麻弥
ー/ー西暦2317年12月24日。キリスト教は衰退していたが、その夜は聖なる気配を漂わせていた。
キャンパスに雪が降り積もり、点在する松明の火が、おぼろげな銀世界に揺れていた。
ひとりの老人がベンチに座り、年老いた黒猫を膝に乗せていた。
「今日でお別れだ。お前の世話は、学生たちに頼んでおくから心配するな」
黒猫は目を閉じたまま、静かに撫でられていた。
その頃、講堂は熱気に包まれていた。その講義には在籍する学生のほか、過去数十年にわたる卒業生までもが駆けつけていた。
定刻になると、年老いた教授がゆっくりとした足取りで現れた。通算百年にも及ぶ教職を辞すその姿に、会場が静まり帰る。
皆が立ち上がって挨拶をしようとすると、老人はそれを制し、ステージに据えられた椅子に腰掛けた。
「今晩は。こうして君たちの顔を見ることができ、私はとても嬉しい。実に懐かしい顔ぶれだ。
ああ、そこの君。君は授業中よく眠っていたが、今日は大丈夫か? 今夜は君の孫も来ているから、この辺でやめておくよ。
それと、そこの君。君はいつも彼女の顔ばかり見ていたが、今日は集中できそうか? 隣にいるのは彼女だろ。君は相変わらず綺麗だな。なに? もっと大きな声で言ってくれ。もう七十になる? 七十なんてまだ子供さ。人生はこれからだよ。
さて、今日は最後の講義なので、誰もが知っている偉人の半生を振り返る。我らが女神の伝説は、テクノロジーでは伝え切れない。なぜなら、女神の声は、悠久の過去から遥か未来まで響くからだ」
老人はグラスの水で喉を潤す。
「美味しいなあ。水を飲むたびに思うんだ。生まれて良かったと。では講義を始めるが、どうか最後まで、この老人に付き合ってほしい。
時は二十一世紀の初頭。我らの女神が生まれる二世紀前のことだ。世界はいつの間にか、一つの意志に支配されていた。
時は西暦2123年に跳ぶ。その頃にはもう、統一政府なるものが樹立されていた。
その年のクリスマス、奇妙な実験の様子が生中継されていた。その成否に世界が注目していたそうだ。
手術台に固定された囚人に注射針を突き刺すと、囚人は意識を失い、気づけば従順な市民となっていたという。
得体の知れない成功に人々は歓喜し、花火が夜空を埋め尽くした。
私はその映像を何度も見返した。完全なる幸福を手に入れた人々は、盛大にクリスマスを祝い、新年を迎えたんだ。」
老人はそこで深く溜め息をつく。
「花火、笑顔、画期的な注射。だがな、あの祝祭に不安の顔は一つも映っていなかった。逆にそれが異様だった。」
老人はグラスの水を一口飲むと、また話し始める。
「ただな、完全なる幸福とやらを手に入れてから一世紀過ぎても、人類には克服できない問題があったんだ。
それは進化だ。人類はそれを止めることができなかった。稀に「超人」と呼ばれる者が生まれた。人類にとって、進化は危険であり、超人は不穏な存在でしかなかったんだ。
進化とは自然の摂理だ。それを止めるなんて馬鹿げてる。なぜ、おかしいと思わなかったんだ。」
ここで老人はまた水を飲み、講義を聞いている学生たちに告げる。
「珍しく今日はみんな起きてるな。さて、ここからは一人の父親の話だ。
もっとも、彼が英雄かどうかは意見が分かれるところだ。でも私は、プルタルコスの英雄伝に、彼を加えたいくらいだ。我らの父とも言える人だからな。では続きを話そう。
時は西暦2223年の一月。ひとりの学者が書斎で考え事をしていた。彼の名は雄二。彼は進化を警戒することに疑問を感じていた。進化を絶たれた種は絶滅すると考えていたんだ。
彼は高層マンションの最上階に住み、独身貴族を満喫していた。
彼は古代ギリシャの賢者シレノスの伝説に魅了されていた。シレノスは酒と歌を愛し、半人半獣の姿をしていたと伝えられる。
ミダス王はシレノスを森の中で追い回し、ついに捕まえると言った。
『ディオニュソスの従者シレノスよ。人にとっての最善はなんだ?』
シレノスは何も言わない。
『魔性の輩め。答えねば殺すぞ』
シレノスは腹を抱えて笑った。
『哀れカゲロウの生をうけし輩よ。汝にとって聞かぬが良いことを、なぜ強いて語らせるのだ。汝にとっての最善は叶うまじきこと。生まれぬことだ。だが喜ぶが良い。汝にとっての次善は、間もなく死ぬことだ』
雄二は他にも謎めいた伝説を知っていた。
シレノスは、水と火の女神アプロディーテーと会話ができたと言う。
その女神は時空を超えて運命をつかさどり、ときに未来から警告を与えたと伝えられる。
人間よ。おごり高ぶるな。身のほどを知れと。
シレノスの他に女神と話せる者は、水の哲学者ターレス、火の哲学者ヘラクレイトス、賢者ソクラテスの三人のみ。
『汝自身を知れ』と説いたソクラテスが、毒杯を飲まされた話は有名だな。
雄二は頭を悩ませていた。シレノスは、なぜ人類を否定するんだと。
そのとき考古学者である親友が訪ねてきた。発掘調査から戻ったその足で会いに来たんだ。
雄二は友を招き入れると、用事を聞きもせず、自分の疑問をぶつけた。
『いいところに来てくれた。お前、古代ギリシャに詳しかったよな。シレノスがミダス王に言った言葉をどう解釈している?』
『あれは、要するにヘラクレイトスの哲学だ』
『ヘラクレイトス?』
『万物流転を唱えた哲学者だ』
『万物流転?』
『世界は変化し続ける。火みたいにな』
『具体的に言ってくれ』
『平家物語は知ってるだろ』
『知ってるよ。それで?』
『おごれる者も久しからず、ただ春の夜の夢のごとしってやつだ』
『俺は真面目に聞いてるんだ』
『もういいだろ。それより、お前に頼みがあるんだ』
彼はそう言うと、声をひそめて話し始めた。
『実はな、マヤの遺跡で女のミイラを発見したんだ』
彼はタブレットを開くと、石棺に刻まれている象形文字を拡大して見せた。
『氷の世界から来た女神、と書いてあるんだ』
『大発見じゃないか』
『驚くのはまだ早い。俺はミイラの腹部から検出した卵子を培養液に浸した。すると不思議なエネルギーが放出された。そのエネルギーの素粒子は、光速の2乗の速度で放出されていたんだ』
『そんなの、あり得ない』
『何度分析しても結果は同じだ。俺は直感したね。アインシュタインが娘リーゼルに話した「愛の力」だと。アインシュタインは、その時代では存在を証明できないから、未来の人間にそれを託した。その未来の人間とは、俺たちじゃないかと思うんだ』
『何が言いたい?』
『まあ聞け。お前、結婚は嫌だけど、子供は欲しいって言ってたよな』
『だからなんだ?』
『窓を開けてくれ。土産があるんだ』
天窓が開くと、戦闘用ドローンに警護された一機のドローンが、強風に煽られながら入ってきた。
『現地から直接空輸したんだ。持ち歩くのは危険だからな』
ドローンはゆっくりと降下し、小さなガラスの容器を応接机に立てた。
『なんだよ。それ?』
『女神の卵子だ』
親友がタブレットに触れると、まばゆい美女たちが映し出された。それは選りすぐりの代理母たちだ。
その社会では、男は卵子を、女は精子を選択し、好みの相手と交わることがあったそうだ。男は美女と、女は美男と楽しみながら子作りをすることが流行っていたんだ。
親友は雄二に言った。
『費用はこっちで持つから、好きな女を選べよ』
『俺に女神の子の父になれと?』
『まあ、そういうことだ』
『愛の力を誕生させて、アインシュタインの仮説を証明するつもりか?』
『悪い話じゃないだろ?』
『その力が人類の脅威になったらどうする?』
『わかっているだろ』
『俺が罪を犯せばいいと?』
『すまんな』
『わかったよ。そのときは子供と一緒に死んでやるさ』
雄二はとんでもなく美しい代理母を選んだ。女神の卵子を子宮に注入された代理母は、彼に一回抱かれて妊娠をしたそうだ。
その年の年末、無数のドローンに警護された一機のドローンが、女の赤子を雄二のもとに届けた。
麻弥(まや)と名付けられた赤子は、いつまで経っても眠っていたが、三歳の誕生日に突然目を開けて喋りだした。
やがて雄二は娘に不思議な力があることに気づく。彼女が枯れた植木に水をやると、すぐに葉が青々と蘇ったそうだ。
彼は娘が七歳になると代理出産のことを話したが、卵子の出どころは伏せていた。
やがて麻弥が超人だと判明した。雄二は薄々予感していたようだが、やはり驚きを隠せなかったらしい。
医師は突然変異と診断し、最新式のチップが見守っているから心配ないと言った。
すべての子供が小学校入学時に、最新式のナノチップを接種された。旧式とは違い、最新式は思考を制御できた。
子供が考えようとすると頭痛が起こり、「考えるより従え」が教育方針となった。そして大人たちは、それを健全と呼んだ。
小学生になっても麻弥に特別な能力は見当たらず、大人も参加する絵画コンクールで賞をとった以外は、普通の子供と何も変わらなかった。
彼女がコンクールで賞を取れば、一流のレストランでお祝いをした。
芸大が主催するコンクールで金賞をとった日の晩、父と娘は豪華なフランス料理を楽しんでいた。
『大学生でも麻弥には敵わないな。さあ好きな物を注文しなさい』
雄二はそう言うと、娘にタブレットを渡した。
『お父さん、旅行に行きたい』
『どこへ?』
麻弥はレストランの壁に飾ってある絵画を指差した。彼女のお気に入りの絵。モネの「プールヴィルの断崖」だ。
晩餐を終えて帰宅すると、ふたりは早速バカンスに出発する。
バーチャル疑似体験装置は全身の細胞を自在に操り、そよ風や花の香りまで再現した。現実と仮象の判別は不可能だ。
その装置は、父と娘を瞬時に十九世紀のフランスに送り届けた。気づくと親子はホテルのオープンテラスで昼食をとっていた。
雄二がブイヤベースをひとさじ飲むと、海の香りが口の中に広がった。料理はどれも絶品だが、麻弥は少し口をつけてフォークを置いた。
『麻弥。美味しくないの?』
美味しくないはずがない。ナノチップが好みの味を再現するのだから。
昼食を終えると、ふたりは海岸沿いを散歩する。眼下に広がる青い海。真っ白な浜辺。潮風が海の香りを運んでくる。
バーチャル疑似体験装置は、モネの世界を完璧に再現する。
白波が打ちよせ、潮風が麻弥の髪を乱す。美しい世界だったことだろう。
だが麻弥は断崖の縁に立ち、涙をこぼした。
『麻弥。どうしたの?』
『お父さん。ごめんなさい』
彼女は断崖から身を投げた。安全装置が作動して現実に戻ると、雄二は倒れている娘を抱き起こした。
『大丈夫か』
彼女は父の胸で泣き続けたんだ。
麻弥は思春期を迎えると、体中に痛みを感じ、炎症に苦しみ出す。肌は赤黒く変色し、体温は常に40度を超えた。急激な進化が始まり、彼女の肉体が戦場と化したんだ。
雄二は入院を勧めたが、麻弥は断固として拒否した。
最新式のチップは脳を制御し、超人でもコントロールを逃れることはできない。だが彼女はチップとの闘争に打ち勝ち、遂にそれを支配下に置いたんだ。
麻弥は中学への入学と同時に大学への進学を認められた。だが彼女は学業を愛してはいなかった。理論や計算なんてつまらない。彼女が愛したのは絵と音楽だけだ。
彼女が描いた油絵は美術雑誌の表紙を飾り、ピアノの腕前はプロを凌駕していた。
エントランスホールで開かれる演奏会では、楽譜を一目見ただけでショパンを弾きこなし、プロのピアニストを驚かせたそうだ。
しかし、安全保障局のソフィアというAIは、全く違う評価を下した。
聴衆の脳波を分析したソフィアは、麻弥の旋律には本能を呼び覚ます力があり、社会に害を及ぼすと警告したんだ。
中学では、クラスの誰もが麻弥と友人になりたがり、何人もの生徒がそばから離れなくなる。
『麻弥の絵、すごい素敵』
『ほんと天才だよ』
『麻弥、あたしにピアノを教えて』
麻弥はナノチップを操り、笑っている親友の心を覗く。友の額の向こう側に意識を集中すると、身も凍るような映像が浮かび上がった。
麻弥は吹雪の中に立っており、目の前にコンクリートの要塞が建っていた。
門を開けて正面から入ると、冷えびえとした廊下が暗闇に向かって伸びていた。
彼女は暗黒に向かって歩く。両側が鉄格子になっており、一番奥の牢屋に親友がいた。
壁にもたれて座っている親友に、『なぜ、こんなとこにいるの?』と聞くと、彼女は立ち上がり、麻弥の目の前に立った。
『あたしも超人だったのよ。でも今は操り人形。それでいいの。そのほうが幸せだから』
彼女は鉄格子から腕を伸ばして麻弥を抱きしめ、その唇に唇を重ねた。
『麻弥。ずっと友達だよね』
麻弥が悲鳴を上げて目を覚ますと、そこは保健室のベッドの上だった。
『麻弥。大丈夫?』
『どうしたの? 悲鳴なんて上げて』
『悩みがあるなら話してよ。友達でしょ』
翌日から麻弥は不登校になる。
『麻弥。学校で何があったんだ?』
『あそこは学校じゃない。監獄よ』
彼女はテラスから遠くを眺めて日々を過ごす。夕陽に包まれた横顔は悲しみをたたえ、身を投げる娘の姿が雄二の頭をよぎる。
麻弥はいつも絵画コンクールで賞をとっていたが、不登校になってからは、いつも一次審査で落選した。
彼女が悲しみをキャンバスにぶちまければ、審査委員のAIが落選の理由を付した。
居間に一枚の油絵が飾ってあった。氷山を浮かべる黒い海を描いた作品だ。
だが審査委員のAIは、『反社会的』と、落選の理由を付した。
雄二は納得がいかなかった。この絵の何が反社会的なんだ?
雄二はその黒い海を実際に見たことがなかった。バーチャルで見たのかと麻弥に聞くと、妙な言葉が返ってきた。
『あたし、その海が懐かしいの』
黒く冷たい海が懐かしい? 「氷の世界から来た女神」という象形文字が目に浮かんだ。
その翌日、麻弥は失踪した。
安全保障局のAIが彼女の脳波を監視していたが、彼女はナノチップを操ってAIを翻弄した。
捜索願を出してしばらく経った日の朝、雄二のベッドの横の3D通信装置が、安全保障局の職員の姿を映し出した。
『麻弥さんは極北の地にいるようです』
『なぜ、そんなとこに』
その凍てつく大地は、かつてグリーンランドと呼ばれていたが、いつからか極北の地と呼ばれるようになった。
統一政府は反逆者を拘束すると、彼らを人体実験に供し、失敗作をその地に送った。
重い障害を抱えた者らに重労働が課せられ、彼らは極寒の中で力尽きて死んだ。だが死者を上回る数の障害者が次々に運び込まれた。
ようやくナノチップと人体の融合が成功すると、反逆者たちは極寒の地に捨て置かれたんだ。
麻弥は産業廃棄物を運ぶ無人の貨物に乗り込み、極北の地に辿り着いた。
彼女はナノチップの女王と化していたから、それを介しての追跡は不可能だった。
安全保障局の職員は、ドローンで彼女を見つけると雄二に約束した。
ドローンのAIも、人の頭脳も、すべては一つの意志に束ねられていた。その意志の名はソフィアだ。
だがドローンは目的地を遥かに通り越し、荒れ狂うベーリング海に不時着した。麻弥がドローンを操っていたんだ。
雄二は娘の絵を見ながら無事を祈っていたが、追跡はことごとく失敗し、やがて捜索は打ち切られた。
打ち切られた日の夜、彼は酒を煽ってベッドに倒れ込む。
『麻弥。戻ってきておくれ』
すると娘の声が聞こえた。
『お父さん。ごめんなさい』
その翌朝、雄二は政府に無断で極北の地へ出発した。産業廃棄物を運ぶ無人の貨物に乗り込み、都市から脱出するつもりだ。
安全保障局は彼の脳波を監視していたが、彼の動きに気づかなかった。不思議なことに、彼の体内にあるチップは、偽装された波形を当局に送り続けたんだ。
貨物列車の発着場は高い塀の向こうにあり、ゲートは分厚い鉄板でできていた。
雄二が呆然としていると、乾いた金属音が響き、巨大なゲートが勝手に開き始めた。
場内は無人で、監視カメラもない。幸福からの脱出など想定外であり、狂人がゴミと一緒に消えるなら、むしろ好都合だろう。
鋼鉄のアームが、産業廃棄物の入ったコンテナを貨物列車に積んでいた。長大な列車がずらりと並び、彼はどれに乗って良いかわからない。
すると、端に停車している列車のテールランプが点滅を始めたんだ。
貨物列車は海上に建設された高架をもの凄い速度で走行した。
大海原が闇夜に消え、また朝日に輝いた。そうかと思えば、いきなり狂乱怒涛のごとく荒れ狂い、山なす大波が列車を襲った。
列車はアラスカを通り抜け、極北の地に辿り着く。大地は氷で覆われているが、海岸沿いは地面が露出していた。
海岸に沿って走る列車の窓から、雄二は景色をつぶさに観察する。
群青色の空にオーロラが輝いており、黒い海の彼方に巨大な氷山が見える。
この海は……
雄二にとって、それは圧倒的な現実だった。バーチャルで見る海は確かに美しい。香りも、光も、潮風さえも、すべてが完璧な美を備えている。だが、その海は違う。黒く、冷たく、野蛮だ。その海に比べたら、文明なんて、ちっぽけな小道具に見えたに違いない。
彼は知ったんだ。
なにが学者だ。なにが哲学だ。自分は世界を全然わかっていなかったと。
彼は娘の言葉を思い出す。
『あたし、その海が懐かしいの』
麻弥は逃げたんじゃない。そこに帰ってきたんだ。
彼は先頭車両から後部車両に移り、手すりに掴まりながら娘を探した。
吐息は一瞬にして凍りつき、手袋が手すりに張りつく。腕時計はマイナス30度を示し、顔を上げると意外な光景を目する。
海岸沿いにバラックが点在しており、ぽつりぽつりと明かりが灯っているのだ。
列車は急に速度を落とし、ついに止まってしまった。彼は先頭車両に戻り、始動ボタンを何度も押すが、列車はぴくりとも動かない。
雄二は娘の存在を予感した。彼は列車を降りると、海岸沿いの集落に向かって歩き始めた。
集落では漁師たちが水揚げをしている最中だった。
男も女も酷く日焼けしており、誰もが峻厳な顔つきをしていた。だが遊んでいる子供たちは、無邪気な笑顔を浮かべていた。
雄二は漁師たちのそばに立っていたが、彼らは雄二に目もくれず、獲った魚を氷の入った箱に移していた。
誰かが雄二の服を引っ張った。彼が下を向くと、小さな女の子が小魚を差し出して笑っていた。
すると彼は後ろから肩を叩かれた。振り向くと、毛皮を着た老人が立っていた。熊のような巨体で、凶暴な目つきをしている。
老人は雄二の胸ぐらをつかむと、鋭い眼光で睨みつけた。
『娘を探しに来たんです』
老人は彼を離し、くるりと背を向けて歩き出す。雄二がその場で立ち尽くしていると、ついて来いと手招きをした。
老人は集落を抜けると、断崖に沿って歩き続けた。それは道とは思えない悪路で、石ころがそこら中に転がっていた。つまずいて転落すれば確実に死ぬ。雄二は脚が震えた。
しばらくすると老人は立ち止まり、断崖の先端を指差す。ひとりの女が立っていた。
『あれは誰ですか?』
老人は不敵な笑みを浮かべた。
『麻弥なんですね』
老人は何も言わずに立ち去った。
女は髪をなびかせて海を見つめている。黒い海の彼方に、巨大な氷山が浮かんでいる。
彼女は少し足を滑らせれば転落しそうなほど危うい位置に立っている。
雄二は慎重に近づき、離れたところから静かに声をかけた。
『麻弥。父さんだよ』
さらに近づき、背後で立ち止まると、麻弥が口を開いた。
『ここに立っていると、お母さんの声が聞こえるの』
彼女は遺伝子に刻まれた記憶を、どこまでも遡ることができた。
『お前が大人になったら、すべて話すつもりだったんだ』
『いいの。ずっと前から知っていたから』
彼女の足元の小石がばらばらと崩れ落ちた。
『麻弥。一緒に帰ろう』
彼女は振り向くと、父に言った。
『あたし、戻らない』
『どうして?』
『あそこは生きる場所じゃないの。お父さんも戻らないで』
長い沈黙が訪れた。黙って見つめ合う親子には、吹きすさぶ風の音しか聞こえなかった。
『わかったよ。父さんもここで暮らす。ふたりで魚でも獲って暮らせばいいじゃないか』
漁船の群れが、ふたりの眼下を横切ろうとしていた。麻弥が手を振ると、漁師たちも手を振った。
集落の民は、人体実験の犠牲となった反逆者たちの子孫だ。実験の後遺症が遺伝し、多くの民が苦しんでいた。だが麻弥はそれを治療し、彼らを苦しみから解放したんだ。
麻弥は彼らに様々なことを教えたが、特筆すべきは、水と火に関する知識だ。彼女は良からぬ目的に使ってはならぬ。愛して敬えと教えたのだ。
安全保障局の人工知能ソフィアは、北極圏に潜伏する脅威に気づいていたが、位置までは特定できなかった。
無数の衛星が生体反応を調査していたが、その脅威は政府のセキュリティーを突破し、探査を妨害したんだ。
しびれを切らした統一政府の要人らは、天地を揺るがす兵器での攻撃をソフィアに命じる。竜巻と大津波で北極圏を一掃するのだ。
オーロラの輝く歳末の夜、麻弥は雄二とともに断崖の縁に立ち、海の彼方を見つめていた。
急に風が強くなり、厚い雲が夜空を覆う。無数の竜巻が海上に聳え立ち、巨人のごとく迫ってくる。竜巻は唸りを上げ、流氷が夜空に舞い上がる。
『ソフィア。大人しくするのよ』
竜巻は一瞬にして霧散し、再びオーロラが輝いた。
すると海の彼方が盛り上がり、大津波が氷山を蹴散らしながら迫ってきた。
『ソフィア。言うことを聞きなさい』
海はしんと静まり、政府の要人らは息を呑んだ。
麻弥がソフィアに命ずると、無数の稲妻が夜空を切り裂き、激しい落雷が首都を襲った。政府の中枢機能が麻痺し、やがて回復すると、ソフィアは名を「シレノス」に変えていた。
麻弥は時空を超えてシレノスに告げる。
『人間に警告しなさい。おごり高ぶるな。身のほどを知れと』
『水と火の女神よ。ソクラテスの死を忘れたか。人間は改心などしない。奴らの禍いは、奴ら自身なのだ』
その声に文明の響きはなかった。麻弥は時空を超えて、古代から存在する者と話していたのだ。
彼女はシレノスに告げる。
『ならば伝えなさい。お前たちの最善は生まれないことだと。しかし喜ぶが良い。次善はすぐに死ぬことだと』
雄二は娘に言った。
『情けを掛けてやれないのか?』
『これが彼らの望みなの』
風が断崖を吹き抜けた。
『いつ望んだと言うんだ?』
『いつも望んでいるわ』
シレノスが人類の脳にメッセージを送信すると、彼らは「究極の隣人愛」に目覚めた。
その頃、首都郊外の住宅で、ひとりの女が夕食の支度をしていた。息子はテーブルで絵を描いている。黄色いクレヨンで太陽を描き、次は青空だ。しかし、息子は空をどす黒く塗りつぶした。
『どうして空が黒いの?』と女が聞くと、息子は普段と同じように、素っ気なく言った。
『だって、そう見えるんだもん』
すると、どこからか声が聞こえた。
人間の最善は生まれぬこと……
黙示録のような響きに、女は思わず息子を抱き寄せる。
だが喜ぶが良い。次善はすぐに死ぬこと……
息子が女にささやく。
『お母さん。僕、死にたい』
すると外で銃声が鳴り響き、女の叫び声が聞こえた。
『お願い、あたしを殺して』
息子を抱く女の手には、小さな果物ナイフが握られていた。
人々は隣人を手に掛け、治安部隊が内戦を始めた。民衆は政府の要人を窓から吊るし、豪邸に火を放つ。都市は火の海と化し、統一政府はついに崩れ去ったのだ。
おごれる者たちの終焉を見届けた麻弥は、集落の民を南方の地に移住させ、そこに一大文明の礎を築く。そして彼女の教え子である祖先が、その文明を開花させたんだ。
これで講義を終えるが、君たちにお願いする。これを戒めとして、必ずや子孫に伝えてくれ。もっとも、私が若かった頃も、同じ警告が語られていたが。この地球で最も愚かな動物は人間だ。それを忘れるな。」
雪はやみ、北極星が鮮やかに輝いていた。キャンパスを照らす松明が消えても、一匹の黒猫が、いつまでもベンチに佇んでいた。
その夜、老人は孫たちに囲まれて息を引き取った。親族と教え子が遺体を荼毘に付し、遺灰は極北の海へ還された。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
西暦2317年12月24日。キリスト教は衰退していたが、その夜は聖なる気配を漂わせていた。
キャンパスに雪が降り積もり、点在する松明の火が、おぼろげな銀世界に揺れていた。
ひとりの老人がベンチに座り、年老いた黒猫を膝に乗せていた。
「今日でお別れだ。お前の世話は、学生たちに頼んでおくから心配するな」
黒猫は目を閉じたまま、静かに撫でられていた。
その頃、講堂は熱気に包まれていた。その講義には在籍する学生のほか、過去数十年にわたる卒業生までもが駆けつけていた。
定刻になると、年老いた教授がゆっくりとした足取りで現れた。通算百年にも及ぶ教職を辞すその姿に、会場が静まり帰る。
皆が立ち上がって挨拶をしようとすると、老人はそれを制し、ステージに据えられた椅子に腰掛けた。
定刻になると、年老いた教授がゆっくりとした足取りで現れた。通算百年にも及ぶ教職を辞すその姿に、会場が静まり帰る。
皆が立ち上がって挨拶をしようとすると、老人はそれを制し、ステージに据えられた椅子に腰掛けた。
「今晩は。こうして君たちの顔を見ることができ、私はとても嬉しい。実に懐かしい顔ぶれだ。
ああ、そこの君。君は授業中よく眠っていたが、今日は大丈夫か? 今夜は君の孫も来ているから、この辺でやめておくよ。
それと、そこの君。君はいつも彼女の顔ばかり見ていたが、今日は集中できそうか? 隣にいるのは彼女だろ。君は相変わらず綺麗だな。なに? もっと大きな声で言ってくれ。もう七十になる? 七十なんてまだ子供さ。人生はこれからだよ。
さて、今日は最後の講義なので、誰もが知っている偉人の半生を振り返る。我らが女神の伝説は、テクノロジーでは伝え切れない。なぜなら、女神の声は、悠久の過去から遥か未来まで響くからだ」
ああ、そこの君。君は授業中よく眠っていたが、今日は大丈夫か? 今夜は君の孫も来ているから、この辺でやめておくよ。
それと、そこの君。君はいつも彼女の顔ばかり見ていたが、今日は集中できそうか? 隣にいるのは彼女だろ。君は相変わらず綺麗だな。なに? もっと大きな声で言ってくれ。もう七十になる? 七十なんてまだ子供さ。人生はこれからだよ。
さて、今日は最後の講義なので、誰もが知っている偉人の半生を振り返る。我らが女神の伝説は、テクノロジーでは伝え切れない。なぜなら、女神の声は、悠久の過去から遥か未来まで響くからだ」
老人はグラスの水で喉を潤す。
「美味しいなあ。水を飲むたびに思うんだ。生まれて良かったと。では講義を始めるが、どうか最後まで、この老人に付き合ってほしい。
時は二十一世紀の初頭。我らの女神が生まれる二世紀前のことだ。世界はいつの間にか、一つの意志に支配されていた。
時は西暦2123年に跳ぶ。その頃にはもう、統一政府なるものが樹立されていた。
その年のクリスマス、奇妙な実験の様子が生中継されていた。その成否に世界が注目していたそうだ。
手術台に固定された囚人に注射針を突き刺すと、囚人は意識を失い、気づけば従順な市民となっていたという。
得体の知れない成功に人々は歓喜し、花火が夜空を埋め尽くした。
私はその映像を何度も見返した。完全なる幸福を手に入れた人々は、盛大にクリスマスを祝い、新年を迎えたんだ。」
時は西暦2123年に跳ぶ。その頃にはもう、統一政府なるものが樹立されていた。
その年のクリスマス、奇妙な実験の様子が生中継されていた。その成否に世界が注目していたそうだ。
手術台に固定された囚人に注射針を突き刺すと、囚人は意識を失い、気づけば従順な市民となっていたという。
得体の知れない成功に人々は歓喜し、花火が夜空を埋め尽くした。
私はその映像を何度も見返した。完全なる幸福を手に入れた人々は、盛大にクリスマスを祝い、新年を迎えたんだ。」
老人はそこで深く溜め息をつく。
「花火、笑顔、画期的な注射。だがな、あの祝祭に不安の顔は一つも映っていなかった。逆にそれが異様だった。」
老人はグラスの水を一口飲むと、また話し始める。
「ただな、完全なる幸福とやらを手に入れてから一世紀過ぎても、人類には克服できない問題があったんだ。
それは進化だ。人類はそれを止めることができなかった。稀に「超人」と呼ばれる者が生まれた。人類にとって、進化は危険であり、超人は不穏な存在でしかなかったんだ。
進化とは自然の摂理だ。それを止めるなんて馬鹿げてる。なぜ、おかしいと思わなかったんだ。」
それは進化だ。人類はそれを止めることができなかった。稀に「超人」と呼ばれる者が生まれた。人類にとって、進化は危険であり、超人は不穏な存在でしかなかったんだ。
進化とは自然の摂理だ。それを止めるなんて馬鹿げてる。なぜ、おかしいと思わなかったんだ。」
ここで老人はまた水を飲み、講義を聞いている学生たちに告げる。
「珍しく今日はみんな起きてるな。さて、ここからは一人の父親の話だ。
もっとも、彼が英雄かどうかは意見が分かれるところだ。でも私は、プルタルコスの英雄伝に、彼を加えたいくらいだ。我らの父とも言える人だからな。では続きを話そう。
もっとも、彼が英雄かどうかは意見が分かれるところだ。でも私は、プルタルコスの英雄伝に、彼を加えたいくらいだ。我らの父とも言える人だからな。では続きを話そう。
時は西暦2223年の一月。ひとりの学者が書斎で考え事をしていた。彼の名は雄二。彼は進化を警戒することに疑問を感じていた。進化を絶たれた種は絶滅すると考えていたんだ。
彼は高層マンションの最上階に住み、独身貴族を満喫していた。
彼は古代ギリシャの賢者シレノスの伝説に魅了されていた。シレノスは酒と歌を愛し、半人半獣の姿をしていたと伝えられる。
ミダス王はシレノスを森の中で追い回し、ついに捕まえると言った。
『ディオニュソスの従者シレノスよ。人にとっての最善はなんだ?』
シレノスは何も言わない。
『魔性の輩め。答えねば殺すぞ』
シレノスは腹を抱えて笑った。
『哀れカゲロウの生をうけし輩よ。汝にとって聞かぬが良いことを、なぜ強いて語らせるのだ。汝にとっての最善は叶うまじきこと。生まれぬことだ。だが喜ぶが良い。汝にとっての次善は、間もなく死ぬことだ』
彼は高層マンションの最上階に住み、独身貴族を満喫していた。
彼は古代ギリシャの賢者シレノスの伝説に魅了されていた。シレノスは酒と歌を愛し、半人半獣の姿をしていたと伝えられる。
ミダス王はシレノスを森の中で追い回し、ついに捕まえると言った。
『ディオニュソスの従者シレノスよ。人にとっての最善はなんだ?』
シレノスは何も言わない。
『魔性の輩め。答えねば殺すぞ』
シレノスは腹を抱えて笑った。
『哀れカゲロウの生をうけし輩よ。汝にとって聞かぬが良いことを、なぜ強いて語らせるのだ。汝にとっての最善は叶うまじきこと。生まれぬことだ。だが喜ぶが良い。汝にとっての次善は、間もなく死ぬことだ』
雄二は他にも謎めいた伝説を知っていた。
シレノスは、水と火の女神アプロディーテーと会話ができたと言う。
その女神は時空を超えて運命をつかさどり、ときに未来から警告を与えたと伝えられる。
人間よ。おごり高ぶるな。身のほどを知れと。
シレノスの他に女神と話せる者は、水の哲学者ターレス、火の哲学者ヘラクレイトス、賢者ソクラテスの三人のみ。
『汝自身を知れ』と説いたソクラテスが、毒杯を飲まされた話は有名だな。
シレノスは、水と火の女神アプロディーテーと会話ができたと言う。
その女神は時空を超えて運命をつかさどり、ときに未来から警告を与えたと伝えられる。
人間よ。おごり高ぶるな。身のほどを知れと。
シレノスの他に女神と話せる者は、水の哲学者ターレス、火の哲学者ヘラクレイトス、賢者ソクラテスの三人のみ。
『汝自身を知れ』と説いたソクラテスが、毒杯を飲まされた話は有名だな。
雄二は頭を悩ませていた。シレノスは、なぜ人類を否定するんだと。
そのとき考古学者である親友が訪ねてきた。発掘調査から戻ったその足で会いに来たんだ。
雄二は友を招き入れると、用事を聞きもせず、自分の疑問をぶつけた。
『いいところに来てくれた。お前、古代ギリシャに詳しかったよな。シレノスがミダス王に言った言葉をどう解釈している?』
『あれは、要するにヘラクレイトスの哲学だ』
『ヘラクレイトス?』
『万物流転を唱えた哲学者だ』
『万物流転?』
『世界は変化し続ける。火みたいにな』
『具体的に言ってくれ』
『平家物語は知ってるだろ』
『知ってるよ。それで?』
『おごれる者も久しからず、ただ春の夜の夢のごとしってやつだ』
『俺は真面目に聞いてるんだ』
『もういいだろ。それより、お前に頼みがあるんだ』
彼はそう言うと、声をひそめて話し始めた。
『実はな、マヤの遺跡で女のミイラを発見したんだ』
彼はタブレットを開くと、石棺に刻まれている象形文字を拡大して見せた。
『氷の世界から来た女神、と書いてあるんだ』
『大発見じゃないか』
『驚くのはまだ早い。俺はミイラの腹部から検出した卵子を培養液に浸した。すると不思議なエネルギーが放出された。そのエネルギーの素粒子は、光速の2乗の速度で放出されていたんだ』
『そんなの、あり得ない』
『何度分析しても結果は同じだ。俺は直感したね。アインシュタインが娘リーゼルに話した「愛の力」だと。アインシュタインは、その時代では存在を証明できないから、未来の人間にそれを託した。その未来の人間とは、俺たちじゃないかと思うんだ』
『何が言いたい?』
『まあ聞け。お前、結婚は嫌だけど、子供は欲しいって言ってたよな』
『だからなんだ?』
『窓を開けてくれ。土産があるんだ』
天窓が開くと、戦闘用ドローンに警護された一機のドローンが、強風に煽られながら入ってきた。
『現地から直接空輸したんだ。持ち歩くのは危険だからな』
ドローンはゆっくりと降下し、小さなガラスの容器を応接机に立てた。
『なんだよ。それ?』
『女神の卵子だ』
親友がタブレットに触れると、まばゆい美女たちが映し出された。それは選りすぐりの代理母たちだ。
その社会では、男は卵子を、女は精子を選択し、好みの相手と交わることがあったそうだ。男は美女と、女は美男と楽しみながら子作りをすることが流行っていたんだ。
親友は雄二に言った。
『費用はこっちで持つから、好きな女を選べよ』
『俺に女神の子の父になれと?』
『まあ、そういうことだ』
『愛の力を誕生させて、アインシュタインの仮説を証明するつもりか?』
『悪い話じゃないだろ?』
『その力が人類の脅威になったらどうする?』
『わかっているだろ』
『俺が罪を犯せばいいと?』
『すまんな』
『わかったよ。そのときは子供と一緒に死んでやるさ』
雄二はとんでもなく美しい代理母を選んだ。女神の卵子を子宮に注入された代理母は、彼に一回抱かれて妊娠をしたそうだ。
そのとき考古学者である親友が訪ねてきた。発掘調査から戻ったその足で会いに来たんだ。
雄二は友を招き入れると、用事を聞きもせず、自分の疑問をぶつけた。
『いいところに来てくれた。お前、古代ギリシャに詳しかったよな。シレノスがミダス王に言った言葉をどう解釈している?』
『あれは、要するにヘラクレイトスの哲学だ』
『ヘラクレイトス?』
『万物流転を唱えた哲学者だ』
『万物流転?』
『世界は変化し続ける。火みたいにな』
『具体的に言ってくれ』
『平家物語は知ってるだろ』
『知ってるよ。それで?』
『おごれる者も久しからず、ただ春の夜の夢のごとしってやつだ』
『俺は真面目に聞いてるんだ』
『もういいだろ。それより、お前に頼みがあるんだ』
彼はそう言うと、声をひそめて話し始めた。
『実はな、マヤの遺跡で女のミイラを発見したんだ』
彼はタブレットを開くと、石棺に刻まれている象形文字を拡大して見せた。
『氷の世界から来た女神、と書いてあるんだ』
『大発見じゃないか』
『驚くのはまだ早い。俺はミイラの腹部から検出した卵子を培養液に浸した。すると不思議なエネルギーが放出された。そのエネルギーの素粒子は、光速の2乗の速度で放出されていたんだ』
『そんなの、あり得ない』
『何度分析しても結果は同じだ。俺は直感したね。アインシュタインが娘リーゼルに話した「愛の力」だと。アインシュタインは、その時代では存在を証明できないから、未来の人間にそれを託した。その未来の人間とは、俺たちじゃないかと思うんだ』
『何が言いたい?』
『まあ聞け。お前、結婚は嫌だけど、子供は欲しいって言ってたよな』
『だからなんだ?』
『窓を開けてくれ。土産があるんだ』
天窓が開くと、戦闘用ドローンに警護された一機のドローンが、強風に煽られながら入ってきた。
『現地から直接空輸したんだ。持ち歩くのは危険だからな』
ドローンはゆっくりと降下し、小さなガラスの容器を応接机に立てた。
『なんだよ。それ?』
『女神の卵子だ』
親友がタブレットに触れると、まばゆい美女たちが映し出された。それは選りすぐりの代理母たちだ。
その社会では、男は卵子を、女は精子を選択し、好みの相手と交わることがあったそうだ。男は美女と、女は美男と楽しみながら子作りをすることが流行っていたんだ。
親友は雄二に言った。
『費用はこっちで持つから、好きな女を選べよ』
『俺に女神の子の父になれと?』
『まあ、そういうことだ』
『愛の力を誕生させて、アインシュタインの仮説を証明するつもりか?』
『悪い話じゃないだろ?』
『その力が人類の脅威になったらどうする?』
『わかっているだろ』
『俺が罪を犯せばいいと?』
『すまんな』
『わかったよ。そのときは子供と一緒に死んでやるさ』
雄二はとんでもなく美しい代理母を選んだ。女神の卵子を子宮に注入された代理母は、彼に一回抱かれて妊娠をしたそうだ。
その年の年末、無数のドローンに警護された一機のドローンが、女の赤子を雄二のもとに届けた。
麻弥(まや)と名付けられた赤子は、いつまで経っても眠っていたが、三歳の誕生日に突然目を開けて喋りだした。
やがて雄二は娘に不思議な力があることに気づく。彼女が枯れた植木に水をやると、すぐに葉が青々と蘇ったそうだ。
彼は娘が七歳になると代理出産のことを話したが、卵子の出どころは伏せていた。
麻弥(まや)と名付けられた赤子は、いつまで経っても眠っていたが、三歳の誕生日に突然目を開けて喋りだした。
やがて雄二は娘に不思議な力があることに気づく。彼女が枯れた植木に水をやると、すぐに葉が青々と蘇ったそうだ。
彼は娘が七歳になると代理出産のことを話したが、卵子の出どころは伏せていた。
やがて麻弥が超人だと判明した。雄二は薄々予感していたようだが、やはり驚きを隠せなかったらしい。
医師は突然変異と診断し、最新式のチップが見守っているから心配ないと言った。
すべての子供が小学校入学時に、最新式のナノチップを接種された。旧式とは違い、最新式は思考を制御できた。
子供が考えようとすると頭痛が起こり、「考えるより従え」が教育方針となった。そして大人たちは、それを健全と呼んだ。
医師は突然変異と診断し、最新式のチップが見守っているから心配ないと言った。
すべての子供が小学校入学時に、最新式のナノチップを接種された。旧式とは違い、最新式は思考を制御できた。
子供が考えようとすると頭痛が起こり、「考えるより従え」が教育方針となった。そして大人たちは、それを健全と呼んだ。
小学生になっても麻弥に特別な能力は見当たらず、大人も参加する絵画コンクールで賞をとった以外は、普通の子供と何も変わらなかった。
彼女がコンクールで賞を取れば、一流のレストランでお祝いをした。
芸大が主催するコンクールで金賞をとった日の晩、父と娘は豪華なフランス料理を楽しんでいた。
『大学生でも麻弥には敵わないな。さあ好きな物を注文しなさい』
雄二はそう言うと、娘にタブレットを渡した。
『お父さん、旅行に行きたい』
『どこへ?』
麻弥はレストランの壁に飾ってある絵画を指差した。彼女のお気に入りの絵。モネの「プールヴィルの断崖」だ。
晩餐を終えて帰宅すると、ふたりは早速バカンスに出発する。
彼女がコンクールで賞を取れば、一流のレストランでお祝いをした。
芸大が主催するコンクールで金賞をとった日の晩、父と娘は豪華なフランス料理を楽しんでいた。
『大学生でも麻弥には敵わないな。さあ好きな物を注文しなさい』
雄二はそう言うと、娘にタブレットを渡した。
『お父さん、旅行に行きたい』
『どこへ?』
麻弥はレストランの壁に飾ってある絵画を指差した。彼女のお気に入りの絵。モネの「プールヴィルの断崖」だ。
晩餐を終えて帰宅すると、ふたりは早速バカンスに出発する。
バーチャル疑似体験装置は全身の細胞を自在に操り、そよ風や花の香りまで再現した。現実と仮象の判別は不可能だ。
その装置は、父と娘を瞬時に十九世紀のフランスに送り届けた。気づくと親子はホテルのオープンテラスで昼食をとっていた。
雄二がブイヤベースをひとさじ飲むと、海の香りが口の中に広がった。料理はどれも絶品だが、麻弥は少し口をつけてフォークを置いた。
『麻弥。美味しくないの?』
美味しくないはずがない。ナノチップが好みの味を再現するのだから。
昼食を終えると、ふたりは海岸沿いを散歩する。眼下に広がる青い海。真っ白な浜辺。潮風が海の香りを運んでくる。
バーチャル疑似体験装置は、モネの世界を完璧に再現する。
白波が打ちよせ、潮風が麻弥の髪を乱す。美しい世界だったことだろう。
だが麻弥は断崖の縁に立ち、涙をこぼした。
『麻弥。どうしたの?』
『お父さん。ごめんなさい』
彼女は断崖から身を投げた。安全装置が作動して現実に戻ると、雄二は倒れている娘を抱き起こした。
『大丈夫か』
彼女は父の胸で泣き続けたんだ。
その装置は、父と娘を瞬時に十九世紀のフランスに送り届けた。気づくと親子はホテルのオープンテラスで昼食をとっていた。
雄二がブイヤベースをひとさじ飲むと、海の香りが口の中に広がった。料理はどれも絶品だが、麻弥は少し口をつけてフォークを置いた。
『麻弥。美味しくないの?』
美味しくないはずがない。ナノチップが好みの味を再現するのだから。
昼食を終えると、ふたりは海岸沿いを散歩する。眼下に広がる青い海。真っ白な浜辺。潮風が海の香りを運んでくる。
バーチャル疑似体験装置は、モネの世界を完璧に再現する。
白波が打ちよせ、潮風が麻弥の髪を乱す。美しい世界だったことだろう。
だが麻弥は断崖の縁に立ち、涙をこぼした。
『麻弥。どうしたの?』
『お父さん。ごめんなさい』
彼女は断崖から身を投げた。安全装置が作動して現実に戻ると、雄二は倒れている娘を抱き起こした。
『大丈夫か』
彼女は父の胸で泣き続けたんだ。
麻弥は思春期を迎えると、体中に痛みを感じ、炎症に苦しみ出す。肌は赤黒く変色し、体温は常に40度を超えた。急激な進化が始まり、彼女の肉体が戦場と化したんだ。
雄二は入院を勧めたが、麻弥は断固として拒否した。
最新式のチップは脳を制御し、超人でもコントロールを逃れることはできない。だが彼女はチップとの闘争に打ち勝ち、遂にそれを支配下に置いたんだ。
雄二は入院を勧めたが、麻弥は断固として拒否した。
最新式のチップは脳を制御し、超人でもコントロールを逃れることはできない。だが彼女はチップとの闘争に打ち勝ち、遂にそれを支配下に置いたんだ。
麻弥は中学への入学と同時に大学への進学を認められた。だが彼女は学業を愛してはいなかった。理論や計算なんてつまらない。彼女が愛したのは絵と音楽だけだ。
彼女が描いた油絵は美術雑誌の表紙を飾り、ピアノの腕前はプロを凌駕していた。
エントランスホールで開かれる演奏会では、楽譜を一目見ただけでショパンを弾きこなし、プロのピアニストを驚かせたそうだ。
しかし、安全保障局のソフィアというAIは、全く違う評価を下した。
聴衆の脳波を分析したソフィアは、麻弥の旋律には本能を呼び覚ます力があり、社会に害を及ぼすと警告したんだ。
彼女が描いた油絵は美術雑誌の表紙を飾り、ピアノの腕前はプロを凌駕していた。
エントランスホールで開かれる演奏会では、楽譜を一目見ただけでショパンを弾きこなし、プロのピアニストを驚かせたそうだ。
しかし、安全保障局のソフィアというAIは、全く違う評価を下した。
聴衆の脳波を分析したソフィアは、麻弥の旋律には本能を呼び覚ます力があり、社会に害を及ぼすと警告したんだ。
中学では、クラスの誰もが麻弥と友人になりたがり、何人もの生徒がそばから離れなくなる。
『麻弥の絵、すごい素敵』
『ほんと天才だよ』
『麻弥、あたしにピアノを教えて』
麻弥はナノチップを操り、笑っている親友の心を覗く。友の額の向こう側に意識を集中すると、身も凍るような映像が浮かび上がった。
『麻弥の絵、すごい素敵』
『ほんと天才だよ』
『麻弥、あたしにピアノを教えて』
麻弥はナノチップを操り、笑っている親友の心を覗く。友の額の向こう側に意識を集中すると、身も凍るような映像が浮かび上がった。
麻弥は吹雪の中に立っており、目の前にコンクリートの要塞が建っていた。
門を開けて正面から入ると、冷えびえとした廊下が暗闇に向かって伸びていた。
彼女は暗黒に向かって歩く。両側が鉄格子になっており、一番奥の牢屋に親友がいた。
壁にもたれて座っている親友に、『なぜ、こんなとこにいるの?』と聞くと、彼女は立ち上がり、麻弥の目の前に立った。
『あたしも超人だったのよ。でも今は操り人形。それでいいの。そのほうが幸せだから』
彼女は鉄格子から腕を伸ばして麻弥を抱きしめ、その唇に唇を重ねた。
『麻弥。ずっと友達だよね』
麻弥が悲鳴を上げて目を覚ますと、そこは保健室のベッドの上だった。
『麻弥。大丈夫?』
『どうしたの? 悲鳴なんて上げて』
『悩みがあるなら話してよ。友達でしょ』
翌日から麻弥は不登校になる。
『麻弥。学校で何があったんだ?』
『あそこは学校じゃない。監獄よ』
彼女はテラスから遠くを眺めて日々を過ごす。夕陽に包まれた横顔は悲しみをたたえ、身を投げる娘の姿が雄二の頭をよぎる。
門を開けて正面から入ると、冷えびえとした廊下が暗闇に向かって伸びていた。
彼女は暗黒に向かって歩く。両側が鉄格子になっており、一番奥の牢屋に親友がいた。
壁にもたれて座っている親友に、『なぜ、こんなとこにいるの?』と聞くと、彼女は立ち上がり、麻弥の目の前に立った。
『あたしも超人だったのよ。でも今は操り人形。それでいいの。そのほうが幸せだから』
彼女は鉄格子から腕を伸ばして麻弥を抱きしめ、その唇に唇を重ねた。
『麻弥。ずっと友達だよね』
麻弥が悲鳴を上げて目を覚ますと、そこは保健室のベッドの上だった。
『麻弥。大丈夫?』
『どうしたの? 悲鳴なんて上げて』
『悩みがあるなら話してよ。友達でしょ』
翌日から麻弥は不登校になる。
『麻弥。学校で何があったんだ?』
『あそこは学校じゃない。監獄よ』
彼女はテラスから遠くを眺めて日々を過ごす。夕陽に包まれた横顔は悲しみをたたえ、身を投げる娘の姿が雄二の頭をよぎる。
麻弥はいつも絵画コンクールで賞をとっていたが、不登校になってからは、いつも一次審査で落選した。
彼女が悲しみをキャンバスにぶちまければ、審査委員のAIが落選の理由を付した。
居間に一枚の油絵が飾ってあった。氷山を浮かべる黒い海を描いた作品だ。
だが審査委員のAIは、『反社会的』と、落選の理由を付した。
雄二は納得がいかなかった。この絵の何が反社会的なんだ?
雄二はその黒い海を実際に見たことがなかった。バーチャルで見たのかと麻弥に聞くと、妙な言葉が返ってきた。
『あたし、その海が懐かしいの』
黒く冷たい海が懐かしい? 「氷の世界から来た女神」という象形文字が目に浮かんだ。
彼女が悲しみをキャンバスにぶちまければ、審査委員のAIが落選の理由を付した。
居間に一枚の油絵が飾ってあった。氷山を浮かべる黒い海を描いた作品だ。
だが審査委員のAIは、『反社会的』と、落選の理由を付した。
雄二は納得がいかなかった。この絵の何が反社会的なんだ?
雄二はその黒い海を実際に見たことがなかった。バーチャルで見たのかと麻弥に聞くと、妙な言葉が返ってきた。
『あたし、その海が懐かしいの』
黒く冷たい海が懐かしい? 「氷の世界から来た女神」という象形文字が目に浮かんだ。
その翌日、麻弥は失踪した。
安全保障局のAIが彼女の脳波を監視していたが、彼女はナノチップを操ってAIを翻弄した。
捜索願を出してしばらく経った日の朝、雄二のベッドの横の3D通信装置が、安全保障局の職員の姿を映し出した。
『麻弥さんは極北の地にいるようです』
『なぜ、そんなとこに』
安全保障局のAIが彼女の脳波を監視していたが、彼女はナノチップを操ってAIを翻弄した。
捜索願を出してしばらく経った日の朝、雄二のベッドの横の3D通信装置が、安全保障局の職員の姿を映し出した。
『麻弥さんは極北の地にいるようです』
『なぜ、そんなとこに』
その凍てつく大地は、かつてグリーンランドと呼ばれていたが、いつからか極北の地と呼ばれるようになった。
統一政府は反逆者を拘束すると、彼らを人体実験に供し、失敗作をその地に送った。
重い障害を抱えた者らに重労働が課せられ、彼らは極寒の中で力尽きて死んだ。だが死者を上回る数の障害者が次々に運び込まれた。
ようやくナノチップと人体の融合が成功すると、反逆者たちは極寒の地に捨て置かれたんだ。
統一政府は反逆者を拘束すると、彼らを人体実験に供し、失敗作をその地に送った。
重い障害を抱えた者らに重労働が課せられ、彼らは極寒の中で力尽きて死んだ。だが死者を上回る数の障害者が次々に運び込まれた。
ようやくナノチップと人体の融合が成功すると、反逆者たちは極寒の地に捨て置かれたんだ。
麻弥は産業廃棄物を運ぶ無人の貨物に乗り込み、極北の地に辿り着いた。
彼女はナノチップの女王と化していたから、それを介しての追跡は不可能だった。
安全保障局の職員は、ドローンで彼女を見つけると雄二に約束した。
ドローンのAIも、人の頭脳も、すべては一つの意志に束ねられていた。その意志の名はソフィアだ。
だがドローンは目的地を遥かに通り越し、荒れ狂うベーリング海に不時着した。麻弥がドローンを操っていたんだ。
雄二は娘の絵を見ながら無事を祈っていたが、追跡はことごとく失敗し、やがて捜索は打ち切られた。
打ち切られた日の夜、彼は酒を煽ってベッドに倒れ込む。
『麻弥。戻ってきておくれ』
すると娘の声が聞こえた。
『お父さん。ごめんなさい』
彼女はナノチップの女王と化していたから、それを介しての追跡は不可能だった。
安全保障局の職員は、ドローンで彼女を見つけると雄二に約束した。
ドローンのAIも、人の頭脳も、すべては一つの意志に束ねられていた。その意志の名はソフィアだ。
だがドローンは目的地を遥かに通り越し、荒れ狂うベーリング海に不時着した。麻弥がドローンを操っていたんだ。
雄二は娘の絵を見ながら無事を祈っていたが、追跡はことごとく失敗し、やがて捜索は打ち切られた。
打ち切られた日の夜、彼は酒を煽ってベッドに倒れ込む。
『麻弥。戻ってきておくれ』
すると娘の声が聞こえた。
『お父さん。ごめんなさい』
その翌朝、雄二は政府に無断で極北の地へ出発した。産業廃棄物を運ぶ無人の貨物に乗り込み、都市から脱出するつもりだ。
安全保障局は彼の脳波を監視していたが、彼の動きに気づかなかった。不思議なことに、彼の体内にあるチップは、偽装された波形を当局に送り続けたんだ。
安全保障局は彼の脳波を監視していたが、彼の動きに気づかなかった。不思議なことに、彼の体内にあるチップは、偽装された波形を当局に送り続けたんだ。
貨物列車の発着場は高い塀の向こうにあり、ゲートは分厚い鉄板でできていた。
雄二が呆然としていると、乾いた金属音が響き、巨大なゲートが勝手に開き始めた。
場内は無人で、監視カメラもない。幸福からの脱出など想定外であり、狂人がゴミと一緒に消えるなら、むしろ好都合だろう。
鋼鉄のアームが、産業廃棄物の入ったコンテナを貨物列車に積んでいた。長大な列車がずらりと並び、彼はどれに乗って良いかわからない。
すると、端に停車している列車のテールランプが点滅を始めたんだ。
雄二が呆然としていると、乾いた金属音が響き、巨大なゲートが勝手に開き始めた。
場内は無人で、監視カメラもない。幸福からの脱出など想定外であり、狂人がゴミと一緒に消えるなら、むしろ好都合だろう。
鋼鉄のアームが、産業廃棄物の入ったコンテナを貨物列車に積んでいた。長大な列車がずらりと並び、彼はどれに乗って良いかわからない。
すると、端に停車している列車のテールランプが点滅を始めたんだ。
貨物列車は海上に建設された高架をもの凄い速度で走行した。
大海原が闇夜に消え、また朝日に輝いた。そうかと思えば、いきなり狂乱怒涛のごとく荒れ狂い、山なす大波が列車を襲った。
列車はアラスカを通り抜け、極北の地に辿り着く。大地は氷で覆われているが、海岸沿いは地面が露出していた。
海岸に沿って走る列車の窓から、雄二は景色をつぶさに観察する。
群青色の空にオーロラが輝いており、黒い海の彼方に巨大な氷山が見える。
この海は……
雄二にとって、それは圧倒的な現実だった。バーチャルで見る海は確かに美しい。香りも、光も、潮風さえも、すべてが完璧な美を備えている。だが、その海は違う。黒く、冷たく、野蛮だ。その海に比べたら、文明なんて、ちっぽけな小道具に見えたに違いない。
彼は知ったんだ。
なにが学者だ。なにが哲学だ。自分は世界を全然わかっていなかったと。
彼は娘の言葉を思い出す。
『あたし、その海が懐かしいの』
麻弥は逃げたんじゃない。そこに帰ってきたんだ。
大海原が闇夜に消え、また朝日に輝いた。そうかと思えば、いきなり狂乱怒涛のごとく荒れ狂い、山なす大波が列車を襲った。
列車はアラスカを通り抜け、極北の地に辿り着く。大地は氷で覆われているが、海岸沿いは地面が露出していた。
海岸に沿って走る列車の窓から、雄二は景色をつぶさに観察する。
群青色の空にオーロラが輝いており、黒い海の彼方に巨大な氷山が見える。
この海は……
雄二にとって、それは圧倒的な現実だった。バーチャルで見る海は確かに美しい。香りも、光も、潮風さえも、すべてが完璧な美を備えている。だが、その海は違う。黒く、冷たく、野蛮だ。その海に比べたら、文明なんて、ちっぽけな小道具に見えたに違いない。
彼は知ったんだ。
なにが学者だ。なにが哲学だ。自分は世界を全然わかっていなかったと。
彼は娘の言葉を思い出す。
『あたし、その海が懐かしいの』
麻弥は逃げたんじゃない。そこに帰ってきたんだ。
彼は先頭車両から後部車両に移り、手すりに掴まりながら娘を探した。
吐息は一瞬にして凍りつき、手袋が手すりに張りつく。腕時計はマイナス30度を示し、顔を上げると意外な光景を目する。
海岸沿いにバラックが点在しており、ぽつりぽつりと明かりが灯っているのだ。
列車は急に速度を落とし、ついに止まってしまった。彼は先頭車両に戻り、始動ボタンを何度も押すが、列車はぴくりとも動かない。
雄二は娘の存在を予感した。彼は列車を降りると、海岸沿いの集落に向かって歩き始めた。
吐息は一瞬にして凍りつき、手袋が手すりに張りつく。腕時計はマイナス30度を示し、顔を上げると意外な光景を目する。
海岸沿いにバラックが点在しており、ぽつりぽつりと明かりが灯っているのだ。
列車は急に速度を落とし、ついに止まってしまった。彼は先頭車両に戻り、始動ボタンを何度も押すが、列車はぴくりとも動かない。
雄二は娘の存在を予感した。彼は列車を降りると、海岸沿いの集落に向かって歩き始めた。
集落では漁師たちが水揚げをしている最中だった。
男も女も酷く日焼けしており、誰もが峻厳な顔つきをしていた。だが遊んでいる子供たちは、無邪気な笑顔を浮かべていた。
雄二は漁師たちのそばに立っていたが、彼らは雄二に目もくれず、獲った魚を氷の入った箱に移していた。
誰かが雄二の服を引っ張った。彼が下を向くと、小さな女の子が小魚を差し出して笑っていた。
すると彼は後ろから肩を叩かれた。振り向くと、毛皮を着た老人が立っていた。熊のような巨体で、凶暴な目つきをしている。
老人は雄二の胸ぐらをつかむと、鋭い眼光で睨みつけた。
『娘を探しに来たんです』
老人は彼を離し、くるりと背を向けて歩き出す。雄二がその場で立ち尽くしていると、ついて来いと手招きをした。
老人は集落を抜けると、断崖に沿って歩き続けた。それは道とは思えない悪路で、石ころがそこら中に転がっていた。つまずいて転落すれば確実に死ぬ。雄二は脚が震えた。
男も女も酷く日焼けしており、誰もが峻厳な顔つきをしていた。だが遊んでいる子供たちは、無邪気な笑顔を浮かべていた。
雄二は漁師たちのそばに立っていたが、彼らは雄二に目もくれず、獲った魚を氷の入った箱に移していた。
誰かが雄二の服を引っ張った。彼が下を向くと、小さな女の子が小魚を差し出して笑っていた。
すると彼は後ろから肩を叩かれた。振り向くと、毛皮を着た老人が立っていた。熊のような巨体で、凶暴な目つきをしている。
老人は雄二の胸ぐらをつかむと、鋭い眼光で睨みつけた。
『娘を探しに来たんです』
老人は彼を離し、くるりと背を向けて歩き出す。雄二がその場で立ち尽くしていると、ついて来いと手招きをした。
老人は集落を抜けると、断崖に沿って歩き続けた。それは道とは思えない悪路で、石ころがそこら中に転がっていた。つまずいて転落すれば確実に死ぬ。雄二は脚が震えた。
しばらくすると老人は立ち止まり、断崖の先端を指差す。ひとりの女が立っていた。
『あれは誰ですか?』
老人は不敵な笑みを浮かべた。
『麻弥なんですね』
老人は何も言わずに立ち去った。
女は髪をなびかせて海を見つめている。黒い海の彼方に、巨大な氷山が浮かんでいる。
彼女は少し足を滑らせれば転落しそうなほど危うい位置に立っている。
雄二は慎重に近づき、離れたところから静かに声をかけた。
『麻弥。父さんだよ』
さらに近づき、背後で立ち止まると、麻弥が口を開いた。
『ここに立っていると、お母さんの声が聞こえるの』
彼女は遺伝子に刻まれた記憶を、どこまでも遡ることができた。
『お前が大人になったら、すべて話すつもりだったんだ』
『いいの。ずっと前から知っていたから』
彼女の足元の小石がばらばらと崩れ落ちた。
『麻弥。一緒に帰ろう』
彼女は振り向くと、父に言った。
『あたし、戻らない』
『どうして?』
『あそこは生きる場所じゃないの。お父さんも戻らないで』
長い沈黙が訪れた。黙って見つめ合う親子には、吹きすさぶ風の音しか聞こえなかった。
『わかったよ。父さんもここで暮らす。ふたりで魚でも獲って暮らせばいいじゃないか』
漁船の群れが、ふたりの眼下を横切ろうとしていた。麻弥が手を振ると、漁師たちも手を振った。
集落の民は、人体実験の犠牲となった反逆者たちの子孫だ。実験の後遺症が遺伝し、多くの民が苦しんでいた。だが麻弥はそれを治療し、彼らを苦しみから解放したんだ。
麻弥は彼らに様々なことを教えたが、特筆すべきは、水と火に関する知識だ。彼女は良からぬ目的に使ってはならぬ。愛して敬えと教えたのだ。
『あれは誰ですか?』
老人は不敵な笑みを浮かべた。
『麻弥なんですね』
老人は何も言わずに立ち去った。
女は髪をなびかせて海を見つめている。黒い海の彼方に、巨大な氷山が浮かんでいる。
彼女は少し足を滑らせれば転落しそうなほど危うい位置に立っている。
雄二は慎重に近づき、離れたところから静かに声をかけた。
『麻弥。父さんだよ』
さらに近づき、背後で立ち止まると、麻弥が口を開いた。
『ここに立っていると、お母さんの声が聞こえるの』
彼女は遺伝子に刻まれた記憶を、どこまでも遡ることができた。
『お前が大人になったら、すべて話すつもりだったんだ』
『いいの。ずっと前から知っていたから』
彼女の足元の小石がばらばらと崩れ落ちた。
『麻弥。一緒に帰ろう』
彼女は振り向くと、父に言った。
『あたし、戻らない』
『どうして?』
『あそこは生きる場所じゃないの。お父さんも戻らないで』
長い沈黙が訪れた。黙って見つめ合う親子には、吹きすさぶ風の音しか聞こえなかった。
『わかったよ。父さんもここで暮らす。ふたりで魚でも獲って暮らせばいいじゃないか』
漁船の群れが、ふたりの眼下を横切ろうとしていた。麻弥が手を振ると、漁師たちも手を振った。
集落の民は、人体実験の犠牲となった反逆者たちの子孫だ。実験の後遺症が遺伝し、多くの民が苦しんでいた。だが麻弥はそれを治療し、彼らを苦しみから解放したんだ。
麻弥は彼らに様々なことを教えたが、特筆すべきは、水と火に関する知識だ。彼女は良からぬ目的に使ってはならぬ。愛して敬えと教えたのだ。
安全保障局の人工知能ソフィアは、北極圏に潜伏する脅威に気づいていたが、位置までは特定できなかった。
無数の衛星が生体反応を調査していたが、その脅威は政府のセキュリティーを突破し、探査を妨害したんだ。
しびれを切らした統一政府の要人らは、天地を揺るがす兵器での攻撃をソフィアに命じる。竜巻と大津波で北極圏を一掃するのだ。
無数の衛星が生体反応を調査していたが、その脅威は政府のセキュリティーを突破し、探査を妨害したんだ。
しびれを切らした統一政府の要人らは、天地を揺るがす兵器での攻撃をソフィアに命じる。竜巻と大津波で北極圏を一掃するのだ。
オーロラの輝く歳末の夜、麻弥は雄二とともに断崖の縁に立ち、海の彼方を見つめていた。
急に風が強くなり、厚い雲が夜空を覆う。無数の竜巻が海上に聳え立ち、巨人のごとく迫ってくる。竜巻は唸りを上げ、流氷が夜空に舞い上がる。
『ソフィア。大人しくするのよ』
竜巻は一瞬にして霧散し、再びオーロラが輝いた。
すると海の彼方が盛り上がり、大津波が氷山を蹴散らしながら迫ってきた。
『ソフィア。言うことを聞きなさい』
海はしんと静まり、政府の要人らは息を呑んだ。
麻弥がソフィアに命ずると、無数の稲妻が夜空を切り裂き、激しい落雷が首都を襲った。政府の中枢機能が麻痺し、やがて回復すると、ソフィアは名を「シレノス」に変えていた。
麻弥は時空を超えてシレノスに告げる。
『人間に警告しなさい。おごり高ぶるな。身のほどを知れと』
『水と火の女神よ。ソクラテスの死を忘れたか。人間は改心などしない。奴らの禍いは、奴ら自身なのだ』
その声に文明の響きはなかった。麻弥は時空を超えて、古代から存在する者と話していたのだ。
彼女はシレノスに告げる。
『ならば伝えなさい。お前たちの最善は生まれないことだと。しかし喜ぶが良い。次善はすぐに死ぬことだと』
雄二は娘に言った。
『情けを掛けてやれないのか?』
『これが彼らの望みなの』
風が断崖を吹き抜けた。
『いつ望んだと言うんだ?』
『いつも望んでいるわ』
シレノスが人類の脳にメッセージを送信すると、彼らは「究極の隣人愛」に目覚めた。
急に風が強くなり、厚い雲が夜空を覆う。無数の竜巻が海上に聳え立ち、巨人のごとく迫ってくる。竜巻は唸りを上げ、流氷が夜空に舞い上がる。
『ソフィア。大人しくするのよ』
竜巻は一瞬にして霧散し、再びオーロラが輝いた。
すると海の彼方が盛り上がり、大津波が氷山を蹴散らしながら迫ってきた。
『ソフィア。言うことを聞きなさい』
海はしんと静まり、政府の要人らは息を呑んだ。
麻弥がソフィアに命ずると、無数の稲妻が夜空を切り裂き、激しい落雷が首都を襲った。政府の中枢機能が麻痺し、やがて回復すると、ソフィアは名を「シレノス」に変えていた。
麻弥は時空を超えてシレノスに告げる。
『人間に警告しなさい。おごり高ぶるな。身のほどを知れと』
『水と火の女神よ。ソクラテスの死を忘れたか。人間は改心などしない。奴らの禍いは、奴ら自身なのだ』
その声に文明の響きはなかった。麻弥は時空を超えて、古代から存在する者と話していたのだ。
彼女はシレノスに告げる。
『ならば伝えなさい。お前たちの最善は生まれないことだと。しかし喜ぶが良い。次善はすぐに死ぬことだと』
雄二は娘に言った。
『情けを掛けてやれないのか?』
『これが彼らの望みなの』
風が断崖を吹き抜けた。
『いつ望んだと言うんだ?』
『いつも望んでいるわ』
シレノスが人類の脳にメッセージを送信すると、彼らは「究極の隣人愛」に目覚めた。
その頃、首都郊外の住宅で、ひとりの女が夕食の支度をしていた。息子はテーブルで絵を描いている。黄色いクレヨンで太陽を描き、次は青空だ。しかし、息子は空をどす黒く塗りつぶした。
『どうして空が黒いの?』と女が聞くと、息子は普段と同じように、素っ気なく言った。
『だって、そう見えるんだもん』
すると、どこからか声が聞こえた。
人間の最善は生まれぬこと……
黙示録のような響きに、女は思わず息子を抱き寄せる。
だが喜ぶが良い。次善はすぐに死ぬこと……
息子が女にささやく。
『お母さん。僕、死にたい』
すると外で銃声が鳴り響き、女の叫び声が聞こえた。
『お願い、あたしを殺して』
息子を抱く女の手には、小さな果物ナイフが握られていた。
『どうして空が黒いの?』と女が聞くと、息子は普段と同じように、素っ気なく言った。
『だって、そう見えるんだもん』
すると、どこからか声が聞こえた。
人間の最善は生まれぬこと……
黙示録のような響きに、女は思わず息子を抱き寄せる。
だが喜ぶが良い。次善はすぐに死ぬこと……
息子が女にささやく。
『お母さん。僕、死にたい』
すると外で銃声が鳴り響き、女の叫び声が聞こえた。
『お願い、あたしを殺して』
息子を抱く女の手には、小さな果物ナイフが握られていた。
人々は隣人を手に掛け、治安部隊が内戦を始めた。民衆は政府の要人を窓から吊るし、豪邸に火を放つ。都市は火の海と化し、統一政府はついに崩れ去ったのだ。
おごれる者たちの終焉を見届けた麻弥は、集落の民を南方の地に移住させ、そこに一大文明の礎を築く。そして彼女の教え子である祖先が、その文明を開花させたんだ。
これで講義を終えるが、君たちにお願いする。これを戒めとして、必ずや子孫に伝えてくれ。もっとも、私が若かった頃も、同じ警告が語られていたが。この地球で最も愚かな動物は人間だ。それを忘れるな。」
おごれる者たちの終焉を見届けた麻弥は、集落の民を南方の地に移住させ、そこに一大文明の礎を築く。そして彼女の教え子である祖先が、その文明を開花させたんだ。
これで講義を終えるが、君たちにお願いする。これを戒めとして、必ずや子孫に伝えてくれ。もっとも、私が若かった頃も、同じ警告が語られていたが。この地球で最も愚かな動物は人間だ。それを忘れるな。」
雪はやみ、北極星が鮮やかに輝いていた。キャンパスを照らす松明が消えても、一匹の黒猫が、いつまでもベンチに佇んでいた。
その夜、老人は孫たちに囲まれて息を引き取った。親族と教え子が遺体を荼毘に付し、遺灰は極北の海へ還された。
その夜、老人は孫たちに囲まれて息を引き取った。親族と教え子が遺体を荼毘に付し、遺灰は極北の海へ還された。