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師匠の正体

ー/ー



「はぁ……、はぁ……」

 次にヒスイが気がついたときには村の入り口に立っていた。何処をどう通って帰ってきたのかももはや覚えていない。

「あ、ヒスイさん! 化け物を追って飛び出したって聞いたけど、無事だったんですね! よ……よかったぁ……」

 荒れ果てた惨状の中、傷だらけの村人が駆け寄り、泣きじゃくりながらヒスイを出迎える。さながら英雄の凱旋だ。

「すまない……、あの化け物は逃してしまった……」
「いい、いいんだ。ヒスイさんが無事ならそれで」
「おおい、手を貸してくれぇ! 怪我人を運んでくれないかぁ!」

 間を割るように、遠くから村人が声を張り上げる。
 物の怪が去っていったとはいえ、村の大部分は破壊され、被害も大きい。感傷に浸っている暇もなく、少しでも多くの人手が必要だった。

「オレも手伝う。案内してくれ」

 こうして、ヒスイは胸の内に絡まる得体の知れないソレを誤魔化すように、その日一日は村人の救助や復興にあたった。倒壊した家から怪我人を救ったり、瓦礫を撤去して安静にできる場所を確保したり。
 小さな村だったからこそ迅速に対応できたところもあるだろう。
 日が暮れる前には隣の村からも医者が駆けつけてきて、なんとか状況を落ち着かせるにまで至った。

 ※ ※ ※

 ※ ※

 ※

 翌日のこと。ヒスイは村の外れの山道を登っていた。その理由はもちろん、師匠に会うためだ。まだ昨日のことは夢か現か曖昧で、物の怪たちが残していった惨状は今も尚、村人たちに負の感情をまとわりつかせている。

 その一方で、昨日ヒスイが師匠の家で目撃したものは何だったのか。物の怪たちが現実だったのなら、あれもまた現実だったのだろうか。その答えを確認するべく、ヒスイはとうとう切り立った崖の近くに建つ、その家に辿り着く。

 いっそのこと、夢であってほしかった。このまま玄関を潜れば、いつものようにおっとりとした顔の師匠がいて、「どうして昨日は稽古に来なかったのですか」と訊かれるだけでいい。何もなかったのだと、ヒスイは自分に言い聞かせたかった。

 玄関の扉を開く。聞き馴染んだ軋り音とともに、ヒスイの重い足が歩を進める。

 師匠の姿は――そこにあった。いつものようなおっとりとした顔でいて、何処か少し、戸惑いを抑えたかのような表情。あまり普段は見せることのない、そんな顔。

「来ましたね、ヒスイ」
「師匠、どうしたんですか、そんな改まって」

 たじろぐヒスイの様子も気にせず、押し切るように師匠が言葉を続ける。

「もう隠し立てはしません。単刀直入に答えます。あなたが昨日見た狼の物の怪と私は同一のもの。言ってみれば、私は狼女といっても差し支えないでしょう」
「お……、狼、女……」

 師匠は堰を切る。それは突拍子もない言葉であり、それと同時に昨日の出来事の全てに信憑性を与えた。ヒスイにとってそうであってほしくなかった答えだ。

「ヒスイ。座りなさい。あなたに全てをお話しします」

 玄関の前で呆けていたヒスイはその一言でハッとして家に上がり込み、いつも説教を受けるような流れで師匠の前に腰を掛ける。それは反射的なものでもあった。

「まずは、ヒスイに訊ねましょう。昨日あなたの村を襲った大量の物の怪は何だと思いますか?」
「それは、ええと、山向こうを縄張りにする物の怪かと思います。以前、師匠に教えていただいた悪しき気に当てられた動物たちが変化した姿かと」
「その通り。よく覚えていましたね。ですが、山向こうが縄張りというのは実は少し違うのですよ」

 予想を外れた答えに、ヒスイも首を傾げる。

「あの物の怪の縄張りは、悪しき気があれば限りなどありません。そして、悪しき気というのは即ち穢れた気のこと。山向こうは元々戦場でした。多くの人間が殺し殺され死に絶えた地。そういう場所こそ、気は穢れていくものなのです」

 師匠はそこで、ふぅーと長い溜め息をつく。

「でも、師匠。山向こうが気の穢れた地だというならあの物の怪たちが人里に降りてくることもないんじゃ」
「いいえ、違います。穢れた悪しき気は時間とともに浄化されていきます。山向こうの戦場も、あと数十年もすれば清まることでしょう。ですが、悪しき気を糧とする物の怪たちにとっては不都合なのですよ」
「じゃ、じゃあ、だからあいつらは人里に降りてその土地を穢そうとしているのか……人間を殺して、新たな悪しき気の地を作るために……」
「察しが良いですね。さすが私の弟子です」

 そう言うや否や師匠は、あどけなく無垢な仕草でヒスイに抱きつく。幼児を甘やかすような所作は昔からだ。咄嗟にヒスイも顔を赤くし引き剥がして、押しのける。そんな一連の流れにも慣れてるのか、師匠も特に何も言うことなく、言葉を続けた。

「この事を打ち明けるのはもう少し後にと考えていたのですが……仕方ありません。あの物の怪たちは昨日初めて襲撃してきたわけではないのです」
「初めてでは、ない? だけどあんな物の怪の大群なんてこれまで一度も」
「ここ百年ほどは私が食い止めていましたからね」

 師匠は、ふふふと笑みを見せる。

「し、師匠が……? え? ひゃ、百年?」

 驚きのあまり、ヒスイは仰け反りそうになるも、体勢を整える。既にいくつか驚くべき話を突き付けられている。まだ混乱させられるのかとヒスイも身構えた。

「あなたの村が安全だったのは私が守っていたから。ですが、あなたもご存じの通り昨日は失敗してしまったのです。穢れた地も浄化されていけば物の怪たちも弱まっていくと思っていた私の誤算でしょう」
「あ、あの……師匠は一体今、年はいくつ――グェっ」

 そう問いかけようとしたヒスイの身体は強烈な打撃音を添えて宙を舞っていた。

「女性に年齢を尋ねるのは失礼ですよ、ヒスイ。――ともかく、あの戦場から漏れ出す悪しき気からは無数の物の怪が発生しているものですから、撃退こそできても退治まではできないのですよ」

 顎を押さえながらよれよれとヒスイが体勢を起こす。

「そんな! 師匠でさえ食い止められないなんて……これからあの村はどうしたら」
「ヒスイ。何故、私があなたをここまで鍛えてきたと思っているのですか?」
「え? まさかあの物の怪たちに対抗するために? でも……オレには無理でした。昨日も師匠が来なければ殺されていたかもしれません。不甲斐ない弟子です……」

 バチン。そんな弾く音とともに、今度はヒスイの身体が床を転がった。
 デコピンされたことに遅れて気付き、もう一度体勢を直す。

「そうですね。今のあなたでは無理でしょう。それは私が誰よりも分かっていることです。ですが、私にはあなたをもっと強くする方法があるのですよ」
「痛てて……もっと強くする方法? さらなる修行ですか?」
「いえ、簡単なことです。私は、狼の魂を喰らった狼女。この身には狼の気が宿り、狼の力を扱える物の怪。悪しき気、穢れた気に対抗することのできる数少ない崇高なる気なのですよ。この力をヒスイ――あなたに分け与える。そういうことです」
「そ、そんなことが……」
「いずれ時が来たらこのことを告白し、あなたには狼男となってもらい、あの悪しき気に取り憑かれた物の怪たちの退治を手伝ってもらおうと考えていたのです。まあ、予定よりも随分と早くなってしまいましたが」

 照れくさそうに、あるいは照れ隠しのように、ふっふっふ、と笑う。

「もちろん私は強制するつもりなどありません。そのように考えていただけのこと。たまたま拾った子が可愛かったものですから、鍛えてみて立派に成長したら選ばせるつもりでいました。あなたは私からしたらまだ未熟ですが、物の怪たちは私の想定よりも勢力を伸ばしています。ヒスイの意見を聞かせてください」

 強制するつもりはない、と師匠は答えたが、幼少期からヒスイの面倒を見てきたことを思い返せば、かなり長い目で見ていたことは明らかだった。それとも、百年以上を生きる狼女にとってはその程度の期間など一瞬だったのかもしれないが。

「そんなの今さら、ズルいじゃないですか師匠。ここでオレが断ったらどうするつもりなんですか」
「物の怪たちはこれまで通り、私が一人でどうにかします。あなたが望むのなら稽古もこれから付けて差し上げますよ」

 それは酷くあっけらかんとした答えだった。突き放されたような、あるいは試されているかのような答え。
 それでもそれは何の冗談でもないことはヒスイには分かった。それだけヒスイは師匠のことを傍で見てきたのだから。おそらくそれは本当に言葉通りなのだろう。

「分かりました、師匠。オレ、決めました。ここまで鍛えてもらった恩を返させてください。オレは誰かを守るために強くなりたい。だから狼の力をください」
「いいでしょう。このときを待っていました。たかだか二十年くらいですがね」

 意地悪っぽくクスリと笑うと、師匠は立ち上がり、部屋の奥へと移動する。

「ついてきなさい、ヒスイ。あなたに私の力を授けます」
「はい!」

 師匠に誘われるまま、ヒスイはついていく。するとその部屋は寝室だった。
 あまり招かれたことのない私室だ。
 あれだけ力強い返事で覚悟を決めておきながらも、ヒスイに緊張が走る。

「生きとし生けるもの全てには陰と陽の気が宿ります。先ほどは穢れた気と清らかな気と言いましたが、実は正確ではありません。陰と陽はそれぞれ相反する気。その二つが互いに中立に調和して魂は保たれているのです」

 説明しながらも、師匠は部屋のカーテンを閉め切り、闇を作り出す。

「その均衡が傾いたとき、魂は陰と陽のどちらかに喰われます。悪しき気とは、陰に傾いてしまった魂の残滓。他の物を腐食し、腐敗させる穢れた気です」
「では師匠は?」
「私は他の魂を取り込み、陰と陽との均衡が傾いた結果、人と狼の気が交ざり合った存在。不安定ではありますが、どちらかといえば陽の気ですね。生命力や活力が溢れる清らかな気。しかし、本質的には穢れた陰の気と変わりません」
「は、はぁー……?」

 ヒスイは今ひとつピンとこない呆けた顔をする。

「この力を授けるには、私とヒスイの魂を混ぜること。そうすることでヒスイの魂の均衡が傾き、狼の気を取り込むことができるでしょう」
「魂を混ぜるなんて、一体どうすれば?」
「簡単なこと。私とまぐわえばいいのです。肌と肌で触れ合い、互いの魂を寄せ合う。ただそれだけのこと」

 ヒスイはドキリとする。それは師匠の言葉にではない。師匠が身につけていた衣服を脱ぎ捨てたからだ。昨日も見たその裸体には傷一つなく、まさしく清らかな、生命力や活力が溢れている様がありありと見れた。

「ま、まぐわう……?」
「――嫌ですか? 私はあなたのことを一人の男として認めているつもりです。まだ未熟なところはありますが、それでも間違いなく好意は抱いていますよ」

 薄暗い部屋の中、白く細い四肢を晒しながら、扇情的に問う。

「オレは、師匠のことを嫌いだと思ったことは、ありません。ここまで育ててくれたことに感謝もしているし、それに尊敬も……」
「ヒスイ。あなたは私のことを一人の女として見れますか?」

 その問いかけにヒスイは即答することこそできなかったが、否定することもできなかった。何せ、長年慕っていた。また一人の女としても、意識していなかったといえばウソになる。ヒスイもまた師匠に対し、何かしらの感情を抱いていた。

「お、オレは師匠のことを……」

 答えを口にするよりも早く、ヒスイの足は師匠のいるその寝床に辿り着く。

 言葉が紡がれる前に、ヒスイは師匠にその身を預けていた。
 否、そのまま師匠を押し倒し、組み伏せるような格好になる。

 対する師匠は、何の抵抗をする気配も見せない。これがいつもの稽古だったのなら軽くいなされてしまうのに。今は、師弟の関係ではなく、ただの男女の関係。

 長年の積もってきた感情が溢れ出していくよう。
 そこから、もう言葉を口にする必要はなかった。

 吐息が交わるほどの至近距離で、互いの体温を感じあう。驚くほど柔らかく感じる肌と、筋肉質な肉体が触れ合い、そしてぶつかり合う。

 餌をねだる小鳥みたく啄むような優しい口づけを繰り返し、繰り返し、次第に激しく下を絡め合っていき、さらには身体ごと絡め合う。

 当初の目的は何だったのかも忘れてしまうほど。
 そうしてしばらく、二人は互いを求め合っていた。



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みんなのリアクション

「はぁ……、はぁ……」
 次にヒスイが気がついたときには村の入り口に立っていた。何処をどう通って帰ってきたのかももはや覚えていない。
「あ、ヒスイさん! 化け物を追って飛び出したって聞いたけど、無事だったんですね! よ……よかったぁ……」
 荒れ果てた惨状の中、傷だらけの村人が駆け寄り、泣きじゃくりながらヒスイを出迎える。さながら英雄の凱旋だ。
「すまない……、あの化け物は逃してしまった……」
「いい、いいんだ。ヒスイさんが無事ならそれで」
「おおい、手を貸してくれぇ! 怪我人を運んでくれないかぁ!」
 間を割るように、遠くから村人が声を張り上げる。
 物の怪が去っていったとはいえ、村の大部分は破壊され、被害も大きい。感傷に浸っている暇もなく、少しでも多くの人手が必要だった。
「オレも手伝う。案内してくれ」
 こうして、ヒスイは胸の内に絡まる得体の知れないソレを誤魔化すように、その日一日は村人の救助や復興にあたった。倒壊した家から怪我人を救ったり、瓦礫を撤去して安静にできる場所を確保したり。
 小さな村だったからこそ迅速に対応できたところもあるだろう。
 日が暮れる前には隣の村からも医者が駆けつけてきて、なんとか状況を落ち着かせるにまで至った。
 ※ ※ ※
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 翌日のこと。ヒスイは村の外れの山道を登っていた。その理由はもちろん、師匠に会うためだ。まだ昨日のことは夢か現か曖昧で、物の怪たちが残していった惨状は今も尚、村人たちに負の感情をまとわりつかせている。
 その一方で、昨日ヒスイが師匠の家で目撃したものは何だったのか。物の怪たちが現実だったのなら、あれもまた現実だったのだろうか。その答えを確認するべく、ヒスイはとうとう切り立った崖の近くに建つ、その家に辿り着く。
 いっそのこと、夢であってほしかった。このまま玄関を潜れば、いつものようにおっとりとした顔の師匠がいて、「どうして昨日は稽古に来なかったのですか」と訊かれるだけでいい。何もなかったのだと、ヒスイは自分に言い聞かせたかった。
 玄関の扉を開く。聞き馴染んだ軋り音とともに、ヒスイの重い足が歩を進める。
 師匠の姿は――そこにあった。いつものようなおっとりとした顔でいて、何処か少し、戸惑いを抑えたかのような表情。あまり普段は見せることのない、そんな顔。
「来ましたね、ヒスイ」
「師匠、どうしたんですか、そんな改まって」
 たじろぐヒスイの様子も気にせず、押し切るように師匠が言葉を続ける。
「もう隠し立てはしません。単刀直入に答えます。あなたが昨日見た狼の物の怪と私は同一のもの。言ってみれば、私は狼女といっても差し支えないでしょう」
「お……、狼、女……」
 師匠は堰を切る。それは突拍子もない言葉であり、それと同時に昨日の出来事の全てに信憑性を与えた。ヒスイにとってそうであってほしくなかった答えだ。
「ヒスイ。座りなさい。あなたに全てをお話しします」
 玄関の前で呆けていたヒスイはその一言でハッとして家に上がり込み、いつも説教を受けるような流れで師匠の前に腰を掛ける。それは反射的なものでもあった。
「まずは、ヒスイに訊ねましょう。昨日あなたの村を襲った大量の物の怪は何だと思いますか?」
「それは、ええと、山向こうを縄張りにする物の怪かと思います。以前、師匠に教えていただいた悪しき気に当てられた動物たちが変化した姿かと」
「その通り。よく覚えていましたね。ですが、山向こうが縄張りというのは実は少し違うのですよ」
 予想を外れた答えに、ヒスイも首を傾げる。
「あの物の怪の縄張りは、悪しき気があれば限りなどありません。そして、悪しき気というのは即ち穢れた気のこと。山向こうは元々戦場でした。多くの人間が殺し殺され死に絶えた地。そういう場所こそ、気は穢れていくものなのです」
 師匠はそこで、ふぅーと長い溜め息をつく。
「でも、師匠。山向こうが気の穢れた地だというならあの物の怪たちが人里に降りてくることもないんじゃ」
「いいえ、違います。穢れた悪しき気は時間とともに浄化されていきます。山向こうの戦場も、あと数十年もすれば清まることでしょう。ですが、悪しき気を糧とする物の怪たちにとっては不都合なのですよ」
「じゃ、じゃあ、だからあいつらは人里に降りてその土地を穢そうとしているのか……人間を殺して、新たな悪しき気の地を作るために……」
「察しが良いですね。さすが私の弟子です」
 そう言うや否や師匠は、あどけなく無垢な仕草でヒスイに抱きつく。幼児を甘やかすような所作は昔からだ。咄嗟にヒスイも顔を赤くし引き剥がして、押しのける。そんな一連の流れにも慣れてるのか、師匠も特に何も言うことなく、言葉を続けた。
「この事を打ち明けるのはもう少し後にと考えていたのですが……仕方ありません。あの物の怪たちは昨日初めて襲撃してきたわけではないのです」
「初めてでは、ない? だけどあんな物の怪の大群なんてこれまで一度も」
「ここ百年ほどは私が食い止めていましたからね」
 師匠は、ふふふと笑みを見せる。
「し、師匠が……? え? ひゃ、百年?」
 驚きのあまり、ヒスイは仰け反りそうになるも、体勢を整える。既にいくつか驚くべき話を突き付けられている。まだ混乱させられるのかとヒスイも身構えた。
「あなたの村が安全だったのは私が守っていたから。ですが、あなたもご存じの通り昨日は失敗してしまったのです。穢れた地も浄化されていけば物の怪たちも弱まっていくと思っていた私の誤算でしょう」
「あ、あの……師匠は一体今、年はいくつ――グェっ」
 そう問いかけようとしたヒスイの身体は強烈な打撃音を添えて宙を舞っていた。
「女性に年齢を尋ねるのは失礼ですよ、ヒスイ。――ともかく、あの戦場から漏れ出す悪しき気からは無数の物の怪が発生しているものですから、撃退こそできても退治まではできないのですよ」
 顎を押さえながらよれよれとヒスイが体勢を起こす。
「そんな! 師匠でさえ食い止められないなんて……これからあの村はどうしたら」
「ヒスイ。何故、私があなたをここまで鍛えてきたと思っているのですか?」
「え? まさかあの物の怪たちに対抗するために? でも……オレには無理でした。昨日も師匠が来なければ殺されていたかもしれません。不甲斐ない弟子です……」
 バチン。そんな弾く音とともに、今度はヒスイの身体が床を転がった。
 デコピンされたことに遅れて気付き、もう一度体勢を直す。
「そうですね。今のあなたでは無理でしょう。それは私が誰よりも分かっていることです。ですが、私にはあなたをもっと強くする方法があるのですよ」
「痛てて……もっと強くする方法? さらなる修行ですか?」
「いえ、簡単なことです。私は、狼の魂を喰らった狼女。この身には狼の気が宿り、狼の力を扱える物の怪。悪しき気、穢れた気に対抗することのできる数少ない崇高なる気なのですよ。この力をヒスイ――あなたに分け与える。そういうことです」
「そ、そんなことが……」
「いずれ時が来たらこのことを告白し、あなたには狼男となってもらい、あの悪しき気に取り憑かれた物の怪たちの退治を手伝ってもらおうと考えていたのです。まあ、予定よりも随分と早くなってしまいましたが」
 照れくさそうに、あるいは照れ隠しのように、ふっふっふ、と笑う。
「もちろん私は強制するつもりなどありません。そのように考えていただけのこと。たまたま拾った子が可愛かったものですから、鍛えてみて立派に成長したら選ばせるつもりでいました。あなたは私からしたらまだ未熟ですが、物の怪たちは私の想定よりも勢力を伸ばしています。ヒスイの意見を聞かせてください」
 強制するつもりはない、と師匠は答えたが、幼少期からヒスイの面倒を見てきたことを思い返せば、かなり長い目で見ていたことは明らかだった。それとも、百年以上を生きる狼女にとってはその程度の期間など一瞬だったのかもしれないが。
「そんなの今さら、ズルいじゃないですか師匠。ここでオレが断ったらどうするつもりなんですか」
「物の怪たちはこれまで通り、私が一人でどうにかします。あなたが望むのなら稽古もこれから付けて差し上げますよ」
 それは酷くあっけらかんとした答えだった。突き放されたような、あるいは試されているかのような答え。
 それでもそれは何の冗談でもないことはヒスイには分かった。それだけヒスイは師匠のことを傍で見てきたのだから。おそらくそれは本当に言葉通りなのだろう。
「分かりました、師匠。オレ、決めました。ここまで鍛えてもらった恩を返させてください。オレは誰かを守るために強くなりたい。だから狼の力をください」
「いいでしょう。このときを待っていました。たかだか二十年くらいですがね」
 意地悪っぽくクスリと笑うと、師匠は立ち上がり、部屋の奥へと移動する。
「ついてきなさい、ヒスイ。あなたに私の力を授けます」
「はい!」
 師匠に誘われるまま、ヒスイはついていく。するとその部屋は寝室だった。
 あまり招かれたことのない私室だ。
 あれだけ力強い返事で覚悟を決めておきながらも、ヒスイに緊張が走る。
「生きとし生けるもの全てには陰と陽の気が宿ります。先ほどは穢れた気と清らかな気と言いましたが、実は正確ではありません。陰と陽はそれぞれ相反する気。その二つが互いに中立に調和して魂は保たれているのです」
 説明しながらも、師匠は部屋のカーテンを閉め切り、闇を作り出す。
「その均衡が傾いたとき、魂は陰と陽のどちらかに喰われます。悪しき気とは、陰に傾いてしまった魂の残滓。他の物を腐食し、腐敗させる穢れた気です」
「では師匠は?」
「私は他の魂を取り込み、陰と陽との均衡が傾いた結果、人と狼の気が交ざり合った存在。不安定ではありますが、どちらかといえば陽の気ですね。生命力や活力が溢れる清らかな気。しかし、本質的には穢れた陰の気と変わりません」
「は、はぁー……?」
 ヒスイは今ひとつピンとこない呆けた顔をする。
「この力を授けるには、私とヒスイの魂を混ぜること。そうすることでヒスイの魂の均衡が傾き、狼の気を取り込むことができるでしょう」
「魂を混ぜるなんて、一体どうすれば?」
「簡単なこと。私とまぐわえばいいのです。肌と肌で触れ合い、互いの魂を寄せ合う。ただそれだけのこと」
 ヒスイはドキリとする。それは師匠の言葉にではない。師匠が身につけていた衣服を脱ぎ捨てたからだ。昨日も見たその裸体には傷一つなく、まさしく清らかな、生命力や活力が溢れている様がありありと見れた。
「ま、まぐわう……?」
「――嫌ですか? 私はあなたのことを一人の男として認めているつもりです。まだ未熟なところはありますが、それでも間違いなく好意は抱いていますよ」
 薄暗い部屋の中、白く細い四肢を晒しながら、扇情的に問う。
「オレは、師匠のことを嫌いだと思ったことは、ありません。ここまで育ててくれたことに感謝もしているし、それに尊敬も……」
「ヒスイ。あなたは私のことを一人の女として見れますか?」
 その問いかけにヒスイは即答することこそできなかったが、否定することもできなかった。何せ、長年慕っていた。また一人の女としても、意識していなかったといえばウソになる。ヒスイもまた師匠に対し、何かしらの感情を抱いていた。
「お、オレは師匠のことを……」
 答えを口にするよりも早く、ヒスイの足は師匠のいるその寝床に辿り着く。
 言葉が紡がれる前に、ヒスイは師匠にその身を預けていた。
 否、そのまま師匠を押し倒し、組み伏せるような格好になる。
 対する師匠は、何の抵抗をする気配も見せない。これがいつもの稽古だったのなら軽くいなされてしまうのに。今は、師弟の関係ではなく、ただの男女の関係。
 長年の積もってきた感情が溢れ出していくよう。
 そこから、もう言葉を口にする必要はなかった。
 吐息が交わるほどの至近距離で、互いの体温を感じあう。驚くほど柔らかく感じる肌と、筋肉質な肉体が触れ合い、そしてぶつかり合う。
 餌をねだる小鳥みたく啄むような優しい口づけを繰り返し、繰り返し、次第に激しく下を絡め合っていき、さらには身体ごと絡め合う。
 当初の目的は何だったのかも忘れてしまうほど。
 そうしてしばらく、二人は互いを求め合っていた。