その男は突然現れた。
山に囲まれ、昼下がりには縁側でお茶の湯気が立ちのぼる――そんな平和そのものの「ひだまり村」に、ある日、明らかに場違いな男が現れた。
黒いロングコート。
刃物のように鋭い眼光。
頬には一本、古い傷痕。
そして何より、背中に背負った細長く大きな包み。
「……見たか?」
「見た見た。あれ、絶対に武器だろ」
噂は一瞬で広がった。
地上げ屋か、殺し屋か、それとも裏社会の用心棒か。
村人たちは、ひだまり村に似つかわしくない単語を、ひそひそと口にした。
男は村外れの、長らく空き家になっていたボロ屋を借りると、大家に一言だけ告げた。
「しばらく、ここに住まわせてもらう」
それきり男は村へは来ず、毎日、黙って山へと入っていった。
不安に駆られた村人たちは、交代で男を見張ることにした。
だが、報告が集まるたび、空気はますます重くなっていく。
「夜中だ。月明かりの下で、あの男が……人形を抱いていた」
藁人形のようにも見えるそれを腕に抱き、男はゆらゆらと身体を揺らしながら、低い声で何かを唱えていたという。
「呪術にきまっている……」
「きっと、誰かを呪い殺そうとしているんだ」
別の日には、山道での目撃情報がもたらされた。
「音ひとつ立てず、落ち葉の上を歩いてた。忍び足だ。間違いなく暗殺の訓練だ」
さらに追い打ちをかけるような話もあった。
「巨大なリュックを背負って、泥だらけになりながらスクワットしてた。あれは人を背負う想定だ」
村人たちは顔を見合わせ、重々しくうなずき合った。
ひだまり村最大の危機が、刻一刻と近づいている――
誰もが、そう信じて疑わなかった。
そして数週間が過ぎた頃、運命の朝がやってきた。
村の入口に、見たこともない高級車が一台、静かに止まった。
降りてきたのは、黒いサングラスに黒服の男たち。
「来た……」
「敵の組織だ……」
息を潜める村人たちの前で、ボロ屋の扉が軋む音を立てて開いた。
あの男だ。
男は無言で歩み出ると、背中の包みに手をかけた。
紐が解かれ、布がほどかれる。
――ついに武器が。
だが次の瞬間、現れたのは、銀色に輝くフレームだった。
最新式、多機能、衝撃吸収サスペンション付き――
ベビーカーである。
同時に、高級車の後部座席から、優しげな女性が降り立った。
その腕には、小さな小さな赤ん坊が抱かれている。
「待たせたな」
男はそう言って、赤ん坊を受け取った。
その手つきは驚くほど慎重で、
鋭かった眼光は、嘘のように柔らいでいた。
男は、これまで表に出ない仕事だけを生きてきた人物だった。
任務と結果だけを求められる世界で、長く身を置いてきた。
だからこそ、初めて向き合う「育てる」という役割に、彼は誰よりも本気になった。
「中途半端は嫌なんだ」
そう言って男は時間を作り、
体力も、技術も、環境も――すべてを整えるため、ひとり村に入ったのだ。
深夜の人形は、寝かしつけの練習。
忍び足は、眠りを妨げないための歩き方。
重りを詰めたリュックは、日々の荷物に耐えるためだった。
真実を知った村人たちは、しばらく言葉を失っていた。
その沈黙を破ったのは、赤ん坊の小さな声だった。
「パパでちゅよー。ほらほらー」
男はそう言って、完全に顔を崩した。
数時間後。
村の広場では、屈強な体つきの男が、腕を組んだ村のおばちゃんたちに囲まれていた。
「そこ!オムツはこう!」
「力、入れすぎ!」
赤ん坊は満足そうに眠っている。
世界一強そうで、
そして世界一振り回されている新米パパの姿を見て、
ひだまり村は、いつもより少しだけあたたかい笑いに包まれていた。
了