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予期せぬ再会の後で

ー/ー



 大学の裏庭は、まるで山を切り取って持ってきたかのように雑木林があった。
 校舎側の窓から見下ろされても早々誰かに見られることもないだろう。

 昼食の時間帯にピクニック気分で訪れる者や、何かの研究で野草や昆虫探しに来る教授もいたりするが、それなりに整備の整った裏庭は正直あまり面白味もなかった。
 少なくとも言えることは、まだ朝の時間帯。人気は皆無だった。

 仮にも大学の内側に面した敷地内。部外者が入り込んでくることもない。

 そんな中、安月と流は木々に身を潜めるよう藪に足を踏み入れる。
 ここまでくると直ぐ真横に校舎があるとは思えないほどの静けさで、思った以上に安月は落ち着いた気分を取り戻していた。

 さっきまでは色々な臭いが立ち込めていて気が気じゃなかったが、雑木林の中では草木の香りが占めているせいか、不快感も少ない。
 ただ、半端に冷静になってきてしまったことで改めて今の状況が明瞭になる。

 どうしてよく知りもしない男性にこんな場所へと連れてこられたのか。
 一応は同じ場所で勉学に励む大学生ではあるものの、それほど深い関係ではない。

 それに何より、講義を一つすっぽかしてしまった。
 幸い、単位が足りているからさほど問題ではないが、安月は今になってこの状況を整理し始めていた。

「急にこんなところに連れてきて、何の用ですか?」
「ご、ごめん……いきなりでよく分からないよね」

 連れてきた本人とは思えないほどおどおどとした態度を見せる。
 少しよくなったとはいえ依然として、安月は興奮が冷めきってはいない。
 ずっと流からいい匂いがしてきているせいで呼吸を整えるのにも精いっぱいだ。

「単刀直入に……三上さんはウェアウルフって、知ってる?」

 それはまるで的の中心を射抜かれたかのような言葉に聞こえた。

「それってつまり、人と狼の両方を持ってる、いわゆる人狼、のことですよね?」

 すっとぼけてもよかったが、安月も調子を合わせるつもりで返す。
 わざわざ単位を削ってまで連れてこられておいて、そっけなく振舞ってしまうのも居心地が悪かったというのもあるだろう。

「そう、人狼。三上さんは、どれくらいのことを知ってる?」
「ど、どれくらいって……」

 何処までを答えていいのか分からず、しどろもどろになっていると、さすがの流も今の質問では答えづらいと察したのか一呼吸おいて言い直す。

「……例えば、三上さんは自分が人狼ってことは、知ってる?」

 今度こそ、安月は射抜かれたと思った。むしろ、見抜かれたという方が正しいか。
 この場は誤魔化すべきなのか、それとも打ち明けるべきなのか。そもそも、自分が人狼であることを他人に話していいものなのか。

 ついぞ先日の母親の態度を思い返す。
 絶対に秘密にすべき、という言い回しはしていなかった。
 それは単純に、それだけ母親が底抜けなまでに楽観的なだけのようにも思えたが、確かに他人に話したところでそもそも信じてもらえないことの方が多いだろう。

 それは実際母親からその話を聞かされて、疲労による妄言か何かだと勘ぐっていた安月自身が実感したことでもある。
 どうせ他に聞かれる話でもない。そう高を括り、安月は覚悟を決める。

「そう、ですよ。私、実は人狼なんです」

 もっと気の利いた言い回しはなかったものかと悩んだが、はぐらかさず答えるなら他に思いつく言葉もなかった。
 これで変な女と思われるならそれも仕方ないだろうと、あえて安月も強気な態度をはっきりと示す。流の本心が読めない今、変に濁らせない方が賢明と思ったのだ。

「そう堂々と言われると、ボクもちょっと困惑する、かな」

 聞いておいての返しに手のひら返し感を覚えたが、流は照れくさそうな顔を見せ、喉奥につっかえていた言葉を吐き出すように口火を切る。

「……実は、ボクも。ウェアウルフ――人狼なんです」
「ほぇっ?!」

 安月も意表を突かれ、喉笛がファルセットを奏でる。
 なんなら、母親に人狼であることを告白されたよりも驚いていた。

「人狼って、そんなにあちこちにいるものなんですか?」
「具体的な数までは把握してないけど、結構いるよ。みんな上手に隠れているだけ」

 思い返せば、母親も結構いるというようなことを言っていたような気がする。

「そんなの知らなかった……私だって自分が人狼だって知ったの最近だったし」

 そのとき、流が嘘をついているかどうかも安月は考えもしなかった。ごく自然で、なんとなく本能的にそれが嘘ではないと察せていた。

「でも、どうして私が人狼だって分かったんですか?」
「……匂い」

 ぼそりと言いづらそうに流が少し伏せて呟く。女性に対して匂いで判断したなんてデリカシーがないと思ったのだろうか、そこで言葉が一旦途切れる。
 対する安月は、今朝から鼻が利きすぎて酷い状態だった自分を思い返していた。
 流も人狼なら自分と同じような状態だったのだろうかと察する。

 ただ歩いているだけでも周囲の無数の体臭がいやでも鼻腔を刺激し続ける状況下、人狼の匂いは判別しやすいのかもしれない。そのくらいの認識だった。
 少なくとも、自分の匂いを異性に嗅がれたことまでは考えも及んでいない様子。

 そういえば、ついぞ先日母親も一人前の若い狼はフェロモンを感じるようになると言っていたような気がする。そこまで思い至ると、途端に安月は羞恥心が沸いた。
 遅れて、自分から若い雌狼のフェロモンが出ているということに気付いてしまい、顔が硬直しだし、冷めかけていた興奮が再沸騰する。

 慌てて安月は自分の匂いを嗅ぎ出すが、さすがに自分の匂いに違和感はない。
 ただ、他人からどんな風な匂いなのかは気になって仕方なかった。
 そして、それと同時に、流の匂いもまた再認識してしまう。

 むせかえるほどに強烈な性的魅力。
 先ほどは教室という閉塞的な場所だったから堪えきれないくらいの有様だったが、開放的な雑木林の中にいても隠し切れないソレは安月の本能を刺激する。

 一度認識しだすと、また猛烈に興奮を覚えてしまう。
 さっきが鼻を殴られる感覚とするならば、今は鼻先をつつかれているようなもの。
 余裕がある分、流の匂いをじっくりと感じられるようになっていた。

 決して嫌な臭いではない。いつまでも嗅いでいたくなるような匂い。
 理性が削がれてポーっとしかけたので、安月もハッと正気を取り戻す。

「ご、ごめん……三上さん。あまり言うべきことじゃなかったのかも」
「ううん、私がよく知らなかっただけですから。人狼の匂いって分かるんですね」

 さしもの安月も、嗅覚が敏感になったことは自覚できてもソレを嗅ぎ分ける方法は分からなかった。何かコツでもあるのだろうか、とふと興味が湧いてくる。

「普通の人と、人狼の匂いの区別の仕方ってあるんですか?」

 安月にとってただの興味本位な言葉だった。ただ、流は言葉が途絶える。
 まだ先ほどの女性の匂いについてを指摘したことを気にしているのかと思いきや、どうもそうではないらしい。

 そっぽ向きそうな加減で、流が言葉をようやくして返す。

「三上さん、そのぅ、ボクの匂いで気付いたこと、ない?」
「え? に、匂い……?」

 ものすごいいい匂い。今もずっと嗅ぎたくて仕方ない。
 傍にいるだけで興奮が抑えられなくなってしまうほど。
 咄嗟にそれだけのことが脳裏を過ぎり、言葉は喉で留まった。

 流の匂いには、人狼の特徴があったのだろうか。
 確認しようとすればまた顔がふやけてしまいそうだった。

「あの、人狼の匂いは普通の人と大差ない……んだけど、実は二十歳頃を迎えると、特有のフェロモンが出始めて、ね」

 話が蒸し返されて、安月は合点がいった。また顔が熱くなってきた気がする。
 人狼なのだから仕方ない。
 いっそそう思ってしまいたかったが、続く流の言葉に不意を突かれる。

「でも、全ての人狼が、そのフェロモンを感知できるわけじゃないんだ」
「ど、どういうことですか?」

 また流が目を逸らす。頬が真っ赤だ。風邪を引いているとかそういう次元じゃなく安月と同様に興奮を覚えているのを察せた。まさか、まさかと安月も気付き始める。

「あ、相性……があって。いや、本能的な、といえばいいのかな。そのときになって初めて気付くものなんだって」

 安月は言葉を頭で嚙み砕くのに、少し時間を要した。
 相性とは、どういう意味を指すのか。どう解釈するのが正解なのか。
 流が言いづらそうに、続ける。

「番いに……、いや、ええと、まあ、そうだな……運命。そう、運命の人だと自然と分かる、らしい。お互いに惹かれあうっていうのかな」

 言い換えてなお、流は顔を赤くする。あまり自分には似合っていない言い回しだと自覚していたのかどうかは定かではないが、キュッと一文字に口を結ぶ。

「それって、お互いがお互いに、魅力的に感じる、ってことですか?」

 吐息が漏れそうな息遣いで、遠回しな告白のように安月は言い放つ。
 流も小さく頷いて返事する。

 自分が人狼であることも最近知ったばかりの安月にとって、人狼の習性や本能などそこまで詳しくないが、流が言わんとしていることは理解できた。

 一人前の人狼同士、番いになる相手が本能的に分かってしまうのだと。
 相性の良い相手は途方もない性的魅力を感じてしまうものなのだと。

『運命の相手だと、そりゃあもう本能で分かっちゃうんだから』

 また母親の言葉がリフレインする。
 実際に、それを体感している安月は理解せざるを得なかった。

「そう……、なんですね。じゃあ、このことを伝えるために呼び止めたんですね」
「……ん、それも、ある。ただ、三上さんが人狼だと気付いたのは……その」

 髪を掻いて流は途切れかけた言葉を紡ぐ。

「一昨日の夜、なんだ」

 安月は、ふと首を傾げる。一昨日の夜というと、安月の誕生日。
 母親と小さなパーティをしていた。記憶の限りでは、流と会っているはずがない。

 だが、脳の淵に何かが引っかかる。
 その夜は初めて人狼になったときでもあり、高ぶる感情と荒ぶる本能に身を任せ、何処とも分からない外を駆け巡り、そして気付いたら家にいた。
 正確には、裸で外に倒れていて、誰かに担ぎ込まれてきたのだ。

 一瞬にして記憶が繋がる。

「ふぇ……っ!? ま、まさか、私を家まで送ってくれたのって……」

 ヒキガエルみたいな捻り声を出し、安月は口元を手で覆い隠す。
 森の中、全裸で気を失った安月を家まで送り届けた人物は誰なのか。
 もう、思い当たるのは一人しかいない。

「ごめん。悪いとは思ったけど、放っておくわけにもいかないし……、何とか匂いを辿って家を探したんだ」

 正直、あのときの母親の態度はおかしいと思っていた。
 実の娘が見ず知らずの人に連れてこられたというのに、何処か妙に落ち着いているというのか、面白おかしく振舞っていたようにも見えた。
 それはとどのつまり、安月を連れてきた人物が同じ人狼だったということ。

 加えて、きっと知っていたのだろう。同じ大学に通う者ということも。
 そうでもなければ、あんなに愉快そうに彼氏を連れてこいなんて言うはずもない。

「ボクもだったけど、初めて人狼に変身するときは、肉体が活性化に慣れていなくて酷いトランス状態になりやすいんだ。だから三上さんは悪くないよ」
「わ、わた、私、覚えてないんですけど、何かとんでもないこと、してました?」

 顔を引きつらせながら、安月が言う。
 ただでさえ、裸の自分を担いできたという事実だけで破裂しそうだというのに。

「あ、う、うん。大丈夫、大丈夫。えっと。どういったらいいかな。三上さんが外で走り回っていたのを見かけてね、慌ててボクも飛び出したんだ。すぐに分かったよ。三上さんのフェ……匂い、は、覚えてたから」

 フェロモンを感じていた、と言いかけたのを慌てて訂正する。
 むしろ「匂い」というワードの方もあまりよくないことに遅れて気付く。

「それで追いかけたら森の中で気を失っているのを見つけて、家に送り届けただけ。他は何も問題ないはず。あの近所の人たちも野良犬か何かだと思ってたみたいだし、そんな気にすることもないよ」

 そう聞かされて、安月はホッとするべきなのか、どうするべきなのか迷った。
 夜中に全裸で走り回ったという事実も、流に裸を見られて送り届けられた事実も、どちらにしても面白い出来事ではない。

「あっ! あの、気を失ってたとき狼の姿だったから! 三上さんのはだ、裸は直に見てないから、そこも安心していいよ!」

 とってつけたように言う。
 それなりにダメージは軽減できたかもしれないが、気休め程度だ。

「変身酔いっていうらしいんだけど、人狼になりたての頃はこれが酷いんだ。ボクは何とか慣れてきたから、マシになってきた方で――」
「――ありがとうございます」

 安月が遮るようにお礼を挟む。急な返しに、流も言葉が途切れた。

「色々と気遣ってくれたんですよね。それなのに、私お礼も何もしてなくて」
「別に、三上さんが悪いってわけじゃ……」

 さしもの流も、これ以上は何と言えばいいのか弁明の言葉を頭の端々から探るのに必死だった。余計なことを言えば、変に誤解されそうなことも容易に想像できた。
 しかし、安月の方も、なんとなくではあるものの、薄々察してきていた。

 どうして流がわざわざ安月に接触してきたのか。
 安月自身、流に対して感じているものと同じものが流にもあるのだと確信できた。

「私まだ人狼のこともよく分かってないですし、一昨日みたいなこともまたないとは限りませんし、教えてくれたこと、助けてくれたこと、全部感謝しないとですね」

 油断すれば喉奥から奔流してきそうなほどの感情を堪えて、安月は振る舞う。

「……三上、さん。もしよかったらこれからも何かの助けに、なりたいと思うんだ。同じ人狼として、ということもあるんだけど、そのこれからも……」

 流の絞り込むような言葉に安月は何もかも分かっているかのような笑みを浮かべ、そっと吐息を漏らすような言葉を優しく返す。

「いいですよ。運命の人、なんですよね?」

 ゆったりとした口調なのに、あまりにも食い気味。
 流の言葉尻を捕らえるような言い回しに不意を突かれてドキリとしてしまったが、流の方も覚悟を決めていないわけではなかった。
 渾身の告白だったのにあっさりカウンターされてしまったのも、喜ぶべきことだと自分に言い聞かせるようにもう一度安月との距離を詰める。

 ただそばにいるだけでも胸の内が高まる。
 それは本能的なものだとか習性的なものだとか、理屈っぽい言葉を束ねられても、否定することのできない感情は二人の背中を押した。

「これから、よろしくお願いしますね」

 あどけない表情を浮かべる安月の瞳は、恋焦がれる乙女のように潤んでいた。


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みんなのリアクション

 大学の裏庭は、まるで山を切り取って持ってきたかのように雑木林があった。
 校舎側の窓から見下ろされても早々誰かに見られることもないだろう。
 昼食の時間帯にピクニック気分で訪れる者や、何かの研究で野草や昆虫探しに来る教授もいたりするが、それなりに整備の整った裏庭は正直あまり面白味もなかった。
 少なくとも言えることは、まだ朝の時間帯。人気は皆無だった。
 仮にも大学の内側に面した敷地内。部外者が入り込んでくることもない。
 そんな中、安月と流は木々に身を潜めるよう藪に足を踏み入れる。
 ここまでくると直ぐ真横に校舎があるとは思えないほどの静けさで、思った以上に安月は落ち着いた気分を取り戻していた。
 さっきまでは色々な臭いが立ち込めていて気が気じゃなかったが、雑木林の中では草木の香りが占めているせいか、不快感も少ない。
 ただ、半端に冷静になってきてしまったことで改めて今の状況が明瞭になる。
 どうしてよく知りもしない男性にこんな場所へと連れてこられたのか。
 一応は同じ場所で勉学に励む大学生ではあるものの、それほど深い関係ではない。
 それに何より、講義を一つすっぽかしてしまった。
 幸い、単位が足りているからさほど問題ではないが、安月は今になってこの状況を整理し始めていた。
「急にこんなところに連れてきて、何の用ですか?」
「ご、ごめん……いきなりでよく分からないよね」
 連れてきた本人とは思えないほどおどおどとした態度を見せる。
 少しよくなったとはいえ依然として、安月は興奮が冷めきってはいない。
 ずっと流からいい匂いがしてきているせいで呼吸を整えるのにも精いっぱいだ。
「単刀直入に……三上さんはウェアウルフって、知ってる?」
 それはまるで的の中心を射抜かれたかのような言葉に聞こえた。
「それってつまり、人と狼の両方を持ってる、いわゆる人狼、のことですよね?」
 すっとぼけてもよかったが、安月も調子を合わせるつもりで返す。
 わざわざ単位を削ってまで連れてこられておいて、そっけなく振舞ってしまうのも居心地が悪かったというのもあるだろう。
「そう、人狼。三上さんは、どれくらいのことを知ってる?」
「ど、どれくらいって……」
 何処までを答えていいのか分からず、しどろもどろになっていると、さすがの流も今の質問では答えづらいと察したのか一呼吸おいて言い直す。
「……例えば、三上さんは自分が人狼ってことは、知ってる?」
 今度こそ、安月は射抜かれたと思った。むしろ、見抜かれたという方が正しいか。
 この場は誤魔化すべきなのか、それとも打ち明けるべきなのか。そもそも、自分が人狼であることを他人に話していいものなのか。
 ついぞ先日の母親の態度を思い返す。
 絶対に秘密にすべき、という言い回しはしていなかった。
 それは単純に、それだけ母親が底抜けなまでに楽観的なだけのようにも思えたが、確かに他人に話したところでそもそも信じてもらえないことの方が多いだろう。
 それは実際母親からその話を聞かされて、疲労による妄言か何かだと勘ぐっていた安月自身が実感したことでもある。
 どうせ他に聞かれる話でもない。そう高を括り、安月は覚悟を決める。
「そう、ですよ。私、実は人狼なんです」
 もっと気の利いた言い回しはなかったものかと悩んだが、はぐらかさず答えるなら他に思いつく言葉もなかった。
 これで変な女と思われるならそれも仕方ないだろうと、あえて安月も強気な態度をはっきりと示す。流の本心が読めない今、変に濁らせない方が賢明と思ったのだ。
「そう堂々と言われると、ボクもちょっと困惑する、かな」
 聞いておいての返しに手のひら返し感を覚えたが、流は照れくさそうな顔を見せ、喉奥につっかえていた言葉を吐き出すように口火を切る。
「……実は、ボクも。ウェアウルフ――人狼なんです」
「ほぇっ?!」
 安月も意表を突かれ、喉笛がファルセットを奏でる。
 なんなら、母親に人狼であることを告白されたよりも驚いていた。
「人狼って、そんなにあちこちにいるものなんですか?」
「具体的な数までは把握してないけど、結構いるよ。みんな上手に隠れているだけ」
 思い返せば、母親も結構いるというようなことを言っていたような気がする。
「そんなの知らなかった……私だって自分が人狼だって知ったの最近だったし」
 そのとき、流が嘘をついているかどうかも安月は考えもしなかった。ごく自然で、なんとなく本能的にそれが嘘ではないと察せていた。
「でも、どうして私が人狼だって分かったんですか?」
「……匂い」
 ぼそりと言いづらそうに流が少し伏せて呟く。女性に対して匂いで判断したなんてデリカシーがないと思ったのだろうか、そこで言葉が一旦途切れる。
 対する安月は、今朝から鼻が利きすぎて酷い状態だった自分を思い返していた。
 流も人狼なら自分と同じような状態だったのだろうかと察する。
 ただ歩いているだけでも周囲の無数の体臭がいやでも鼻腔を刺激し続ける状況下、人狼の匂いは判別しやすいのかもしれない。そのくらいの認識だった。
 少なくとも、自分の匂いを異性に嗅がれたことまでは考えも及んでいない様子。
 そういえば、ついぞ先日母親も一人前の若い狼はフェロモンを感じるようになると言っていたような気がする。そこまで思い至ると、途端に安月は羞恥心が沸いた。
 遅れて、自分から若い雌狼のフェロモンが出ているということに気付いてしまい、顔が硬直しだし、冷めかけていた興奮が再沸騰する。
 慌てて安月は自分の匂いを嗅ぎ出すが、さすがに自分の匂いに違和感はない。
 ただ、他人からどんな風な匂いなのかは気になって仕方なかった。
 そして、それと同時に、流の匂いもまた再認識してしまう。
 むせかえるほどに強烈な性的魅力。
 先ほどは教室という閉塞的な場所だったから堪えきれないくらいの有様だったが、開放的な雑木林の中にいても隠し切れないソレは安月の本能を刺激する。
 一度認識しだすと、また猛烈に興奮を覚えてしまう。
 さっきが鼻を殴られる感覚とするならば、今は鼻先をつつかれているようなもの。
 余裕がある分、流の匂いをじっくりと感じられるようになっていた。
 決して嫌な臭いではない。いつまでも嗅いでいたくなるような匂い。
 理性が削がれてポーっとしかけたので、安月もハッと正気を取り戻す。
「ご、ごめん……三上さん。あまり言うべきことじゃなかったのかも」
「ううん、私がよく知らなかっただけですから。人狼の匂いって分かるんですね」
 さしもの安月も、嗅覚が敏感になったことは自覚できてもソレを嗅ぎ分ける方法は分からなかった。何かコツでもあるのだろうか、とふと興味が湧いてくる。
「普通の人と、人狼の匂いの区別の仕方ってあるんですか?」
 安月にとってただの興味本位な言葉だった。ただ、流は言葉が途絶える。
 まだ先ほどの女性の匂いについてを指摘したことを気にしているのかと思いきや、どうもそうではないらしい。
 そっぽ向きそうな加減で、流が言葉をようやくして返す。
「三上さん、そのぅ、ボクの匂いで気付いたこと、ない?」
「え? に、匂い……?」
 ものすごいいい匂い。今もずっと嗅ぎたくて仕方ない。
 傍にいるだけで興奮が抑えられなくなってしまうほど。
 咄嗟にそれだけのことが脳裏を過ぎり、言葉は喉で留まった。
 流の匂いには、人狼の特徴があったのだろうか。
 確認しようとすればまた顔がふやけてしまいそうだった。
「あの、人狼の匂いは普通の人と大差ない……んだけど、実は二十歳頃を迎えると、特有のフェロモンが出始めて、ね」
 話が蒸し返されて、安月は合点がいった。また顔が熱くなってきた気がする。
 人狼なのだから仕方ない。
 いっそそう思ってしまいたかったが、続く流の言葉に不意を突かれる。
「でも、全ての人狼が、そのフェロモンを感知できるわけじゃないんだ」
「ど、どういうことですか?」
 また流が目を逸らす。頬が真っ赤だ。風邪を引いているとかそういう次元じゃなく安月と同様に興奮を覚えているのを察せた。まさか、まさかと安月も気付き始める。
「あ、相性……があって。いや、本能的な、といえばいいのかな。そのときになって初めて気付くものなんだって」
 安月は言葉を頭で嚙み砕くのに、少し時間を要した。
 相性とは、どういう意味を指すのか。どう解釈するのが正解なのか。
 流が言いづらそうに、続ける。
「番いに……、いや、ええと、まあ、そうだな……運命。そう、運命の人だと自然と分かる、らしい。お互いに惹かれあうっていうのかな」
 言い換えてなお、流は顔を赤くする。あまり自分には似合っていない言い回しだと自覚していたのかどうかは定かではないが、キュッと一文字に口を結ぶ。
「それって、お互いがお互いに、魅力的に感じる、ってことですか?」
 吐息が漏れそうな息遣いで、遠回しな告白のように安月は言い放つ。
 流も小さく頷いて返事する。
 自分が人狼であることも最近知ったばかりの安月にとって、人狼の習性や本能などそこまで詳しくないが、流が言わんとしていることは理解できた。
 一人前の人狼同士、番いになる相手が本能的に分かってしまうのだと。
 相性の良い相手は途方もない性的魅力を感じてしまうものなのだと。
『運命の相手だと、そりゃあもう本能で分かっちゃうんだから』
 また母親の言葉がリフレインする。
 実際に、それを体感している安月は理解せざるを得なかった。
「そう……、なんですね。じゃあ、このことを伝えるために呼び止めたんですね」
「……ん、それも、ある。ただ、三上さんが人狼だと気付いたのは……その」
 髪を掻いて流は途切れかけた言葉を紡ぐ。
「一昨日の夜、なんだ」
 安月は、ふと首を傾げる。一昨日の夜というと、安月の誕生日。
 母親と小さなパーティをしていた。記憶の限りでは、流と会っているはずがない。
 だが、脳の淵に何かが引っかかる。
 その夜は初めて人狼になったときでもあり、高ぶる感情と荒ぶる本能に身を任せ、何処とも分からない外を駆け巡り、そして気付いたら家にいた。
 正確には、裸で外に倒れていて、誰かに担ぎ込まれてきたのだ。
 一瞬にして記憶が繋がる。
「ふぇ……っ!? ま、まさか、私を家まで送ってくれたのって……」
 ヒキガエルみたいな捻り声を出し、安月は口元を手で覆い隠す。
 森の中、全裸で気を失った安月を家まで送り届けた人物は誰なのか。
 もう、思い当たるのは一人しかいない。
「ごめん。悪いとは思ったけど、放っておくわけにもいかないし……、何とか匂いを辿って家を探したんだ」
 正直、あのときの母親の態度はおかしいと思っていた。
 実の娘が見ず知らずの人に連れてこられたというのに、何処か妙に落ち着いているというのか、面白おかしく振舞っていたようにも見えた。
 それはとどのつまり、安月を連れてきた人物が同じ人狼だったということ。
 加えて、きっと知っていたのだろう。同じ大学に通う者ということも。
 そうでもなければ、あんなに愉快そうに彼氏を連れてこいなんて言うはずもない。
「ボクもだったけど、初めて人狼に変身するときは、肉体が活性化に慣れていなくて酷いトランス状態になりやすいんだ。だから三上さんは悪くないよ」
「わ、わた、私、覚えてないんですけど、何かとんでもないこと、してました?」
 顔を引きつらせながら、安月が言う。
 ただでさえ、裸の自分を担いできたという事実だけで破裂しそうだというのに。
「あ、う、うん。大丈夫、大丈夫。えっと。どういったらいいかな。三上さんが外で走り回っていたのを見かけてね、慌ててボクも飛び出したんだ。すぐに分かったよ。三上さんのフェ……匂い、は、覚えてたから」
 フェロモンを感じていた、と言いかけたのを慌てて訂正する。
 むしろ「匂い」というワードの方もあまりよくないことに遅れて気付く。
「それで追いかけたら森の中で気を失っているのを見つけて、家に送り届けただけ。他は何も問題ないはず。あの近所の人たちも野良犬か何かだと思ってたみたいだし、そんな気にすることもないよ」
 そう聞かされて、安月はホッとするべきなのか、どうするべきなのか迷った。
 夜中に全裸で走り回ったという事実も、流に裸を見られて送り届けられた事実も、どちらにしても面白い出来事ではない。
「あっ! あの、気を失ってたとき狼の姿だったから! 三上さんのはだ、裸は直に見てないから、そこも安心していいよ!」
 とってつけたように言う。
 それなりにダメージは軽減できたかもしれないが、気休め程度だ。
「変身酔いっていうらしいんだけど、人狼になりたての頃はこれが酷いんだ。ボクは何とか慣れてきたから、マシになってきた方で――」
「――ありがとうございます」
 安月が遮るようにお礼を挟む。急な返しに、流も言葉が途切れた。
「色々と気遣ってくれたんですよね。それなのに、私お礼も何もしてなくて」
「別に、三上さんが悪いってわけじゃ……」
 さしもの流も、これ以上は何と言えばいいのか弁明の言葉を頭の端々から探るのに必死だった。余計なことを言えば、変に誤解されそうなことも容易に想像できた。
 しかし、安月の方も、なんとなくではあるものの、薄々察してきていた。
 どうして流がわざわざ安月に接触してきたのか。
 安月自身、流に対して感じているものと同じものが流にもあるのだと確信できた。
「私まだ人狼のこともよく分かってないですし、一昨日みたいなこともまたないとは限りませんし、教えてくれたこと、助けてくれたこと、全部感謝しないとですね」
 油断すれば喉奥から奔流してきそうなほどの感情を堪えて、安月は振る舞う。
「……三上、さん。もしよかったらこれからも何かの助けに、なりたいと思うんだ。同じ人狼として、ということもあるんだけど、そのこれからも……」
 流の絞り込むような言葉に安月は何もかも分かっているかのような笑みを浮かべ、そっと吐息を漏らすような言葉を優しく返す。
「いいですよ。運命の人、なんですよね?」
 ゆったりとした口調なのに、あまりにも食い気味。
 流の言葉尻を捕らえるような言い回しに不意を突かれてドキリとしてしまったが、流の方も覚悟を決めていないわけではなかった。
 渾身の告白だったのにあっさりカウンターされてしまったのも、喜ぶべきことだと自分に言い聞かせるようにもう一度安月との距離を詰める。
 ただそばにいるだけでも胸の内が高まる。
 それは本能的なものだとか習性的なものだとか、理屈っぽい言葉を束ねられても、否定することのできない感情は二人の背中を押した。
「これから、よろしくお願いしますね」
 あどけない表情を浮かべる安月の瞳は、恋焦がれる乙女のように潤んでいた。