第2話 朱色の教室、礼儀正しい深紅の美少女
ー/ーその瞬間、教室の空気は凍りついた。 剛田の首から上が消失し、鮮血のような――けれど決定的に人間のそれとは違う、美しい蛍光色の粒子が噴水のように舞い上がった光景。 それは、俺たちの脳が処理できる許容量を遥かに超えていた。
「…………え?」
誰かが、間の抜けた声を漏らした。 それが、狂宴の合図だった。
「い、いやぁぁぁぁぁぁぁっ!!」 「剛田が! 剛田が死んだぁぁ!!」 「なんだよあれ! 化け物! 化け物がいるぅぅっ!!」
教室は一瞬で阿鼻叫喚の地獄と化した。 椅子が倒れ、机がズレる不快な音が響く。三十人の生徒たちが、我先にと二つの出入り口へと殺到した。 普段は仲の良かった友人を押しのけ、女子生徒が悲鳴を上げて転倒し、その背中を男子生徒が踏みつけていく。生存本能が理性を食い破り、人間の醜い本性が剥き出しになる。
「開かない! なんでだよ! クソッ、開けろよ!!」
先頭の男子が、ドアノブをガチャガチャと乱暴に回す。 だが、扉は壁と一体化したようにびくともしない。蹴ろうが叩こうが、その扉は閉ざされたままだ。 この空間は、すでに外界から隔離されている。
『ギィィィィィィィィィィンッ!!!!!』
天井からぶら下がっていた赤黒い異形が、歓喜の咆哮を上げた。 それは生物の声ではなかった。金属を高速で擦り合わせたような、あるいは破損した音声データを大音量で再生したような、脳髄を直接揺さぶる不快な高周波音。
窓ガラスが一斉に共振し、粉々に砕け散る。 生徒たちが耳を押さえてうずくまる。
「――対象群、パニック状態を確認。これより排除プロセスを実行する」
異形の身体にある、不規則に埋め込まれた十数個の眼球が、一斉に別々の方向を向いた。 不定形の肉塊から、無数のケーブルのような触手が鞭のように伸びる。
シュンッ。
風を切る音すら遅れて聞こえた。 ドアの前で固まっていた生徒の群れを、触手の一本が薙ぎ払った。
悲鳴は上がらなかった。 触手に触れた瞬間、生徒たちの身体が、剛田と同じように「弾けた」からだ。 腕が、胴体が、顔が。 まるで最初からそこに存在しなかったかのように、赤い粒子の霧となって霧散していく。 肉片も、骨も残らない。ただ、制服の残骸だけが、主を失って床に落ちる。
「ひっ、ひぐっ……いやだ、たすけ……」
腰を抜かして後ずさる女子生徒に、異形がゆっくりと近づく。 彼女が慈悲を乞うように手を伸ばすが、異形に感情はない。 巨大な肉塊が覆いかぶさる。 ぐちゃり、という湿った捕食音が響き、彼女の姿もまた、朱色の霧の中に消えた。
地獄だった。 つい数分前まで、退屈な授業が行われていた教室は、赤い光と断末魔が渦巻く処刑場へと変わっていた。
『ソウ! 動いて! そこにいたら死ぬよ!』
脳内でリクが絶叫している。 わかっている。わかっているけど、身体が動かないんだ。 俺、七夕 双は、自分の席でガタガタと震えながら、その光景を見ていた。 腹の中にある「異物」が、恐怖に呼応するように熱を帯びている。胃袋が焼けるように熱い。その痛みが、かろうじて俺の意識を繋ぎ止めていた。
「い、いやぁっ! 来ないで!!」
その声に、俺は弾かれたように顔を向けた。 教室の隅。掃除用具入れの陰に、彼女がいた。
「三島さん……!」
三島ユナ。 俺が密かに想いを寄せていた、クラスの委員長。 彼女は青ざめた顔で震え、掃除用具入れのロッカーにしがみついている。 異形の触手が、ゆっくりと、だが確実に彼女の方へと伸びていく。蛇のように鎌首をもたげ、獲物を品定めするように先端を揺らしている。
「やめろ……!」
俺は声を絞り出した。 足に力が入らない。恐怖で膝が笑っている。 それでも、彼女だけは。 俺に優しく笑いかけてくれた、唯一の光だけは守りたかった。
俺は痛みを無視して机を蹴り飛ばし、彼女の方へ手を伸ばした。
「三島さん! 逃げろ! こっちだ!!」
俺の声に、三島さんが顔を上げる。 涙に濡れたその瞳が、俺を捉えた。
「七夕く――」
彼女が俺の名前を呼び、救いを求めて手を伸ばした、その時だった。
触手が、鞭のようにしなった。
スパァンッ。
乾いた音が、教室の空気を切り裂いた。 まるで熟れた果実を叩き割るような、軽くて残酷な音。
三島さんの身体が、ビクリと跳ねた。 一瞬、何が起きたのか理解できなかった。 彼女はまだ、そこに立っていたからだ。首から下は、無傷のまま。
だが、次の瞬間。
彼女の美しい黒髪の頭部が、肩からずるりと滑り落ちた。
スローモーションのように見えた。 宙を舞う頭部。驚愕に見開かれたままの瞳。 そして、切断された首の断面からは――やはり血ではなく、美しい赤色の光の粒子が、噴水のように舞い上がった。
ドサリ。 ゴロリ。
身体が崩れ落ちる音と、頭部が床を転がる音が、重なって響いた。
「あ…………あ、あ…………」
俺の口から、言葉にならない空気が漏れた。 嘘だ。 だって、さっきまで笑って挨拶してくれたのに。俺の腹痛を心配してくれたのに。 俺の、唯一の青春が。淡い恋心が。
残された胴体が、赤色の粒子となって空気に溶けていく。 まるで最初からデータでしかなかったかのように、跡形もなく消滅していく。 だが、頭部だけは残った。 床に転がった彼女の頭部だけが、そこにある。
「み、みしま、さん……?」
俺はふらふらと歩み寄った。 異形が俺を見ている気配がしたけれど、どうでもよかった。 俺は膝をつき、震える手で、彼女の頭部を拾い上げた。
温かい。 まだ、温もりが残っている。 艶やかな黒髪の感触も、柔らかい頬の感触も、生きていた時のままだ。 ただ、首の断面だけが、電子回路のように明滅している。
「嘘だろ……なんでだよ……」
俺は彼女の頭を抱きしめた。 涙が溢れて止まらなかった。 これが、俺の望んだ非日常なのか? こんな理不尽な暴力が、世界の正体なのか?
「うぅ……あぁぁぁぁぁっ!!」
絶叫。 慟哭。 俺の声だけが、静まり返った教室に虚しく響く。 他の生徒たちは、もういない。 全員、「処理」されたのだ。 この教室に残っているのは、俺と、腕の中の三島さんの頭部と、そして――
『ギギギ……対象、残り1名。処理を開始する』
異形が、ゆっくりと旋回した。 天井まで届きそうな巨躯。不規則に蠢く触手。 そのすべての殺意が、俺に向けられている。
死ぬ。 俺も、三島さんの後を追うんだ。 それでいい。こんな世界で生きていたって、何の意味もない。
異形の触手が、俺の首を狙って振り上げられた。 俺は三島さんの頭を強く抱きしめ、目を閉じた。 ごめん、何もできなくて。 今、そっちに行くから。
――コン、コン。
不意に。 場違いなほど軽快な音が、響いた。
俺は反射的に目を開けた。 異形の動きが止まっている。いや、異形すらも、その音の「異常さ」に反応したのか?
コン、コン。 それは、ドアをノックする音だった。
誰も開けられなかった、完全封鎖されたはずの教室のドア。 そこから、ノックの音が聞こえる。 鮮血と悲鳴が支配するこの空間で、まるで来客を告げるような、丁寧で、ふざけたノック音。
ガチャリ。 鍵など掛かっていなかったかのように、ドアが滑らかに開いた。
「――失礼します」
鈴を転がすような、涼やかな声。 入ってきたのは、一人の少女だった。
俺と同じ制服を着ている。 だが、その雰囲気は、この学校の誰とも違っていた。 腰まで届く、燃えるような真紅のロングヘア。 廊下から吹き込む風もないのに、その髪は炎のようにふわりとたなびいている。 整った顔立ちには、場違いなほど優雅な微笑みが浮かんでいた。
「え……?」
俺は呆然と呟いた。 彼女は、床に転がる生徒たちの遺品や、血のような粒子で汚れた床を気にする様子もなく、コツ、コツとローファーを鳴らして教室に入ってきた。
そして、教室の中央に陣取る異形を見上げると、クスリと笑った。
「あらあら。バグの掃除漏れかしら? ずいぶんと散らかしてくれたわね」
『ギギ……ギガァァァァァッ!!』
異形が咆哮した。 新たな侵入者に対し、警戒と敵意を剥き出しにする。 触手が一斉に少女へと殺到した。 速い。剛田や三島さんを殺した時以上の速度。 だめだ、逃げろ、と俺が叫ぼうとした瞬間。
少女は一歩も動かなかった。 ただ、スッと右手を上げただけ。 その指先を、拳銃の形にして、異形に向ける。
「――ばん」
彼女の唇が、可愛らしく動いた。
轟ッッ!!!!!!
爆音。 いや、それは音を超えた衝撃波だった。 少女の指先から放たれたのは、銃弾などではない。 空間そのものをねじ切り、圧縮し、解き放つような、目に見えない大質量のエネルギー。
異形の身体が、中央から弾け飛んだ。 再生する暇すら与えない。 肉片の一欠片も残さず、原子レベルまで分解され、光の粒子となって消滅していく。
天井に風穴が開いた。 教室の壁が半壊し、校庭の景色が見える。 圧倒的な破壊力。 それを、彼女はたった一言、「ばん」という指鉄砲の真似事でやってのけたのだ。
静寂が戻ってきた。 雨上がりの空から、優しい陽光が差し込んでくる。 半壊した教室に、俺と、少女だけが立っていた。
「…………は?」
俺の思考は完全に停止していた。 腕の中には、まだ三島さんの頭がある。生々しい死の感触と、目の前の現実離れした光景のギャップに、脳が焼き切れそうだった。
少女は、燃えるような赤い髪を指で払いながら、耳元のイヤーカフに指を当てた。
「こちら『スカーレット』。エリアD-4のバグ・イーターを殲滅。……ええ、そうね。到着が遅れたわ。生存者は1名のみ」
彼女は淡々と報告をしている。 まるで、仕事終わりのOLが電話をしているような気軽さで。
「了解。回収班を寄越して。……ええ、大丈夫よ。『鍵』の反応は確認済み。保護します」
通話を終えると、少女はくるりと振り返った。 真紅の瞳が、俺をまっすぐに見据える。 その視線は、獲物を見る捕食者のものでもなく、被害者を憐れむ聖女のものでもなかった。 ただ、値踏みをするような、冷徹で美しい瞳。
彼女はコツ、コツと俺に歩み寄ってくる。 俺は動けない。三島さんの頭を抱きしめたまま、彼女を見上げることしかできなかった。
俺の目の前で立ち止まると、彼女は腰を折り、俺の顔を覗き込んだ。 甘い香りがした。血と硝煙の匂いの中で、そこだけが別世界のように。
「初めまして、七夕 双くん」
彼女は優雅に微笑んだ。 その笑顔は、この地獄のような状況にはあまりにも不釣り合いで――だからこそ、とてつもなく魅力的で、恐ろしかった。
「大変だったわね。でも、もう大丈夫」
彼女は俺の腕の中にあるモノ――三島ユナの頭部にちらりと視線を落とし、少しだけ眉を潜めたが、すぐに視線を俺に戻した。
「あなたが『食べて』しまった世界の秘密について……少し、お話しましょうか?」
彼女が差し出した手。 それは白く、細く、とてもさっき一撃で怪物を消し飛ばした手とは思えなかった。
俺は震える手で、彼女の手を取ることもできず、ただ呆然と呟いた。
「あんた……一体……」
「私? 私は、あなたの『共犯者』になるかもしれない女よ」
赤い髪の少女は、悪戯っぽくウィンクしてみせた。 崩壊した教室。 死んだ少女の頭部を抱える少年と、最強の力を持つ謎の少女。 俺たちの歪な物語は、ここから本当の意味で動き出す。
「…………え?」
誰かが、間の抜けた声を漏らした。 それが、狂宴の合図だった。
「い、いやぁぁぁぁぁぁぁっ!!」 「剛田が! 剛田が死んだぁぁ!!」 「なんだよあれ! 化け物! 化け物がいるぅぅっ!!」
教室は一瞬で阿鼻叫喚の地獄と化した。 椅子が倒れ、机がズレる不快な音が響く。三十人の生徒たちが、我先にと二つの出入り口へと殺到した。 普段は仲の良かった友人を押しのけ、女子生徒が悲鳴を上げて転倒し、その背中を男子生徒が踏みつけていく。生存本能が理性を食い破り、人間の醜い本性が剥き出しになる。
「開かない! なんでだよ! クソッ、開けろよ!!」
先頭の男子が、ドアノブをガチャガチャと乱暴に回す。 だが、扉は壁と一体化したようにびくともしない。蹴ろうが叩こうが、その扉は閉ざされたままだ。 この空間は、すでに外界から隔離されている。
『ギィィィィィィィィィィンッ!!!!!』
天井からぶら下がっていた赤黒い異形が、歓喜の咆哮を上げた。 それは生物の声ではなかった。金属を高速で擦り合わせたような、あるいは破損した音声データを大音量で再生したような、脳髄を直接揺さぶる不快な高周波音。
窓ガラスが一斉に共振し、粉々に砕け散る。 生徒たちが耳を押さえてうずくまる。
「――対象群、パニック状態を確認。これより排除プロセスを実行する」
異形の身体にある、不規則に埋め込まれた十数個の眼球が、一斉に別々の方向を向いた。 不定形の肉塊から、無数のケーブルのような触手が鞭のように伸びる。
シュンッ。
風を切る音すら遅れて聞こえた。 ドアの前で固まっていた生徒の群れを、触手の一本が薙ぎ払った。
悲鳴は上がらなかった。 触手に触れた瞬間、生徒たちの身体が、剛田と同じように「弾けた」からだ。 腕が、胴体が、顔が。 まるで最初からそこに存在しなかったかのように、赤い粒子の霧となって霧散していく。 肉片も、骨も残らない。ただ、制服の残骸だけが、主を失って床に落ちる。
「ひっ、ひぐっ……いやだ、たすけ……」
腰を抜かして後ずさる女子生徒に、異形がゆっくりと近づく。 彼女が慈悲を乞うように手を伸ばすが、異形に感情はない。 巨大な肉塊が覆いかぶさる。 ぐちゃり、という湿った捕食音が響き、彼女の姿もまた、朱色の霧の中に消えた。
地獄だった。 つい数分前まで、退屈な授業が行われていた教室は、赤い光と断末魔が渦巻く処刑場へと変わっていた。
『ソウ! 動いて! そこにいたら死ぬよ!』
脳内でリクが絶叫している。 わかっている。わかっているけど、身体が動かないんだ。 俺、七夕 双は、自分の席でガタガタと震えながら、その光景を見ていた。 腹の中にある「異物」が、恐怖に呼応するように熱を帯びている。胃袋が焼けるように熱い。その痛みが、かろうじて俺の意識を繋ぎ止めていた。
「い、いやぁっ! 来ないで!!」
その声に、俺は弾かれたように顔を向けた。 教室の隅。掃除用具入れの陰に、彼女がいた。
「三島さん……!」
三島ユナ。 俺が密かに想いを寄せていた、クラスの委員長。 彼女は青ざめた顔で震え、掃除用具入れのロッカーにしがみついている。 異形の触手が、ゆっくりと、だが確実に彼女の方へと伸びていく。蛇のように鎌首をもたげ、獲物を品定めするように先端を揺らしている。
「やめろ……!」
俺は声を絞り出した。 足に力が入らない。恐怖で膝が笑っている。 それでも、彼女だけは。 俺に優しく笑いかけてくれた、唯一の光だけは守りたかった。
俺は痛みを無視して机を蹴り飛ばし、彼女の方へ手を伸ばした。
「三島さん! 逃げろ! こっちだ!!」
俺の声に、三島さんが顔を上げる。 涙に濡れたその瞳が、俺を捉えた。
「七夕く――」
彼女が俺の名前を呼び、救いを求めて手を伸ばした、その時だった。
触手が、鞭のようにしなった。
スパァンッ。
乾いた音が、教室の空気を切り裂いた。 まるで熟れた果実を叩き割るような、軽くて残酷な音。
三島さんの身体が、ビクリと跳ねた。 一瞬、何が起きたのか理解できなかった。 彼女はまだ、そこに立っていたからだ。首から下は、無傷のまま。
だが、次の瞬間。
彼女の美しい黒髪の頭部が、肩からずるりと滑り落ちた。
スローモーションのように見えた。 宙を舞う頭部。驚愕に見開かれたままの瞳。 そして、切断された首の断面からは――やはり血ではなく、美しい赤色の光の粒子が、噴水のように舞い上がった。
ドサリ。 ゴロリ。
身体が崩れ落ちる音と、頭部が床を転がる音が、重なって響いた。
「あ…………あ、あ…………」
俺の口から、言葉にならない空気が漏れた。 嘘だ。 だって、さっきまで笑って挨拶してくれたのに。俺の腹痛を心配してくれたのに。 俺の、唯一の青春が。淡い恋心が。
残された胴体が、赤色の粒子となって空気に溶けていく。 まるで最初からデータでしかなかったかのように、跡形もなく消滅していく。 だが、頭部だけは残った。 床に転がった彼女の頭部だけが、そこにある。
「み、みしま、さん……?」
俺はふらふらと歩み寄った。 異形が俺を見ている気配がしたけれど、どうでもよかった。 俺は膝をつき、震える手で、彼女の頭部を拾い上げた。
温かい。 まだ、温もりが残っている。 艶やかな黒髪の感触も、柔らかい頬の感触も、生きていた時のままだ。 ただ、首の断面だけが、電子回路のように明滅している。
「嘘だろ……なんでだよ……」
俺は彼女の頭を抱きしめた。 涙が溢れて止まらなかった。 これが、俺の望んだ非日常なのか? こんな理不尽な暴力が、世界の正体なのか?
「うぅ……あぁぁぁぁぁっ!!」
絶叫。 慟哭。 俺の声だけが、静まり返った教室に虚しく響く。 他の生徒たちは、もういない。 全員、「処理」されたのだ。 この教室に残っているのは、俺と、腕の中の三島さんの頭部と、そして――
『ギギギ……対象、残り1名。処理を開始する』
異形が、ゆっくりと旋回した。 天井まで届きそうな巨躯。不規則に蠢く触手。 そのすべての殺意が、俺に向けられている。
死ぬ。 俺も、三島さんの後を追うんだ。 それでいい。こんな世界で生きていたって、何の意味もない。
異形の触手が、俺の首を狙って振り上げられた。 俺は三島さんの頭を強く抱きしめ、目を閉じた。 ごめん、何もできなくて。 今、そっちに行くから。
――コン、コン。
不意に。 場違いなほど軽快な音が、響いた。
俺は反射的に目を開けた。 異形の動きが止まっている。いや、異形すらも、その音の「異常さ」に反応したのか?
コン、コン。 それは、ドアをノックする音だった。
誰も開けられなかった、完全封鎖されたはずの教室のドア。 そこから、ノックの音が聞こえる。 鮮血と悲鳴が支配するこの空間で、まるで来客を告げるような、丁寧で、ふざけたノック音。
ガチャリ。 鍵など掛かっていなかったかのように、ドアが滑らかに開いた。
「――失礼します」
鈴を転がすような、涼やかな声。 入ってきたのは、一人の少女だった。
俺と同じ制服を着ている。 だが、その雰囲気は、この学校の誰とも違っていた。 腰まで届く、燃えるような真紅のロングヘア。 廊下から吹き込む風もないのに、その髪は炎のようにふわりとたなびいている。 整った顔立ちには、場違いなほど優雅な微笑みが浮かんでいた。
「え……?」
俺は呆然と呟いた。 彼女は、床に転がる生徒たちの遺品や、血のような粒子で汚れた床を気にする様子もなく、コツ、コツとローファーを鳴らして教室に入ってきた。
そして、教室の中央に陣取る異形を見上げると、クスリと笑った。
「あらあら。バグの掃除漏れかしら? ずいぶんと散らかしてくれたわね」
『ギギ……ギガァァァァァッ!!』
異形が咆哮した。 新たな侵入者に対し、警戒と敵意を剥き出しにする。 触手が一斉に少女へと殺到した。 速い。剛田や三島さんを殺した時以上の速度。 だめだ、逃げろ、と俺が叫ぼうとした瞬間。
少女は一歩も動かなかった。 ただ、スッと右手を上げただけ。 その指先を、拳銃の形にして、異形に向ける。
「――ばん」
彼女の唇が、可愛らしく動いた。
轟ッッ!!!!!!
爆音。 いや、それは音を超えた衝撃波だった。 少女の指先から放たれたのは、銃弾などではない。 空間そのものをねじ切り、圧縮し、解き放つような、目に見えない大質量のエネルギー。
異形の身体が、中央から弾け飛んだ。 再生する暇すら与えない。 肉片の一欠片も残さず、原子レベルまで分解され、光の粒子となって消滅していく。
天井に風穴が開いた。 教室の壁が半壊し、校庭の景色が見える。 圧倒的な破壊力。 それを、彼女はたった一言、「ばん」という指鉄砲の真似事でやってのけたのだ。
静寂が戻ってきた。 雨上がりの空から、優しい陽光が差し込んでくる。 半壊した教室に、俺と、少女だけが立っていた。
「…………は?」
俺の思考は完全に停止していた。 腕の中には、まだ三島さんの頭がある。生々しい死の感触と、目の前の現実離れした光景のギャップに、脳が焼き切れそうだった。
少女は、燃えるような赤い髪を指で払いながら、耳元のイヤーカフに指を当てた。
「こちら『スカーレット』。エリアD-4のバグ・イーターを殲滅。……ええ、そうね。到着が遅れたわ。生存者は1名のみ」
彼女は淡々と報告をしている。 まるで、仕事終わりのOLが電話をしているような気軽さで。
「了解。回収班を寄越して。……ええ、大丈夫よ。『鍵』の反応は確認済み。保護します」
通話を終えると、少女はくるりと振り返った。 真紅の瞳が、俺をまっすぐに見据える。 その視線は、獲物を見る捕食者のものでもなく、被害者を憐れむ聖女のものでもなかった。 ただ、値踏みをするような、冷徹で美しい瞳。
彼女はコツ、コツと俺に歩み寄ってくる。 俺は動けない。三島さんの頭を抱きしめたまま、彼女を見上げることしかできなかった。
俺の目の前で立ち止まると、彼女は腰を折り、俺の顔を覗き込んだ。 甘い香りがした。血と硝煙の匂いの中で、そこだけが別世界のように。
「初めまして、七夕 双くん」
彼女は優雅に微笑んだ。 その笑顔は、この地獄のような状況にはあまりにも不釣り合いで――だからこそ、とてつもなく魅力的で、恐ろしかった。
「大変だったわね。でも、もう大丈夫」
彼女は俺の腕の中にあるモノ――三島ユナの頭部にちらりと視線を落とし、少しだけ眉を潜めたが、すぐに視線を俺に戻した。
「あなたが『食べて』しまった世界の秘密について……少し、お話しましょうか?」
彼女が差し出した手。 それは白く、細く、とてもさっき一撃で怪物を消し飛ばした手とは思えなかった。
俺は震える手で、彼女の手を取ることもできず、ただ呆然と呟いた。
「あんた……一体……」
「私? 私は、あなたの『共犯者』になるかもしれない女よ」
赤い髪の少女は、悪戯っぽくウィンクしてみせた。 崩壊した教室。 死んだ少女の頭部を抱える少年と、最強の力を持つ謎の少女。 俺たちの歪な物語は、ここから本当の意味で動き出す。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
その瞬間、教室の空気は凍りついた。 剛田の首から上が消失し、鮮血のような――けれど決定的に人間のそれとは違う、美しい蛍光色の粒子が噴水のように舞い上がった光景。 それは、俺たちの脳が処理できる許容量を遥かに超えていた。
「…………え?」
誰かが、間の抜けた声を漏らした。 それが、狂宴の合図だった。
「い、いやぁぁぁぁぁぁぁっ!!」 「剛田が! 剛田が死んだぁぁ!!」 「なんだよあれ! 化け物! 化け物がいるぅぅっ!!」
教室は一瞬で阿鼻叫喚の地獄と化した。 椅子が倒れ、机がズレる不快な音が響く。三十人の生徒たちが、我先にと二つの出入り口へと殺到した。 普段は仲の良かった友人を押しのけ、女子生徒が悲鳴を上げて転倒し、その背中を男子生徒が踏みつけていく。生存本能が理性を食い破り、人間の醜い本性が剥き出しになる。
「開かない! なんでだよ! クソッ、開けろよ!!」
先頭の男子が、ドアノブをガチャガチャと乱暴に回す。 だが、扉は壁と一体化したようにびくともしない。蹴ろうが叩こうが、その扉は閉ざされたままだ。 この空間は、すでに外界から隔離されている。
『ギィィィィィィィィィィンッ!!!!!』
天井からぶら下がっていた赤黒い異形が、歓喜の咆哮を上げた。 それは生物の声ではなかった。金属を高速で擦り合わせたような、あるいは破損した音声データを大音量で再生したような、脳髄を直接揺さぶる不快な高周波音。
窓ガラスが一斉に共振し、粉々に砕け散る。 生徒たちが耳を押さえてうずくまる。
「――対象群、パニック状態を確認。これより排除プロセスを実行する」
異形の身体にある、不規則に埋め込まれた十数個の眼球が、一斉に別々の方向を向いた。 不定形の肉塊から、無数のケーブルのような触手が鞭のように伸びる。
シュンッ。
風を切る音すら遅れて聞こえた。 ドアの前で固まっていた生徒の群れを、触手の一本が薙ぎ払った。
悲鳴は上がらなかった。 触手に触れた瞬間、生徒たちの身体が、剛田と同じように「弾けた」からだ。 腕が、胴体が、顔が。 まるで最初からそこに存在しなかったかのように、赤い粒子の霧となって霧散していく。 肉片も、骨も残らない。ただ、制服の残骸だけが、主を失って床に落ちる。
「ひっ、ひぐっ……いやだ、たすけ……」
腰を抜かして後ずさる女子生徒に、異形がゆっくりと近づく。 彼女が慈悲を乞うように手を伸ばすが、異形に感情はない。 巨大な肉塊が覆いかぶさる。 ぐちゃり、という湿った捕食音が響き、彼女の姿もまた、朱色の霧の中に消えた。
地獄だった。 つい数分前まで、退屈な授業が行われていた教室は、赤い光と断末魔が渦巻く処刑場へと変わっていた。
『ソウ! 動いて! そこにいたら死ぬよ!』
脳内でリクが絶叫している。 わかっている。わかっているけど、身体が動かないんだ。 俺、七夕 双《たなばた そう》は、自分の席でガタガタと震えながら、その光景を見ていた。 腹の中にある「異物」が、恐怖に呼応するように熱を帯びている。胃袋が焼けるように熱い。その痛みが、かろうじて俺の意識を繋ぎ止めていた。
「い、いやぁっ! 来ないで!!」
その声に、俺は弾かれたように顔を向けた。 教室の隅。掃除用具入れの陰に、彼女がいた。
「三島さん……!」
三島ユナ。 俺が密かに想いを寄せていた、クラスの委員長。 彼女は青ざめた顔で震え、掃除用具入れのロッカーにしがみついている。 異形の触手が、ゆっくりと、だが確実に彼女の方へと伸びていく。蛇のように鎌首をもたげ、獲物を品定めするように先端を揺らしている。
「やめろ……!」
俺は声を絞り出した。 足に力が入らない。恐怖で膝が笑っている。 それでも、彼女だけは。 俺に優しく笑いかけてくれた、唯一の光だけは守りたかった。
俺は痛みを無視して机を蹴り飛ばし、彼女の方へ手を伸ばした。
「三島さん! 逃げろ! こっちだ!!」
俺の声に、三島さんが顔を上げる。 涙に濡れたその瞳が、俺を捉えた。
「七夕く――」
彼女が俺の名前を呼び、救いを求めて手を伸ばした、その時だった。
触手が、鞭のようにしなった。
スパァンッ。
乾いた音が、教室の空気を切り裂いた。 まるで熟れた果実を叩き割るような、軽くて残酷な音。
三島さんの身体が、ビクリと跳ねた。 一瞬、何が起きたのか理解できなかった。 彼女はまだ、そこに立っていたからだ。首から下は、無傷のまま。
だが、次の瞬間。
彼女の美しい黒髪の頭部が、肩からずるりと滑り落ちた。
スローモーションのように見えた。 宙を舞う頭部。驚愕に見開かれたままの瞳。 そして、切断された首の断面からは――やはり血ではなく、美しい赤色の光の粒子が、噴水のように舞い上がった。
ドサリ。 ゴロリ。
身体が崩れ落ちる音と、頭部が床を転がる音が、重なって響いた。
「あ…………あ、あ…………」
俺の口から、言葉にならない空気が漏れた。 嘘だ。 だって、さっきまで笑って挨拶してくれたのに。俺の腹痛を心配してくれたのに。 俺の、唯一の青春が。淡い恋心が。
残された胴体が、赤色の粒子となって空気に溶けていく。 まるで最初からデータでしかなかったかのように、跡形もなく消滅していく。 だが、頭部だけは残った。 床に転がった彼女の頭部だけが、そこにある。
「み、みしま、さん……?」
俺はふらふらと歩み寄った。 異形が俺を見ている気配がしたけれど、どうでもよかった。 俺は膝をつき、震える手で、彼女の頭部を拾い上げた。
温かい。 まだ、温もりが残っている。 艶やかな黒髪の感触も、柔らかい頬の感触も、生きていた時のままだ。 ただ、首の断面だけが、電子回路のように明滅している。
「嘘だろ……なんでだよ……」
俺は彼女の頭を抱きしめた。 涙が溢れて止まらなかった。 これが、俺の望んだ非日常なのか? こんな理不尽な暴力が、世界の正体なのか?
「うぅ……あぁぁぁぁぁっ!!」
絶叫。 慟哭。 俺の声だけが、静まり返った教室に虚しく響く。 他の生徒たちは、もういない。 全員、「処理」されたのだ。 この教室に残っているのは、俺と、腕の中の三島さんの頭部と、そして――
『ギギギ……対象、残り1名。処理を開始する』
異形が、ゆっくりと旋回した。 天井まで届きそうな巨躯。不規則に蠢く触手。 そのすべての殺意が、俺に向けられている。
死ぬ。 俺も、三島さんの後を追うんだ。 それでいい。こんな世界で生きていたって、何の意味もない。
異形の触手が、俺の首を狙って振り上げられた。 俺は三島さんの頭を強く抱きしめ、目を閉じた。 ごめん、何もできなくて。 今、そっちに行くから。
――コン、コン。
不意に。 場違いなほど軽快な音が、響いた。
俺は反射的に目を開けた。 異形の動きが止まっている。いや、異形すらも、その音の「異常さ」に反応したのか?
コン、コン。 それは、ドアをノックする音だった。
誰も開けられなかった、完全封鎖されたはずの教室のドア。 そこから、ノックの音が聞こえる。 鮮血と悲鳴が支配するこの空間で、まるで来客を告げるような、丁寧で、ふざけたノック音。
ガチャリ。 鍵など掛かっていなかったかのように、ドアが滑らかに開いた。
「――失礼します」
鈴を転がすような、涼やかな声。 入ってきたのは、一人の少女だった。
俺と同じ制服を着ている。 だが、その雰囲気は、この学校の誰とも違っていた。 腰まで届く、燃えるような真紅のロングヘア。 廊下から吹き込む風もないのに、その髪は炎のようにふわりとたなびいている。 整った顔立ちには、場違いなほど優雅な微笑みが浮かんでいた。
「え……?」
俺は呆然と呟いた。 彼女は、床に転がる生徒たちの遺品や、血のような粒子で汚れた床を気にする様子もなく、コツ、コツとローファーを鳴らして教室に入ってきた。
そして、教室の中央に陣取る異形を見上げると、クスリと笑った。
「あらあら。バグの掃除漏れかしら? ずいぶんと散らかしてくれたわね」
『ギギ……ギガァァァァァッ!!』
異形が咆哮した。 新たな侵入者に対し、警戒と敵意を剥き出しにする。 触手が一斉に少女へと殺到した。 速い。剛田や三島さんを殺した時以上の速度。 だめだ、逃げろ、と俺が叫ぼうとした瞬間。
少女は一歩も動かなかった。 ただ、スッと右手を上げただけ。 その指先を、拳銃の形にして、異形に向ける。
「――ばん」
彼女の唇が、可愛らしく動いた。
轟ッッ!!!!!!
爆音。 いや、それは音を超えた衝撃波だった。 少女の指先から放たれたのは、銃弾などではない。 空間そのものをねじ切り、圧縮し、解き放つような、目に見えない大質量のエネルギー。
異形の身体が、中央から弾け飛んだ。 再生する暇すら与えない。 肉片の一欠片も残さず、原子レベルまで分解され、光の粒子となって消滅していく。
天井に風穴が開いた。 教室の壁が半壊し、校庭の景色が見える。 圧倒的な破壊力。 それを、彼女はたった一言、「ばん」という指鉄砲の真似事でやってのけたのだ。
静寂が戻ってきた。 雨上がりの空から、優しい陽光が差し込んでくる。 半壊した教室に、俺と、少女だけが立っていた。
「…………は?」
俺の思考は完全に停止していた。 腕の中には、まだ三島さんの頭がある。生々しい死の感触と、目の前の現実離れした光景のギャップに、脳が焼き切れそうだった。
少女は、燃えるような赤い髪を指で払いながら、耳元のイヤーカフに指を当てた。
「こちら『スカーレット』。エリアD-4のバグ・イーターを殲滅。……ええ、そうね。到着が遅れたわ。生存者は1名のみ」
彼女は淡々と報告をしている。 まるで、仕事終わりのOLが電話をしているような気軽さで。
「了解。回収班《クリーナー》を寄越して。……ええ、大丈夫よ。『鍵』の反応は確認済み。保護します」
通話を終えると、少女はくるりと振り返った。 真紅の瞳が、俺をまっすぐに見据える。 その視線は、獲物を見る捕食者のものでもなく、被害者を憐れむ聖女のものでもなかった。 ただ、値踏みをするような、冷徹で美しい瞳。
彼女はコツ、コツと俺に歩み寄ってくる。 俺は動けない。三島さんの頭を抱きしめたまま、彼女を見上げることしかできなかった。
俺の目の前で立ち止まると、彼女は腰を折り、俺の顔を覗き込んだ。 甘い香りがした。血と硝煙の匂いの中で、そこだけが別世界のように。
「初めまして、七夕 双くん」
彼女は優雅に微笑んだ。 その笑顔は、この地獄のような状況にはあまりにも不釣り合いで――だからこそ、とてつもなく魅力的で、恐ろしかった。
「大変だったわね。でも、もう大丈夫」
彼女は俺の腕の中にあるモノ――三島ユナの頭部にちらりと視線を落とし、少しだけ眉を潜めたが、すぐに視線を俺に戻した。
「あなたが『食べて』しまった世界の秘密について……少し、お話しましょうか?」
彼女が差し出した手。 それは白く、細く、とてもさっき一撃で怪物を消し飛ばした手とは思えなかった。
俺は震える手で、彼女の手を取ることもできず、ただ呆然と呟いた。
「あんた……一体……」
「私? 私は、あなたの『共犯者』になるかもしれない女よ」
赤い髪の少女は、悪戯っぽくウィンクしてみせた。 崩壊した教室。 死んだ少女の頭部を抱える少年と、最強の力を持つ謎の少女。 俺たちの歪な物語は、ここから本当の意味で動き出す。