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満月の夜に駆ける

ー/ー



 あれからしばらく経ったが、安月の母親に変わった様子はない。
 夜中に奇声を上げて踊りだすこともなければ、怪しげな教団に入信することもなく至って普通、普段通りの母親だった。

 あのときの言動だけがおかしかっただけで、それ以外は何でもない。
 一時は安月も精神科に駆け込もうとも考えていたが、たった一度だけ父親の正体が実は狼男でした、だからあなたも狼女でした、と奇天烈な言動を放ったくらいでは、さすがの医者も動かないだろうと考え、踏みとどまった。

 ふと気が付けばカレンダーの日付は安月の誕生日。
 それはつまり、今日が二十歳の誕生日ということになる。

 幼いころからこの日が近付くとワクワクしたが、先日の母親の話を聞いてからか、どうも不思議な心地だった。高ぶるという意味では同じなのかもしれないが、安月は落ち着かない気分でいっぱいだった。

「安月、誕生日おめでとう!」
「ありがとう、ママ」

 夕暮れどき、大学から帰ってきた安月を迎え入れたのは母親のクラッカー。
 そして、リビングには母親手作りのごちそうに、大きなホールケーキがあった。
 それだけでも心が安堵する。

「今日は腕によりをかけて作ったからね」

 その言葉に嘘偽りはなく、いつもの食卓も、いつもよりも豪華に見えた。
 テーブルに着くと、それだけではしゃぎたい気持ちでいっぱいになるほど。

 ロウソクに火を灯し、部屋を暗くすると、テーブルの上が一層キレイに見えた。
 安月は幻想的に燃える火を一息でフッと吹き消すと、母親の拍手が響く。

 こんなにも優しい母親に育てられて、無事に二十歳を迎えることができたことに、安月は感謝の言葉もない。ほんのりと涙ぐみそうにもなる。
 これからの人生でどんな恩返しができるのかは分からないけれども、一先ず安月は何か新しいバイトでも探そうかと思索に耽る。

 母親にプレゼントを返すとしたら何がいいだろう。
 親孝行といえば、やはり誰かと結婚して孫の顔を見せるのが一番とは思うものの、安月にはまだ伴侶となりそうな人物の影すら見当たらない。
 年の割にはまるで老けた様子もないからちょっと奮発して高いアクセサリーなども良いかもしれない。そんな皮算用しながらも、夜は更けていく。

 ※ ※ ※

 母親と二人きりのパーティも終え、シャワーを浴び、心のうちに灯ったワクワクも冷めないまま、安月は自分の部屋へと戻っていった。
 厚いカーテンに遮られた窓の向こうは、街灯が淡く照らしてくる。

 奇しくも、今日は満月の日でもあったが、あいにくの曇り。
 夜空の星すらも見えずどんより暗い。

 なのに、安月はいやに外の様子が気になって仕方なかった。
 別に窓の外にサンタクロースが立っているわけでもなし、どうしてこんなにも心がざわついているのか分からなかった。

 部屋の電気を消して、ベッドに飛び込む。
 どうしてか、興奮して眠れそうな気がしない。

 ベッドの上、毛布にくるまり寝ようとはするが、やはり目が冴えてしまっていて、とてもではないが寝入ることはできなかった。

 ふと、そんなときだ。
 カーテンの向こうから強い光が差し込んできていた。
 どうやら空を覆っていた分厚い雲に切れ間ができたらしい。
 満月が顔を覗かせ、街灯以上の輝きが降り注いできていたのだ。

 そのとき、安月は奇妙な感覚だった。
 頭からバケツ一杯分のアルコールでも被ったみたいに、浮遊感にも近いふわふわな心地で、何故か毛布を剥いでベッドから降りていた。

 そのまま夢遊病患者のような足取りで窓に近づくとカーテンを引きちぎりかねない勢いでジャーっと開いてしまう。すると、窓の外から満月の光が遮られることなく、安月を照らしていく。見上げた空のかなたには、ぽっかりと満月が浮かんでいた。

 ドックン。安月の心臓が大きく高鳴る。
 急激に全身の血液が燃え上がったかのような熱を持ち、駆け巡る。
 するとどうしたことだろう。

 ぶち、ぶちち……っ、ビリリ。
 見る見るうちに衣服がちぎれていく。安月の体が膨らんでいっているのだ。
 床に布の残骸が散っていくが、玉のような肌はそこにはなかった。

「ぅ……、ぇ?」

 部屋の片隅にある姿見に視線が泳ぐ。何かが映り込んでいる。
 自分の部屋に不審者が侵入しているのかと思った。
 次に、「あんな大きなぬいぐるみなんて持っていたっけ」と思った。

 違う。鏡に映っていたソレは不審者でもなければ、ぬいぐるみでもない。
 全身がもふもふの毛に覆われ、毛むくじゃらになった安月自身だった。

 大きな耳が頭の上に立ち、口元も大きく、そして牙も見えている。
 手の先の爪も、足の骨格も、どれも全部人間のものではない。
 灰色をした犬――いや狼のようだった。

 二足歩行の狼を指し示す言葉があるとするならば、ウェアウルフ、人狼だろうか。
 まったく理解が追い付かない。どうして自分が人狼になっているのか。
 これでは最近ニュースで見かけた正真正銘のリアル人狼ではないか。

 そういえば母親がそんなことを言っていたような気がする。
 だとしても意味が分からない。どうして本当に狼になってしまったのか。
 原因や要因を頭の片隅に置いていたからといって、理性で理解はできない。

 混乱が頭にまとわりつき、愕然とする安月だったが、ふと吸い寄せられるように、窓を開き、体を乗り出して、夜空に輝く満月を視界に収めた。
 狼になった安月の瞳に、まんまるの月光が映り込む。

 興奮が収まらない。身体中を燃やすような熱はまだ止まらない。
 その高ぶる感情を解き放つように、安月は本能的にそうしていた。

「アオォォォーッン!!」

 満月の夜空、遠くへ遠くへと響かせるような遠吠え。
 安月は胸の内にこもっていたものが溢れ出ていくのを感じた。
 すると、次の瞬間にはとうとう窓の外へと飛び出し、夜の世界を駆けていく。

 月明りを浴びて、銀色の毛並みが鮮やかに光って見えたほど。
 何処を目指すわけでもなく、安月は一心不乱に走る。

 その夜はまだ始まったばかりだった。

 ※ ※ ※

 ※ ※

 ※

「――……ん?」

 カーテンの隙間から差し込む朝の日差し。小鳥たちのさえずりも聞こえてくる。
 目を覚ましたとき、安月は自分のベッドの上にいた。
 清々しい朝ではあったものの、上半身を起こしてから違和感を覚える。

 奇妙なまでに記憶がすっぽりと抜け落ちている。昨夜のことを思い返してみても、寝苦しくて寝るに寝れない状態だったし、いつの間に寝入ってしまったのか。
 何かもっと、とんでもないことがあったような気がしてならなかった。

 何故だか昨日着ていたパジャマと違う気もする。
 今着ているのは確かタンスの奥にしまっておいたもののような気がしていた。

 徐に起き上がってベッドから降りてみるも、安月は首をかしげるばかり。
 カーテンを開けて、眩い光を取り込む。
 窓の外を見下ろしてみても、はたまた見上げてみても、特に目に付くものはない。

 思いのほか、自然が豊かな街並みが見えているくらい。
 今日という一日が始まるという気分になるだけで、不自然さなどあるわけもない。
 むしろ、どうして昨晩はあんなにも興奮を覚えていたのかが不思議だった。

――興奮していた。

 ふと、安月の脳裏にしこりがたまっていた気分だった。
 昨晩、何かをしたはずだ。物凄い爽快感を覚えていたような気がする。
 かといって、この辺では夜遊びできるような場所はない。
 何処かに出かけていたとして、そこから帰ってきた記憶もない。

「全部夢? 何処から何処まで?」

 ハイスピードなゲームをプレイしていたような気がする。それこそ、実写みたいな超絶リアルなクオリティの。
 しかし、安月はそういったゲームは持っていない。知り合いなら誰かが持っていたような気もするが、何にしても記憶の片隅にあるソレとは重ならない。

 現実のものとは思えないし、ゲームでもないとなるとどういうことなのだろう。
 いっそ、最初から最後まで全部夢だったと結論つけたかった。
 考えても安月には答えがまとまりそうにもなかった。

「おはよう、安月」

 コンコンコンと部屋の外からノックの音と母親の声が聞こえてくる。
 困惑したまま硬直していた安月をよそに、そのまま扉が開かれ、姿を現す。

「どうしたの、安月。変な顔して」
「ええと、ママ。昨日、私って外に出かけたっけ?」

 夢と現実の区別のつかない脳みそに疑心暗鬼を覚えた安月は恐る恐る訊ねてみる。
 ただ変なことをいっているだけならそれはそれでいいと思っていた安月だったが、母親の方は呆れた顔を見せる。はたしてどちらの意味でだろうか。

「あなたね、何も覚えてないの?」

 その言葉にドキリときた。昨夜のことがまるで思い出せないこともそうだったが、自分が何をしでかしたのかという不安も大きかった。
 酒を飲んだ記憶もないが、泥酔して外をほっつき歩いていたとか、そんなことでも恥ずかしくて顔から火が出そうなくらい。

「裸で帰ってくるから何事かと思ったわよ」
「は、裸ぁっ!?」

 全く記憶がないというのに、とんでもない爆弾を投下される。
 一気に顔が燃え上がる勢いで紅潮していき、安月は母親に詰め寄った。

「私、昨日裸で外を出歩いてたの? なんで? お酒飲んでないよね?」
「本当に何も覚えてないのね。昨夜、あなた、満月の光を浴びたでしょう? だから狼に変身しちゃったのよ。来るとは思ってたけど、遠吠えでビックリしちゃったわ」

 狼に変身した。そんなことを言われても困惑が極まる一方だ。
 人間がどうやって狼に変身できるというのか。
 やはりこの母親は疲労がたたって頭のネジが緩み始めているのかもしれない。

 目の前でヘラヘラと笑っている母親が急に別のものに見えてしまったくらい。
 記憶のあいまいな娘に対し、そんな突拍子もないことを言うなんて異常だ。

 ただ、安月自身、否定しきれなかった。
 狼と聞いて、記憶の端に思い当たる節があったからだ。

 昨日の夜、鏡に映りこんだ二本足で立つ灰色の狼。
 あれは間違いなく自分自身を映し出した姿だったのだと。

 異常にスピーディなゲームは、現実のことだった。
 あれは本当に外を走り回っていたというのか。しかも全裸で。

 思い起こせば、あの風景は近所の町並みや、すぐ近くにある森と一致する。
 二十歳になって直後、近所を裸で走り回っていたなんて、安月も消えたくなる。
 爽快感たっぷりで心地よかった記憶がある分、なおのこと。

「いやいやいや、そんな……覚えてないって。ウソでしょ?」
「私もウソだと思いたかったわ。あの人にも感謝しないとね」
「あの人……って誰?」

 顔をポッと赤く染めた母親が言いづらそうに口にする。

「あなた、あの後、森の中で寝ちゃったらしいじゃない。それを見つけてくれた人がわざわざ担ぎ込んで家まで連れてきてくれたのよ」
「ええ、ええええぇぇぇっ!!!?」

 これ以上、混乱することもなかったと思う。
 狼になったというところも意味が分からないし、全裸で外を走り回ったのも正直、恥ずかしいを通り越して消えたい気持ちでいっぱいなのに、そんな裸の安月を家まで送り届けてくれた人がいたなんてキャパシティオーバーにもほどがある。

「い、いい、一体何処の誰? 誰が私を連れてきてくれたの!?」
「さすがに名前までは聞かなかったわね。この近くの下宿に住んでるってくらいで」

 全く知らない赤の他人に裸を見られた。
 というか森の中で寝ているのを発見された事実に、安月の心臓は破裂寸前だった。
 完全に変質者か何かだと思われてしまった可能性が高い。

「ていうか、なんで私の家、知ってたの?」
「なんでだと思う?」

 母親が質問に対して質問で返す。何処か含み笑いがあったことは間違いない。
 年の割には幼く見える母親は、無邪気な女学生のソレにも見えた。
 答えを知っているような素振りではないが、面白がっているようには思える。

 ただ、安月の心境としては何も笑って済ませられるようなことではない。

「まあ、これに懲りて満月の夜は油断しないようにすることね。あなたは狼女だってよく分かったでしょうし」
「まだ……よく分からないよ、ママ」

 自分は狼男の血を引いてるから狼女で、満月の光を浴びると変身してしまうなんて実際に体験した今に至っても受け入れがたい。
 そんな状況で、知らない誰かに介抱されたこともまた理解したくなかった。
 下手したら知らないところでSNSでバズっているかもしれないと思うと、もはや安月も気が気ではない。

『リアル人狼、都会で目撃情報』

 ふと脳裏を過ぎる胡散臭く馬鹿馬鹿しいニュース記事が現実味を帯びていたことに眩暈を覚え、魂が抜けるほどの溜め息をついていた。

「もう、お嫁にいけないよっ!」

 両手で顔を覆い、膝から崩れ落ちる安月に、母親は優しくポンと肩を叩く。

「大丈夫、大丈夫。安月ならきっといい狼が釣れるわよ」
「狼って……、さすがにそんなホイホイとあっちこっちにいるわけないでしょ」

 意味の分からない母親の慰めに安月も意味の分からないツッコミを入れてしまう。
 いくら自分が人狼だからといって、この世にどれだけの人狼がいるというのか。

「あなたは知らないかもしれないけれど、実は意外に狼の仲間っているものなのよ。二十歳になったからきっと分かるようになると思うわ」
「どういうこと?」
「別に満月の夜に変身できるだけが狼女じゃないの。一人前になると若い狼の匂い、つまりフェロモンもムンムン感じちゃうようになるんだから」
「ムンムン……っ!?」

 急にそんな話を切り出されても困るといった表情で安月も赤面まっしぐら。
 特に、実の母親から切り出されるのもたまったものではない。

「相手が狼男なら何の問題もないんだから、結婚相手はとびきりいい狼を探してきて連れてきなさい。運命の相手だと、そりゃあもう本能で分かっちゃうんだから」

 要するに、彼氏を探してこい、ということなのだが。
 よもや母親から結婚を前提としたお付き合いのできる相手を指名されてくるとは、安月も溜め息が出てしまう。とはいえ、二十歳を迎えた身空。
 支離滅裂かといえば、そうと言えないのもないのがまた癪だった。

 しかし、高学歴、高収入、高身長の条件よりも遥かに難しい。
 運命の狼男が何処をほっつき歩いているというのだろう。

 身を固めるのも親孝行とはいえ、見ず知らずの誰かに裸を見られただけに留まらず家にまで送られ、赤っ恥かいたばかりの安月には、将来の旦那などという幻想を見る気力も正直なところ沸いてはこなかったのだった。


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 あれからしばらく経ったが、安月の母親に変わった様子はない。
 夜中に奇声を上げて踊りだすこともなければ、怪しげな教団に入信することもなく至って普通、普段通りの母親だった。
 あのときの言動だけがおかしかっただけで、それ以外は何でもない。
 一時は安月も精神科に駆け込もうとも考えていたが、たった一度だけ父親の正体が実は狼男でした、だからあなたも狼女でした、と奇天烈な言動を放ったくらいでは、さすがの医者も動かないだろうと考え、踏みとどまった。
 ふと気が付けばカレンダーの日付は安月の誕生日。
 それはつまり、今日が二十歳の誕生日ということになる。
 幼いころからこの日が近付くとワクワクしたが、先日の母親の話を聞いてからか、どうも不思議な心地だった。高ぶるという意味では同じなのかもしれないが、安月は落ち着かない気分でいっぱいだった。
「安月、誕生日おめでとう!」
「ありがとう、ママ」
 夕暮れどき、大学から帰ってきた安月を迎え入れたのは母親のクラッカー。
 そして、リビングには母親手作りのごちそうに、大きなホールケーキがあった。
 それだけでも心が安堵する。
「今日は腕によりをかけて作ったからね」
 その言葉に嘘偽りはなく、いつもの食卓も、いつもよりも豪華に見えた。
 テーブルに着くと、それだけではしゃぎたい気持ちでいっぱいになるほど。
 ロウソクに火を灯し、部屋を暗くすると、テーブルの上が一層キレイに見えた。
 安月は幻想的に燃える火を一息でフッと吹き消すと、母親の拍手が響く。
 こんなにも優しい母親に育てられて、無事に二十歳を迎えることができたことに、安月は感謝の言葉もない。ほんのりと涙ぐみそうにもなる。
 これからの人生でどんな恩返しができるのかは分からないけれども、一先ず安月は何か新しいバイトでも探そうかと思索に耽る。
 母親にプレゼントを返すとしたら何がいいだろう。
 親孝行といえば、やはり誰かと結婚して孫の顔を見せるのが一番とは思うものの、安月にはまだ伴侶となりそうな人物の影すら見当たらない。
 年の割にはまるで老けた様子もないからちょっと奮発して高いアクセサリーなども良いかもしれない。そんな皮算用しながらも、夜は更けていく。
 ※ ※ ※
 母親と二人きりのパーティも終え、シャワーを浴び、心のうちに灯ったワクワクも冷めないまま、安月は自分の部屋へと戻っていった。
 厚いカーテンに遮られた窓の向こうは、街灯が淡く照らしてくる。
 奇しくも、今日は満月の日でもあったが、あいにくの曇り。
 夜空の星すらも見えずどんより暗い。
 なのに、安月はいやに外の様子が気になって仕方なかった。
 別に窓の外にサンタクロースが立っているわけでもなし、どうしてこんなにも心がざわついているのか分からなかった。
 部屋の電気を消して、ベッドに飛び込む。
 どうしてか、興奮して眠れそうな気がしない。
 ベッドの上、毛布にくるまり寝ようとはするが、やはり目が冴えてしまっていて、とてもではないが寝入ることはできなかった。
 ふと、そんなときだ。
 カーテンの向こうから強い光が差し込んできていた。
 どうやら空を覆っていた分厚い雲に切れ間ができたらしい。
 満月が顔を覗かせ、街灯以上の輝きが降り注いできていたのだ。
 そのとき、安月は奇妙な感覚だった。
 頭からバケツ一杯分のアルコールでも被ったみたいに、浮遊感にも近いふわふわな心地で、何故か毛布を剥いでベッドから降りていた。
 そのまま夢遊病患者のような足取りで窓に近づくとカーテンを引きちぎりかねない勢いでジャーっと開いてしまう。すると、窓の外から満月の光が遮られることなく、安月を照らしていく。見上げた空のかなたには、ぽっかりと満月が浮かんでいた。
 ドックン。安月の心臓が大きく高鳴る。
 急激に全身の血液が燃え上がったかのような熱を持ち、駆け巡る。
 するとどうしたことだろう。
 ぶち、ぶちち……っ、ビリリ。
 見る見るうちに衣服がちぎれていく。安月の体が膨らんでいっているのだ。
 床に布の残骸が散っていくが、玉のような肌はそこにはなかった。
「ぅ……、ぇ?」
 部屋の片隅にある姿見に視線が泳ぐ。何かが映り込んでいる。
 自分の部屋に不審者が侵入しているのかと思った。
 次に、「あんな大きなぬいぐるみなんて持っていたっけ」と思った。
 違う。鏡に映っていたソレは不審者でもなければ、ぬいぐるみでもない。
 全身がもふもふの毛に覆われ、毛むくじゃらになった安月自身だった。
 大きな耳が頭の上に立ち、口元も大きく、そして牙も見えている。
 手の先の爪も、足の骨格も、どれも全部人間のものではない。
 灰色をした犬――いや狼のようだった。
 二足歩行の狼を指し示す言葉があるとするならば、ウェアウルフ、人狼だろうか。
 まったく理解が追い付かない。どうして自分が人狼になっているのか。
 これでは最近ニュースで見かけた正真正銘のリアル人狼ではないか。
 そういえば母親がそんなことを言っていたような気がする。
 だとしても意味が分からない。どうして本当に狼になってしまったのか。
 原因や要因を頭の片隅に置いていたからといって、理性で理解はできない。
 混乱が頭にまとわりつき、愕然とする安月だったが、ふと吸い寄せられるように、窓を開き、体を乗り出して、夜空に輝く満月を視界に収めた。
 狼になった安月の瞳に、まんまるの月光が映り込む。
 興奮が収まらない。身体中を燃やすような熱はまだ止まらない。
 その高ぶる感情を解き放つように、安月は本能的にそうしていた。
「アオォォォーッン!!」
 満月の夜空、遠くへ遠くへと響かせるような遠吠え。
 安月は胸の内にこもっていたものが溢れ出ていくのを感じた。
 すると、次の瞬間にはとうとう窓の外へと飛び出し、夜の世界を駆けていく。
 月明りを浴びて、銀色の毛並みが鮮やかに光って見えたほど。
 何処を目指すわけでもなく、安月は一心不乱に走る。
 その夜はまだ始まったばかりだった。
 ※ ※ ※
 ※ ※
 ※
「――……ん?」
 カーテンの隙間から差し込む朝の日差し。小鳥たちのさえずりも聞こえてくる。
 目を覚ましたとき、安月は自分のベッドの上にいた。
 清々しい朝ではあったものの、上半身を起こしてから違和感を覚える。
 奇妙なまでに記憶がすっぽりと抜け落ちている。昨夜のことを思い返してみても、寝苦しくて寝るに寝れない状態だったし、いつの間に寝入ってしまったのか。
 何かもっと、とんでもないことがあったような気がしてならなかった。
 何故だか昨日着ていたパジャマと違う気もする。
 今着ているのは確かタンスの奥にしまっておいたもののような気がしていた。
 徐に起き上がってベッドから降りてみるも、安月は首をかしげるばかり。
 カーテンを開けて、眩い光を取り込む。
 窓の外を見下ろしてみても、はたまた見上げてみても、特に目に付くものはない。
 思いのほか、自然が豊かな街並みが見えているくらい。
 今日という一日が始まるという気分になるだけで、不自然さなどあるわけもない。
 むしろ、どうして昨晩はあんなにも興奮を覚えていたのかが不思議だった。
――興奮していた。
 ふと、安月の脳裏にしこりがたまっていた気分だった。
 昨晩、何かをしたはずだ。物凄い爽快感を覚えていたような気がする。
 かといって、この辺では夜遊びできるような場所はない。
 何処かに出かけていたとして、そこから帰ってきた記憶もない。
「全部夢? 何処から何処まで?」
 ハイスピードなゲームをプレイしていたような気がする。それこそ、実写みたいな超絶リアルなクオリティの。
 しかし、安月はそういったゲームは持っていない。知り合いなら誰かが持っていたような気もするが、何にしても記憶の片隅にあるソレとは重ならない。
 現実のものとは思えないし、ゲームでもないとなるとどういうことなのだろう。
 いっそ、最初から最後まで全部夢だったと結論つけたかった。
 考えても安月には答えがまとまりそうにもなかった。
「おはよう、安月」
 コンコンコンと部屋の外からノックの音と母親の声が聞こえてくる。
 困惑したまま硬直していた安月をよそに、そのまま扉が開かれ、姿を現す。
「どうしたの、安月。変な顔して」
「ええと、ママ。昨日、私って外に出かけたっけ?」
 夢と現実の区別のつかない脳みそに疑心暗鬼を覚えた安月は恐る恐る訊ねてみる。
 ただ変なことをいっているだけならそれはそれでいいと思っていた安月だったが、母親の方は呆れた顔を見せる。はたしてどちらの意味でだろうか。
「あなたね、何も覚えてないの?」
 その言葉にドキリときた。昨夜のことがまるで思い出せないこともそうだったが、自分が何をしでかしたのかという不安も大きかった。
 酒を飲んだ記憶もないが、泥酔して外をほっつき歩いていたとか、そんなことでも恥ずかしくて顔から火が出そうなくらい。
「裸で帰ってくるから何事かと思ったわよ」
「は、裸ぁっ!?」
 全く記憶がないというのに、とんでもない爆弾を投下される。
 一気に顔が燃え上がる勢いで紅潮していき、安月は母親に詰め寄った。
「私、昨日裸で外を出歩いてたの? なんで? お酒飲んでないよね?」
「本当に何も覚えてないのね。昨夜、あなた、満月の光を浴びたでしょう? だから狼に変身しちゃったのよ。来るとは思ってたけど、遠吠えでビックリしちゃったわ」
 狼に変身した。そんなことを言われても困惑が極まる一方だ。
 人間がどうやって狼に変身できるというのか。
 やはりこの母親は疲労がたたって頭のネジが緩み始めているのかもしれない。
 目の前でヘラヘラと笑っている母親が急に別のものに見えてしまったくらい。
 記憶のあいまいな娘に対し、そんな突拍子もないことを言うなんて異常だ。
 ただ、安月自身、否定しきれなかった。
 狼と聞いて、記憶の端に思い当たる節があったからだ。
 昨日の夜、鏡に映りこんだ二本足で立つ灰色の狼。
 あれは間違いなく自分自身を映し出した姿だったのだと。
 異常にスピーディなゲームは、現実のことだった。
 あれは本当に外を走り回っていたというのか。しかも全裸で。
 思い起こせば、あの風景は近所の町並みや、すぐ近くにある森と一致する。
 二十歳になって直後、近所を裸で走り回っていたなんて、安月も消えたくなる。
 爽快感たっぷりで心地よかった記憶がある分、なおのこと。
「いやいやいや、そんな……覚えてないって。ウソでしょ?」
「私もウソだと思いたかったわ。あの人にも感謝しないとね」
「あの人……って誰?」
 顔をポッと赤く染めた母親が言いづらそうに口にする。
「あなた、あの後、森の中で寝ちゃったらしいじゃない。それを見つけてくれた人がわざわざ担ぎ込んで家まで連れてきてくれたのよ」
「ええ、ええええぇぇぇっ!!!?」
 これ以上、混乱することもなかったと思う。
 狼になったというところも意味が分からないし、全裸で外を走り回ったのも正直、恥ずかしいを通り越して消えたい気持ちでいっぱいなのに、そんな裸の安月を家まで送り届けてくれた人がいたなんてキャパシティオーバーにもほどがある。
「い、いい、一体何処の誰? 誰が私を連れてきてくれたの!?」
「さすがに名前までは聞かなかったわね。この近くの下宿に住んでるってくらいで」
 全く知らない赤の他人に裸を見られた。
 というか森の中で寝ているのを発見された事実に、安月の心臓は破裂寸前だった。
 完全に変質者か何かだと思われてしまった可能性が高い。
「ていうか、なんで私の家、知ってたの?」
「なんでだと思う?」
 母親が質問に対して質問で返す。何処か含み笑いがあったことは間違いない。
 年の割には幼く見える母親は、無邪気な女学生のソレにも見えた。
 答えを知っているような素振りではないが、面白がっているようには思える。
 ただ、安月の心境としては何も笑って済ませられるようなことではない。
「まあ、これに懲りて満月の夜は油断しないようにすることね。あなたは狼女だってよく分かったでしょうし」
「まだ……よく分からないよ、ママ」
 自分は狼男の血を引いてるから狼女で、満月の光を浴びると変身してしまうなんて実際に体験した今に至っても受け入れがたい。
 そんな状況で、知らない誰かに介抱されたこともまた理解したくなかった。
 下手したら知らないところでSNSでバズっているかもしれないと思うと、もはや安月も気が気ではない。
『リアル人狼、都会で目撃情報』
 ふと脳裏を過ぎる胡散臭く馬鹿馬鹿しいニュース記事が現実味を帯びていたことに眩暈を覚え、魂が抜けるほどの溜め息をついていた。
「もう、お嫁にいけないよっ!」
 両手で顔を覆い、膝から崩れ落ちる安月に、母親は優しくポンと肩を叩く。
「大丈夫、大丈夫。安月ならきっといい狼が釣れるわよ」
「狼って……、さすがにそんなホイホイとあっちこっちにいるわけないでしょ」
 意味の分からない母親の慰めに安月も意味の分からないツッコミを入れてしまう。
 いくら自分が人狼だからといって、この世にどれだけの人狼がいるというのか。
「あなたは知らないかもしれないけれど、実は意外に狼の仲間っているものなのよ。二十歳になったからきっと分かるようになると思うわ」
「どういうこと?」
「別に満月の夜に変身できるだけが狼女じゃないの。一人前になると若い狼の匂い、つまりフェロモンもムンムン感じちゃうようになるんだから」
「ムンムン……っ!?」
 急にそんな話を切り出されても困るといった表情で安月も赤面まっしぐら。
 特に、実の母親から切り出されるのもたまったものではない。
「相手が狼男なら何の問題もないんだから、結婚相手はとびきりいい狼を探してきて連れてきなさい。運命の相手だと、そりゃあもう本能で分かっちゃうんだから」
 要するに、彼氏を探してこい、ということなのだが。
 よもや母親から結婚を前提としたお付き合いのできる相手を指名されてくるとは、安月も溜め息が出てしまう。とはいえ、二十歳を迎えた身空。
 支離滅裂かといえば、そうと言えないのもないのがまた癪だった。
 しかし、高学歴、高収入、高身長の条件よりも遥かに難しい。
 運命の狼男が何処をほっつき歩いているというのだろう。
 身を固めるのも親孝行とはいえ、見ず知らずの誰かに裸を見られただけに留まらず家にまで送られ、赤っ恥かいたばかりの安月には、将来の旦那などという幻想を見る気力も正直なところ沸いてはこなかったのだった。