第4話
ー/ー「ふう……」
風呂から上がり、早々とベッドに倒れ込む。
今日は本当に疲れた。いや、疲れたというより混乱した、と言った方が正しい。
席替えで一喜一憂していただけのはずが、いつの間にか秋山さんと本の話で盛り上がっていた。
しかも、姉さんからは「チアに興味を持つきっかけになるじゃない」と言われる始末だ。
「まったく、姉さんったら……」
確かに不思議な一日だった。チアに対する嫌な気持ちが少しだけ和らいだような気がする。
チャイムが鳴る前に、小説のことについて話していたなと思い出しながら本棚に目を通す。
「これ、懐かしいな」
若干古ぼけた漫画に目が向く。
野球少年だった頃、母さんに野球漫画を買ってきてと頼んだことがある。
そのたびに母さんは「なかった」、もしくは「忘れた」と答えて買ってこない。三度目で買ってきたのが、この漫画だ。
泣きながら読んでいたせいもあって、どういう話だったかはよく覚えていない。それなのに、あるシーンだけはよく覚えている。
「漫画版を貸そうかな……」
横になりながら考える。
いくら親しいとはいえ、漫画本を貸しているところを広瀬に見られたら、どうなるかわからない。
それに、漫画版だと肝心なところが書かれていない可能性もある。
姉さんが原作の小説を持っていたら借りよう。読んだ上で、秋山さんに貸してあげよう。
ベッドから起き上がり、向かいにある姉さんの部屋へと向かう。ドアの隙間からは、かすかに明かりが漏れていた。
「姉さん、少しだけいいかな?」
姉さんの部屋の前で軽くノックをする。ガチャ、という音とともに、姉さんが顔を出した。
「なあに、優人? 手短に頼むわよ」
姉さんはパックを外し、不機嫌そうな表情を見せた。寝る前にお肌のお手入れをしているのだろう。
「秋山さんって子に本を貸したいんだ。男子大学生がチアをやる話、まだ持ってる?」
あの本が出たのは、十年以上前だ。姉さんのことだから、かなり読み込んでボロボロにしていることだろう。
「あー、その本ね。母さんが買ったハードカバー版と、後になって自分で買った文庫版があるわよ」
どういうわけか、姉さんはニヤリと笑った。自分で買うなんて、その本に相当ハマったのだろう。
「そっかぁ。ついにわが弟君も、チアに興味を持ちはじめたのかぁ」
「そっ、そういうわけじゃないよ! ただ……」
「ただ? はっきり言いなさい」
「その子が友情や絆を描いた話が好きだ、って話してたからだよ」
僕がそう話すと、姉さんがクスクスと笑う。
「ちょっと待ってね」と声をかけてから、姉さんは部屋の中へと向かう。
間もなくして、姉さんが文庫版を手に持ってくる。
カバーは写真と著者名、本のタイトルだけと、非常にシンプルだ。
「はい、自分で買ったもので良ければ貸してあげるわ」
「ありがとう、姉さん」
姉さんから本を受け取る。
確かに、十年以上前の本とは思えないほど綺麗な状態のままだ。姉さんなりに大切にしていたことがうかがえる。
電子書籍が普及した今でも、こうして本を手渡しできるのは紙の本ならではだ。本を通じて、姉さんの気持ちが伝わってくる。
「優人、あんたが先に読みなさいよ。面白いから」
姉さんは本を渡しながら満足そうな顔を浮かべている。
やれやれ、本当に困った人だ。秋山さんが喜んでくれるなら、それで十分だ。
「わかったよ。まずは軽く読んでみるから。ありがとう、姉さん。おやすみ」
「おやすみ、優人。あした、秋山さんに会うのが楽しみね♪」
ドアが閉まる直前に、姉さんは投げキスを飛ばしてきた。
「姉さんったら……」
目をそらして、小さくため息をついた。
リビングで過ごしている母さんに悟られないように部屋へ戻り、ベッドに寝転がって読みはじめる。
「どれどれ……」
物語は、主人公の幼なじみが祖母を見舞うところから始まる。
道場の長男として柔道を続けてきた主人公が、柔道を辞めるところまで読み進めた。
最初に僕がツッコミを入れたのは、どうして男がチアをやるのかというところだ。
「ほかのスポーツを選ぶだろう、普通は」
もっとも、文芸の道を選んだ僕が言えた義理ではないが。
しかし、読み進めていくうちに僕のツッコミは的外れだということに気がつく。
男女混成のチームが強いという記述を見ると、後ろから頭を殴られたような衝撃を覚える。
チアは女性がやるものだと思っていたのに、意外だった。
『男子がチアをやるのもかっこいいわよ。あの漫画を読んだなら、わかるでしょ』
ふと、母さんの話していたことが頭をかすめた。
別に男がやっても構わなかったのか。それなのに、どうして僕は……。
それはさておき、チアを始めた主人公に対して、主人公の姉は複雑な感情を見せる。もちろん、かつての柔道部の仲間もだ。
「そりゃ、そうだろう」
小さな声でツッコミを入れながら、また昔のことを振り返る。
中一の春、野球を諦めた僕は当時の担任の先生から一冊の本を薦められた。
その本の最後にはメモ用紙が折りたたまれてあり、丁寧に開くと柔らかくて読みやすい字でこう書かれていた。
『悩んでいるなら文芸部へおいで。世界が変わるよ』
先生のひとことに心を動かされた僕は、野球を辞めた。
唯一僕を止めようとしたのは、少年野球をやっていた頃からの友人だ。
『野球を辞めるよ』
僕のひと言を聞いて、友人は『顧問の話なんて気にするなよ』と説得する。
しかし、僕の意志は変わらなかった。
もしかして、あの頃の僕はこの本の主人公と同じだったのだろうか。
眠いのを我慢してもう少し読み進めると、主人公たちはメンバーを揃えて合同練習に挑むこととなる。
専門用語ばかりで、あっという間に眠くなった。これ以上は危険だ。
本を閉じ、カバンに文庫本を入れる。明日秋山さんと顔を合わせたら、この本を貸してあげよう。きっと喜んでくれるはずだ。
即座にベッドへ向かい、そのまま眠りにつく。明日は良い日になるだろう、それだけを願いながら。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
「ふう……」
風呂から上がり、早々とベッドに倒れ込む。
今日は本当に疲れた。いや、疲れたというより混乱した、と言った方が正しい。
席替えで一喜一憂していただけのはずが、いつの間にか秋山さんと本の話で盛り上がっていた。
しかも、姉さんからは「チアに興味を持つきっかけになるじゃない」と言われる始末だ。
「まったく、姉さんったら……」
確かに不思議な一日だった。チアに対する嫌な気持ちが少しだけ和らいだような気がする。
チャイムが鳴る前に、小説のことについて話していたなと思い出しながら本棚に目を通す。
「これ、懐かしいな」
若干古ぼけた漫画に目が向く。
野球少年だった頃、母さんに野球漫画を買ってきてと頼んだことがある。
そのたびに母さんは「なかった」、もしくは「忘れた」と答えて買ってこない。三度目で買ってきたのが、この漫画だ。
泣きながら読んでいたせいもあって、どういう話だったかはよく覚えていない。それなのに、あるシーンだけはよく覚えている。
「漫画版を貸そうかな……」
横になりながら考える。
いくら親しいとはいえ、漫画本を貸しているところを広瀬に見られたら、どうなるかわからない。
それに、漫画版だと肝心なところが書かれていない可能性もある。
姉さんが原作の小説を持っていたら借りよう。読んだ上で、秋山さんに貸してあげよう。
ベッドから起き上がり、向かいにある姉さんの部屋へと向かう。ドアの隙間からは、かすかに明かりが漏れていた。
「姉さん、少しだけいいかな?」
姉さんの部屋の前で軽くノックをする。ガチャ、という音とともに、姉さんが顔を出した。
「なあに、優人? 手短に頼むわよ」
姉さんはパックを外し、不機嫌そうな表情を見せた。寝る前にお肌のお手入れをしているのだろう。
「秋山さんって子に本を貸したいんだ。男子大学生がチアをやる話、まだ持ってる?」
あの本が出たのは、十年以上前だ。姉さんのことだから、かなり読み込んでボロボロにしていることだろう。
「あー、その本ね。母さんが買ったハードカバー版と、後になって自分で買った文庫版があるわよ」
どういうわけか、姉さんはニヤリと笑った。自分で買うなんて、その本に相当ハマったのだろう。
「そっかぁ。ついにわが弟君も、チアに興味を持ちはじめたのかぁ」
「そっ、そういうわけじゃないよ! ただ……」
「ただ? はっきり言いなさい」
「その子が友情や絆を描いた話が好きだ、って話してたからだよ」
僕がそう話すと、姉さんがクスクスと笑う。
「ちょっと待ってね」と声をかけてから、姉さんは部屋の中へと向かう。
間もなくして、姉さんが文庫版を手に持ってくる。
カバーは写真と著者名、本のタイトルだけと、非常にシンプルだ。
「はい、自分で買ったもので良ければ貸してあげるわ」
「ありがとう、姉さん」
姉さんから本を受け取る。
確かに、十年以上前の本とは思えないほど綺麗な状態のままだ。姉さんなりに大切にしていたことがうかがえる。
電子書籍が普及した今でも、こうして本を手渡しできるのは紙の本ならではだ。本を通じて、姉さんの気持ちが伝わってくる。
「優人、あんたが先に読みなさいよ。面白いから」
姉さんは本を渡しながら満足そうな顔を浮かべている。
やれやれ、本当に困った人だ。秋山さんが喜んでくれるなら、それで十分だ。
「わかったよ。まずは軽く読んでみるから。ありがとう、姉さん。おやすみ」
「おやすみ、優人。あした、秋山さんに会うのが楽しみね♪」
ドアが閉まる直前に、姉さんは投げキスを飛ばしてきた。
「姉さんったら……」
目をそらして、小さくため息をついた。
リビングで過ごしている母さんに悟られないように部屋へ戻り、ベッドに寝転がって読みはじめる。
「どれどれ……」
物語は、主人公の幼なじみが祖母を見舞うところから始まる。
道場の長男として柔道を続けてきた主人公が、柔道を辞めるところまで読み進めた。
最初に僕がツッコミを入れたのは、どうして男がチアをやるのかというところだ。
「ほかのスポーツを選ぶだろう、普通は」
もっとも、文芸の道を選んだ僕が言えた義理ではないが。
しかし、読み進めていくうちに僕のツッコミは的外れだということに気がつく。
男女混成のチームが強いという記述を見ると、後ろから頭を殴られたような衝撃を覚える。
チアは女性がやるものだと思っていたのに、意外だった。
『男子がチアをやるのもかっこいいわよ。あの漫画を読んだなら、わかるでしょ』
ふと、母さんの話していたことが頭をかすめた。
別に男がやっても構わなかったのか。それなのに、どうして僕は……。
それはさておき、チアを始めた主人公に対して、主人公の姉は複雑な感情を見せる。もちろん、かつての柔道部の仲間もだ。
「そりゃ、そうだろう」
小さな声でツッコミを入れながら、また昔のことを振り返る。
中一の春、野球を諦めた僕は当時の担任の先生から一冊の本を薦められた。
その本の最後にはメモ用紙が折りたたまれてあり、丁寧に開くと柔らかくて読みやすい字でこう書かれていた。
『悩んでいるなら文芸部へおいで。世界が変わるよ』
先生のひとことに心を動かされた僕は、野球を辞めた。
唯一僕を止めようとしたのは、少年野球をやっていた頃からの友人だ。
『野球を辞めるよ』
僕のひと言を聞いて、友人は『顧問の話なんて気にするなよ』と説得する。
しかし、僕の意志は変わらなかった。
もしかして、あの頃の僕はこの本の主人公と同じだったのだろうか。
眠いのを我慢してもう少し読み進めると、主人公たちはメンバーを揃えて合同練習に挑むこととなる。
専門用語ばかりで、あっという間に眠くなった。これ以上は危険だ。
本を閉じ、カバンに文庫本を入れる。明日秋山さんと顔を合わせたら、この本を貸してあげよう。きっと喜んでくれるはずだ。
即座にベッドへ向かい、そのまま眠りにつく。明日は良い日になるだろう、それだけを願いながら。