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遠隔兵士

ー/ー




汗に濡れた指先がコントローラーを滑り落としそうになる。画面に浮かぶ照準器が揺らめきながら、標的の頭部を捉えた。躊躇いなど、もはやなかった。引き金に触れた指に、微かな震えすら感じない。
轟音が会場を震わせ、歓声が天井まで届く。「HEADSHOT!」という電子音が、まるで祝福の鐘のように鳴り響いた。
「ということで、今年のFPS大会は、昨年に続き、サンズ選手の優勝となりました!三連覇という偉業を成し遂げた彼に、もう一度大きな拍手を!」
実況の声に導かれるように、会場全体が興奮の渦に包まれていく。小林玲央はサンズの名で知られる青年は、静かに立ち上がった。三十六時間に及ぶ予選から決勝まで、その全てを勝ち抜いた代償として、体の隅々まで疲労が染み渡っている。
薄暮に染まる街並みを抜けようとした時、黒いスーツの男が薄い影を引きずりながら近づいてきた。決勝戦の間中、会場の最後尾で自分を凝視していた男だ。他の観客とは明らかに異質な、物言わぬ存在感を放っていた。
「失礼、政府機関の速水と申します」
素早い動作で取り出された身分証。確かに政府機関の職員証らしきものだが、なぜ自分のような者に接触を?疑問が膨らむ間もなく、男は淡々と語り始めた。
「小林玲央さん、27歳。六年前から国内のFPS大会で頭角を現し、三年前からは国際大会でも優勝を重ねている。特に、動く標的への反応速度と正確性は世界でもトップクラス。しかも、プレッシャーが強ければ強いほど、その能力を遺憾なく発揮する」
まるで暗記していたかのように、速水は小林の戦歴を列挙していく。そして、最後にある言葉を付け加えた。
「そして、あなたにはもう一つ、重要な要素がある。自衛隊を志願し、最終選考まで残った経歴です」
その言葉に、小林は思わず息を呑んだ。確かに高校卒業後、自衛隊を志願したことはある。だが最終的には家族の反対で断念した、誰にも語ることのなかった過去のはずだった。
「あなたの能力が必要なのです。日本の、そして世界の未来のために」
速水の目は真剣そのものだった。
「お話があります。ここではなく...もし宜しければ、車で十分ほどの場所に当室の施設があります」
速水は背後に控えるワンボックスカーを指差した。街灯の光が弱まりつつある通りで、艶のある黒い車体が不吉な影を落としている。小林は、自分の人生の分岐点が、この瞬間に訪れたことを直感的に悟っていた。
「話だけでも、聞かせていただけますか?」
自らの声が僅かに震えているのを感じながら、小林は答えた。速水は小さく頷き、後部座席のドアを開いた。車内の闇が、まるで運命の入り口のように口を開いている。
夜の街並みが車窓を流れていく。信号機の赤と青が、車内の沈黙を彩っていた。速水は終始無言。小林も質問する気にはなれなかった。ただ、この静寂の中で、何か取り返しのつかないことが始まろうとしているという予感だけが、重く心に圧し掛かっていた。

十分と言われた道のりは、実際には二十分を超えていた。
車は建物の裏手へと回り込み、地下駐車場への緩やかな傾斜路を下り始めた。ヘッドライトが闇を切り裂いていく。携帯の画面が圏外を示して消えた時、小林は不意に孤独を感じていた。
黒塗りの車両は三つの警備ゲートを通過していく。最後の装甲のような分厚い鋼鉄の扉が開かれた時、もう後戻りはできないという確信が、重く胸に沈んでいった。
「地下五階です」
速水の声に合わせ、エレベーターの扉が開く。蛍光灯の無機質な光が白いタイル張りの廊下を照らし、消毒液の匂いが漂っていた。病院めいた雰囲気でありながら、それ以上に研究施設じみた空間が広がっていく。
通された会議室は、想像以上に小さかった。楕円形のテーブルを囲む八脚の革張りの椅子。正面の大型スクリーン。そして、テーブルの中央には、あまりにも見慣れたものが置かれていた。
「これは...ゲーム機のコントローラーですか?」
速水は答えの代わりに、薄い笑みを浮かべただけだった。
扉が開き、がっしりとした体格の外国人が入ってきた。軍人特有の佇まい。年齢は50代半ばといったところか。
「ジョン・ジョンソン大佐だ。国防総省特殊作戦部から来ている」
流暢な日本語に驚く間もなく、スクリーンが明るく輝き始めた。
「我々は今、非常に深刻な事態に直面している」
映し出されたのは、中東の衛星写真。某国の山岳地帯が拡大されていく。
「このエリアで、テロ組織が新型の科学兵器の開発施設を持っている可能性が98%以上だ。既に、小規模な実験が行われた形跡もある」
次々と映し出される画像。無人偵察機が撮影したと思われる施設の写真。そして...犠牲者の姿。思わず目を背けたくなる光景だった。
「私たちはこのテロ組織の撲滅を目指している」
 ジョンソンの声が重く響く。
「だが、この地域での軍事行動には複雑な政治的制約がある。アメリカ軍の直接介入は、さらなる地域の不安定化を招くリスクが高すぎる」
「そこで、日本に協力を要請した」速水が続ける。
「だが、我が国も憲法の制約がある。自衛隊の派遣は不可能だ」
「では、どうやって...」
答えは、目の前にあった。あのコントローラー。スクリーンが切り替わる。
「作戦名:サイレントキル」
映し出されたのは、人型の軍用ロボットだった。全高2メートルほど。装甲はマットブラック。人間の姿を模しているが、その表情には何の感情も宿っていない。
「最新鋭の遠隔操作システムだ。このユニットを、君に操縦してもらいたい」
「これが...コントローラーの正体」
手に取ってみる。重さは本物のコントローラーとほぼ同じ。しかし、グリップの感触が微妙に違う。
「実戦での操作感は、ほぼFPSゲームと変わらない」ジョンソンが説明を続ける。
「むしろ、君のような熟練プレイヤーの方が、従来の軍事訓練を受けた兵士よりも高いパフォーマンスを発揮できる」
「ただし」その声が急に厳しくなる。
「これは決してゲームではない。君の操作で倒した敵は、本当に命を落とす。その覚悟は必要だ」
「報酬の説明をさせていただきます」
速水が分厚い書類を広げる。
「基本給として月額800万円。作戦達成ボーナスとして、一回につき最大1000万円。着手金として、契約成立時に5000万円を即時支給。これらはすべて非課税措置が取られます」
胸が締め付けられる感覚。だが、その時携帯の中の母からのメッセージが頭をよぎった。
「玲央…心配かけてごめんね。でも大丈夫よ。お母さんの手術費用なんて気にしないで…」
末期の膵臓がん。高額な治療費。残された時間は…
冷や汗が背中を伝う。これは悪魔の取引なのか、それとも...。
「分かりました...やります」
「契約書にサインを」
速水が差し出す万年筆。ペン先が紙面に触れた瞬間、警報のような音が鳴った。それは、おそらく俺の良心が鳴らした最後の警告だったのかもしれない。
背後でゆっくりと扉が閉まる音。それは、まるで棺桶の蓋が閉じるような音に聞こえた。

そしてある日。
「小林さん、お疲れ様です」
午後六時。システムエンジニアとしての仕事を終え、オフィスを出る。同僚たちは上着を脱ぎながら、居酒屋に向かう流れを作っている。声をかけられても、いつもの「家に用事が」という言い訳で断る。
(誰にも話せない。この二重生活のことを)
地下鉄に乗り込む。半年前まで、自分がこんな生活を送ることになるとは想像もしていなかった。昼はコードを書き、夜は人を殺す——。その非現実的な二重生活が、今や日常となっていた。
午後七時。地下施設の更衣室で作戦服に着替える。黒い生地は体にぴったりとフィットしている。鏡に映る自分の姿は、まるでゲームのキャラクターのようだった。そう思い込まないと、気が狂いそうになる。
「本日の作戦概要を説明します」
管制室に入ると、速水が立ち上がった。大型スクリーンには、中東のある都市の衛星写真が映し出されている。
(また、誰かの人生を消さなければならない)
その思いを振り払うように、小林は首を振った。感情を持ち込めば、引き金を引くことはできない。
「標的は、この5階建ての建物。テロ組織の幹部が、科学兵器の取引の打ち合わせのために集まっているとの情報です」
スクリーンに次々と映し出される顔写真。かつては一人一人の表情に物語を見出していた。家族がいるだろうか、どんな人生を送ってきたのだろうかと。今はただの標的でしかない。そうでなければ、正気を保てない。
コントローラーを手に取ると、親指が自然とスティックの位置に収まる。どれほどの時間をFPSに費やしてきただろう。その全ての経験が、今は人の命を奪うために使われている。
遠隔操作ロボットの視界が広がる。時差の関係で、現地は夜明け前。建物は薄暮の中にぼんやりと浮かび上がっていた。
「周辺警備、6名確認」
耳元のイヤピースから、次々と情報が流れ込んでくる。もう慣れた声。慣れてはいけない声。
一歩一歩、死角を確認しながら進む。
「12時方向、敵性存在」
警告音が鳴る。建物の角から、銃を持った男が現れた。その瞬間、指は既に引き金に触れていた。
消音器を通した銃声は、まるでおもちゃのように軽い。だが、スクリーン上で崩れ落ちる男の姿は、生々しいまでにリアルだった。
振動フィードバック機能が伝える感触が、あまりにも精密すぎた。
次々と標的を排除していく。かつては吐き気を催した光景も、今では慣れてしまった。それが最も恐ろしいことだと、小林は薄々気付いていた。
リビングルームのような空間で、主要標的が部下たちと話し込んでいた。引き金に指をかけた瞬間、携帯が振動する。
『玲央へ。今日の抗がん剤治療、上手くいったわ。少し希望が見えてきた気がする。ありがとう』
母からのメッセージ。その言葉が、引き金を引く勇気をくれた。いや、言い訳をくれた。
(これは、母を救うための戦いだ)
引き金を引く。スクリーン上で、標的が崩れ落ちる。同時に、部屋が混乱に包まれる。もう見慣れた光景。もう感情を揺さぶられない光景。
「ターゲット、無力化確認」
管制室の声が遠くなっていく。スクリーンに映る血の色が、やけに鮮やかに感じられた。その赤は、自分の失われていく人間性の色なのかもしれない。

翌朝。また同じように、オフィスのデスクに向かう自分がいる。PCの画面にコードを書きながら、昨夜の引き金の感触が、まだ指に残っていた。
「小林さん、この仕様書、確認していただけますか?」
「はい、もちろんです」
誰も知らない。この男が夜な夜な人を殺していることを。そして、その代償として手に入れた金で、母の命を繋いでいることを。
イヤホンから流れる音楽で、脳裏に焼き付いた銃声を消そうとする。だが、それは日に日に難しくなっていった。まるで、自分の心が少しずつ凍てついていくように。
かつては心地よく響いていたメロディーも、今では銃声の残響を消し去ることができない。まるで脳裏に刻まれた傷跡のように、あの音が永遠に鳴り響いている。

夜になると、また地下施設へと足が向かう。暗い廊下を歩く足音が、遠く響く死者たちの足音のように聞こえる。防音設備の整った管制室でさえ、もう銃声を遮ることはできない。
「これが、今夜の標的です」
速水の声が、水面下から聞こえてくるように遠い。モニターに映る人影を捉え、研究室の薄暗がりの中で照準を合わせる。もう手は震えない。それが最も恐ろしいことだった。
「ターゲット、排除完了です」
自分の声が、どこか別の場所から聞こえてくる。まるで誰か他人の声のように。FPSをプレイするような感覚は、もはや慰めにもならない。ゲームの世界は遠く、現実の血の匂いだけが確かなものとして残っていく。
最初の頃は震えていた手も、今では安定している。呼吸を整えることすら忘れるほど、これが日常になっていた。だが、その「日常」が、少しずつ自分の内側を凍らせていく。心が氷のように透明になっていく感覚。そこに映るのは、消し去った命の数だけの亡霊たち。
施設を出る時、腕時計が午後11時を指していた。六ヶ月。その間に何人の命を奪っただろう。数える必要もない。なぜなら、その一つ一つが、確実に自分の中の何かを壊していったことを、痛いほど理解していたから。
現実とゲームの境界線は、もはや存在しない。あるのは、ただ死者たちの影と、その影に寄り添うように生きる、氷のような自分の心だけ。
その感覚が、一気に崩れ始めたのは、会社での昼休憩時だった。
「おい、小林、このニュース見たか?」
同僚の声が、遠く水底から響いてくるように聞こえた。差し出されたスマートフォンの画面に、見覚えのある顔が映っている。
(まさか、この場所で)
「中東のあのテロ組織の幹部、何者かによって殺害される...」
瞬間、喉が締め付けられた。二日前の任務が、生々しい感触とともに蘇る。施設の最上階。暗視スコープ越しに捉えた男の頭部。引き金を引いた時の手応え。
(違う、あれは『標的』だ。『ターゲット』だ。『敵性存在』だ)
そう自分に言い聞かせる。だが、スマートフォンの画面に映る男は、明らかな輪郭を持つ「人間」として、そこにいた。家族がいて、信念があって、人生があった存在として。
コーヒーカップを持つ手が、微かに震え始める。机に置こうとしても、液面が波打つ。
「小林さん、具合悪そうですけど...」
「ああ、大丈夫...」
(誰にも話せない)
この罪の重さを。日に日に増していく現実の重みを。社内の暗いトイレで、俺は深いため息をつく。鏡に映る自分の顔が、少しずつ見知らぬものに変わっていくような気がした。
それでも、母を救うために、俺は引き金を引き続けなければならない。そう思っていた。だが、もう「ゲーム」として割り切ることはできない。モニターの中の「影」が、一つ一つの「人生」として見えてしまう。その度に、自分の中の何かが、少しずつ死んでいく。

蛍光灯の光が、不吉な予感のように管制室を照らしていた。速水の声は、いつもより一音低く、まるで地下水脈から湧き上がってくるように響く。
大型スクリーンに映し出されたのは、市街の市場。空は、まるで平和な日常を見守るように、深い青に染まっていた。古い石畳の上を、人々の影が蟻のように行き交う。時折、子供たちの笑い声が風に乗って聞こえてくるようだった。
砂埃の向こうに見える露店の軒先には、色とりどりの果物が、宝石のように輝いている。スパイスの香りは、遠く画面の向こうからでさえ、その国の記憶を運んでくるかのようだ。値切り合う声、商人の呼び込み、母親を手繰る子供たちの声。それらが織りなす市場の喧噪は、古代からの時を超えて続く、人類の営みそのものだった。
「標的は...」
速水の言葉が、一瞬の躊躇いを見せる。
「この市場一帯です」
言葉の意味が、ゆっくりと沈殿していく。理解が、凍りついた時間の中でじわじわと広がっていく。小林の喉が、砂漠の空気のように乾いていく。
「市場...ですか?」
自分の声が、遠く霧の向こうから聞こえてくるようだった。
高解像度のスクリーンは、残酷なほど鮮明に人々の営みを映し出す。老人の皺だらけの手が、丁寧に果物を積み上げている。その一つ一つの動作に、長年の経験が刻まれている。スカーフを巻いた主婦たちが、明日の食卓のために値段を交渉している。下校時の少女たちの制服が、夕暮れの光を受けて揺れている。
その全てが、今、十字線の中で震えていた。
「待ってください」
小林の声が、かすかに震える。
「あれは一般市民です。罪のない...」
「小林君」
ジョンソン大佐の声は、凍てついた刃のように冷たかった。
「戦争に『罪のない人間』などいない。彼らは日々、テロリストたちに資金を提供している。それは、紛れもない共犯行為だ」
反論の言葉を探している間に、速水の声が、蛇のように這い寄ってくる。
「それに小林君、大金が必要なんだろう?」
その一言で、空気が凍る。かつて温かだった記憶の全てが、一瞬で氷結していく。
「任務を遂行されなければ、金を支払うことはできない」
拳が震える。深い呼吸が、まるで溺れる者のようになる。スクリーンの中の人々は、それぞれが光を放っているように見えた。家族という名の光。希望という名の光。明日という名の光。
そしてジョンソンの声が、蜜のような甘さを帯びる。それは、毒を含んだ蜜のようでもあった。
「小林、君は我々の最高の人材だ。この任務には、君の正確性が必要なんだ。無差別な殺戮ではない。最小限の犠牲で、最大の効果を。それができるのは君だけだ」
言葉の裏に潜む意味が、ゆっくりと浸透してくる。最小限の犠牲。最大の効果。その言葉の中に潜む、人命を数値化する冷酷さ。
「それでも...」
目の前に浮かぶのは、少女たちの無邪気な笑顔。
「あんな子供たちを...」
「考える時間を与えよう。24時間だ」
その夜は、月さえも凍りついたように感じられた。目を閉じれば、市場の光景が走馬灯のように駆け巡る。果物を選ぶ少女の手。老人の皺の一つ一つ。母親の腕に抱かれた幼子の寝顔。それぞれの「明日」が、まだ見ぬ花のように、そこにあった。
夜明け前、携帯が不吉な振動を告げる。病院からの通知。
『治療費の未払い分について』
母の笑顔が、月光の中で浮かび上がる。抗がん剤に耐える姿。「玲央のおかげで」と希望を語る声。その一つの命を救うために、どれほどの命を消さなければならないのか。天秤の両端で、笑顔が血に染まっていく。
涙は、もはや温かくなかった。氷の結晶のように頬を伝い落ちる。トイレの白い便器に向かって、何度も体が折れる。吐き気は、まだ見ぬ罪の予感のように、波となって押し寄せる。
そして翌日。蛍光灯の無機質な光の下で、震える声が響いた。
「分かりました...やります」
その言葉は、まるで地獄の底から響いてくるようだった。あるいは、自分の魂が落ちていく深淵からの最後の声なのかもしれない。
「作戦を開始します」
コントローラーが、これまでにないほど重く感じられた。握る手は、まるで生きものように震えている。モニターには、いつもと変わらない街の光景。だが、今日は違った。永遠に取り返しのつかない境界線を越える日。その予感が、黒い水のように心の底に溜まっていく。
最初の爆発は、市場の心臓を引き裂いた。
閃光が走り、轟音が世界を揺るがす。その瞬間、時間が歪むように感じられた。悲鳴は波となって押し寄せ、逃げ惑う人々は渦を巻く。炎に包まれた商品が、血のように赤く燃え上がる。親子の手が引き離され、風に舞う埃の中に消えていく。
(これは現実なのか、悪夢なのか)
「これは、ゲームだ」
「ゲームだ」
「ただのゲームだ」
呪文のように繰り返す言葉は、既に意味を失っていた。震える声は自分のものとは思えず、背中を伝う冷や汗は死の予感のようだった。だが、スクリーンに映る惨状は、紛れもない現実。その現実が、刃となって網膜を切り裂いていく。
二発目の爆発。三発目。四発目。
最小限の被害で最大の効果を——その言葉は既に空虚な響きでしかなかった。パニックに陥った群衆は、予測を超えて動く。狙った場所とは違う方向へと人々が殺到する。そこにも爆発を。追い詰められた群衆は、また新たな場所へ逃げ込む。そこにも。そこにも。まるで生贄を求める儀式のように、爆発が市場を蝕んでいく。
叫び声は重なり合い、地獄のシンフォニーとなる。炎は舞い上がり、黒煙は空を覆う。かつて命が輝いていた場所に、今は灰と血の色だけが残されていく。
人々の断末魔が、まるで呪いの言葉のように耳に残る。もはやこれは、ゲームの画面などではない。それは、永遠に消えることのない傷となって、魂に刻まれていく現実だった。
「これで...終わりです」
声が出ない。手が震えて、もはやコントローラーを握ることすらできない。指先には、多くの命の重みが、消えることなく残り続けている。
その夜から、悪夢は始まった。いや、悪夢は終わることがなかった。
市場で見た子供たちが、無邪気な笑顔で近づいてくる。その小さな体には、大きな穴が開いている。「なんで?」という問いかけは、砂漠の風のように永遠に耳の中で鳴り続ける。目を覚ましても、その声は消えない。
日常という仮面の下で、魂が少しずつ腐っていく音が聞こえる。それは、氷が溶けるような、あるいは、心が凍りつくような音だった。

夜。また新たな任務のために地下施設に向かう。だが、もう以前のような「ゲーム」の感覚は完全に失われていた。コントローラーを握るたび、市場の悲鳴が蘇る。照準を合わせるたび、子供たちの表情が浮かぶ。
指が引き金に触れるたび、「殺人者」という言葉が、頭の中で轟く。
母は、新しい治療で少しずつ元気を取り戻していく。
「玲央のおかげよ」という言葉が、今では刃物のように胸を刺す。
俺は、任務をこなすたびに、少しずつ、確実に、壊れていくように思えた。
その夜も、市場の子供たちが、笑顔で問いかけてくる。
「なんで、僕たちを殺したの?」
答えることができない。
母を救うため。その言葉さえ、もう口にできなかった。

それから「サイレントキル」の作戦は順調に進み、最終局面を迎えようとしていたある日、地下施設の会議室で蛍光灯の光が俺の青ざめた顔を非情に照らしていた。目の前には速水とジョンソン大佐。テーブルの上には、次の標的に関する資料が無造作に広げられている。
「あと一つだ」
速水が冷酷な声で告げる。その声には、これまでにない威圧感があった。
「テロ組織の最高指導者、ハミド・アルマンスールの暗殺。これが、最後の任務だ」
最後の任務の日。
手は震え、冷や汗が止まらない。モニターには、テロ組織の軍事施設が映っている。厳重な警備。幾重もの防衛システム。
(これで終われる)
もう以前のような緊張感はない。恐怖もない。ただ、虚ろな感覚だけが体を支配している。
FPSで何度も練習したような動き。壁に寄り添い、死角を確認し、一歩一歩進む。かつての自分なら、心臓が高鳴っていただろう場面。今は、何も感じない。
敵の警備兵を一人、また一人と排除していく。その度に、モニターの中で血が飛び散る。かつては吐き気を催したはずの光景。今は、ただの赤い模様にしか見えない。
「標的、視認」
大理石の執務室。豪華な調度品。窓際に立つ男の後ろ姿。この一発で、全てが終わる。
(これが、最後の一人)
引き金を引く。男が崩れ落ちる。これで終わり。全てが、終わり。
「作戦完了。見事な仕事だ、小林君」
速水が声をかける。その手には、分厚い白いファイルが握られていた。
「これが、君の全記録だ。確認してほしい」
白いファイルを開く。そこには、冷徹な数字の羅列があった。
『作戦回数:47回。殺害数:92名、詳細は下記に記載、軍事関係者:45名、政府要人:13名、民間人:34名(うち、18歳未満8名)。爆破建造物:23件、詳細は下記に記載、軍事施設:12件、政府施設:7件、民間施設:4件』
一つ一つの数字が、意味を持って迫ってくる。それぞれの数字の背後には、消し去った人生がある。家族がいて、友人がいて、夢があって、希望があって…
心を締め付けるような痛み。だが、もう涙は出なかった。
震えも、吐き気も、恐怖も、罪悪感も全てが消えていた。

それから病院の廊下に、夏の陽が差し込んでいた。真っ白な壁が消毒液の匂いを反射させる中、医師の声が響く。
「完全寛解です。まさに奇跡的な回復ですね」
その言葉に、母は嗚咽を漏らした。細い指が震えている。半年前まで、死の淵を彷徨っていた人間とは思えないほどの、生命の輝きに満ちていた。
母が駆け寄り、俺を抱きしめる。前は抱きしめると腕の中で、香水の匂いがした。その香りが、かつては俺の心を温めていた。子供の頃から変わらない、母の匂い。
だが、今は何も感じない。
温もりも、香りも、愛情も全てが、ただの物理的な現象としか感じられなくなっていた。

そしてその夜。アパートの狭い部屋で、椅子に座っている。
白い壁に映る月明かりの中で、母の命と引き換えに得た、新しい人生が始まろうとしていた。
それは永遠に凍りついた心を抱えながら温かな感情など全てを失い、ただ機械的に時を刻んでいく人生だ。




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汗に濡れた指先がコントローラーを滑り落としそうになる。画面に浮かぶ照準器が揺らめきながら、標的の頭部を捉えた。躊躇いなど、もはやなかった。引き金に触れた指に、微かな震えすら感じない。
轟音が会場を震わせ、歓声が天井まで届く。「HEADSHOT!」という電子音が、まるで祝福の鐘のように鳴り響いた。
「ということで、今年のFPS大会は、昨年に続き、サンズ選手の優勝となりました!三連覇という偉業を成し遂げた彼に、もう一度大きな拍手を!」
実況の声に導かれるように、会場全体が興奮の渦に包まれていく。小林玲央はサンズの名で知られる青年は、静かに立ち上がった。三十六時間に及ぶ予選から決勝まで、その全てを勝ち抜いた代償として、体の隅々まで疲労が染み渡っている。
薄暮に染まる街並みを抜けようとした時、黒いスーツの男が薄い影を引きずりながら近づいてきた。決勝戦の間中、会場の最後尾で自分を凝視していた男だ。他の観客とは明らかに異質な、物言わぬ存在感を放っていた。
「失礼、政府機関の速水と申します」
素早い動作で取り出された身分証。確かに政府機関の職員証らしきものだが、なぜ自分のような者に接触を?疑問が膨らむ間もなく、男は淡々と語り始めた。
「小林玲央さん、27歳。六年前から国内のFPS大会で頭角を現し、三年前からは国際大会でも優勝を重ねている。特に、動く標的への反応速度と正確性は世界でもトップクラス。しかも、プレッシャーが強ければ強いほど、その能力を遺憾なく発揮する」
まるで暗記していたかのように、速水は小林の戦歴を列挙していく。そして、最後にある言葉を付け加えた。
「そして、あなたにはもう一つ、重要な要素がある。自衛隊を志願し、最終選考まで残った経歴です」
その言葉に、小林は思わず息を呑んだ。確かに高校卒業後、自衛隊を志願したことはある。だが最終的には家族の反対で断念した、誰にも語ることのなかった過去のはずだった。
「あなたの能力が必要なのです。日本の、そして世界の未来のために」
速水の目は真剣そのものだった。
「お話があります。ここではなく...もし宜しければ、車で十分ほどの場所に当室の施設があります」
速水は背後に控えるワンボックスカーを指差した。街灯の光が弱まりつつある通りで、艶のある黒い車体が不吉な影を落としている。小林は、自分の人生の分岐点が、この瞬間に訪れたことを直感的に悟っていた。
「話だけでも、聞かせていただけますか?」
自らの声が僅かに震えているのを感じながら、小林は答えた。速水は小さく頷き、後部座席のドアを開いた。車内の闇が、まるで運命の入り口のように口を開いている。
夜の街並みが車窓を流れていく。信号機の赤と青が、車内の沈黙を彩っていた。速水は終始無言。小林も質問する気にはなれなかった。ただ、この静寂の中で、何か取り返しのつかないことが始まろうとしているという予感だけが、重く心に圧し掛かっていた。
十分と言われた道のりは、実際には二十分を超えていた。
車は建物の裏手へと回り込み、地下駐車場への緩やかな傾斜路を下り始めた。ヘッドライトが闇を切り裂いていく。携帯の画面が圏外を示して消えた時、小林は不意に孤独を感じていた。
黒塗りの車両は三つの警備ゲートを通過していく。最後の装甲のような分厚い鋼鉄の扉が開かれた時、もう後戻りはできないという確信が、重く胸に沈んでいった。
「地下五階です」
速水の声に合わせ、エレベーターの扉が開く。蛍光灯の無機質な光が白いタイル張りの廊下を照らし、消毒液の匂いが漂っていた。病院めいた雰囲気でありながら、それ以上に研究施設じみた空間が広がっていく。
通された会議室は、想像以上に小さかった。楕円形のテーブルを囲む八脚の革張りの椅子。正面の大型スクリーン。そして、テーブルの中央には、あまりにも見慣れたものが置かれていた。
「これは...ゲーム機のコントローラーですか?」
速水は答えの代わりに、薄い笑みを浮かべただけだった。
扉が開き、がっしりとした体格の外国人が入ってきた。軍人特有の佇まい。年齢は50代半ばといったところか。
「ジョン・ジョンソン大佐だ。国防総省特殊作戦部から来ている」
流暢な日本語に驚く間もなく、スクリーンが明るく輝き始めた。
「我々は今、非常に深刻な事態に直面している」
映し出されたのは、中東の衛星写真。某国の山岳地帯が拡大されていく。
「このエリアで、テロ組織が新型の科学兵器の開発施設を持っている可能性が98%以上だ。既に、小規模な実験が行われた形跡もある」
次々と映し出される画像。無人偵察機が撮影したと思われる施設の写真。そして...犠牲者の姿。思わず目を背けたくなる光景だった。
「私たちはこのテロ組織の撲滅を目指している」
 ジョンソンの声が重く響く。
「だが、この地域での軍事行動には複雑な政治的制約がある。アメリカ軍の直接介入は、さらなる地域の不安定化を招くリスクが高すぎる」
「そこで、日本に協力を要請した」速水が続ける。
「だが、我が国も憲法の制約がある。自衛隊の派遣は不可能だ」
「では、どうやって...」
答えは、目の前にあった。あのコントローラー。スクリーンが切り替わる。
「作戦名:サイレントキル」
映し出されたのは、人型の軍用ロボットだった。全高2メートルほど。装甲はマットブラック。人間の姿を模しているが、その表情には何の感情も宿っていない。
「最新鋭の遠隔操作システムだ。このユニットを、君に操縦してもらいたい」
「これが...コントローラーの正体」
手に取ってみる。重さは本物のコントローラーとほぼ同じ。しかし、グリップの感触が微妙に違う。
「実戦での操作感は、ほぼFPSゲームと変わらない」ジョンソンが説明を続ける。
「むしろ、君のような熟練プレイヤーの方が、従来の軍事訓練を受けた兵士よりも高いパフォーマンスを発揮できる」
「ただし」その声が急に厳しくなる。
「これは決してゲームではない。君の操作で倒した敵は、本当に命を落とす。その覚悟は必要だ」
「報酬の説明をさせていただきます」
速水が分厚い書類を広げる。
「基本給として月額800万円。作戦達成ボーナスとして、一回につき最大1000万円。着手金として、契約成立時に5000万円を即時支給。これらはすべて非課税措置が取られます」
胸が締め付けられる感覚。だが、その時携帯の中の母からのメッセージが頭をよぎった。
「玲央…心配かけてごめんね。でも大丈夫よ。お母さんの手術費用なんて気にしないで…」
末期の膵臓がん。高額な治療費。残された時間は…
冷や汗が背中を伝う。これは悪魔の取引なのか、それとも...。
「分かりました...やります」
「契約書にサインを」
速水が差し出す万年筆。ペン先が紙面に触れた瞬間、警報のような音が鳴った。それは、おそらく俺の良心が鳴らした最後の警告だったのかもしれない。
背後でゆっくりと扉が閉まる音。それは、まるで棺桶の蓋が閉じるような音に聞こえた。
そしてある日。
「小林さん、お疲れ様です」
午後六時。システムエンジニアとしての仕事を終え、オフィスを出る。同僚たちは上着を脱ぎながら、居酒屋に向かう流れを作っている。声をかけられても、いつもの「家に用事が」という言い訳で断る。
(誰にも話せない。この二重生活のことを)
地下鉄に乗り込む。半年前まで、自分がこんな生活を送ることになるとは想像もしていなかった。昼はコードを書き、夜は人を殺す——。その非現実的な二重生活が、今や日常となっていた。
午後七時。地下施設の更衣室で作戦服に着替える。黒い生地は体にぴったりとフィットしている。鏡に映る自分の姿は、まるでゲームのキャラクターのようだった。そう思い込まないと、気が狂いそうになる。
「本日の作戦概要を説明します」
管制室に入ると、速水が立ち上がった。大型スクリーンには、中東のある都市の衛星写真が映し出されている。
(また、誰かの人生を消さなければならない)
その思いを振り払うように、小林は首を振った。感情を持ち込めば、引き金を引くことはできない。
「標的は、この5階建ての建物。テロ組織の幹部が、科学兵器の取引の打ち合わせのために集まっているとの情報です」
スクリーンに次々と映し出される顔写真。かつては一人一人の表情に物語を見出していた。家族がいるだろうか、どんな人生を送ってきたのだろうかと。今はただの標的でしかない。そうでなければ、正気を保てない。
コントローラーを手に取ると、親指が自然とスティックの位置に収まる。どれほどの時間をFPSに費やしてきただろう。その全ての経験が、今は人の命を奪うために使われている。
遠隔操作ロボットの視界が広がる。時差の関係で、現地は夜明け前。建物は薄暮の中にぼんやりと浮かび上がっていた。
「周辺警備、6名確認」
耳元のイヤピースから、次々と情報が流れ込んでくる。もう慣れた声。慣れてはいけない声。
一歩一歩、死角を確認しながら進む。
「12時方向、敵性存在」
警告音が鳴る。建物の角から、銃を持った男が現れた。その瞬間、指は既に引き金に触れていた。
消音器を通した銃声は、まるでおもちゃのように軽い。だが、スクリーン上で崩れ落ちる男の姿は、生々しいまでにリアルだった。
振動フィードバック機能が伝える感触が、あまりにも精密すぎた。
次々と標的を排除していく。かつては吐き気を催した光景も、今では慣れてしまった。それが最も恐ろしいことだと、小林は薄々気付いていた。
リビングルームのような空間で、主要標的が部下たちと話し込んでいた。引き金に指をかけた瞬間、携帯が振動する。
『玲央へ。今日の抗がん剤治療、上手くいったわ。少し希望が見えてきた気がする。ありがとう』
母からのメッセージ。その言葉が、引き金を引く勇気をくれた。いや、言い訳をくれた。
(これは、母を救うための戦いだ)
引き金を引く。スクリーン上で、標的が崩れ落ちる。同時に、部屋が混乱に包まれる。もう見慣れた光景。もう感情を揺さぶられない光景。
「ターゲット、無力化確認」
管制室の声が遠くなっていく。スクリーンに映る血の色が、やけに鮮やかに感じられた。その赤は、自分の失われていく人間性の色なのかもしれない。
翌朝。また同じように、オフィスのデスクに向かう自分がいる。PCの画面にコードを書きながら、昨夜の引き金の感触が、まだ指に残っていた。
「小林さん、この仕様書、確認していただけますか?」
「はい、もちろんです」
誰も知らない。この男が夜な夜な人を殺していることを。そして、その代償として手に入れた金で、母の命を繋いでいることを。
イヤホンから流れる音楽で、脳裏に焼き付いた銃声を消そうとする。だが、それは日に日に難しくなっていった。まるで、自分の心が少しずつ凍てついていくように。
かつては心地よく響いていたメロディーも、今では銃声の残響を消し去ることができない。まるで脳裏に刻まれた傷跡のように、あの音が永遠に鳴り響いている。
夜になると、また地下施設へと足が向かう。暗い廊下を歩く足音が、遠く響く死者たちの足音のように聞こえる。防音設備の整った管制室でさえ、もう銃声を遮ることはできない。
「これが、今夜の標的です」
速水の声が、水面下から聞こえてくるように遠い。モニターに映る人影を捉え、研究室の薄暗がりの中で照準を合わせる。もう手は震えない。それが最も恐ろしいことだった。
「ターゲット、排除完了です」
自分の声が、どこか別の場所から聞こえてくる。まるで誰か他人の声のように。FPSをプレイするような感覚は、もはや慰めにもならない。ゲームの世界は遠く、現実の血の匂いだけが確かなものとして残っていく。
最初の頃は震えていた手も、今では安定している。呼吸を整えることすら忘れるほど、これが日常になっていた。だが、その「日常」が、少しずつ自分の内側を凍らせていく。心が氷のように透明になっていく感覚。そこに映るのは、消し去った命の数だけの亡霊たち。
施設を出る時、腕時計が午後11時を指していた。六ヶ月。その間に何人の命を奪っただろう。数える必要もない。なぜなら、その一つ一つが、確実に自分の中の何かを壊していったことを、痛いほど理解していたから。
現実とゲームの境界線は、もはや存在しない。あるのは、ただ死者たちの影と、その影に寄り添うように生きる、氷のような自分の心だけ。
その感覚が、一気に崩れ始めたのは、会社での昼休憩時だった。
「おい、小林、このニュース見たか?」
同僚の声が、遠く水底から響いてくるように聞こえた。差し出されたスマートフォンの画面に、見覚えのある顔が映っている。
(まさか、この場所で)
「中東のあのテロ組織の幹部、何者かによって殺害される...」
瞬間、喉が締め付けられた。二日前の任務が、生々しい感触とともに蘇る。施設の最上階。暗視スコープ越しに捉えた男の頭部。引き金を引いた時の手応え。
(違う、あれは『標的』だ。『ターゲット』だ。『敵性存在』だ)
そう自分に言い聞かせる。だが、スマートフォンの画面に映る男は、明らかな輪郭を持つ「人間」として、そこにいた。家族がいて、信念があって、人生があった存在として。
コーヒーカップを持つ手が、微かに震え始める。机に置こうとしても、液面が波打つ。
「小林さん、具合悪そうですけど...」
「ああ、大丈夫...」
(誰にも話せない)
この罪の重さを。日に日に増していく現実の重みを。社内の暗いトイレで、俺は深いため息をつく。鏡に映る自分の顔が、少しずつ見知らぬものに変わっていくような気がした。
それでも、母を救うために、俺は引き金を引き続けなければならない。そう思っていた。だが、もう「ゲーム」として割り切ることはできない。モニターの中の「影」が、一つ一つの「人生」として見えてしまう。その度に、自分の中の何かが、少しずつ死んでいく。
蛍光灯の光が、不吉な予感のように管制室を照らしていた。速水の声は、いつもより一音低く、まるで地下水脈から湧き上がってくるように響く。
大型スクリーンに映し出されたのは、市街の市場。空は、まるで平和な日常を見守るように、深い青に染まっていた。古い石畳の上を、人々の影が蟻のように行き交う。時折、子供たちの笑い声が風に乗って聞こえてくるようだった。
砂埃の向こうに見える露店の軒先には、色とりどりの果物が、宝石のように輝いている。スパイスの香りは、遠く画面の向こうからでさえ、その国の記憶を運んでくるかのようだ。値切り合う声、商人の呼び込み、母親を手繰る子供たちの声。それらが織りなす市場の喧噪は、古代からの時を超えて続く、人類の営みそのものだった。
「標的は...」
速水の言葉が、一瞬の躊躇いを見せる。
「この市場一帯です」
言葉の意味が、ゆっくりと沈殿していく。理解が、凍りついた時間の中でじわじわと広がっていく。小林の喉が、砂漠の空気のように乾いていく。
「市場...ですか?」
自分の声が、遠く霧の向こうから聞こえてくるようだった。
高解像度のスクリーンは、残酷なほど鮮明に人々の営みを映し出す。老人の皺だらけの手が、丁寧に果物を積み上げている。その一つ一つの動作に、長年の経験が刻まれている。スカーフを巻いた主婦たちが、明日の食卓のために値段を交渉している。下校時の少女たちの制服が、夕暮れの光を受けて揺れている。
その全てが、今、十字線の中で震えていた。
「待ってください」
小林の声が、かすかに震える。
「あれは一般市民です。罪のない...」
「小林君」
ジョンソン大佐の声は、凍てついた刃のように冷たかった。
「戦争に『罪のない人間』などいない。彼らは日々、テロリストたちに資金を提供している。それは、紛れもない共犯行為だ」
反論の言葉を探している間に、速水の声が、蛇のように這い寄ってくる。
「それに小林君、大金が必要なんだろう?」
その一言で、空気が凍る。かつて温かだった記憶の全てが、一瞬で氷結していく。
「任務を遂行されなければ、金を支払うことはできない」
拳が震える。深い呼吸が、まるで溺れる者のようになる。スクリーンの中の人々は、それぞれが光を放っているように見えた。家族という名の光。希望という名の光。明日という名の光。
そしてジョンソンの声が、蜜のような甘さを帯びる。それは、毒を含んだ蜜のようでもあった。
「小林、君は我々の最高の人材だ。この任務には、君の正確性が必要なんだ。無差別な殺戮ではない。最小限の犠牲で、最大の効果を。それができるのは君だけだ」
言葉の裏に潜む意味が、ゆっくりと浸透してくる。最小限の犠牲。最大の効果。その言葉の中に潜む、人命を数値化する冷酷さ。
「それでも...」
目の前に浮かぶのは、少女たちの無邪気な笑顔。
「あんな子供たちを...」
「考える時間を与えよう。24時間だ」
その夜は、月さえも凍りついたように感じられた。目を閉じれば、市場の光景が走馬灯のように駆け巡る。果物を選ぶ少女の手。老人の皺の一つ一つ。母親の腕に抱かれた幼子の寝顔。それぞれの「明日」が、まだ見ぬ花のように、そこにあった。
夜明け前、携帯が不吉な振動を告げる。病院からの通知。
『治療費の未払い分について』
母の笑顔が、月光の中で浮かび上がる。抗がん剤に耐える姿。「玲央のおかげで」と希望を語る声。その一つの命を救うために、どれほどの命を消さなければならないのか。天秤の両端で、笑顔が血に染まっていく。
涙は、もはや温かくなかった。氷の結晶のように頬を伝い落ちる。トイレの白い便器に向かって、何度も体が折れる。吐き気は、まだ見ぬ罪の予感のように、波となって押し寄せる。
そして翌日。蛍光灯の無機質な光の下で、震える声が響いた。
「分かりました...やります」
その言葉は、まるで地獄の底から響いてくるようだった。あるいは、自分の魂が落ちていく深淵からの最後の声なのかもしれない。
「作戦を開始します」
コントローラーが、これまでにないほど重く感じられた。握る手は、まるで生きものように震えている。モニターには、いつもと変わらない街の光景。だが、今日は違った。永遠に取り返しのつかない境界線を越える日。その予感が、黒い水のように心の底に溜まっていく。
最初の爆発は、市場の心臓を引き裂いた。
閃光が走り、轟音が世界を揺るがす。その瞬間、時間が歪むように感じられた。悲鳴は波となって押し寄せ、逃げ惑う人々は渦を巻く。炎に包まれた商品が、血のように赤く燃え上がる。親子の手が引き離され、風に舞う埃の中に消えていく。
(これは現実なのか、悪夢なのか)
「これは、ゲームだ」
「ゲームだ」
「ただのゲームだ」
呪文のように繰り返す言葉は、既に意味を失っていた。震える声は自分のものとは思えず、背中を伝う冷や汗は死の予感のようだった。だが、スクリーンに映る惨状は、紛れもない現実。その現実が、刃となって網膜を切り裂いていく。
二発目の爆発。三発目。四発目。
最小限の被害で最大の効果を——その言葉は既に空虚な響きでしかなかった。パニックに陥った群衆は、予測を超えて動く。狙った場所とは違う方向へと人々が殺到する。そこにも爆発を。追い詰められた群衆は、また新たな場所へ逃げ込む。そこにも。そこにも。まるで生贄を求める儀式のように、爆発が市場を蝕んでいく。
叫び声は重なり合い、地獄のシンフォニーとなる。炎は舞い上がり、黒煙は空を覆う。かつて命が輝いていた場所に、今は灰と血の色だけが残されていく。
人々の断末魔が、まるで呪いの言葉のように耳に残る。もはやこれは、ゲームの画面などではない。それは、永遠に消えることのない傷となって、魂に刻まれていく現実だった。
「これで...終わりです」
声が出ない。手が震えて、もはやコントローラーを握ることすらできない。指先には、多くの命の重みが、消えることなく残り続けている。
その夜から、悪夢は始まった。いや、悪夢は終わることがなかった。
市場で見た子供たちが、無邪気な笑顔で近づいてくる。その小さな体には、大きな穴が開いている。「なんで?」という問いかけは、砂漠の風のように永遠に耳の中で鳴り続ける。目を覚ましても、その声は消えない。
日常という仮面の下で、魂が少しずつ腐っていく音が聞こえる。それは、氷が溶けるような、あるいは、心が凍りつくような音だった。
夜。また新たな任務のために地下施設に向かう。だが、もう以前のような「ゲーム」の感覚は完全に失われていた。コントローラーを握るたび、市場の悲鳴が蘇る。照準を合わせるたび、子供たちの表情が浮かぶ。
指が引き金に触れるたび、「殺人者」という言葉が、頭の中で轟く。
母は、新しい治療で少しずつ元気を取り戻していく。
「玲央のおかげよ」という言葉が、今では刃物のように胸を刺す。
俺は、任務をこなすたびに、少しずつ、確実に、壊れていくように思えた。
その夜も、市場の子供たちが、笑顔で問いかけてくる。
「なんで、僕たちを殺したの?」
答えることができない。
母を救うため。その言葉さえ、もう口にできなかった。
それから「サイレントキル」の作戦は順調に進み、最終局面を迎えようとしていたある日、地下施設の会議室で蛍光灯の光が俺の青ざめた顔を非情に照らしていた。目の前には速水とジョンソン大佐。テーブルの上には、次の標的に関する資料が無造作に広げられている。
「あと一つだ」
速水が冷酷な声で告げる。その声には、これまでにない威圧感があった。
「テロ組織の最高指導者、ハミド・アルマンスールの暗殺。これが、最後の任務だ」
最後の任務の日。
手は震え、冷や汗が止まらない。モニターには、テロ組織の軍事施設が映っている。厳重な警備。幾重もの防衛システム。
(これで終われる)
もう以前のような緊張感はない。恐怖もない。ただ、虚ろな感覚だけが体を支配している。
FPSで何度も練習したような動き。壁に寄り添い、死角を確認し、一歩一歩進む。かつての自分なら、心臓が高鳴っていただろう場面。今は、何も感じない。
敵の警備兵を一人、また一人と排除していく。その度に、モニターの中で血が飛び散る。かつては吐き気を催したはずの光景。今は、ただの赤い模様にしか見えない。
「標的、視認」
大理石の執務室。豪華な調度品。窓際に立つ男の後ろ姿。この一発で、全てが終わる。
(これが、最後の一人)
引き金を引く。男が崩れ落ちる。これで終わり。全てが、終わり。
「作戦完了。見事な仕事だ、小林君」
速水が声をかける。その手には、分厚い白いファイルが握られていた。
「これが、君の全記録だ。確認してほしい」
白いファイルを開く。そこには、冷徹な数字の羅列があった。
『作戦回数:47回。殺害数:92名、詳細は下記に記載、軍事関係者:45名、政府要人:13名、民間人:34名(うち、18歳未満8名)。爆破建造物:23件、詳細は下記に記載、軍事施設:12件、政府施設:7件、民間施設:4件』
一つ一つの数字が、意味を持って迫ってくる。それぞれの数字の背後には、消し去った人生がある。家族がいて、友人がいて、夢があって、希望があって…
心を締め付けるような痛み。だが、もう涙は出なかった。
震えも、吐き気も、恐怖も、罪悪感も全てが消えていた。
それから病院の廊下に、夏の陽が差し込んでいた。真っ白な壁が消毒液の匂いを反射させる中、医師の声が響く。
「完全寛解です。まさに奇跡的な回復ですね」
その言葉に、母は嗚咽を漏らした。細い指が震えている。半年前まで、死の淵を彷徨っていた人間とは思えないほどの、生命の輝きに満ちていた。
母が駆け寄り、俺を抱きしめる。前は抱きしめると腕の中で、香水の匂いがした。その香りが、かつては俺の心を温めていた。子供の頃から変わらない、母の匂い。
だが、今は何も感じない。
温もりも、香りも、愛情も全てが、ただの物理的な現象としか感じられなくなっていた。
そしてその夜。アパートの狭い部屋で、椅子に座っている。
白い壁に映る月明かりの中で、母の命と引き換えに得た、新しい人生が始まろうとしていた。
それは永遠に凍りついた心を抱えながら温かな感情など全てを失い、ただ機械的に時を刻んでいく人生だ。


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