの蟲が這い回るような音と、金属を擦り合わせたような不快な咆哮が、地鳴りのように響いてくる。
間違いない。さっき教室で見たあの怪物――バグの気配だ。 それが、一匹や二匹じゃない。何千、何万という数が、あの闇の中にひしめいている。
「あれが『第4階層《レイヤー・フォー》』。またの名を『深淵《アビス》』」
スカーレットが俺の隣に立ち、風に赤い髪をなびかせながら言った。彼女の表情は、今まで見たことがないほど険しい。
「世界の最下層にして、バグたちが巣食う汚染領域。奴らはあの闇から這い出し、上の階層へ侵略しようと常に爪を研いでいる」 「あんなのが……うじゃうじゃいるのか……? ここからすぐ下じゃないか!」 「そうよ。ここは防波堤の最前線。私たちがここで食い止めているから、第2階層の家族は笑っていられるし、第1階層のあなたはのんきに学校に通えていたの」
彼女は俺の方を向き、真剣な眼差しで告げた。
「もし私たちが負ければ、あの闇が溢れ出し、すべての階層を飲み込む。……あなたの好きだったあの子が死んだような悲劇が、世界中で起きるわ」
ドクン。 腹の中が熱くなった。 胃袋に埋め込まれた「シード」が、下の深淵に呼応するように脈打っているのがわかる。 怖い。吐きそうだ。逃げ出したい。 でも、逃げた先に待っているのは、三島さんのような理不尽な死だけだということも、俺は痛いほど理解していた。
「七夕くん。アカデミーに入るということは、ただの学生になることじゃない。あの闇と戦う力を手に入れ……そしていつかは、あの深淵に降り立つということよ」
スカーレットが、俺の目を覗き込む。
「覚悟はいい?」
俺は震える手で、自分の腹を強く押さえた。 痛みはある。恐怖もある。 だけど、もう「知らなかった頃」には戻れない。
「……やるしか、ないんですよね」
絞り出すように答えると、スカーレットはふっと表情を緩め、俺の肩をポンと叩いた。
「いい答えよ。……さあ、戻りましょうか。地獄の観光はおしまい。私たちの『戦場《ガッコウ》』へ案内するわ」