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満月の不機嫌

ー/ー



 流は、最初から玲のそばに存在していた。
 元々、親同士が仲がよかったらしく、家も近所だった。幼稚園も小学校も同じで、二歳年下の流は、玲を追いかけて一緒の時間を過ごした。
 子供の頃、流は女の子に間違えられるほど可愛い顔をしていたが、それを言われるのは嫌がった。    
 寂しがりやの泣き虫で、おとなしいくせに頑固で、一度言い出したら曲げなかった。めんどくさいなと思うのに、甘え上手で、一人っ子の玲にとって可愛い弟だった。
 平和で楽しい時間は、確かにそこにあった。
 玲の母はフルタイムで働いていたので、学校から帰ると、すぐ流の家に行った。
 流の母親がにこやかに迎えてくれ、手作りのおやつがいつもあった。玲は、毎日、流の家で遊んで、宿題もして、夕方までいた。
 家族ぐるみで遊びにいくこともあった。
 そんな日々の終わりはすぐやってきた。 
 全くその兆しはなかったかと言われれば、確かにあった。
 少しずつ、目に見えないくらい、ゆっくりとずれていく時計のように、気づけば、そのズレははっきりとわかるようになっていた。
 流が小学校に上がった頃から、流の母親が不在がちになった。
 必ず玲が来るとわかっていたからか、流を一人にして出かけることが多くなった。帰りもだんだん遅くなり、流は一人になるのを嫌がって、玲を引き留めることが増えた。
 流は、いつも両親の喧嘩を気にしていた。
 玲の両親の仲が怪しくなっていたのも、この頃だったようだが、元々不在がちな父親が少し長めに帰ってこなくても、あまり気にしたことはなかった。
 お互いの家族がうまくいっていないのだから、家族で遊びにいくこともなくなった。

 
 夏が終わり、夕方には肌寒くなってきた頃だった。
 玲は小学四年生、流は二年生になっていた。
 母の帰宅を待っていると、電話がかかってきた。
「もしもし」
 電話から聞こえるのは、啜り泣く声だった。
 すぐに、流の声だとわかった。
「ルウか」
「レイちゃん。どうしよう」
 流のか細い声が聞こえた。どうしたのかと尋ねても、流の言葉は出てこない。
「行くから。待ってて」
「うん」
 涙声の返事は、消えそうに頼りなく、このまま消えてしまったらどうしようと、不安でいっぱいになった。
 玲は、息を切らして流の家に走っていった。
 流の家は、住宅地の一軒家で、玄関前に駐車場があった。その片隅の郵便受けにもたれるように、小さな影がうずくまっていた。
「ルウ、来たよ。どうしたの」
 見上げる顔がひどく悲しげで、なのに、すごくかわいくて、こんな時なのに、この顔、良いなと思った。
「なんで、こんなとこで」
「レイちゃん、もう、無理」
 流の顔が崩れて、ほろほろと涙が落ちた。きっと、今まで我慢していたんだと思うと、玲は一緒に泣きたくなった。
 自分が泣くわけにはいかない。奥歯を噛み締めて、飲み込んだ。
 家の中から、時々、怒鳴る声がする。
「家んなかにいるのは誰」
「パパとママ」
「おじさんとおばさん、喧嘩してるの」
 流は、唇を噛んで、涙を両手でゴシゴシ拭った。
「喧嘩してる。パパもママも怖い」
「なんで、喧嘩したの」
「わかんないよ」
 一旦止まった流の涙が、また溢れてくる。玲は、他になだめる方法が思いつかず、流を抱きしめた。流の体の震えが伝わってくる。
「ママが出ていくって」
 抱きしめられたまま、涙声で流がつぶやいた。
「ルウがいるのに、出て行かないよ」
「ママは、僕より大好きな人がいるんだって」
「誰が、そんなこと言ったの。嘘だよ」
「パパ」
 流をなだめながら、玲自身が混乱した。
 いつか、こんな日が来るような気がしていた。流の母親は、少しずつ変わっていったから、何かが起こるような気配はあった。


 玄関のドアがいきなり開いた。中から、大きなスーツケースを持った女の人が出てきた。
「ママ」
 玲を振り払うようにして、流が走っていく。
 その反動で、玲は後ろに尻餅をついた。
 玲がいることを忘れたように走り出す流の後ろ姿に、やっぱりママには敵わないと見送っていたが、いきなり、流が立ち止まった。
 流の母親は、きれいなワンピースを着ていた。
 いつも見る、白いシャツと膝までのスカートじゃない。オレンジ色の大きな花がついた、高いレストランに入れそうな服だった。髪の毛がふわふわ飛んでいた。手にコートを持って、赤い靴は踵が高くて、白い足が細くてきれいだった。
 芸能人みたいだ。
 ルウのママは、あんなにきれいな人だったっけ。
 流も、別人のような母親の姿に、近づけないでいたらしい。
 流の母親はゆっくりと近づいて、流の前にしゃがみこんだ。流の肩を両手で持って、まるで、初めて自分の子供を見るように、じっと流を見つめた。
「ルウちゃん。元気でね」
「どこ行くの。僕も行く」
「ルウちゃんは、行けないの。もう大きくなったから、ママがいなくても、大丈夫」
 すがりつく流を両手で引き離して立ち上がった時、流の父親が怒りを撒き散らしながら、出てきた。
「どこへでも行け」
 そう叫ぶと、流の父親は流の手を掴んだ。流を荷物を振り回すように引っ張って、家の中に入って行った。
 残された流の母親が、そばで立ちすくんでいた玲に微笑む。
 妙に赤い唇に目がいった。この場面に不似合いな笑みを浮かべた唇が嫌で、思わず、目を背けた。
「玲ちゃん。ルウのこと、お願いね」
 少しの間の留守番を頼むように、優しい口調で言ってくる。
 何を言ったら良いのか、わからなかった。今から、この人がどうするのか、もうわかっていたのに、玲は考えることも動くこともできずにいた。
 黙って立っている玲に、流の母親はまた少し笑いかけて、背中を向けた。
 靴の高い音を響かせて、少し先に止まっていたタクシーに向かって歩いていく。乗り込むとすぐに、タクシーのドアは閉まった。
 その音で、玲はようやく動けるようになった。


 玲は、慌てて流の家の玄関にとびこんだ。
「おじさん。おばさん、行っちゃうよ。早く、止めて」
 廊下で、流がしゃがみ込んで泣いていた。その前で、流の父親が、ぼんやりした顔で立っている。
「ルウ」
玲の叫ぶ声に、流の父親の方が反応した。
「お前、なんでここにいる」
「なんでって。ルウが電話してきて」
 大股で玲に近づいてくる流の父親は、目が別人のようだった。怯えて後ずさる玲を見て、流の父親は襲いかかるように、玲の胸ぐらをつかんだ。
「なんだ。その目は。あの男と同じ目をしやがって」
 大人の大きな手が自分の体を揺さぶっていた。
 殴られると、思った。
 流が後ろから父親に縋り付いたのは、玲を助けるためだったと思う。
 でも、それが余計に彼を怒らせたようだ。
 玲から手を離すと、流のシャツの襟をつかんで、引き離した。
「お前まで、俺に逆らうのか。どいつもこいつも」
 振り回されて、小さな流の体はあっけなく飛んだ。壁にぶつかった音が鈍く響いた。
「ルウ」
 叫んだ自分の声が他人のように聞こえて、これは現実ではないような気がした。
 そこからは、あまりよく覚えていない。
 大きな大人の男が本気で暴れたら、小学生の二人ができることなどなかった。
 二人で、玄関から外に逃げようとしたと思う。
 先に流を玄関ドアから押し出すようにして行かせた。
 それから、後ろを振り返ったら、大きな皿が飛んできた。
 いつも居間に飾ってあった、きれいな模様のお皿だった。流のママが大事にしていたものだと思い出した。
 流の父親が投げたそれは、玲の額をめがけて飛んできた。衝撃で後ろにひっくりかえり、玄関のドアから外に飛び出て、倒れた。
 仰向けにひっくり返り、頭がぼんやりして動けなかった。
 あの時、きれいな満月が見えた。
 空に浮かぶ月はまんまるで、いつもより大きくて、とても明るく光っていた。
 満月が、だんだんと真っ赤に染まっていった。
 額を流れる生温い水は、自分の血だと気づいた。
 不思議と、どこも痛みは感じなかった。
 狭くなっていく視野の中で、流のくしゃくしゃになった泣き顔が見えた。
 流が何か叫んでる。
「ほら、お月さま」
 流を安心させたくて、玲は月を指差した。
 振り返った流の目にも、満月が見えたのだろう。
 大きくて明るい満月は、その時の出来事と一緒に、流の中に刻み込まれた。
 そして、流は、満月が大嫌いになった。

 
 満月の日には、流はいつも以上に不機嫌になり、口数も減る。二人の間に、会話の少ない気まずい空気が流れる。
 それも、いつものことなので、気にしない振りは上手くなった。
 今日は、流が最初気づいていなかっただけ、ぴりぴりした時間は少なくて済んだことになる。
 もちろん、最初から、満月だと知っていて、不機嫌を隠していない日も多い。
 そんな時でもなぜか流は玲を追い返したりはしない。
 口では帰れと言いながら、大げんかをした後のような空気のまま、それ以上突き放すこともない。
 玲自身は、それを承知で来ている。だが、流の気持ちは正直、よくわからない。
 追い返さないのは、玲に気を遣っているのか、単に一人が寂しいからなのか。
 不機嫌なままの流は、いつものように、玲と過ごす。
 だから、玲も、素知らぬ顔で、その時間を過ごしてきた。
 今日も、何も言わない流がふらりと部屋から出ていった。その後ろ姿を見送って、一人、コップ酒を飲む。
 何をしに行ったのか尋ねたところで、返事が返って来るとは思えないから、そうするしかない。
 今日は、やはり少しきついなと思っていたら、流が襖を開けて入ってきた。
「湯張った。風呂入れば」
「お、いいの」
 嬉しそうな声になってしまった。当然、流は嫌な顔を隠さない。
「ごちゃごちゃ言うなら、帰れ」
 相変わらずの対応をしてくる流だったが、それを煽っている自分がいることも、玲は自覚していた。それに反応してくれるなら、その方がまだ気楽だった。
「一緒にお前も入る」
 にこにこ笑いながら、聞いてしまう。
「誰が入るか」
 定番の返事をもらった。
 
 
 真っ白な湯船に浸かりながら、玲は自分の右腕を見た。
 玲の右腕には大きな傷がある。
 いつも以上に明るく大きな満月が出ているせいか、あの日のことをしきりに思い出す。
 あの日、気づいたら、病院のベッドにいた。
 流の父親が投げた皿は、咄嗟に頭を庇ったらしい玲の右腕を折り、そのおかげで、額はぱっくりと裂けただけで済んだ。
 後ろに倒れた時に頭を打ったらしいが、そっちは大きなたんこぶと擦り傷を作っただけだった。
 右腕は肘から手首まで真っ白なギプスで固定されていた。
 額は、医者が丁寧に縫ってくれたらしいが、くっきりと跡が残った。特に、真夏に日焼けしてしまうと、傷跡が目立った。
 額を直撃していたら、死んでいたかもしれないと、後で言われた。
 玲は、しばらく入院した。
 念の為と、あちこち精密検査をされ、頭の傷が癒え、固定された腕の腫れが目立たなくなった頃、退院した。 
 その間、流に会えなかった。一度も、流が来てくれなかったからだ。
 母に聞いても、忙しいのかもねと言い、それ以上は言ってくれなかった。
 玲の父親がいなくなったと知ったのは、退院する少し前だ。
 出ていく前に、離婚届を置いていったと母が言った。隠しても、わかることだしねと、母は言い、ごめんねと謝った。
 最近は、ほとんど家に帰らない父親だったし、帰ってきたとしても、お互い話しかけない嫌な空気は漂っていたから、こうなることは、薄々感じていた。
 母以外に好きな人ができて、その人と行ってしまったらしいと、その頃の玲にもわかった。あまり面白くはなかったが、父親だというには接点がなさすぎて、いない方が平和だったので、それほどショックではなかった。
 それより、流の方が気になっていた。
「ルウ、元気かな」
 そう言うと、母は普段より早口で言った。
「ルウちゃん、おじいさんの家に行くんだって。だから、転校するみたい」
 ああそうかと思った。
 母親がいなくなってしまって、父親だけでは流の面倒を見ることができなくなったのだと納得した。
 それなら、その方がいい。あんなに暴れる父親と二人きりなんて、流が危ない。
 転校してしまうのは辛いけど、流の祖父の家は、会えない距離ではない。玲の方から行けばいいんだと、すぐに考えた。
「ルウのおじいちゃんちなら、知ってる。遊びに行ってもいい」
 ほっとして、そう聞くと、母はきゅっと唇を強く閉めた。
「ルウちゃんとは、もう遊べないかも」
 えっと声が出た。
「なんで。僕がけがしたから」
「そうじゃないけど」
「じゃ、なんで」
 母は、何度聞いても、それ以上何も言ってくれなかった。
 母が何も言わないということは、やっぱり、玲のけがが原因だと思った。
 流が怒っているのではないか。怒っているのは、流の父親か。それを流が気にしているのか。
 もう遊べないということは、そういうことではないか。そればかりが気になった。
 

「上がったぞ。入ってこいよ」
 風呂から上がって部屋に入ると、もう食卓は片付けられて、布団が二組敷かれていた。几帳面な流らしく、きっちり一人分くらいの間が空いている。
 壁にもたれて座っていた流がぼんやりとした顔を向けた。
 眠っていたのかもしれないと思った。
 まだ少し酔いの残った、うっすらと赤い頬をした流は、気だるそうに玲から目を背けたが、その仕草にむしろ誘っているような色気が漂う。
「もう、お前、やっぱり帰れよ」
 不機嫌そうな声で、また、そう言われたが、それもなぜか拗ねているように聞こえる。
「布団、敷いといて、よく言うよ」
 そう返すと、流はますます渋い顔になって、立ち上がった。
「長湯すんなよ。酒入ってるから」
 ふらりと出ていく後ろ姿に声をかけるが、返事など返ってこない。
 廊下に消える流を見送って、部屋の布団を眺めた。
「わざわざ、こんなに間を空けなくてもいいのになあ」
 二組の布団の距離は、二人の距離を示しているのだと思う。
 今日は満月だから、流は普段以上に敏感になっている。いつもより、その距離が長く見える。
 それでも、玲だけ一人で一階に寝させることはなかった。
 いつも、二人枕を並べて、寝る。
 何度か、二階の流の部屋を見たことがあるが、そこには、しっかりしたベッドがあった。玲が知る限り、流がそこで寝ることはなくなっている。
「ああ、そうか」
 そこまで考えて、声が出た。
 流が布団を敷いて一階で寝るようになったのは、流の祖父が亡くなって、玲が流の家に行くようになってからだ。
 二階の部屋は、ベッド以外に机や本棚があり、もう一組布団を敷くスペースはなかった。こうして、二人、並んで寝るためには、この方法しかない。
 流は、玲が泊まることを考えて、毎日、布団を敷いて寝ることにしたのかもしれない。
 今さらだが、そんな可能性に気づいた。
 それは、流が玲を待ってくれているということか。
 そんな都合のいいことを考えてしまう自分に、正直、呆れる。
 満月の夜は、夜がふけるにつれ、ますます流が無口になっていく。不安定で神経質な顔になって、危なげな空気を全体に醸し出す。
 それが、満月の日に母親が出て行ったことと関係しているのは間違いないが、流は一度も母親のことを口にしていない。
 玲は、冷蔵庫から水のペットボトルを持ってくると、窓際に座って窓を開けた。
 夜の冷気が火照った体に心地よい。
 外は、満月の光で驚くほど明るかった。
 今日も、満月が窓からよく見えた。


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 流は、最初から玲のそばに存在していた。
 元々、親同士が仲がよかったらしく、家も近所だった。幼稚園も小学校も同じで、二歳年下の流は、玲を追いかけて一緒の時間を過ごした。
 子供の頃、流は女の子に間違えられるほど可愛い顔をしていたが、それを言われるのは嫌がった。    
 寂しがりやの泣き虫で、おとなしいくせに頑固で、一度言い出したら曲げなかった。めんどくさいなと思うのに、甘え上手で、一人っ子の玲にとって可愛い弟だった。
 平和で楽しい時間は、確かにそこにあった。
 玲の母はフルタイムで働いていたので、学校から帰ると、すぐ流の家に行った。
 流の母親がにこやかに迎えてくれ、手作りのおやつがいつもあった。玲は、毎日、流の家で遊んで、宿題もして、夕方までいた。
 家族ぐるみで遊びにいくこともあった。
 そんな日々の終わりはすぐやってきた。 
 全くその兆しはなかったかと言われれば、確かにあった。
 少しずつ、目に見えないくらい、ゆっくりとずれていく時計のように、気づけば、そのズレははっきりとわかるようになっていた。
 流が小学校に上がった頃から、流の母親が不在がちになった。
 必ず玲が来るとわかっていたからか、流を一人にして出かけることが多くなった。帰りもだんだん遅くなり、流は一人になるのを嫌がって、玲を引き留めることが増えた。
 流は、いつも両親の喧嘩を気にしていた。
 玲の両親の仲が怪しくなっていたのも、この頃だったようだが、元々不在がちな父親が少し長めに帰ってこなくても、あまり気にしたことはなかった。
 お互いの家族がうまくいっていないのだから、家族で遊びにいくこともなくなった。
 夏が終わり、夕方には肌寒くなってきた頃だった。
 玲は小学四年生、流は二年生になっていた。
 母の帰宅を待っていると、電話がかかってきた。
「もしもし」
 電話から聞こえるのは、啜り泣く声だった。
 すぐに、流の声だとわかった。
「ルウか」
「レイちゃん。どうしよう」
 流のか細い声が聞こえた。どうしたのかと尋ねても、流の言葉は出てこない。
「行くから。待ってて」
「うん」
 涙声の返事は、消えそうに頼りなく、このまま消えてしまったらどうしようと、不安でいっぱいになった。
 玲は、息を切らして流の家に走っていった。
 流の家は、住宅地の一軒家で、玄関前に駐車場があった。その片隅の郵便受けにもたれるように、小さな影がうずくまっていた。
「ルウ、来たよ。どうしたの」
 見上げる顔がひどく悲しげで、なのに、すごくかわいくて、こんな時なのに、この顔、良いなと思った。
「なんで、こんなとこで」
「レイちゃん、もう、無理」
 流の顔が崩れて、ほろほろと涙が落ちた。きっと、今まで我慢していたんだと思うと、玲は一緒に泣きたくなった。
 自分が泣くわけにはいかない。奥歯を噛み締めて、飲み込んだ。
 家の中から、時々、怒鳴る声がする。
「家んなかにいるのは誰」
「パパとママ」
「おじさんとおばさん、喧嘩してるの」
 流は、唇を噛んで、涙を両手でゴシゴシ拭った。
「喧嘩してる。パパもママも怖い」
「なんで、喧嘩したの」
「わかんないよ」
 一旦止まった流の涙が、また溢れてくる。玲は、他になだめる方法が思いつかず、流を抱きしめた。流の体の震えが伝わってくる。
「ママが出ていくって」
 抱きしめられたまま、涙声で流がつぶやいた。
「ルウがいるのに、出て行かないよ」
「ママは、僕より大好きな人がいるんだって」
「誰が、そんなこと言ったの。嘘だよ」
「パパ」
 流をなだめながら、玲自身が混乱した。
 いつか、こんな日が来るような気がしていた。流の母親は、少しずつ変わっていったから、何かが起こるような気配はあった。
 玄関のドアがいきなり開いた。中から、大きなスーツケースを持った女の人が出てきた。
「ママ」
 玲を振り払うようにして、流が走っていく。
 その反動で、玲は後ろに尻餅をついた。
 玲がいることを忘れたように走り出す流の後ろ姿に、やっぱりママには敵わないと見送っていたが、いきなり、流が立ち止まった。
 流の母親は、きれいなワンピースを着ていた。
 いつも見る、白いシャツと膝までのスカートじゃない。オレンジ色の大きな花がついた、高いレストランに入れそうな服だった。髪の毛がふわふわ飛んでいた。手にコートを持って、赤い靴は踵が高くて、白い足が細くてきれいだった。
 芸能人みたいだ。
 ルウのママは、あんなにきれいな人だったっけ。
 流も、別人のような母親の姿に、近づけないでいたらしい。
 流の母親はゆっくりと近づいて、流の前にしゃがみこんだ。流の肩を両手で持って、まるで、初めて自分の子供を見るように、じっと流を見つめた。
「ルウちゃん。元気でね」
「どこ行くの。僕も行く」
「ルウちゃんは、行けないの。もう大きくなったから、ママがいなくても、大丈夫」
 すがりつく流を両手で引き離して立ち上がった時、流の父親が怒りを撒き散らしながら、出てきた。
「どこへでも行け」
 そう叫ぶと、流の父親は流の手を掴んだ。流を荷物を振り回すように引っ張って、家の中に入って行った。
 残された流の母親が、そばで立ちすくんでいた玲に微笑む。
 妙に赤い唇に目がいった。この場面に不似合いな笑みを浮かべた唇が嫌で、思わず、目を背けた。
「玲ちゃん。ルウのこと、お願いね」
 少しの間の留守番を頼むように、優しい口調で言ってくる。
 何を言ったら良いのか、わからなかった。今から、この人がどうするのか、もうわかっていたのに、玲は考えることも動くこともできずにいた。
 黙って立っている玲に、流の母親はまた少し笑いかけて、背中を向けた。
 靴の高い音を響かせて、少し先に止まっていたタクシーに向かって歩いていく。乗り込むとすぐに、タクシーのドアは閉まった。
 その音で、玲はようやく動けるようになった。
 玲は、慌てて流の家の玄関にとびこんだ。
「おじさん。おばさん、行っちゃうよ。早く、止めて」
 廊下で、流がしゃがみ込んで泣いていた。その前で、流の父親が、ぼんやりした顔で立っている。
「ルウ」
玲の叫ぶ声に、流の父親の方が反応した。
「お前、なんでここにいる」
「なんでって。ルウが電話してきて」
 大股で玲に近づいてくる流の父親は、目が別人のようだった。怯えて後ずさる玲を見て、流の父親は襲いかかるように、玲の胸ぐらをつかんだ。
「なんだ。その目は。あの男と同じ目をしやがって」
 大人の大きな手が自分の体を揺さぶっていた。
 殴られると、思った。
 流が後ろから父親に縋り付いたのは、玲を助けるためだったと思う。
 でも、それが余計に彼を怒らせたようだ。
 玲から手を離すと、流のシャツの襟をつかんで、引き離した。
「お前まで、俺に逆らうのか。どいつもこいつも」
 振り回されて、小さな流の体はあっけなく飛んだ。壁にぶつかった音が鈍く響いた。
「ルウ」
 叫んだ自分の声が他人のように聞こえて、これは現実ではないような気がした。
 そこからは、あまりよく覚えていない。
 大きな大人の男が本気で暴れたら、小学生の二人ができることなどなかった。
 二人で、玄関から外に逃げようとしたと思う。
 先に流を玄関ドアから押し出すようにして行かせた。
 それから、後ろを振り返ったら、大きな皿が飛んできた。
 いつも居間に飾ってあった、きれいな模様のお皿だった。流のママが大事にしていたものだと思い出した。
 流の父親が投げたそれは、玲の額をめがけて飛んできた。衝撃で後ろにひっくりかえり、玄関のドアから外に飛び出て、倒れた。
 仰向けにひっくり返り、頭がぼんやりして動けなかった。
 あの時、きれいな満月が見えた。
 空に浮かぶ月はまんまるで、いつもより大きくて、とても明るく光っていた。
 満月が、だんだんと真っ赤に染まっていった。
 額を流れる生温い水は、自分の血だと気づいた。
 不思議と、どこも痛みは感じなかった。
 狭くなっていく視野の中で、流のくしゃくしゃになった泣き顔が見えた。
 流が何か叫んでる。
「ほら、お月さま」
 流を安心させたくて、玲は月を指差した。
 振り返った流の目にも、満月が見えたのだろう。
 大きくて明るい満月は、その時の出来事と一緒に、流の中に刻み込まれた。
 そして、流は、満月が大嫌いになった。
 満月の日には、流はいつも以上に不機嫌になり、口数も減る。二人の間に、会話の少ない気まずい空気が流れる。
 それも、いつものことなので、気にしない振りは上手くなった。
 今日は、流が最初気づいていなかっただけ、ぴりぴりした時間は少なくて済んだことになる。
 もちろん、最初から、満月だと知っていて、不機嫌を隠していない日も多い。
 そんな時でもなぜか流は玲を追い返したりはしない。
 口では帰れと言いながら、大げんかをした後のような空気のまま、それ以上突き放すこともない。
 玲自身は、それを承知で来ている。だが、流の気持ちは正直、よくわからない。
 追い返さないのは、玲に気を遣っているのか、単に一人が寂しいからなのか。
 不機嫌なままの流は、いつものように、玲と過ごす。
 だから、玲も、素知らぬ顔で、その時間を過ごしてきた。
 今日も、何も言わない流がふらりと部屋から出ていった。その後ろ姿を見送って、一人、コップ酒を飲む。
 何をしに行ったのか尋ねたところで、返事が返って来るとは思えないから、そうするしかない。
 今日は、やはり少しきついなと思っていたら、流が襖を開けて入ってきた。
「湯張った。風呂入れば」
「お、いいの」
 嬉しそうな声になってしまった。当然、流は嫌な顔を隠さない。
「ごちゃごちゃ言うなら、帰れ」
 相変わらずの対応をしてくる流だったが、それを煽っている自分がいることも、玲は自覚していた。それに反応してくれるなら、その方がまだ気楽だった。
「一緒にお前も入る」
 にこにこ笑いながら、聞いてしまう。
「誰が入るか」
 定番の返事をもらった。
 真っ白な湯船に浸かりながら、玲は自分の右腕を見た。
 玲の右腕には大きな傷がある。
 いつも以上に明るく大きな満月が出ているせいか、あの日のことをしきりに思い出す。
 あの日、気づいたら、病院のベッドにいた。
 流の父親が投げた皿は、咄嗟に頭を庇ったらしい玲の右腕を折り、そのおかげで、額はぱっくりと裂けただけで済んだ。
 後ろに倒れた時に頭を打ったらしいが、そっちは大きなたんこぶと擦り傷を作っただけだった。
 右腕は肘から手首まで真っ白なギプスで固定されていた。
 額は、医者が丁寧に縫ってくれたらしいが、くっきりと跡が残った。特に、真夏に日焼けしてしまうと、傷跡が目立った。
 額を直撃していたら、死んでいたかもしれないと、後で言われた。
 玲は、しばらく入院した。
 念の為と、あちこち精密検査をされ、頭の傷が癒え、固定された腕の腫れが目立たなくなった頃、退院した。 
 その間、流に会えなかった。一度も、流が来てくれなかったからだ。
 母に聞いても、忙しいのかもねと言い、それ以上は言ってくれなかった。
 玲の父親がいなくなったと知ったのは、退院する少し前だ。
 出ていく前に、離婚届を置いていったと母が言った。隠しても、わかることだしねと、母は言い、ごめんねと謝った。
 最近は、ほとんど家に帰らない父親だったし、帰ってきたとしても、お互い話しかけない嫌な空気は漂っていたから、こうなることは、薄々感じていた。
 母以外に好きな人ができて、その人と行ってしまったらしいと、その頃の玲にもわかった。あまり面白くはなかったが、父親だというには接点がなさすぎて、いない方が平和だったので、それほどショックではなかった。
 それより、流の方が気になっていた。
「ルウ、元気かな」
 そう言うと、母は普段より早口で言った。
「ルウちゃん、おじいさんの家に行くんだって。だから、転校するみたい」
 ああそうかと思った。
 母親がいなくなってしまって、父親だけでは流の面倒を見ることができなくなったのだと納得した。
 それなら、その方がいい。あんなに暴れる父親と二人きりなんて、流が危ない。
 転校してしまうのは辛いけど、流の祖父の家は、会えない距離ではない。玲の方から行けばいいんだと、すぐに考えた。
「ルウのおじいちゃんちなら、知ってる。遊びに行ってもいい」
 ほっとして、そう聞くと、母はきゅっと唇を強く閉めた。
「ルウちゃんとは、もう遊べないかも」
 えっと声が出た。
「なんで。僕がけがしたから」
「そうじゃないけど」
「じゃ、なんで」
 母は、何度聞いても、それ以上何も言ってくれなかった。
 母が何も言わないということは、やっぱり、玲のけがが原因だと思った。
 流が怒っているのではないか。怒っているのは、流の父親か。それを流が気にしているのか。
 もう遊べないということは、そういうことではないか。そればかりが気になった。
「上がったぞ。入ってこいよ」
 風呂から上がって部屋に入ると、もう食卓は片付けられて、布団が二組敷かれていた。几帳面な流らしく、きっちり一人分くらいの間が空いている。
 壁にもたれて座っていた流がぼんやりとした顔を向けた。
 眠っていたのかもしれないと思った。
 まだ少し酔いの残った、うっすらと赤い頬をした流は、気だるそうに玲から目を背けたが、その仕草にむしろ誘っているような色気が漂う。
「もう、お前、やっぱり帰れよ」
 不機嫌そうな声で、また、そう言われたが、それもなぜか拗ねているように聞こえる。
「布団、敷いといて、よく言うよ」
 そう返すと、流はますます渋い顔になって、立ち上がった。
「長湯すんなよ。酒入ってるから」
 ふらりと出ていく後ろ姿に声をかけるが、返事など返ってこない。
 廊下に消える流を見送って、部屋の布団を眺めた。
「わざわざ、こんなに間を空けなくてもいいのになあ」
 二組の布団の距離は、二人の距離を示しているのだと思う。
 今日は満月だから、流は普段以上に敏感になっている。いつもより、その距離が長く見える。
 それでも、玲だけ一人で一階に寝させることはなかった。
 いつも、二人枕を並べて、寝る。
 何度か、二階の流の部屋を見たことがあるが、そこには、しっかりしたベッドがあった。玲が知る限り、流がそこで寝ることはなくなっている。
「ああ、そうか」
 そこまで考えて、声が出た。
 流が布団を敷いて一階で寝るようになったのは、流の祖父が亡くなって、玲が流の家に行くようになってからだ。
 二階の部屋は、ベッド以外に机や本棚があり、もう一組布団を敷くスペースはなかった。こうして、二人、並んで寝るためには、この方法しかない。
 流は、玲が泊まることを考えて、毎日、布団を敷いて寝ることにしたのかもしれない。
 今さらだが、そんな可能性に気づいた。
 それは、流が玲を待ってくれているということか。
 そんな都合のいいことを考えてしまう自分に、正直、呆れる。
 満月の夜は、夜がふけるにつれ、ますます流が無口になっていく。不安定で神経質な顔になって、危なげな空気を全体に醸し出す。
 それが、満月の日に母親が出て行ったことと関係しているのは間違いないが、流は一度も母親のことを口にしていない。
 玲は、冷蔵庫から水のペットボトルを持ってくると、窓際に座って窓を開けた。
 夜の冷気が火照った体に心地よい。
 外は、満月の光で驚くほど明るかった。
 今日も、満月が窓からよく見えた。