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(七)

ー/ー



 生まれたときから、窓の向こうには毎日変わらず、親友の部屋が見えていた。よく夜中に塀を伝って互いの部屋を行き来しては、危ないのだからと互いの母に叱られたものだ。
 瀟洒だが派手さはなく、かといって決して粗末ではないその邸宅の、隣の家に生まれた日から、陸謙(りくけん)の人生は決まった。いや、決まってしまった。
 「なぁ、陸虞候(ぐこう)殿。あんたにしか相談できないことがあるんだ。坊ちゃん直々に仰せつかって、こうしてお前のところに来たんだぜ」
 痩せぎすのあばた顔に軽薄な笑みを浮かべた高衙内の太鼓持ちは、名を富安(ふうあん)と言った。乾鳥頭(かんちょうとう)、と言った方が通じることを知らないのは、本人ばかりだが。
 「へえ、なんでも思いのままにできる衙内さまが、わざわざ俺を頼りにしてくださるなんて、何かあったのかい」
 このところ執務に忙殺されて、衙内の顔をしばらく見ていない。いや、それどころか、自宅に帰ってきたのさえ久しぶりであった。
 「坊ちゃんが先日、東嶽廟で一人の女をお見初めになってな。声をかけて、せっかくもう少しでものにできそうだったところを、その女の旦那に邪魔されたんだ」
 「なるほどね」
 つ、と視線を反らせば、窓の外には今、けばけばしい飾りが数え切れないほど並ぶ巨大な屋根が見えている。
 今日の天下を意のままにする高一族の、その中でもとびきりの馬鹿息子に気に入られるのは、そう悪いことではない。
 「それ以来坊ちゃんは、その女のことで思い煩ってばかりさ。俺たちにさえ当たり散らし、怒っていたかと思えば泣き出して、泣いていたかと思えばいらいらと部屋中を歩き回り、飯さえ満足に喉を通らないご様子。仲間たちがご機嫌取りに伺ってもとりつく島もなくってね。そこで俺が、坊ちゃんの惚れた女をものにする策をお聞かせしたら、ぜひにと言うわけさ」
 「俺はあんたみたいに色恋の策など持っていないが……まあ、衙内さまのためというなら協力するさ」 
 少しぬるくなった茶を一口含む。
 おべっかがうまくなったのはいつからだったか。
 世渡り上手と親友にまで揶揄される己にとって、高衙内の機嫌取りなど容易いことだ。たとえどんな汚い手を使おうが、それで誰が泣こうが、関係ない。顔も知らない他人の女を差し出すくらい、
 「ありがたい! 親友のお前でなけりゃ、林冲を騙すことなどできないからな」
 確かに喉を通ったはずの茶の、その味が、消えた。
 「まったく面倒なことだ。よりにもよって、禁軍一、人望も厚く実力もある林冲の妻に惚れちまうなんてな。だがまぁ、確かにあれは華のある、器量のいい女だったなぁ……それにあの色っぽい体つき……気が強そうなところもたまらねぇ」
 「……気が強い? 下手すりゃ俺やあんたなら投げ飛ばすぞ、あの女は」
 刹那の動揺を隠すように言い放った言葉も、その言葉を絞り出した喉も、ひどく乾いていた。
 たとえ張真娘が、勝手に己の庭を通りすぎた年上の青年二人組を捕まえて、丹精込めて(彼女の小間使いが)育てた花を踏み付けたことに対して小一時間説教を続け、青年たちの尻を叩いて一日がかりですべての花を植えなおさせるようなとんでもない女であろうとも、衙内の――それも『高』衙内の頬をひっぱたいて罵るようなことは、決してないだろう。
 じゃじゃ馬で跳ね返りで剛胆だが、一歩引いて堪えるべきところを知っている賢い女だ。
 誰もが憧れる強さと聡明さを持ちながらも、ひどく多情多恨で扱いづらい精悍な偉丈夫の隣に並ぶのが、よく似合う。
 「坊ちゃんも、あの豪傑の林冲が相手なんですっかり諦め気味だが、豪傑とは言ってもあれも所詮は高太尉の下僕。俸禄を食む身であれば、逆らうことなどするまいよ。あちこちで極上の女をひっかけてきたはずの坊ちゃんが、とりわけあの女にご執心とあらば、俺たちはぜひともその想いをかなえてやるのが筋ってもんじゃないか、え?」
 このおめでたい頭の男に言ったところで通じることではないだろうが、所詮下僕であるのは己たちも林冲も変わらない。今はこうして気に入られているからよいが、高家の人間の機嫌ひとつで、この首はいともたやすく胴から離れるのだ。
 「それはそうだが、でもな、あれで高太尉は林冲を気に入っているんだぞ。たとえ息子の恋煩いといえ、お気に入りの部下と面倒ごとを起こさせようとなさるかね」
 「ばか、いくらあんたが高太尉と近いからって、誰が高太尉に直接お願いしろと言ったんだ。俺に妙案がある。明日、あんたは自分の家で酒でも飲もうと林冲を誘いだし、途中でやっぱり樊楼に行こうという。坊ちゃんは、あんたの家の二階に隠れる。その間に俺が林冲の家に行き、あの女に、林冲があんたの家で飲んでいたら急に倒れたと言ってやるのさ。そうすりゃあの女は慌ててあんたの家に行き、そこで坊ちゃんと……な、どうだ? なに、女なんてのは所詮は浮気性なんだ。坊ちゃんの小粋でしゃれた様子を見りゃ、でかぶつの夫のことなんかどうでもよくなるよ」
 水を流すように淀みなく策とやらを語った富安は、まったく味のしなくなった茶をゆっくり飲み干す陸謙の肩を叩いた。
 「なあ、頼むよ、陸虞候。これがうまくいきゃ、俺もあんたも褒美はたんまり、ますます覚えもめでたくなるというわけだ。あとはよろしく頼むぞ」
 まるで陸謙が断ることなどありえないと確信した様子で笑った富安は、坊ちゃんからだ、と低く囁き、銀子を卓の上に残して去っていった。
 「……ハッ」
 ひどく安っぽい笑い声がこぼれた。
 (俺の命は、銀子一錠分しかないのか)
 これが、すべての結果だった。
 林冲の妻にすら及ばない、己の価値をまざまざと見せつけられたのだ。
 「冲児……」
 かつて、陸謙の生きる世の真ん中にいたのは、己と同じく小柄な男児であった。
 数えきれないほど馬鹿なことをして叱られ、数えきれないほど何気ないことで笑った。
 彼と同じ道を、彼と肩を並べて歩くのは、己にとって至極当然の未来であった。
 だが、いつしか無二の友は背も、武も、智も、徳も、なにもかもにおいて、己を遥かに超えた。
 悪童め、と二人まとめて苦笑いをされていたのが、いつしか「林冲のようになれ」が親の口癖となった。
 文官になったのは、せめてもの抗いだった。文が武に優れる世で、愚かなほどまっすぐに武の道を貫く男は決してその身に見合わぬ地位にとどまり、己はといえば、狭き門をくぐって文官となり、やがて舌先三寸の力で引き抜かれ、下級武官といえど高俅のお気に入りの側近という、この世で最も権力に近い地位を手に入れた。たとえ生きる道は別れても、同じところにたどり着いたのだと己に言い聞かせた。
 だが、それが虚しい刹那の優越であることは、誰よりも陸謙自身が知っていた。
 『陸謙、俺はお前と違い、武の道しか知らぬ粗忽者。お前は弁もたつし、器用だから、きっと高俅のふところに入れるさ。一人では難しくとも、二人なら、内と外からなら……陸謙、この理不尽な世に、お前は文を、俺は武をもって、抗おう。国と民に忠義を尽くすのだ』
 文官に登用されることが決まった陸謙に、林冲が言った言葉だった。もはや陸謙の思惑が彼の志とは比べ物にならぬような低俗なものになり果てていたことなど、考えもしなかっただろう。
 愚かなほどにお人好しで、清廉な身の内に業火を抱え、生き難い道を自ら進み、己を置いて去って行く――その後ろ姿が、ひどく憎かった。
 (なあ冲児、俺は、何も感じなくなっちまった)
 親友を裏切れと、金をちらつかせて暗に脅した者たちへの、嫌悪もない。
 涙も出なければ、情けなさに手が震えることさえない。
 どうにかしなければという焦りも、友を助けようとする気概も、かといって友を出し抜いて己の保身をはかることへの優越も、何もない。
 いつのまにか、己はこんなにも空っぽの人間になったのだ。
 そんながらんどうの中に唯一残されたのは、豹子頭林冲という一人の人間の、その存在に対する一片の憎らしさだけであった。
 (銀子一錠で、お前を引きずり下ろすことができるのか、俺は)
 手に握った銀子は、ひどく冷えている。
 そもそも、富安がこのことを口に上らせた瞬間に、殴ったり罵ったりしなかったのが、己の心の真実なのだ。
 心の底から守りたければ、こんなにごたごたと考えを巡らせる前に、とっくにそうしていた。あるいは、この首に刃を当てでもしただろう。
 『謙児、明日からは……』
 きつく瞳を閉じ、深く息を吸う。
 脳裏にしまい込まれた山のような想い出の中の、一番古い光景から順に、粉々に壊してしまいたかった。


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 瀟洒だが派手さはなく、かといって決して粗末ではないその邸宅の、隣の家に生まれた日から、|陸謙《りくけん》の人生は決まった。いや、決まってしまった。
 「なぁ、陸|虞候《ぐこう》殿。あんたにしか相談できないことがあるんだ。坊ちゃん直々に仰せつかって、こうしてお前のところに来たんだぜ」
 痩せぎすのあばた顔に軽薄な笑みを浮かべた高衙内の太鼓持ちは、名を|富安《ふうあん》と言った。|乾鳥頭《かんちょうとう》、と言った方が通じることを知らないのは、本人ばかりだが。
 「へえ、なんでも思いのままにできる衙内さまが、わざわざ俺を頼りにしてくださるなんて、何かあったのかい」
 このところ執務に忙殺されて、衙内の顔をしばらく見ていない。いや、それどころか、自宅に帰ってきたのさえ久しぶりであった。
 「坊ちゃんが先日、東嶽廟で一人の女をお見初めになってな。声をかけて、せっかくもう少しでものにできそうだったところを、その女の旦那に邪魔されたんだ」
 「なるほどね」
 つ、と視線を反らせば、窓の外には今、けばけばしい飾りが数え切れないほど並ぶ巨大な屋根が見えている。
 今日の天下を意のままにする高一族の、その中でもとびきりの馬鹿息子に気に入られるのは、そう悪いことではない。
 「それ以来坊ちゃんは、その女のことで思い煩ってばかりさ。俺たちにさえ当たり散らし、怒っていたかと思えば泣き出して、泣いていたかと思えばいらいらと部屋中を歩き回り、飯さえ満足に喉を通らないご様子。仲間たちがご機嫌取りに伺ってもとりつく島もなくってね。そこで俺が、坊ちゃんの惚れた女をものにする策をお聞かせしたら、ぜひにと言うわけさ」
 「俺はあんたみたいに色恋の策など持っていないが……まあ、衙内さまのためというなら協力するさ」 
 少しぬるくなった茶を一口含む。
 おべっかがうまくなったのはいつからだったか。
 世渡り上手と親友にまで揶揄される己にとって、高衙内の機嫌取りなど容易いことだ。たとえどんな汚い手を使おうが、それで誰が泣こうが、関係ない。顔も知らない他人の女を差し出すくらい、
 「ありがたい! 親友のお前でなけりゃ、林冲を騙すことなどできないからな」
 確かに喉を通ったはずの茶の、その味が、消えた。
 「まったく面倒なことだ。よりにもよって、禁軍一、人望も厚く実力もある林冲の妻に惚れちまうなんてな。だがまぁ、確かにあれは華のある、器量のいい女だったなぁ……それにあの色っぽい体つき……気が強そうなところもたまらねぇ」
 「……気が強い? 下手すりゃ俺やあんたなら投げ飛ばすぞ、あの女は」
 刹那の動揺を隠すように言い放った言葉も、その言葉を絞り出した喉も、ひどく乾いていた。
 たとえ張真娘が、勝手に己の庭を通りすぎた年上の青年二人組を捕まえて、丹精込めて(彼女の小間使いが)育てた花を踏み付けたことに対して小一時間説教を続け、青年たちの尻を叩いて一日がかりですべての花を植えなおさせるようなとんでもない女であろうとも、衙内の――それも『高』衙内の頬をひっぱたいて罵るようなことは、決してないだろう。
 じゃじゃ馬で跳ね返りで剛胆だが、一歩引いて堪えるべきところを知っている賢い女だ。
 誰もが憧れる強さと聡明さを持ちながらも、ひどく多情多恨で扱いづらい精悍な偉丈夫の隣に並ぶのが、よく似合う。
 「坊ちゃんも、あの豪傑の林冲が相手なんですっかり諦め気味だが、豪傑とは言ってもあれも所詮は高太尉の下僕。俸禄を食む身であれば、逆らうことなどするまいよ。あちこちで極上の女をひっかけてきたはずの坊ちゃんが、とりわけあの女にご執心とあらば、俺たちはぜひともその想いをかなえてやるのが筋ってもんじゃないか、え?」
 このおめでたい頭の男に言ったところで通じることではないだろうが、所詮下僕であるのは己たちも林冲も変わらない。今はこうして気に入られているからよいが、高家の人間の機嫌ひとつで、この首はいともたやすく胴から離れるのだ。
 「それはそうだが、でもな、あれで高太尉は林冲を気に入っているんだぞ。たとえ息子の恋煩いといえ、お気に入りの部下と面倒ごとを起こさせようとなさるかね」
 「ばか、いくらあんたが高太尉と近いからって、誰が高太尉に直接お願いしろと言ったんだ。俺に妙案がある。明日、あんたは自分の家で酒でも飲もうと林冲を誘いだし、途中でやっぱり樊楼に行こうという。坊ちゃんは、あんたの家の二階に隠れる。その間に俺が林冲の家に行き、あの女に、林冲があんたの家で飲んでいたら急に倒れたと言ってやるのさ。そうすりゃあの女は慌ててあんたの家に行き、そこで坊ちゃんと……な、どうだ? なに、女なんてのは所詮は浮気性なんだ。坊ちゃんの小粋でしゃれた様子を見りゃ、でかぶつの夫のことなんかどうでもよくなるよ」
 水を流すように淀みなく策とやらを語った富安は、まったく味のしなくなった茶をゆっくり飲み干す陸謙の肩を叩いた。
 「なあ、頼むよ、陸虞候。これがうまくいきゃ、俺もあんたも褒美はたんまり、ますます覚えもめでたくなるというわけだ。あとはよろしく頼むぞ」
 まるで陸謙が断ることなどありえないと確信した様子で笑った富安は、坊ちゃんからだ、と低く囁き、銀子を卓の上に残して去っていった。
 「……ハッ」
 ひどく安っぽい笑い声がこぼれた。
 (俺の命は、銀子一錠分しかないのか)
 これが、すべての結果だった。
 林冲の妻にすら及ばない、己の価値をまざまざと見せつけられたのだ。
 「冲児……」
 かつて、陸謙の生きる世の真ん中にいたのは、己と同じく小柄な男児であった。
 数えきれないほど馬鹿なことをして叱られ、数えきれないほど何気ないことで笑った。
 彼と同じ道を、彼と肩を並べて歩くのは、己にとって至極当然の未来であった。
 だが、いつしか無二の友は背も、武も、智も、徳も、なにもかもにおいて、己を遥かに超えた。
 悪童め、と二人まとめて苦笑いをされていたのが、いつしか「林冲のようになれ」が親の口癖となった。
 文官になったのは、せめてもの抗いだった。文が武に優れる世で、愚かなほどまっすぐに武の道を貫く男は決してその身に見合わぬ地位にとどまり、己はといえば、狭き門をくぐって文官となり、やがて舌先三寸の力で引き抜かれ、下級武官といえど高俅のお気に入りの側近という、この世で最も権力に近い地位を手に入れた。たとえ生きる道は別れても、同じところにたどり着いたのだと己に言い聞かせた。
 だが、それが虚しい刹那の優越であることは、誰よりも陸謙自身が知っていた。
 『陸謙、俺はお前と違い、武の道しか知らぬ粗忽者。お前は弁もたつし、器用だから、きっと高俅のふところに入れるさ。一人では難しくとも、二人なら、内と外からなら……陸謙、この理不尽な世に、お前は文を、俺は武をもって、抗おう。国と民に忠義を尽くすのだ』
 文官に登用されることが決まった陸謙に、林冲が言った言葉だった。もはや陸謙の思惑が彼の志とは比べ物にならぬような低俗なものになり果てていたことなど、考えもしなかっただろう。
 愚かなほどにお人好しで、清廉な身の内に業火を抱え、生き難い道を自ら進み、己を置いて去って行く――その後ろ姿が、ひどく憎かった。
 (なあ冲児、俺は、何も感じなくなっちまった)
 親友を裏切れと、金をちらつかせて暗に脅した者たちへの、嫌悪もない。
 涙も出なければ、情けなさに手が震えることさえない。
 どうにかしなければという焦りも、友を助けようとする気概も、かといって友を出し抜いて己の保身をはかることへの優越も、何もない。
 いつのまにか、己はこんなにも空っぽの人間になったのだ。
 そんながらんどうの中に唯一残されたのは、豹子頭林冲という一人の人間の、その存在に対する一片の憎らしさだけであった。
 (銀子一錠で、お前を引きずり下ろすことができるのか、俺は)
 手に握った銀子は、ひどく冷えている。
 そもそも、富安がこのことを口に上らせた瞬間に、殴ったり罵ったりしなかったのが、己の心の真実なのだ。
 心の底から守りたければ、こんなにごたごたと考えを巡らせる前に、とっくにそうしていた。あるいは、この首に刃を当てでもしただろう。
 『謙児、明日からは……』
 きつく瞳を閉じ、深く息を吸う。
 脳裏にしまい込まれた山のような想い出の中の、一番古い光景から順に、粉々に壊してしまいたかった。