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(六)

ー/ー



 「真娘……大事はなかったか」
 「あ、あなた、ちょっと、人前よ……私は大丈夫です。何もされていないし、大丈夫だから、離してちょうだい」
 人目も気にせず細い体を抱き寄せ、長く艶やかな黒髪を撫でれば、恥ずかしげにうろたえた体はいとも容易く林冲の腕をすり抜け、温かな手が己の額に伸ばされる。
 「あなたのほうこそ、ひどい顔色よ。頭が痛むときのよう」
 「平気だ」
 「嘘おっしゃい」
 切れ長の大きな目が、ほっとしたような笑みの形に撓む。
 それは妻の浮かべる表情の中で、林冲が一番愛おしく感じるものであった。
 「お嬢さま!」
 ようやく騒ぎが一段落したらしいと胸をなで下ろした人々が、五嶽楼のまわりから散り散りに去って行く合間から、錦児の鈴のような声が響き渡る。
 あまりの出来事に我を忘れ、昔の呼び方で己を呼んで駆け寄ってくる小間使いの手を、妻は優しく握りしめた。
 「錦児、夫を呼んでくれてありがとう。おかげで大事にいたらずに済んだわ」
 「もう、私、どうなることかと思いました……だってあの男、ほんとうにおかしな人だったんですもの」
 「あまり大きな声でそんなことを言わないで。あの男は……高俅の息子よ」
 「え……!」
 二人の話声を聞きながら、ふと林冲は己の手を見た。
 手のひらに爪が食い込んだところから、赤い血が滲んでいる。
 (血潮ばかり滾らせて、いざとなれば手を出せぬ、臆病者め)
 弱虫と、臆病者と言われ、怒りに血を滾らせたのは、そうではないと胸を張れない己への後ろめたさか。
 (強くなれ、林冲)
 誰の重荷になることもなく、誰の手にも囚われることのない強さが欲しかった。
 「……本当は、自分でどうにかしようとしたの。相手が高衙内だとわかったから」
 この世にただ一人、その手に囚われても良いと思った女は、林冲の隣に並び立ち、静かな声で告げる。
 「あなたがあの男と鉢合わせずに済むように……でも、来てくれて嬉しかったわ。まるで将軍に守られる公主さまにでもなった気分よ」
 いつでも温かな手が、傷ついた己の手のひらを穏やかに撫で、そして握りしめる。指先が、血の滲んだ爪痕に幾度も触れた。
 「さあ、帰りましょう。錦児がこれ以上騒ぎ立てるまえに」
 「……そうだな」
 妻に手を引かれ、ようやく林冲は歩き出した。
 どうやらすべては解決したようだと安堵の表情を浮かべた錦児もまた、小走りに夫婦の後ろについてくる。
 そうしてゆっくりと歩きながら嶽廟の廊下を出たところで、なにやら騒々しい声とともに、どたどたと、地鳴りのような足音が聞こえてきた。
 「兄弟、林冲!」
 銅鑼のような声で名を呼ばれてそちらを見れば、なんと血相を変えてこちらへ駆けてくるのは、二、三十人の子分を従え、禅杖を抱えた智深であった。
 「兄貴? そんなに慌てて、どこへ行くんだ?」
 先ほど契りを交わしたばかりの和尚の、そのものすごい面構えにびっくりしたように息を飲んだ錦児が、妻の背中にこそりと隠れる。
 「どこへも何も、お前を助けに来たに決まっている! さきほどお前がそこの娘さんと話したあと突然走って行ったので、何か用事でも思い出したのかと待っていたんだが、近くから騒がしい声がしてきたので子分にひとっ走り様子を見に行かせれば、なんとお前のご夫人が助平野郎に困らせられていると言うではないか! だからこうして子分たちを連れてやってきたのだ。それで、その色魔はどこに行きやがった?」
 血走った目でぎょろぎょろとあたりを見回す智深の言葉に驚きながらも、林冲はその肩に手を置き、彼を落ち着かせようとつとめて穏やかな調子で答えた。
 「もう、ここにはいない。実は、その助平は高衙内といって、殿帥府の高太尉の……つまり、俺の上官の息子だったのだ。あの男が花花太歳と呼ばれる女たらしで、父親の権勢を笠に着ては好き放題する色魔だというのはこの開封では有名な話だが、高家の権力を恐れ、誰も口出しはできぬのだ。俺の妻とは知らずに声をかけてきたので、俺も殴り飛ばしてやろうと思ったんだが、高太尉の面に泥を塗ることにもなろうと見逃してやった次第。兄貴、情けないと思うだろうが、俺は一介の軍人に過ぎない。上官にたてついて、すべてを失うわけにはゆかぬのだ。例え……例え、腐りきった上官であろうともな」
 智深が己をじっと見つめているのを感じ、林冲はわずかに瞳を伏せた。
 この天衣無縫の豪傑に、不甲斐ない男と思われたくはなかったが、偽りを言うことはもっとできなかった。
 「ふん、高太尉ってのは、そんなに偉いのか? お前ほどの男が拳を振るうのさえためらわせるほどに? 弟よ、たとえお前の足もとを見るような卑劣な糞野郎であろうと、俺にとってはただの他人。もしも俺がその糞野郎の糞息子に出会ったら、この禅杖でしこたまに殴りつけてやるからな。二百発、いや、三百発だ! なあ、どうだ? それともこの足で尻が血を噴くほど蹴りつけてやろうか、なあ、次はお前も、そうするんだぞ」
 己の不甲斐なさを責めようとせぬ花和尚の言葉に、その心の深さを想い、林冲は伏せていた瞳をあげた。
 よくよく見れば、智深の丸い目は半分据わり、ぼうぼうと針のような髭にまみれた顔は真っ赤になっている。まだなにやら威勢良く啖呵を切るその吐息からは濃い酒の香がして、どうやらかなり酔っているようであった。
 「ああ、兄貴の言うとおり、俺も今度こんなことがあったら、ただじゃおかない。今日は皆がやめろとなだめるので、仕方なく許してやったのだ」
 「そうか、そうだろう、お前だって、殴りたくてうずうずしていたろうに……」
 ひとつしゃっくりをこぼした智深の巨体が、ふらりとこちらに傾いでくる。
 「和尚さま、お気をつけくださいませ」
 慌てて肩を支える林冲の横から、それまで黙ってやりとりを聞いていた妻もまた手を伸ばし、智深の肩を押さえた。
 「私の助太刀に来ていただいたとのこと、それに夫のことを心配してくださってありがとうございます。和尚さまはどちらのお寺の方ですの? 夫のお知り合いでいらっしゃるのかしら」
 「ああ、あんたが林冲のご夫人か。無事でなによりだ! 俺はそこの、ほれ、大相国寺の坊主でな、あんたの旦那とは、義兄弟の仲。ということはだ、ご夫人、あんたは俺にとっては妹分。助太刀するのは当然のことよ」
 「まあ、そうでしたの。でも、随分お酒をお召しになったのでは? 今日はもう、お帰りになったほうがよろしいわ、義兄上」
 「むう……」
 智深は何か物足りなさそうな顔で林冲を見たが、妻の思いがけず強い口調に、つい林冲も彼を促した。
 「兄貴、妻の言うとおりだ。今日はもう休んだほうがいい」
 「次にまた困ったことがあれば、すぐに俺を呼ぶんだぞ。いつでも、駆けつけてやるからな」
 「さあ、お師匠さま、妹君さまも無事だったことですし、帰りましょう。林教頭とはまた明日、お会いになればいいのですから、ね」
 「わかった、わかった、おい林冲、また明日、会いにいくからな。ご夫人、どうも失礼した」
 ふらふらと足もとのあやしい智深を支える子分どもに、あれこれなだめすかされながら帰って行く後ろ姿が、なにか大きな子どもがあやされているかのように見えて、林冲はつい小さく笑みをこぼす。
 すると、目ざとくそれに気が付いた妻が、軽く咳払いをした。
 「あら、あなた、少し顔色がよくなったのね。さっきの和尚さまは、いったいどなた? 謙兄さん以外に、あなたがあんなに信じきった風にお話する方がいたなんて、知らなかったわ」
 「ああ……あの人は、法名を魯智深と言ってな」
 自分の服にまで酒の匂いが移ったとでも思っているのか、鼻先で袖口の匂いを嗅ぐ妻に、林冲は智深と偶然出会ったことを語って聞かせた。
 「義兄弟の契りを交わしたとは言え、今日出会ったばかりの俺の修羅場に駆けつけてくれるとは……あの人こそ、真の好漢だと思わないか?」
 「……そうね」
 妻はしばらく智深が去った方を見つめていたが、ひとつ、何かに納得したかのように頷くと、再び林冲の手を握りしめた。
 「ねえ、明日のために、お酒を買ってから帰りましょう。錦児、行くわよ」
 「はい……奥様、あの方、すごいお髭でしたね」
 「ふふ、暑そうだったわね」
 女たちのころころとした笑い声を聞いていれば、まるで今日は何事もない、良い一日だったように感じられる。
 だが、心の内の曇は――敬愛する師兄が都を追われたあの日からずっと心中にかかっている分厚い雲は、いまだ消えることなく、身体の奥底で、静かに渦を巻いていた。



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 「あなたのほうこそ、ひどい顔色よ。頭が痛むときのよう」
 「平気だ」
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 切れ長の大きな目が、ほっとしたような笑みの形に撓む。
 それは妻の浮かべる表情の中で、林冲が一番愛おしく感じるものであった。
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 ようやく騒ぎが一段落したらしいと胸をなで下ろした人々が、五嶽楼のまわりから散り散りに去って行く合間から、錦児の鈴のような声が響き渡る。
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 「錦児、夫を呼んでくれてありがとう。おかげで大事にいたらずに済んだわ」
 「もう、私、どうなることかと思いました……だってあの男、ほんとうにおかしな人だったんですもの」
 「あまり大きな声でそんなことを言わないで。あの男は……高俅の息子よ」
 「え……!」
 二人の話声を聞きながら、ふと林冲は己の手を見た。
 手のひらに爪が食い込んだところから、赤い血が滲んでいる。
 (血潮ばかり滾らせて、いざとなれば手を出せぬ、臆病者め)
 弱虫と、臆病者と言われ、怒りに血を滾らせたのは、そうではないと胸を張れない己への後ろめたさか。
 (強くなれ、林冲)
 誰の重荷になることもなく、誰の手にも囚われることのない強さが欲しかった。
 「……本当は、自分でどうにかしようとしたの。相手が高衙内だとわかったから」
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 「あなたがあの男と鉢合わせずに済むように……でも、来てくれて嬉しかったわ。まるで将軍に守られる公主さまにでもなった気分よ」
 いつでも温かな手が、傷ついた己の手のひらを穏やかに撫で、そして握りしめる。指先が、血の滲んだ爪痕に幾度も触れた。
 「さあ、帰りましょう。錦児がこれ以上騒ぎ立てるまえに」
 「……そうだな」
 妻に手を引かれ、ようやく林冲は歩き出した。
 どうやらすべては解決したようだと安堵の表情を浮かべた錦児もまた、小走りに夫婦の後ろについてくる。
 そうしてゆっくりと歩きながら嶽廟の廊下を出たところで、なにやら騒々しい声とともに、どたどたと、地鳴りのような足音が聞こえてきた。
 「兄弟、林冲!」
 銅鑼のような声で名を呼ばれてそちらを見れば、なんと血相を変えてこちらへ駆けてくるのは、二、三十人の子分を従え、禅杖を抱えた智深であった。
 「兄貴? そんなに慌てて、どこへ行くんだ?」
 先ほど契りを交わしたばかりの和尚の、そのものすごい面構えにびっくりしたように息を飲んだ錦児が、妻の背中にこそりと隠れる。
 「どこへも何も、お前を助けに来たに決まっている! さきほどお前がそこの娘さんと話したあと突然走って行ったので、何か用事でも思い出したのかと待っていたんだが、近くから騒がしい声がしてきたので子分にひとっ走り様子を見に行かせれば、なんとお前のご夫人が助平野郎に困らせられていると言うではないか! だからこうして子分たちを連れてやってきたのだ。それで、その色魔はどこに行きやがった?」
 血走った目でぎょろぎょろとあたりを見回す智深の言葉に驚きながらも、林冲はその肩に手を置き、彼を落ち着かせようとつとめて穏やかな調子で答えた。
 「もう、ここにはいない。実は、その助平は高衙内といって、殿帥府の高太尉の……つまり、俺の上官の息子だったのだ。あの男が花花太歳と呼ばれる女たらしで、父親の権勢を笠に着ては好き放題する色魔だというのはこの開封では有名な話だが、高家の権力を恐れ、誰も口出しはできぬのだ。俺の妻とは知らずに声をかけてきたので、俺も殴り飛ばしてやろうと思ったんだが、高太尉の面に泥を塗ることにもなろうと見逃してやった次第。兄貴、情けないと思うだろうが、俺は一介の軍人に過ぎない。上官にたてついて、すべてを失うわけにはゆかぬのだ。例え……例え、腐りきった上官であろうともな」
 智深が己をじっと見つめているのを感じ、林冲はわずかに瞳を伏せた。
 この天衣無縫の豪傑に、不甲斐ない男と思われたくはなかったが、偽りを言うことはもっとできなかった。
 「ふん、高太尉ってのは、そんなに偉いのか? お前ほどの男が拳を振るうのさえためらわせるほどに? 弟よ、たとえお前の足もとを見るような卑劣な糞野郎であろうと、俺にとってはただの他人。もしも俺がその糞野郎の糞息子に出会ったら、この禅杖でしこたまに殴りつけてやるからな。二百発、いや、三百発だ! なあ、どうだ? それともこの足で尻が血を噴くほど蹴りつけてやろうか、なあ、次はお前も、そうするんだぞ」
 己の不甲斐なさを責めようとせぬ花和尚の言葉に、その心の深さを想い、林冲は伏せていた瞳をあげた。
 よくよく見れば、智深の丸い目は半分据わり、ぼうぼうと針のような髭にまみれた顔は真っ赤になっている。まだなにやら威勢良く啖呵を切るその吐息からは濃い酒の香がして、どうやらかなり酔っているようであった。
 「ああ、兄貴の言うとおり、俺も今度こんなことがあったら、ただじゃおかない。今日は皆がやめろとなだめるので、仕方なく許してやったのだ」
 「そうか、そうだろう、お前だって、殴りたくてうずうずしていたろうに……」
 ひとつしゃっくりをこぼした智深の巨体が、ふらりとこちらに傾いでくる。
 「和尚さま、お気をつけくださいませ」
 慌てて肩を支える林冲の横から、それまで黙ってやりとりを聞いていた妻もまた手を伸ばし、智深の肩を押さえた。
 「私の助太刀に来ていただいたとのこと、それに夫のことを心配してくださってありがとうございます。和尚さまはどちらのお寺の方ですの? 夫のお知り合いでいらっしゃるのかしら」
 「ああ、あんたが林冲のご夫人か。無事でなによりだ! 俺はそこの、ほれ、大相国寺の坊主でな、あんたの旦那とは、義兄弟の仲。ということはだ、ご夫人、あんたは俺にとっては妹分。助太刀するのは当然のことよ」
 「まあ、そうでしたの。でも、随分お酒をお召しになったのでは? 今日はもう、お帰りになったほうがよろしいわ、義兄上」
 「むう……」
 智深は何か物足りなさそうな顔で林冲を見たが、妻の思いがけず強い口調に、つい林冲も彼を促した。
 「兄貴、妻の言うとおりだ。今日はもう休んだほうがいい」
 「次にまた困ったことがあれば、すぐに俺を呼ぶんだぞ。いつでも、駆けつけてやるからな」
 「さあ、お師匠さま、妹君さまも無事だったことですし、帰りましょう。林教頭とはまた明日、お会いになればいいのですから、ね」
 「わかった、わかった、おい林冲、また明日、会いにいくからな。ご夫人、どうも失礼した」
 ふらふらと足もとのあやしい智深を支える子分どもに、あれこれなだめすかされながら帰って行く後ろ姿が、なにか大きな子どもがあやされているかのように見えて、林冲はつい小さく笑みをこぼす。
 すると、目ざとくそれに気が付いた妻が、軽く咳払いをした。
 「あら、あなた、少し顔色がよくなったのね。さっきの和尚さまは、いったいどなた? 謙兄さん以外に、あなたがあんなに信じきった風にお話する方がいたなんて、知らなかったわ」
 「ああ……あの人は、法名を魯智深と言ってな」
 自分の服にまで酒の匂いが移ったとでも思っているのか、鼻先で袖口の匂いを嗅ぐ妻に、林冲は智深と偶然出会ったことを語って聞かせた。
 「義兄弟の契りを交わしたとは言え、今日出会ったばかりの俺の修羅場に駆けつけてくれるとは……あの人こそ、真の好漢だと思わないか?」
 「……そうね」
 妻はしばらく智深が去った方を見つめていたが、ひとつ、何かに納得したかのように頷くと、再び林冲の手を握りしめた。
 「ねえ、明日のために、お酒を買ってから帰りましょう。錦児、行くわよ」
 「はい……奥様、あの方、すごいお髭でしたね」
 「ふふ、暑そうだったわね」
 女たちのころころとした笑い声を聞いていれば、まるで今日は何事もない、良い一日だったように感じられる。
 だが、心の内の曇は――敬愛する師兄が都を追われたあの日からずっと心中にかかっている分厚い雲は、いまだ消えることなく、身体の奥底で、静かに渦を巻いていた。