銀色の狼
ー/ー 切り立った崖の上、雲をも見下ろせる山の端。その二人の男女は吐息が交わるほどの至近距離で拳を交わしていた。どうやら息が上がっているのは男の方だけのようで、女の方はまだ余裕を持っていなしている様子だ。
片や拳が空を切り、片や拳が容易く胴を突く。
どちらが優勢かなど一目瞭然、分かりきっていた。何度目かの女の拳が男の芯を捉えたところで、とうとう男は体をくの字に折り、地面に膝をつく。
「情けないですよ、ヒスイ」
女は腕を組み、にっこりとした表情で男――ヒスイを見下ろした。
「いやはや師匠の拳は相変わらず重い……痛つつ」
腹を抑え、吐き気を堪えながらヒスイがゆっくりと立ち上がる。
師匠と呼ばれた女は男一人をのした豪腕を思わせぬような静かな立ち振る舞いで、ふと山の向こうの方へと目を向ける。
「今日はこの辺にしておきましょう。日が暮れては山を降りるのも大変ですからね」
「あ……ありがとうございました!」
体勢を整えて、ヒスイは素晴らしく見事なお辞儀をする。もう少し歯向かってもいいくらいだったが、表情には微塵も出さない。
二人の関係は師弟だった。そして、ヒスイにとっては幼少期から面倒を見てもらっている姉のような存在でもあった。
彼女の指導があったからこそ、ヒスイは並大抵のことでは怯まない引き締まった堅牢な肉体を得ており、武道家として名乗るに恥じない武術も会得していた。
それでもなお、ヒスイは師匠の足元にも及ばない。
「それでは師匠。今日のところはお暇させていただきます。また明日も稽古のほど、よろしくお願いします」
「はい、明日も覚悟しておいてくださいね」
優しげに脅し文句のようなものも付け加え、笑みも見せる。
そんな師匠に見送られながら、ヒスイは山道を降りていった。
※ ※ ※
もう間もなくして日が暮れようとしている山道を、ヒスイは物思いに耽りながら辿っていく。痛みを堪えているということもあるが、その表情はやや曇っている。
その要因は何と言っても師匠のことだ。もう長いこと稽古の手合わせをしてもらっているが、こうも距離が縮まないものかと。
決してヒスイも日頃の鍛錬を怠ることなく、己を磨き続けているはずなのだが、いつまで経っても師匠を超えられるその自分の姿を想像できなかった。
それに何より、一つの疑問の種がヒスイの中に芽吹いていた。
ヒスイが師匠の下で修行を積むようになったのは幼少期の頃から。
そのときの記憶と、今日の記憶の師匠の姿が重なって見える。つまりは、ヒスイの記憶の中にある師匠の像は、いつまでも変わらないままなのだ。
ヒスイも二十代半ばを迎えようとしているが、一方の師匠は、いっそのこと今のヒスイより少し年上くらいの容姿だ。
師匠ほどのものともなれば、若さを維持する鍛錬や生活習慣も会得しているのかもしれない。そう自分に言い聞かせようとするが、やはりヒスイはそのえも言われぬ不可解さに首を傾げるばかりだった。
※ ※ ※
――ある日のこと。
早朝を告げる小鳥の囀りよりも早く、けたたましい喧騒がヒスイの耳についた。
「……何事だ?」
寝床を跳ね起き、家の窓から足を突き出して飛び立つ。
そこに広がるのは、いつものような平和な村の光景ではなかった。
空を見上げれば鷹よりもずっと大きな黒い鴉が飛来し、村の往来には猪頭をした二足歩行の化け物どもが襲撃してきていた。
村人たちは畑の鍬や棒きれを持って応戦するも、まるで子どもの抵抗かのように容易くはねのけられ、次第に逃げ惑う数の方が増えていく。
「な、なんでこんなところに……!」
ヒスイには化け物に心当たりがあった。
それは一つ山を越えた向こうを縄張りとする物の怪の類いだ。
悪しき気に取り憑かれた動物たちが変化したものとされており、獰猛ゆえにこの村でも誰も近寄らないようにしていた。
本来なら、悪しき気も時間とともに浄化され薄れていき、元の動物へと戻っていく。触れさえしなければ危険はないと昔から教わってきた。
そんな物の怪たちがよもや村まで降りてくるなんて予想だにしていなかった。
数も尋常ではない。元より、村人も総勢数十人ばかしだが、どう見ても相手はその数を超えている。戦うどころか、女子どもも多いこの村では、逃げるのも難しい。
「待てっ! オレが相手だ!」
ヒスイは考えるよりも早く地を蹴り、戦う意思の残っている村人に加勢する。
猪頭の化け物の腹に拳を叩きつけ、そのまま頭に蹴りを入れて後ずさりさせる。
ずでん、と一匹に尻餅をつかせるが、すかさず上空から大鴉が鉤爪を立てる。これをヒスイは横に身体を捻らせ、紙一重で躱し、大鴉の横っ面を肘打ちで撃墜。
「ぐはぁっ!?」
だが、その刹那、ヒスイの傍にいたはずの村人が血を吐いて倒れる。ハッと振り返ればそこには別の猪頭の化け物が棍棒を振り下ろしていた。
ヒスイも距離を置こうと二歩三歩跳ね退くが、そこには先ほど尻餅をつかせた猪頭が体勢を戻していたところだった。
「くっ……、数が多すぎる!」
前も後ろも、上さえももはや気を配っていられないほど。躱し躱し、攻撃に転じても事態は優勢にはならず、とうとうヒスイは壁を背に、追い詰められてしまう。
つい昨日まで平和だったはずの村。どうして突然襲撃されたのか。
何もかも分からず戸惑いを覚えずにはいられなかったが、握り固めた拳を下げず、ヒスイは命を賭す覚悟を決めようとした。
――そのときだ。
ヒスイの視界に、銀色の一閃が走る。
稲光のごとき俊足は、目の前にいた猪頭を数匹薙ぎ倒し、滑空してきた大鴉をも裂き、血の雨が地面を濡らす。何が起きたのかを理解するのに秒の時間を要した。
銀の逆立った毛並みがその正体を示していた。
化け物に囲まれていたヒスイの目の前に現われたのは、狼だった。
二本の足を地に着けた巨大な銀色の狼が、その爪を振るえば血飛沫とともに化け物どもが弾け、その牙を立てれば血肉ごと消失したかのような噛み痕を遺して化け物どもは次々に倒れていく。
「グルルルゥ……ッ!」
突如として現われた新しい化け物は、圧倒的な力を振るい、村を襲う化け物を撃退していった。しかし、多勢に無勢。いかに強靱であろうと、たった一匹の狼。
全ての攻撃をいなしきれるはずもなく、その身には棍棒の打撃も、鉤爪の斬撃も、少しずつ蓄積されていく。銀色の美しい狼が痛ましい姿に成り果てていく様を、ヒスイはただ呆然と眺めることしかできなかった。
下手に動こうものなら、自分が狼に引き裂かれかねないと思ったからだ。
池のような血溜まりができ、死骸の山が積もったところで、村を襲撃してきた物の怪たちはようやく自分たちの劣勢を悟ったのか、傷だらけの狼を前に退いていった。
狼の本意は分からない。もしかすると単なる縄張り争いに巻き込まれただけなのかもしれない。人の骨格を持つ狼の背を見ながら、ヒスイは次は自分が餌食になるのかと萎縮しかけ、思わず歯を食いしばる。
「……グルル」
ところがヒスイの思惑は外れ、狼は振り向きもせず、その場を立ち去っていく。
全身に傷を負っているとは思えない俊足で、瞬く間に消えようとしていた。
そのとき、ヒスイは何を思ったのか、その狼の背を追いかけていた。
手負いの化け物にトドメを刺そうとしたのか、はたまた化け物の逃げ帰った巣を突き止めようとしたのか。
何にしても、自分の住んでいた村を襲われて何もできないままの自分への不甲斐なさに急かされるように、狼の後を追う。
山道に差し掛かったところでヒスイは、しめたと思った。その先は村はずれ。切り立った崖になっていて逃げ場はない。あるのはせいぜい師匠の家くらいのもの。
あわよくば、師匠の手を借りることもできる。気配を悟られないよう足音も消し、絹の上を歩くような軽やかさで、距離を一定に保つ。
やがて山道を登り切り、狼は崖近くに辿り着く。ヒスイは隠れて様子を伺い、どうにかして師匠に合図を送れないか思索しようとしていた。
するとどうしたことか。狼は迷わず師匠の家の方へと足を進めていく。さすがにこれはまずいと思い、ヒスイも隠れるのを止め、飛び出していく。
狼が師匠の家の中に入るや否や、続くようにヒスイも足を踏み入れる。
そこでヒスイは目の前の光景にギョッとしてしまった。
何しろ、傷だらけの狼が床に倒れ込んでいたからだ。おそらく体力が尽きてしまったのだろうと容易に想像できたが、ヒスイはさらに驚くことになる。
体格のある狼はまるで萎んでいくかのように縮んでいき、分厚い体毛も枯れていくみたいに見る見るうちに消失していく。
ケダモノのような腕は細くなり、鋭い爪も荒々しい牙も、収縮して収まっていく。天日干しされて干からびる様を眺めているかの如く。
一体目の前で何が起こっているのか分からない。だが、その異様な変化が終えたとき、その床に倒れていたのは狼でもなければ木乃伊でもない。全身に傷を負った女性の裸体だった。それもあろうことか、ヒスイの師匠だ。
「し、師しょ……っ!?」
今度こそ、ヒスイは理解の限界を超え、思考停止してしまう。
血にまみれた白く、細い裸体が転がっているのだから。
大怪我を負い倒れる師匠を前にし、思わず駆け寄ろうとしたヒスイだったが、いかにも瀕死の重体と思わしき生々しい傷の数々が塞がっていくのが分かった。
まさか、と思った。村を襲撃した物の怪は人ならざるものだった。それを追い払った狼もまた得体の知れない化け物だった。
そして、今まさにヒスイの目の前に倒れているのは何か。そう、紛れもないヒスイの師匠。そこから導き出される答えは一つしかない。
あの狼の化け物の正体はヒスイの師匠だったのだと。
ヒスイには、もうどうするべきなのか分からなくなってしまった。
気を失っている化け物にトドメを刺すべきなのか。だが、あれは自分が姉のように慕っている師匠。かといって怪我がすぐに治ってしまうなら好機は今しかない。
どうするべきか、どうするべきなのか。
明白な答えをはじき出せなかったヒスイは困惑の面持ちのまま、あたかも何も見なかったことにするかのように家から抜け出し、混乱を振り切るよう、山道を駆け下りていった。
片や拳が空を切り、片や拳が容易く胴を突く。
どちらが優勢かなど一目瞭然、分かりきっていた。何度目かの女の拳が男の芯を捉えたところで、とうとう男は体をくの字に折り、地面に膝をつく。
「情けないですよ、ヒスイ」
女は腕を組み、にっこりとした表情で男――ヒスイを見下ろした。
「いやはや師匠の拳は相変わらず重い……痛つつ」
腹を抑え、吐き気を堪えながらヒスイがゆっくりと立ち上がる。
師匠と呼ばれた女は男一人をのした豪腕を思わせぬような静かな立ち振る舞いで、ふと山の向こうの方へと目を向ける。
「今日はこの辺にしておきましょう。日が暮れては山を降りるのも大変ですからね」
「あ……ありがとうございました!」
体勢を整えて、ヒスイは素晴らしく見事なお辞儀をする。もう少し歯向かってもいいくらいだったが、表情には微塵も出さない。
二人の関係は師弟だった。そして、ヒスイにとっては幼少期から面倒を見てもらっている姉のような存在でもあった。
彼女の指導があったからこそ、ヒスイは並大抵のことでは怯まない引き締まった堅牢な肉体を得ており、武道家として名乗るに恥じない武術も会得していた。
それでもなお、ヒスイは師匠の足元にも及ばない。
「それでは師匠。今日のところはお暇させていただきます。また明日も稽古のほど、よろしくお願いします」
「はい、明日も覚悟しておいてくださいね」
優しげに脅し文句のようなものも付け加え、笑みも見せる。
そんな師匠に見送られながら、ヒスイは山道を降りていった。
※ ※ ※
もう間もなくして日が暮れようとしている山道を、ヒスイは物思いに耽りながら辿っていく。痛みを堪えているということもあるが、その表情はやや曇っている。
その要因は何と言っても師匠のことだ。もう長いこと稽古の手合わせをしてもらっているが、こうも距離が縮まないものかと。
決してヒスイも日頃の鍛錬を怠ることなく、己を磨き続けているはずなのだが、いつまで経っても師匠を超えられるその自分の姿を想像できなかった。
それに何より、一つの疑問の種がヒスイの中に芽吹いていた。
ヒスイが師匠の下で修行を積むようになったのは幼少期の頃から。
そのときの記憶と、今日の記憶の師匠の姿が重なって見える。つまりは、ヒスイの記憶の中にある師匠の像は、いつまでも変わらないままなのだ。
ヒスイも二十代半ばを迎えようとしているが、一方の師匠は、いっそのこと今のヒスイより少し年上くらいの容姿だ。
師匠ほどのものともなれば、若さを維持する鍛錬や生活習慣も会得しているのかもしれない。そう自分に言い聞かせようとするが、やはりヒスイはそのえも言われぬ不可解さに首を傾げるばかりだった。
※ ※ ※
――ある日のこと。
早朝を告げる小鳥の囀りよりも早く、けたたましい喧騒がヒスイの耳についた。
「……何事だ?」
寝床を跳ね起き、家の窓から足を突き出して飛び立つ。
そこに広がるのは、いつものような平和な村の光景ではなかった。
空を見上げれば鷹よりもずっと大きな黒い鴉が飛来し、村の往来には猪頭をした二足歩行の化け物どもが襲撃してきていた。
村人たちは畑の鍬や棒きれを持って応戦するも、まるで子どもの抵抗かのように容易くはねのけられ、次第に逃げ惑う数の方が増えていく。
「な、なんでこんなところに……!」
ヒスイには化け物に心当たりがあった。
それは一つ山を越えた向こうを縄張りとする物の怪の類いだ。
悪しき気に取り憑かれた動物たちが変化したものとされており、獰猛ゆえにこの村でも誰も近寄らないようにしていた。
本来なら、悪しき気も時間とともに浄化され薄れていき、元の動物へと戻っていく。触れさえしなければ危険はないと昔から教わってきた。
そんな物の怪たちがよもや村まで降りてくるなんて予想だにしていなかった。
数も尋常ではない。元より、村人も総勢数十人ばかしだが、どう見ても相手はその数を超えている。戦うどころか、女子どもも多いこの村では、逃げるのも難しい。
「待てっ! オレが相手だ!」
ヒスイは考えるよりも早く地を蹴り、戦う意思の残っている村人に加勢する。
猪頭の化け物の腹に拳を叩きつけ、そのまま頭に蹴りを入れて後ずさりさせる。
ずでん、と一匹に尻餅をつかせるが、すかさず上空から大鴉が鉤爪を立てる。これをヒスイは横に身体を捻らせ、紙一重で躱し、大鴉の横っ面を肘打ちで撃墜。
「ぐはぁっ!?」
だが、その刹那、ヒスイの傍にいたはずの村人が血を吐いて倒れる。ハッと振り返ればそこには別の猪頭の化け物が棍棒を振り下ろしていた。
ヒスイも距離を置こうと二歩三歩跳ね退くが、そこには先ほど尻餅をつかせた猪頭が体勢を戻していたところだった。
「くっ……、数が多すぎる!」
前も後ろも、上さえももはや気を配っていられないほど。躱し躱し、攻撃に転じても事態は優勢にはならず、とうとうヒスイは壁を背に、追い詰められてしまう。
つい昨日まで平和だったはずの村。どうして突然襲撃されたのか。
何もかも分からず戸惑いを覚えずにはいられなかったが、握り固めた拳を下げず、ヒスイは命を賭す覚悟を決めようとした。
――そのときだ。
ヒスイの視界に、銀色の一閃が走る。
稲光のごとき俊足は、目の前にいた猪頭を数匹薙ぎ倒し、滑空してきた大鴉をも裂き、血の雨が地面を濡らす。何が起きたのかを理解するのに秒の時間を要した。
銀の逆立った毛並みがその正体を示していた。
化け物に囲まれていたヒスイの目の前に現われたのは、狼だった。
二本の足を地に着けた巨大な銀色の狼が、その爪を振るえば血飛沫とともに化け物どもが弾け、その牙を立てれば血肉ごと消失したかのような噛み痕を遺して化け物どもは次々に倒れていく。
「グルルルゥ……ッ!」
突如として現われた新しい化け物は、圧倒的な力を振るい、村を襲う化け物を撃退していった。しかし、多勢に無勢。いかに強靱であろうと、たった一匹の狼。
全ての攻撃をいなしきれるはずもなく、その身には棍棒の打撃も、鉤爪の斬撃も、少しずつ蓄積されていく。銀色の美しい狼が痛ましい姿に成り果てていく様を、ヒスイはただ呆然と眺めることしかできなかった。
下手に動こうものなら、自分が狼に引き裂かれかねないと思ったからだ。
池のような血溜まりができ、死骸の山が積もったところで、村を襲撃してきた物の怪たちはようやく自分たちの劣勢を悟ったのか、傷だらけの狼を前に退いていった。
狼の本意は分からない。もしかすると単なる縄張り争いに巻き込まれただけなのかもしれない。人の骨格を持つ狼の背を見ながら、ヒスイは次は自分が餌食になるのかと萎縮しかけ、思わず歯を食いしばる。
「……グルル」
ところがヒスイの思惑は外れ、狼は振り向きもせず、その場を立ち去っていく。
全身に傷を負っているとは思えない俊足で、瞬く間に消えようとしていた。
そのとき、ヒスイは何を思ったのか、その狼の背を追いかけていた。
手負いの化け物にトドメを刺そうとしたのか、はたまた化け物の逃げ帰った巣を突き止めようとしたのか。
何にしても、自分の住んでいた村を襲われて何もできないままの自分への不甲斐なさに急かされるように、狼の後を追う。
山道に差し掛かったところでヒスイは、しめたと思った。その先は村はずれ。切り立った崖になっていて逃げ場はない。あるのはせいぜい師匠の家くらいのもの。
あわよくば、師匠の手を借りることもできる。気配を悟られないよう足音も消し、絹の上を歩くような軽やかさで、距離を一定に保つ。
やがて山道を登り切り、狼は崖近くに辿り着く。ヒスイは隠れて様子を伺い、どうにかして師匠に合図を送れないか思索しようとしていた。
するとどうしたことか。狼は迷わず師匠の家の方へと足を進めていく。さすがにこれはまずいと思い、ヒスイも隠れるのを止め、飛び出していく。
狼が師匠の家の中に入るや否や、続くようにヒスイも足を踏み入れる。
そこでヒスイは目の前の光景にギョッとしてしまった。
何しろ、傷だらけの狼が床に倒れ込んでいたからだ。おそらく体力が尽きてしまったのだろうと容易に想像できたが、ヒスイはさらに驚くことになる。
体格のある狼はまるで萎んでいくかのように縮んでいき、分厚い体毛も枯れていくみたいに見る見るうちに消失していく。
ケダモノのような腕は細くなり、鋭い爪も荒々しい牙も、収縮して収まっていく。天日干しされて干からびる様を眺めているかの如く。
一体目の前で何が起こっているのか分からない。だが、その異様な変化が終えたとき、その床に倒れていたのは狼でもなければ木乃伊でもない。全身に傷を負った女性の裸体だった。それもあろうことか、ヒスイの師匠だ。
「し、師しょ……っ!?」
今度こそ、ヒスイは理解の限界を超え、思考停止してしまう。
血にまみれた白く、細い裸体が転がっているのだから。
大怪我を負い倒れる師匠を前にし、思わず駆け寄ろうとしたヒスイだったが、いかにも瀕死の重体と思わしき生々しい傷の数々が塞がっていくのが分かった。
まさか、と思った。村を襲撃した物の怪は人ならざるものだった。それを追い払った狼もまた得体の知れない化け物だった。
そして、今まさにヒスイの目の前に倒れているのは何か。そう、紛れもないヒスイの師匠。そこから導き出される答えは一つしかない。
あの狼の化け物の正体はヒスイの師匠だったのだと。
ヒスイには、もうどうするべきなのか分からなくなってしまった。
気を失っている化け物にトドメを刺すべきなのか。だが、あれは自分が姉のように慕っている師匠。かといって怪我がすぐに治ってしまうなら好機は今しかない。
どうするべきか、どうするべきなのか。
明白な答えをはじき出せなかったヒスイは困惑の面持ちのまま、あたかも何も見なかったことにするかのように家から抜け出し、混乱を振り切るよう、山道を駆け下りていった。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
切り立った崖の上、雲をも見下ろせる山の端。その二人の男女は吐息が交わるほどの至近距離で拳を交わしていた。どうやら息が上がっているのは男の方だけのようで、女の方はまだ余裕を持っていなしている様子だ。
片や拳が空を切り、片や拳が容易く胴を突く。
どちらが優勢かなど一目瞭然、分かりきっていた。何度目かの女の拳が男の芯を捉えたところで、とうとう男は体をくの字に折り、地面に膝をつく。
どちらが優勢かなど一目瞭然、分かりきっていた。何度目かの女の拳が男の芯を捉えたところで、とうとう男は体をくの字に折り、地面に膝をつく。
「情けないですよ、ヒスイ」
女は腕を組み、にっこりとした表情で男――ヒスイを見下ろした。
「いやはや師匠の拳は相変わらず重い……痛つつ」
腹を抑え、吐き気を堪えながらヒスイがゆっくりと立ち上がる。
師匠と呼ばれた女は男一人をのした豪腕を思わせぬような静かな立ち振る舞いで、ふと山の向こうの方へと目を向ける。
師匠と呼ばれた女は男一人をのした豪腕を思わせぬような静かな立ち振る舞いで、ふと山の向こうの方へと目を向ける。
「今日はこの辺にしておきましょう。日が暮れては山を降りるのも大変ですからね」
「あ……ありがとうございました!」
「あ……ありがとうございました!」
体勢を整えて、ヒスイは素晴らしく見事なお辞儀をする。もう少し歯向かってもいいくらいだったが、表情には微塵も出さない。
二人の関係は師弟だった。そして、ヒスイにとっては幼少期から面倒を見てもらっている姉のような存在でもあった。
彼女の指導があったからこそ、ヒスイは並大抵のことでは怯まない引き締まった堅牢な肉体を得ており、武道家として名乗るに恥じない武術も会得していた。
それでもなお、ヒスイは師匠の足元にも及ばない。
それでもなお、ヒスイは師匠の足元にも及ばない。
「それでは師匠。今日のところはお暇させていただきます。また明日も稽古のほど、よろしくお願いします」
「はい、明日も覚悟しておいてくださいね」
「はい、明日も覚悟しておいてくださいね」
優しげに脅し文句のようなものも付け加え、笑みも見せる。
そんな師匠に見送られながら、ヒスイは山道を降りていった。
そんな師匠に見送られながら、ヒスイは山道を降りていった。
※ ※ ※
もう間もなくして日が暮れようとしている山道を、ヒスイは物思いに耽りながら辿っていく。痛みを堪えているということもあるが、その表情はやや曇っている。
その要因は何と言っても師匠のことだ。もう長いこと稽古の手合わせをしてもらっているが、こうも距離が縮まないものかと。
決してヒスイも日頃の鍛錬を怠ることなく、己を磨き続けているはずなのだが、いつまで経っても師匠を超えられるその自分の姿を想像できなかった。
それに何より、一つの疑問の種がヒスイの中に芽吹いていた。
ヒスイが師匠の下で修行を積むようになったのは幼少期の頃から。
ヒスイが師匠の下で修行を積むようになったのは幼少期の頃から。
そのときの記憶と、今日の記憶の師匠の姿が重なって見える。つまりは、ヒスイの記憶の中にある師匠の像は、いつまでも変わらないままなのだ。
ヒスイも二十代半ばを迎えようとしているが、一方の師匠は、いっそのこと今のヒスイより少し年上くらいの容姿だ。
師匠ほどのものともなれば、若さを維持する鍛錬や生活習慣も会得しているのかもしれない。そう自分に言い聞かせようとするが、やはりヒスイはそのえも言われぬ不可解さに首を傾げるばかりだった。
※ ※ ※
――ある日のこと。
早朝を告げる小鳥の囀りよりも早く、けたたましい喧騒がヒスイの耳についた。
「……何事だ?」
寝床を跳ね起き、家の窓から足を突き出して飛び立つ。
そこに広がるのは、いつものような平和な村の光景ではなかった。
空を見上げれば鷹よりもずっと大きな黒い鴉が飛来し、村の往来には猪頭をした二足歩行の化け物どもが襲撃してきていた。
空を見上げれば鷹よりもずっと大きな黒い鴉が飛来し、村の往来には猪頭をした二足歩行の化け物どもが襲撃してきていた。
村人たちは畑の鍬や棒きれを持って応戦するも、まるで子どもの抵抗かのように容易くはねのけられ、次第に逃げ惑う数の方が増えていく。
「な、なんでこんなところに……!」
ヒスイには化け物に心当たりがあった。
それは一つ山を越えた向こうを縄張りとする物の怪の類いだ。
それは一つ山を越えた向こうを縄張りとする物の怪の類いだ。
悪しき気に取り憑かれた動物たちが変化したものとされており、獰猛ゆえにこの村でも誰も近寄らないようにしていた。
本来なら、悪しき気も時間とともに浄化され薄れていき、元の動物へと戻っていく。触れさえしなければ危険はないと昔から教わってきた。
本来なら、悪しき気も時間とともに浄化され薄れていき、元の動物へと戻っていく。触れさえしなければ危険はないと昔から教わってきた。
そんな物の怪たちがよもや村まで降りてくるなんて予想だにしていなかった。
数も尋常ではない。元より、村人も総勢数十人ばかしだが、どう見ても相手はその数を超えている。戦うどころか、女子どもも多いこの村では、逃げるのも難しい。
数も尋常ではない。元より、村人も総勢数十人ばかしだが、どう見ても相手はその数を超えている。戦うどころか、女子どもも多いこの村では、逃げるのも難しい。
「待てっ! オレが相手だ!」
ヒスイは考えるよりも早く地を蹴り、戦う意思の残っている村人に加勢する。
猪頭の化け物の腹に拳を叩きつけ、そのまま頭に蹴りを入れて後ずさりさせる。
ずでん、と一匹に尻餅をつかせるが、すかさず上空から大鴉が鉤爪を立てる。これをヒスイは横に身体を捻らせ、紙一重で躱し、大鴉の横っ面を肘打ちで撃墜。
ずでん、と一匹に尻餅をつかせるが、すかさず上空から大鴉が鉤爪を立てる。これをヒスイは横に身体を捻らせ、紙一重で躱し、大鴉の横っ面を肘打ちで撃墜。
「ぐはぁっ!?」
だが、その刹那、ヒスイの傍にいたはずの村人が血を吐いて倒れる。ハッと振り返ればそこには別の猪頭の化け物が棍棒を振り下ろしていた。
ヒスイも距離を置こうと二歩三歩跳ね退くが、そこには先ほど尻餅をつかせた猪頭が体勢を戻していたところだった。
「くっ……、数が多すぎる!」
前も後ろも、上さえももはや気を配っていられないほど。躱し躱し、攻撃に転じても事態は優勢にはならず、とうとうヒスイは壁を背に、追い詰められてしまう。
つい昨日まで平和だったはずの村。どうして突然襲撃されたのか。
何もかも分からず戸惑いを覚えずにはいられなかったが、握り固めた拳を下げず、ヒスイは命を賭す覚悟を決めようとした。
――そのときだ。
ヒスイの視界に、銀色の一閃が走る。
稲光のごとき俊足は、目の前にいた猪頭を数匹薙ぎ倒し、滑空してきた大鴉をも裂き、血の雨が地面を濡らす。何が起きたのかを理解するのに秒の時間を要した。
稲光のごとき俊足は、目の前にいた猪頭を数匹薙ぎ倒し、滑空してきた大鴉をも裂き、血の雨が地面を濡らす。何が起きたのかを理解するのに秒の時間を要した。
銀の逆立った毛並みがその正体を示していた。
化け物に囲まれていたヒスイの目の前に現われたのは、狼だった。
化け物に囲まれていたヒスイの目の前に現われたのは、狼だった。
二本の足を地に着けた巨大な銀色の狼が、その爪を振るえば血飛沫とともに化け物どもが弾け、その牙を立てれば血肉ごと消失したかのような噛み痕を遺して化け物どもは次々に倒れていく。
「グルルルゥ……ッ!」
突如として現われた新しい化け物は、圧倒的な力を振るい、村を襲う化け物を撃退していった。しかし、多勢に無勢。いかに強靱であろうと、たった一匹の狼。
全ての攻撃をいなしきれるはずもなく、その身には棍棒の打撃も、鉤爪の斬撃も、少しずつ蓄積されていく。銀色の美しい狼が痛ましい姿に成り果てていく様を、ヒスイはただ呆然と眺めることしかできなかった。
下手に動こうものなら、自分が狼に引き裂かれかねないと思ったからだ。
池のような血溜まりができ、死骸の山が積もったところで、村を襲撃してきた物の怪たちはようやく自分たちの劣勢を悟ったのか、傷だらけの狼を前に退いていった。
池のような血溜まりができ、死骸の山が積もったところで、村を襲撃してきた物の怪たちはようやく自分たちの劣勢を悟ったのか、傷だらけの狼を前に退いていった。
狼の本意は分からない。もしかすると単なる縄張り争いに巻き込まれただけなのかもしれない。人の骨格を持つ狼の背を見ながら、ヒスイは次は自分が餌食になるのかと萎縮しかけ、思わず歯を食いしばる。
「……グルル」
ところがヒスイの思惑は外れ、狼は振り向きもせず、その場を立ち去っていく。
全身に傷を負っているとは思えない俊足で、瞬く間に消えようとしていた。
そのとき、ヒスイは何を思ったのか、その狼の背を追いかけていた。
そのとき、ヒスイは何を思ったのか、その狼の背を追いかけていた。
手負いの化け物にトドメを刺そうとしたのか、はたまた化け物の逃げ帰った巣を突き止めようとしたのか。
何にしても、自分の住んでいた村を襲われて何もできないままの自分への不甲斐なさに急かされるように、狼の後を追う。
何にしても、自分の住んでいた村を襲われて何もできないままの自分への不甲斐なさに急かされるように、狼の後を追う。
山道に差し掛かったところでヒスイは、しめたと思った。その先は村はずれ。切り立った崖になっていて逃げ場はない。あるのはせいぜい師匠の家くらいのもの。
あわよくば、師匠の手を借りることもできる。気配を悟られないよう足音も消し、絹の上を歩くような軽やかさで、距離を一定に保つ。
やがて山道を登り切り、狼は崖近くに辿り着く。ヒスイは隠れて様子を伺い、どうにかして師匠に合図を送れないか思索しようとしていた。
するとどうしたことか。狼は迷わず師匠の家の方へと足を進めていく。さすがにこれはまずいと思い、ヒスイも隠れるのを止め、飛び出していく。
狼が師匠の家の中に入るや否や、続くようにヒスイも足を踏み入れる。
そこでヒスイは目の前の光景にギョッとしてしまった。
そこでヒスイは目の前の光景にギョッとしてしまった。
何しろ、傷だらけの狼が床に倒れ込んでいたからだ。おそらく体力が尽きてしまったのだろうと容易に想像できたが、ヒスイはさらに驚くことになる。
体格のある狼はまるで萎んでいくかのように縮んでいき、分厚い体毛も枯れていくみたいに見る見るうちに消失していく。
ケダモノのような腕は細くなり、鋭い爪も荒々しい牙も、収縮して収まっていく。天日干しされて干からびる様を眺めているかの如く。
一体目の前で何が起こっているのか分からない。だが、その異様な変化が終えたとき、その床に倒れていたのは狼でもなければ木乃伊でもない。全身に傷を負った女性の裸体だった。それもあろうことか、ヒスイの師匠だ。
「し、師しょ……っ!?」
今度こそ、ヒスイは理解の限界を超え、思考停止してしまう。
血にまみれた白く、細い裸体が転がっているのだから。
血にまみれた白く、細い裸体が転がっているのだから。
大怪我を負い倒れる師匠を前にし、思わず駆け寄ろうとしたヒスイだったが、いかにも瀕死の重体と思わしき生々しい傷の数々が塞がっていくのが分かった。
まさか、と思った。村を襲撃した物の怪は人ならざるものだった。それを追い払った狼もまた得体の知れない化け物だった。
そして、今まさにヒスイの目の前に倒れているのは何か。そう、紛れもないヒスイの師匠。そこから導き出される答えは一つしかない。
あの狼の化け物の正体はヒスイの師匠だったのだと。
ヒスイには、もうどうするべきなのか分からなくなってしまった。
気を失っている化け物にトドメを刺すべきなのか。だが、あれは自分が姉のように慕っている師匠。かといって怪我がすぐに治ってしまうなら好機は今しかない。
気を失っている化け物にトドメを刺すべきなのか。だが、あれは自分が姉のように慕っている師匠。かといって怪我がすぐに治ってしまうなら好機は今しかない。
どうするべきか、どうするべきなのか。
明白な答えをはじき出せなかったヒスイは困惑の面持ちのまま、あたかも何も見なかったことにするかのように家から抜け出し、混乱を振り切るよう、山道を駆け下りていった。
明白な答えをはじき出せなかったヒスイは困惑の面持ちのまま、あたかも何も見なかったことにするかのように家から抜け出し、混乱を振り切るよう、山道を駆け下りていった。