過敏な朝、憂鬱の大学
ー/ー
翌日のこと。安月は、心ここにあらずといった面持ちで大学へと向かうバスの中、微妙に顔をしかめていた。バスに酔っているとかではなく、つい先日に実の母親から結婚相手を探してこいとか言われたからでもない。
しきりに鼻をヒクヒクとさせて、むせ返りそうだった。
できることなら鼻に栓を詰めたいくらい、安月の嗅覚は急激に鋭くなっていた。
これも二十歳を迎えて一人前の人狼になれた証拠でもあるのだろう。
特に、バスの中ともなれば密集空間。あらゆる臭いがこもり、詰まっていた。
それなりに混雑した車内は、通勤者やら通学者、色々な人が乗車している。
入り混じった体臭や、誰かが持っているであろう弁当などの食べ物の匂い。
中でも一番キツく鼻を刺激したのは香水だった。
まるで催涙スプレーを顔面に吹きかけられたかのような強烈っぷり。軽く涙目だ。
ほんの少し前まではこんなこともなかったのに、急に世界がひっくり返ったよう。
母親曰く、そのうちに慣れるから大丈夫らしいが、その頃には鼻がもげて使い物にならなくなっているような気がしてならなかった。
『いい狼を連れてきてよ』
出がけの母親の言葉がリフレインする。それと同時に安月の顔は真っ赤になる。
よくもまあ、実の娘の前で堂々とそんなことを言えたものだと思った。
こんな調子で運命の相手の匂いなど分かるのだろうかという疑問が沸く。
いくらフェロモンを感じたとして、嗅ぎ分けられる自信もなかったし、それ以前に鼻を嬲るようなこの環境の中にそんなものがあっても惹かれるのかも分からない。
例えば果物が並んでいたとして、それだけが一番なんて選べるような強烈な匂いがあったらどうだろう。リンゴみたいな芳醇な香り、ミカンのような爽やかな香りなどありふれた香りの中に、フルーツの王様ドリアンが混ざっていたら、あまりに異質で運命の相手とか考える前に避けてしまいそうなものだ。
現に、安月はあらゆる臭いに苛まれてまいっているところだ。
一応は良いと思う匂い、マシな匂い、無理な臭い、近寄りたくもない臭いは次第に理解できるようにはなってきていたが、判別は困難を極めた。
ひょっとすると、この中に運命の相手とやらのフェロモンも混じっている可能性も無きにしも非ずではあったが、今の安月には到底嗅ぎ分けられそうになかった。
果たして、運命の相手はそんなにも素晴らしいものなのだろうか。
フェロモンを感じ取ったところで、本当に惹かれるものなのだろうか。
バスに揺られながらも、安月はまだ見ぬ伴侶のことを考えていた。
※ ※ ※
しばらくして、大学に到着し、安月も逃げるようにバスを降りたが、臭いの問題は根本的に解決されたわけでもなく、むしろ無数の学生が行きかう学校こそ、安月にはキツい環境だった。
あたかも鼻を通して頭の中をぐちゃぐちゃに引っ掻き回しているかのような奇怪な感覚に襲われる。人一人ごとに匂いが全く違うのに、それが動くたびにまざりあって何とも表現しようのないミックスジュース状態。
フルーツみたいな匂いや香りだけだったのならどれだけよかったことだろう。
体臭やら加齢臭やら不快な臭いがそこに交じっているものだから、しかめっ面にもなる。汗の臭い、糞便の臭い、生ゴミのような臭いも漂ってくる。
さすがにここまでくると安月も眩暈を覚えてくるが、帰るわけにもいかない。
極力、嫌な臭いのする方向を避けつつも、講義室へと向かった。
決して他人を軽蔑するつもりもないが、安月はゴミ屋敷の中を彷徨っているような気分だった。何処を歩いても不快な臭いが鼻腔を刺激してやまない。
本当にこんな環境に慣れるのだろうか。人が多いだけでこんなにも嗅覚をやられるなんて想像だにしていなかった。
安月の体感では、ようやくして講義室にたどり着く。
室内まで足を踏み入れれば大分マシにはなったものの、若干鼻も麻痺していた。
ワサビや辛子を大量に口にしてもこうはならなかったと思いつつ、席に着く。
定刻になり教授も入室してきて、いよいよ授業が始まる。
呼吸を整えようと、ジンジンする鼻をハンカチでそっと抑える。
そろそろさすがに鼻もよくなってきただろう。そう思ったそのときだ。
「――……ッ!?」
思わず安月は飛び跳ねて悲鳴を上げるところだった。
自分でも何が起きたのかを理解できていない。
とんでもなく強烈な匂いがすぐ間近から発せられていたのだ。
反射的にそちらに向き直ると、そこには男性が一人座っていた。
名前は亜月も知っている。
灰蓮流。同じ大学に通っている男。
背丈は高い方だが、あまり目立たないような容姿をしており、この大学では珍しく何処のグループにも属していない所謂陰キャという奴だ。
安月はあちこちのグループにちょっかいを出すので、そういった意味では正反対の性格とも言えた。流が誰かと会話しているところも見たことがない。
今まで安月も流のことをそれほど意識してきたこともなかったが、今は違った。
月並みな言葉ではあるが、後光が差しているのかと思うほどに輝いて見えた。
どちらかといえば、地味なファッションで、全体的な色合いもダーク寄りなのに、説明しようがないくらい、流には魅力を感じていた。
見るからに厚ぼったい服装だというのに、性的に誘惑をされているんじゃないかと勘繰るほどムンムンとしたものが溢れてきている。
安月には、イケメン男子が前をはだけさせ露出した格好で熱烈な視線を送っているかのようにさえ思えていたほど。
そんなわけはなく、流は普段と変わらない陰キャ系の地味男子だ。
もちろん、半裸になどなっているはずもない。
正直意味が分からなかった。ただ、本能的にとんでもなく強烈にして濃厚なものがそこにあるという認識であることには変わりない。
それはどうしようもなく、たまらなかった。
例え目の前にトップアイドルの男子がいたってこうも興奮することはない。
だが、そこにいるだけで安月は呼吸もままならなかった。
その感情を形容する言葉を見つけるよりも早く、安月は席を立つ。
「すみません、お手洗いに行ってきますッ!」
それはあまりに不自然すぎるタイミングで、あたかも嫌いな講師がやってきたから逃げ出したとも取られかねない状況ではあったが、これ以上の対処法は今の安月には思いつかなかった。
思いのほか、声を張り上げてしまったので周囲からも視線を浴びる。
周囲に目配せもせず、そそくさと講義室から文字通り飛び出していく勢い。
そんなに漏れそうだったのかと呟く声も聞こえたような気がする。
安月はもう、今はただ逃げ出したくて仕方なかった。
まさか、興奮のあまり、あの場で流を押し倒してしまいたい衝動に駆られたなんて口が裂けても言えないし、そんな感情を抱えていた自分が信じられなかった。
どうして今まで意識したことのなかった流にあんなにも性的な魅力を覚えるのか。
この学校には無数の匂いが充満して、鼻も利かなくなるほどだったのに、あのとき流の匂いは奇妙なほどはっきりと感じ取れていた。
全部混ざりに混ざってどれが誰の匂いなのかも分からなくなっていたはずなのに、流は流だと理解できてしまえるほどに、くっきりとしていた。
そしてそれと同時に、流に対して、異常な情欲も覚えていたのも事実だ。
そんなはずはない。自分はそんな人間じゃない。そう否定するように、ズカズカと安月は早足になって講義室から離れようとする。
安月自身、自分は人に対しよくちょっかいを掛けるような軽さを持っていることを自負していたが、他人に迫りたいとか、性的感情を抱えたことはなかったつもりだ。
なのに、ついさっきは思わず、それこそ悲鳴を上げてしまいそうになったくらい、流に対し、特別な感情を抱いていた。
「――……三上さん、ちょっと待って!」
次の瞬間、安月はドキンとして立ち止まってしまった。
真後ろから声を掛けられ、振り向いてみるとそこには流が追いかけてきていた。
思わず視線を逸らしたくなるほど、顔が真っ赤になってしまう。
一体どうして追いかけてきたのか。
理由を考えようにも思考がそもそもまとまらない。
流が安月に近付いてくるという事実だけで興奮が加速する一方だ。
「な、な、なんですか?」
「急に部屋を飛び出していくから、その、びっくりして……」
それにしたって、お手洗いに行くと言って出て行った女子の背中を追いかけるのは男子としてデリカシーはどうなのかという話だが、安月はそれどころではない。
そもそも自分が何を言って出てきたのかも既に覚えてないくらいだ。
「いや私も自分でもびっくりしちゃったかも。急に気分が悪くなっちゃってさ」
実際、廊下を駆け出していったとはいえ、異様に顔も真っ赤で息遣いも荒い。
傍から見れば具合が悪そうにも思えたかもしれない。
頑なに、流の顔を見上げようともせず、露骨に顔も逸らす。
しどろもどろに、何を言えばいいか迷い、適当に言い訳をつけてこの場を去ろうと思ったその矢先、流の手が安月の手に伸びていた。
振り払うこともできたが、咄嗟のことで安月も硬直してしまう。
「少し、話があるんだけど……いい?」
「ぇ……っ?」
状況からすれば今これからまさに大学の講義が始まろうとしていた頃合いであり、安月もお手洗いに向かうと言って講義室を飛び出した直後だ。
違和感しか覚えない言動ではあったが、どうやら流には何か確信があったらしい。
少なくとも、安月が具合悪くて出て行ったわけではないと思っているようだ。
安月は、困惑を極める中、そっと流の顔を見上げる。
身長差頭一つ分くらい。薄暗い印象だった流の顔は、少し火照ったように赤くて、息遣いも荒い。それはあたかも、安月と同じようだった。
どんな言い訳をつけてこの場を立ち去ろうかと思っていた安月も、そんな流の顔を見てしまったからにはとても断りようもなかった。
何より、流から漂ってくるソレが正常な判断をますます削ごうとしてくる。
きゅんとときめいては止まらない胸の鼓動に押し流されていくかのように、小さく安月は頷いた。言葉を発するにはまだ、冷静さが足りなかった様子だ。
流はそれでもちゃんと合意と受け取ったのか、安月の手を引く。
「裏庭に行こう。あそこならこの時間、誰もいない」
※ ※ ※
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
おすすめ作品を読み込み中です…
この作品と似た作品
似た傾向の作品は見つかりませんでした。
この作品を読んだ人が読んでいる作品
読者の傾向からおすすめできる作品がありませんでした。
おすすめ作品は現在準備中です。
おすすめ作品の取得に失敗しました。時間をおいて再度お試しください。
翌日のこと。安月は、心ここにあらずといった面持ちで大学へと向かうバスの中、微妙に顔をしかめていた。バスに酔っているとかではなく、つい先日に実の母親から結婚相手を探してこいとか言われたからでもない。
しきりに鼻をヒクヒクとさせて、むせ返りそうだった。
できることなら鼻に栓を詰めたいくらい、安月の嗅覚は急激に鋭くなっていた。
これも二十歳を迎えて一人前の人狼になれた証拠でもあるのだろう。
特に、バスの中ともなれば密集空間。あらゆる臭いがこもり、詰まっていた。
それなりに混雑した車内は、通勤者やら通学者、色々な人が乗車している。
入り混じった体臭や、誰かが持っているであろう弁当などの食べ物の匂い。
中でも一番キツく鼻を刺激したのは香水だった。
まるで催涙スプレーを顔面に吹きかけられたかのような強烈っぷり。軽く涙目だ。
ほんの少し前まではこんなこともなかったのに、急に世界がひっくり返ったよう。
母親曰く、そのうちに慣れるから大丈夫らしいが、その頃には鼻がもげて使い物にならなくなっているような気がしてならなかった。
『いい狼を連れてきてよ』
出がけの母親の言葉がリフレインする。それと同時に安月の顔は真っ赤になる。
よくもまあ、実の娘の前で堂々とそんなことを言えたものだと思った。
こんな調子で運命の相手の匂いなど分かるのだろうかという疑問が沸く。
いくらフェロモンを感じたとして、嗅ぎ分けられる自信もなかったし、それ以前に鼻を嬲るようなこの環境の中にそんなものがあっても惹かれるのかも分からない。
例えば果物が並んでいたとして、それだけが一番なんて選べるような強烈な匂いがあったらどうだろう。リンゴみたいな芳醇な香り、ミカンのような爽やかな香りなどありふれた香りの中に、フルーツの王様ドリアンが混ざっていたら、あまりに異質で運命の相手とか考える前に避けてしまいそうなものだ。
現に、安月はあらゆる臭いに苛まれてまいっているところだ。
一応は良いと思う匂い、マシな匂い、無理な臭い、近寄りたくもない臭いは次第に理解できるようにはなってきていたが、判別は困難を極めた。
ひょっとすると、この中に運命の相手とやらのフェロモンも混じっている可能性も無きにしも非ずではあったが、今の安月には到底嗅ぎ分けられそうになかった。
果たして、運命の相手はそんなにも素晴らしいものなのだろうか。
フェロモンを感じ取ったところで、本当に惹かれるものなのだろうか。
バスに揺られながらも、安月はまだ見ぬ伴侶のことを考えていた。
※ ※ ※
しばらくして、大学に到着し、安月も逃げるようにバスを降りたが、臭いの問題は根本的に解決されたわけでもなく、むしろ無数の学生が行きかう学校こそ、安月にはキツい環境だった。
あたかも鼻を通して頭の中をぐちゃぐちゃに引っ掻き回しているかのような奇怪な感覚に襲われる。人一人ごとに匂いが全く違うのに、それが動くたびにまざりあって何とも表現しようのないミックスジュース状態。
フルーツみたいな匂いや香りだけだったのならどれだけよかったことだろう。
体臭やら加齢臭やら不快な臭いがそこに交じっているものだから、しかめっ面にもなる。汗の臭い、糞便の臭い、生ゴミのような臭いも漂ってくる。
さすがにここまでくると安月も眩暈を覚えてくるが、帰るわけにもいかない。
極力、嫌な臭いのする方向を避けつつも、講義室へと向かった。
決して他人を軽蔑するつもりもないが、安月はゴミ屋敷の中を彷徨っているような気分だった。何処を歩いても不快な臭いが鼻腔を刺激してやまない。
本当にこんな環境に慣れるのだろうか。人が多いだけでこんなにも嗅覚をやられるなんて想像だにしていなかった。
安月の体感では、ようやくして講義室にたどり着く。
室内まで足を踏み入れれば大分マシにはなったものの、若干鼻も麻痺していた。
ワサビや辛子を大量に口にしてもこうはならなかったと思いつつ、席に着く。
定刻になり教授も入室してきて、いよいよ授業が始まる。
呼吸を整えようと、ジンジンする鼻をハンカチでそっと抑える。
そろそろさすがに鼻もよくなってきただろう。そう思ったそのときだ。
「――……ッ!?」
思わず安月は飛び跳ねて悲鳴を上げるところだった。
自分でも何が起きたのかを理解できていない。
とんでもなく強烈な匂いがすぐ間近から発せられていたのだ。
反射的にそちらに向き直ると、そこには男性が一人座っていた。
名前は亜月も知っている。
灰蓮流。同じ大学に通っている男。
背丈は高い方だが、あまり目立たないような容姿をしており、この大学では珍しく何処のグループにも属していない所謂陰キャという奴だ。
安月はあちこちのグループにちょっかいを出すので、そういった意味では正反対の性格とも言えた。流が誰かと会話しているところも見たことがない。
今まで安月も流のことをそれほど意識してきたこともなかったが、今は違った。
月並みな言葉ではあるが、後光が差しているのかと思うほどに輝いて見えた。
どちらかといえば、地味なファッションで、全体的な色合いもダーク寄りなのに、説明しようがないくらい、流には魅力を感じていた。
見るからに厚ぼったい服装だというのに、性的に誘惑をされているんじゃないかと勘繰るほどムンムンとしたものが溢れてきている。
安月には、イケメン男子が前をはだけさせ露出した格好で熱烈な視線を送っているかのようにさえ思えていたほど。
そんなわけはなく、流は普段と変わらない陰キャ系の地味男子だ。
もちろん、半裸になどなっているはずもない。
正直意味が分からなかった。ただ、本能的にとんでもなく強烈にして濃厚なものがそこにあるという認識であることには変わりない。
それはどうしようもなく、たまらなかった。
例え目の前にトップアイドルの男子がいたってこうも興奮することはない。
だが、そこにいるだけで安月は呼吸もままならなかった。
その感情を形容する言葉を見つけるよりも早く、安月は席を立つ。
「すみません、お手洗いに行ってきますッ!」
それはあまりに不自然すぎるタイミングで、あたかも嫌いな講師がやってきたから逃げ出したとも取られかねない状況ではあったが、これ以上の対処法は今の安月には思いつかなかった。
思いのほか、声を張り上げてしまったので周囲からも視線を浴びる。
周囲に目配せもせず、そそくさと講義室から文字通り飛び出していく勢い。
そんなに漏れそうだったのかと呟く声も聞こえたような気がする。
安月はもう、今はただ逃げ出したくて仕方なかった。
まさか、興奮のあまり、あの場で流を押し倒してしまいたい衝動に駆られたなんて口が裂けても言えないし、そんな感情を抱えていた自分が信じられなかった。
どうして今まで意識したことのなかった流にあんなにも性的な魅力を覚えるのか。
この学校には無数の匂いが充満して、鼻も利かなくなるほどだったのに、あのとき流の匂いは奇妙なほどはっきりと感じ取れていた。
全部混ざりに混ざってどれが誰の匂いなのかも分からなくなっていたはずなのに、流は流だと理解できてしまえるほどに、くっきりとしていた。
そしてそれと同時に、流に対して、異常な情欲も覚えていたのも事実だ。
そんなはずはない。自分はそんな人間じゃない。そう否定するように、ズカズカと安月は早足になって講義室から離れようとする。
安月自身、自分は人に対しよくちょっかいを掛けるような軽さを持っていることを自負していたが、他人に迫りたいとか、性的感情を抱えたことはなかったつもりだ。
なのに、ついさっきは思わず、それこそ悲鳴を上げてしまいそうになったくらい、流に対し、特別な感情を抱いていた。
「――……三上さん、ちょっと待って!」
次の瞬間、安月はドキンとして立ち止まってしまった。
真後ろから声を掛けられ、振り向いてみるとそこには流が追いかけてきていた。
思わず視線を逸らしたくなるほど、顔が真っ赤になってしまう。
一体どうして追いかけてきたのか。
理由を考えようにも思考がそもそもまとまらない。
流が安月に近付いてくるという事実だけで興奮が加速する一方だ。
「な、な、なんですか?」
「急に部屋を飛び出していくから、その、びっくりして……」
それにしたって、お手洗いに行くと言って出て行った女子の背中を追いかけるのは男子としてデリカシーはどうなのかという話だが、安月はそれどころではない。
そもそも自分が何を言って出てきたのかも既に覚えてないくらいだ。
「いや私も自分でもびっくりしちゃったかも。急に気分が悪くなっちゃってさ」
実際、廊下を駆け出していったとはいえ、異様に顔も真っ赤で息遣いも荒い。
傍から見れば具合が悪そうにも思えたかもしれない。
頑なに、流の顔を見上げようともせず、露骨に顔も逸らす。
しどろもどろに、何を言えばいいか迷い、適当に言い訳をつけてこの場を去ろうと思ったその矢先、流の手が安月の手に伸びていた。
振り払うこともできたが、咄嗟のことで安月も硬直してしまう。
「少し、話があるんだけど……いい?」
「ぇ……っ?」
状況からすれば今これからまさに大学の講義が始まろうとしていた頃合いであり、安月もお手洗いに向かうと言って講義室を飛び出した直後だ。
違和感しか覚えない言動ではあったが、どうやら流には何か確信があったらしい。
少なくとも、安月が具合悪くて出て行ったわけではないと思っているようだ。
安月は、困惑を極める中、そっと流の顔を見上げる。
身長差頭一つ分くらい。薄暗い印象だった流の顔は、少し火照ったように赤くて、息遣いも荒い。それはあたかも、安月と同じようだった。
どんな言い訳をつけてこの場を立ち去ろうかと思っていた安月も、そんな流の顔を見てしまったからにはとても断りようもなかった。
何より、流から漂ってくるソレが正常な判断をますます削ごうとしてくる。
きゅんとときめいては止まらない胸の鼓動に押し流されていくかのように、小さく安月は頷いた。言葉を発するにはまだ、冷静さが足りなかった様子だ。
流はそれでもちゃんと合意と受け取ったのか、安月の手を引く。
「裏庭に行こう。あそこならこの時間、誰もいない」
※ ※ ※