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曲がり角バンジージャンプ

ー/ー



 今までの人生を一つの言葉で纏めようとすると、結構簡単だ。と言っても、まだ大学生だから、そんな大したほどの長さじゃない。
 ——「ゆるしてほしい」それだけだ。
 別にお巡りさんの世話になったことはない(少なくとも今までは)し、昔同級生を酷くイジめて傷付けたとか、そういうこともない。むしろ、僕は大体の同級生にとってどうでもいい同じ教室にいるだけの人間だったと思う。友達だっていなかったわけじゃないけど、だいたい僕の友達には僕より仲が良い他の友達が何人もいる。二人だけで休日遊びに行ったこともほとんどない。もともと僕を含めて四人で遊びにいく予定があった日のことだが、そのうち二人がなんらかの外せない用事のため行けなくなった、と連絡が入った数分後、最後に残ったもう一人からやんわりとその日に集まるのはやめようかと提案が届いた。だいたいそういうものだ。
 特に教師に褒められたり気に入られた経験もない。その分理不尽に突っかかってくるような者も居なかった。たぶんある日いきなり通り魔に襲われたり、凄惨な事故で死んでも誰も激しい悲しみは持たないだろう。三日で忘れられると見た。
 そこそこ愉快で、不愉快な成分は少ない日常だとは思っている。それ以外には、何もないが。そんな僕の無色透明の暮らしに鮮やかな色が付いたのは、父が若い女性と再婚し、僕も丁度大学に進学する頃だったため、そろそろ家を出てみるかと一人暮らしを始めてからのことだった。
 近所のスーパーに行くのも慣れてきたある日の夕方。レトルト食品の棚に向かう途中、たまたま目の前で納豆の三連パックを買っていった女性がいた。
 僕は、その女性にヒトメボレをした。
 年はわからない、どれくらいなのだろう? 二十代か三十代かな? 波打つ艶々とした黒髪が、そして横顔がとても綺麗だった。綺麗な目の縁を飾る睫毛が長い。一体あのひとには世界がどういう風に見えているのだろう? きっと美しい世界が見えているのだ、だってあんなに綺麗な瞳をしている。そうに違いない。
 僕は数秒ぼんやりとそのひとを見て、彼女がそこから歩き去った後、同じ納豆の三連パックを棚から無意識にとって、買い物カゴに放り込んでいた。



 その日から、近所に住んでいるらしい美しいそのひとを見かけるたびに、僕はそのひとで脳みその中がいっぱいいっぱいになっていく感覚に溺れていた。今日履いてる靴かわいいなぁ、と思ったり、スーパーで姿を見つけたときは、何を買っているのか遠くから眺めたりしていた。買い物が終わり、出て行く後ろ姿を見て、どの方向に帰るのだろうと気になった。こっそり付いていったのは彼女のことを目で追ってから何回目だっただろう?
 彼女の後ろ姿を何度か追いかけて、そのうち、どこに住んでいるのかがわかるようになった。そう僕の住んでいるアパートから遠くない、小さな一軒家。玄関の扉の前に犬の置物が置いてあった。


 今までの人生、いつ頃からかわからないが、ずっと付き纏ってきた何に対するものなのかすら判然としない、罪悪感。そう、言えば良いのだろうか。自分が今ここにいることは何かおかしいんじゃないか、そういった背骨に巻きつくような冷たい不安が、彼女を見ていると無くなっていくような気がした。
 幼い頃に父と離婚した母親にも抱いたことのない安心感。彼女のことをもっと知りたい、距離を縮めたい、僕の不安を消してほしい。僕をゆるしてほしい、たすけてほしい。日に日に、それは増していくばかりだ。

 またスーパーで見かけた彼女の、肩にかけられていたバッグ。開いたままだったその入り口に、僕は購入した盗聴器をするんと落とすように入れた。小さなものなので、もしかしたら気がつかない可能性もある。もし彼女がすぐに気がつき捨てるなり壊すなりしてしまっても、そうでなくともおそらくすぐに有効範囲から出てしまうとは思うけど、その間の数時間でも数分でも、彼女が立てる音をほんのすこしだけでも聞いていたかった。それはとてもしあわせなことに思えた。

 まさか、彼女の娘が訪ねてくるだなんて考えてもいなかったのに。



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 今までの人生を一つの言葉で纏めようとすると、結構簡単だ。と言っても、まだ大学生だから、そんな大したほどの長さじゃない。
 ——「ゆるしてほしい」それだけだ。
 別にお巡りさんの世話になったことはない(少なくとも今までは)し、昔同級生を酷くイジめて傷付けたとか、そういうこともない。むしろ、僕は大体の同級生にとってどうでもいい同じ教室にいるだけの人間だったと思う。友達だっていなかったわけじゃないけど、だいたい僕の友達には僕より仲が良い他の友達が何人もいる。二人だけで休日遊びに行ったこともほとんどない。もともと僕を含めて四人で遊びにいく予定があった日のことだが、そのうち二人がなんらかの外せない用事のため行けなくなった、と連絡が入った数分後、最後に残ったもう一人からやんわりとその日に集まるのはやめようかと提案が届いた。だいたいそういうものだ。
 特に教師に褒められたり気に入られた経験もない。その分理不尽に突っかかってくるような者も居なかった。たぶんある日いきなり通り魔に襲われたり、凄惨な事故で死んでも誰も激しい悲しみは持たないだろう。三日で忘れられると見た。
 そこそこ愉快で、不愉快な成分は少ない日常だとは思っている。それ以外には、何もないが。そんな僕の無色透明の暮らしに鮮やかな色が付いたのは、父が若い女性と再婚し、僕も丁度大学に進学する頃だったため、そろそろ家を出てみるかと一人暮らしを始めてからのことだった。
 近所のスーパーに行くのも慣れてきたある日の夕方。レトルト食品の棚に向かう途中、たまたま目の前で納豆の三連パックを買っていった女性がいた。
 僕は、その女性にヒトメボレをした。
 年はわからない、どれくらいなのだろう? 二十代か三十代かな? 波打つ艶々とした黒髪が、そして横顔がとても綺麗だった。綺麗な目の縁を飾る睫毛が長い。一体あのひとには世界がどういう風に見えているのだろう? きっと美しい世界が見えているのだ、だってあんなに綺麗な瞳をしている。そうに違いない。
 僕は数秒ぼんやりとそのひとを見て、彼女がそこから歩き去った後、同じ納豆の三連パックを棚から無意識にとって、買い物カゴに放り込んでいた。
 その日から、近所に住んでいるらしい美しいそのひとを見かけるたびに、僕はそのひとで脳みその中がいっぱいいっぱいになっていく感覚に溺れていた。今日履いてる靴かわいいなぁ、と思ったり、スーパーで姿を見つけたときは、何を買っているのか遠くから眺めたりしていた。買い物が終わり、出て行く後ろ姿を見て、どの方向に帰るのだろうと気になった。こっそり付いていったのは彼女のことを目で追ってから何回目だっただろう?
 彼女の後ろ姿を何度か追いかけて、そのうち、どこに住んでいるのかがわかるようになった。そう僕の住んでいるアパートから遠くない、小さな一軒家。玄関の扉の前に犬の置物が置いてあった。
 今までの人生、いつ頃からかわからないが、ずっと付き纏ってきた何に対するものなのかすら判然としない、罪悪感。そう、言えば良いのだろうか。自分が今ここにいることは何かおかしいんじゃないか、そういった背骨に巻きつくような冷たい不安が、彼女を見ていると無くなっていくような気がした。
 幼い頃に父と離婚した母親にも抱いたことのない安心感。彼女のことをもっと知りたい、距離を縮めたい、僕の不安を消してほしい。僕をゆるしてほしい、たすけてほしい。日に日に、それは増していくばかりだ。
 またスーパーで見かけた彼女の、肩にかけられていたバッグ。開いたままだったその入り口に、僕は購入した盗聴器をするんと落とすように入れた。小さなものなので、もしかしたら気がつかない可能性もある。もし彼女がすぐに気がつき捨てるなり壊すなりしてしまっても、そうでなくともおそらくすぐに有効範囲から出てしまうとは思うけど、その間の数時間でも数分でも、彼女が立てる音をほんのすこしだけでも聞いていたかった。それはとてもしあわせなことに思えた。
 まさか、彼女の娘が訪ねてくるだなんて考えてもいなかったのに。