表示設定
表示設定
目次 目次




夢のまた夢

ー/ー



 元亀天正の夢が天下一統であったなら、文禄慶長で豊臣秀吉が夢見たのは明国(中国)征服だった。それを誇大妄想の夢物語と笑うことはできない。少なくとも彼は、それが可能だと考えていた。下層階級の出身でありながら異例の立身出世を果たし関白太政大臣にまで昇り詰めた自分なら必ずできると自信を持っていたからこそ、その作戦計画を実行に移したのだ。
 一五九二(天正二十)年四月、対馬を発した日本軍第一陣は朝鮮の釜山に上陸し、文禄の役が始まったのである……と書いて疑問が湧き上がる。明を攻めるのではなく朝鮮を攻めているのは、どうしてか? 秀吉は当初、明と日本の間にある朝鮮を味方につけ、明への道案内をさせようと考えていた。その申し出を朝鮮が拒否したので攻撃を仕掛けたのだ。朝鮮にしてみれば、いい迷惑としか言いようがない。
 日本軍は優勢に戦いを進め五月には朝鮮の都である京城(漢城)を占領、六月には北の平壌まで制圧した。ここに至り朝鮮国王は明に援軍を求める。だが応援に来た明軍は、あまり頼りにならなかった。朝鮮に要請されて来たものの戦意に乏しい明軍は日本軍の強さを前に積極的な攻勢に出なくなる。明の戦力で日本軍を追い払う考えだった朝鮮側にしてみれば、当てが外れた格好だ。
 だが明の大軍は日本側にとって脅威だった。加えて、朝鮮民衆のゲリラが日本軍の占領地で暴れ回るようになったのも厄介だった。前方と背後の二つの敵と戦う羽目になった日本軍は明への進撃を断念せざるを得なくなる……どころの騒ぎではなくなった。日本と朝鮮の連絡である対馬海峡に朝鮮水軍が出没し日本の海上戦力に打撃を与え、補給路を遮断するようになっていたのである。
 朝鮮水軍が強かった理由は三つある。一つは船舶に大砲が装備されていたこと。二つ目は、多くの刀槍が棘のように突き出ている厚い板で船の上部を覆った亀甲船という名の軍用船を活用したこと。三つ目はファイティング・スピリッツが異様にある李舜臣という提督が指揮を執ったことだ。
 秀吉は渡海し日本軍を自ら率いるつもりだったが、周囲が止めた。李舜臣が秀吉の出陣を察知したら、朝鮮水軍全軍で襲いかかってくるのは火を見るよりも明らかだった。秀吉が討ち取られてしまったら、朝鮮半島の日本軍は瓦解するだろう。
 だが秀吉が討ち取られずとも、日本軍崩壊の兆しが見え始めていた。不利を悟った日本軍は明との和平交渉に入るが、講和条件に不服な秀吉は交渉を打ち切り、再攻勢を命じる。
 一五九七(慶長二)年一月、日本軍は再び攻撃に出た……が今度は前より上手くいかなかった。前回の文禄の役で懲りた朝鮮軍は防備を固めていたのだ。日本軍は文禄の役のような快進撃を諦め、占領した朝鮮南部防衛に主軸を置くようになる。
 そう書くと、日本軍は積極的な攻撃に出ていないように思われるが、それは陸上の話で洋上は別だ。前回の失敗を反省した日本軍は水軍増強に努め、恨み重なる朝鮮水軍に復讐を果たそうとしたのである。そして日本水軍は遂に仇敵に勝利を収めたのだった。
 その報を李舜臣は牢獄の中で聞いた。日本軍最大の敵は、その戦功を他の提督たちに妬まれ、水軍総司令官の地位を解任されただけでなく無実の罪で入牢していたのである。
 水軍大敗の報告を受け朝鮮国王は李舜臣を水軍総督に復帰させた。再登板した李舜臣は再び日本軍最大の敵となった。日本軍の生命線である対馬海峡の制海権を巡る一進一退の攻防が続く。
 今回の慶長の役も前回と同じくらい、悲惨な戦いとなった。日本軍も明・朝鮮連合軍も国土を荒らされた朝鮮の大衆も、そして軍費捻出のため重税を課せられた日本の農民たちも、疲弊しきった。
 やがて日本軍にとって驚天動地の事態が起きる。秀吉が死んだのだ。
「つゆとおちつゆときへにしわかみかな なにわのことはゆめのまたゆめ」
 織田信長の草履取りから天下人となった一代の英雄の辞世としては、何とも物悲しい。だが朝鮮の日本軍は悠長に悲しがっている場合ではなかった。秀吉の死を敵が知ったら大攻勢に出るのは明白だったからだ。その死を隠匿し全軍撤退を図る。だが、バレた。李舜臣は退却する日本軍の追撃に打って出る。逃げていくのだから黙って見送ろう、とは考えない。朝鮮全土を荒廃させた秀吉を討ち取れなかった代わりに一兵でも多くの敵をあの世に送ってやる……いや、一人残らず殺してやる! そう心に決めて、全水軍に出動を命じる。
 戦意旺盛な総司令官が率いる朝鮮水軍は尻に帆を掛けて逃げ出す日本軍を襲撃した。退路を塞がれたら終わる日本軍は敵の猛攻に防戦一方だったが、追撃してくる敵の中に朝鮮水軍を指揮する李舜臣の姿を見て色めき立った。
 ここで会ったが百年目である。今ここで李舜臣を倒さねば秀吉の朝鮮出兵は完全なる愚行で良いところが一つもない単なる負け戦で終わってしまう! と考えたかどうかは知らないが、火縄銃の銃口を敵将に向ける。
 トラファルガー海戦でフランス海軍を破りナポレオンのイギリス上陸作戦を断念させた名提督ネルソンが無名の狙撃手の放った銃弾で死んだように、秀吉が抱いた明国征服の夢を潰えさせた李舜臣も撃たれて死んだ。朝鮮水軍の追撃を振り切った日本軍は一五九八(慶長三)年十二月十日、全軍の撤退に成功する。
 秀吉の死後、日本では徳川家康が天下を狙い始めた。
 一六〇〇(慶長五)年、関ケ原の合戦で徳川家康の東軍が勝利を収める。その三年後、家康は征夷大将軍に就任し、江戸に幕府を開いた。




みんなのリアクション

 元亀天正の夢が天下一統であったなら、文禄慶長で豊臣秀吉が夢見たのは明国(中国)征服だった。それを誇大妄想の夢物語と笑うことはできない。少なくとも彼は、それが可能だと考えていた。下層階級の出身でありながら異例の立身出世を果たし関白太政大臣にまで昇り詰めた自分なら必ずできると自信を持っていたからこそ、その作戦計画を実行に移したのだ。
 一五九二(天正二十)年四月、対馬を発した日本軍第一陣は朝鮮の釜山に上陸し、文禄の役が始まったのである……と書いて疑問が湧き上がる。明を攻めるのではなく朝鮮を攻めているのは、どうしてか? 秀吉は当初、明と日本の間にある朝鮮を味方につけ、明への道案内をさせようと考えていた。その申し出を朝鮮が拒否したので攻撃を仕掛けたのだ。朝鮮にしてみれば、いい迷惑としか言いようがない。
 日本軍は優勢に戦いを進め五月には朝鮮の都である京城(漢城)を占領、六月には北の平壌まで制圧した。ここに至り朝鮮国王は明に援軍を求める。だが応援に来た明軍は、あまり頼りにならなかった。朝鮮に要請されて来たものの戦意に乏しい明軍は日本軍の強さを前に積極的な攻勢に出なくなる。明の戦力で日本軍を追い払う考えだった朝鮮側にしてみれば、当てが外れた格好だ。
 だが明の大軍は日本側にとって脅威だった。加えて、朝鮮民衆のゲリラが日本軍の占領地で暴れ回るようになったのも厄介だった。前方と背後の二つの敵と戦う羽目になった日本軍は明への進撃を断念せざるを得なくなる……どころの騒ぎではなくなった。日本と朝鮮の連絡である対馬海峡に朝鮮水軍が出没し日本の海上戦力に打撃を与え、補給路を遮断するようになっていたのである。
 朝鮮水軍が強かった理由は三つある。一つは船舶に大砲が装備されていたこと。二つ目は、多くの刀槍が棘のように突き出ている厚い板で船の上部を覆った亀甲船という名の軍用船を活用したこと。三つ目はファイティング・スピリッツが異様にある李舜臣という提督が指揮を執ったことだ。
 秀吉は渡海し日本軍を自ら率いるつもりだったが、周囲が止めた。李舜臣が秀吉の出陣を察知したら、朝鮮水軍全軍で襲いかかってくるのは火を見るよりも明らかだった。秀吉が討ち取られてしまったら、朝鮮半島の日本軍は瓦解するだろう。
 だが秀吉が討ち取られずとも、日本軍崩壊の兆しが見え始めていた。不利を悟った日本軍は明との和平交渉に入るが、講和条件に不服な秀吉は交渉を打ち切り、再攻勢を命じる。
 一五九七(慶長二)年一月、日本軍は再び攻撃に出た……が今度は前より上手くいかなかった。前回の文禄の役で懲りた朝鮮軍は防備を固めていたのだ。日本軍は文禄の役のような快進撃を諦め、占領した朝鮮南部防衛に主軸を置くようになる。
 そう書くと、日本軍は積極的な攻撃に出ていないように思われるが、それは陸上の話で洋上は別だ。前回の失敗を反省した日本軍は水軍増強に努め、恨み重なる朝鮮水軍に復讐を果たそうとしたのである。そして日本水軍は遂に仇敵に勝利を収めたのだった。
 その報を李舜臣は牢獄の中で聞いた。日本軍最大の敵は、その戦功を他の提督たちに妬まれ、水軍総司令官の地位を解任されただけでなく無実の罪で入牢していたのである。
 水軍大敗の報告を受け朝鮮国王は李舜臣を水軍総督に復帰させた。再登板した李舜臣は再び日本軍最大の敵となった。日本軍の生命線である対馬海峡の制海権を巡る一進一退の攻防が続く。
 今回の慶長の役も前回と同じくらい、悲惨な戦いとなった。日本軍も明・朝鮮連合軍も国土を荒らされた朝鮮の大衆も、そして軍費捻出のため重税を課せられた日本の農民たちも、疲弊しきった。
 やがて日本軍にとって驚天動地の事態が起きる。秀吉が死んだのだ。
「つゆとおちつゆときへにしわかみかな なにわのことはゆめのまたゆめ」
 織田信長の草履取りから天下人となった一代の英雄の辞世としては、何とも物悲しい。だが朝鮮の日本軍は悠長に悲しがっている場合ではなかった。秀吉の死を敵が知ったら大攻勢に出るのは明白だったからだ。その死を隠匿し全軍撤退を図る。だが、バレた。李舜臣は退却する日本軍の追撃に打って出る。逃げていくのだから黙って見送ろう、とは考えない。朝鮮全土を荒廃させた秀吉を討ち取れなかった代わりに一兵でも多くの敵をあの世に送ってやる……いや、一人残らず殺してやる! そう心に決めて、全水軍に出動を命じる。
 戦意旺盛な総司令官が率いる朝鮮水軍は尻に帆を掛けて逃げ出す日本軍を襲撃した。退路を塞がれたら終わる日本軍は敵の猛攻に防戦一方だったが、追撃してくる敵の中に朝鮮水軍を指揮する李舜臣の姿を見て色めき立った。
 ここで会ったが百年目である。今ここで李舜臣を倒さねば秀吉の朝鮮出兵は完全なる愚行で良いところが一つもない単なる負け戦で終わってしまう! と考えたかどうかは知らないが、火縄銃の銃口を敵将に向ける。
 トラファルガー海戦でフランス海軍を破りナポレオンのイギリス上陸作戦を断念させた名提督ネルソンが無名の狙撃手の放った銃弾で死んだように、秀吉が抱いた明国征服の夢を潰えさせた李舜臣も撃たれて死んだ。朝鮮水軍の追撃を振り切った日本軍は一五九八(慶長三)年十二月十日、全軍の撤退に成功する。
 秀吉の死後、日本では徳川家康が天下を狙い始めた。
 一六〇〇(慶長五)年、関ケ原の合戦で徳川家康の東軍が勝利を収める。その三年後、家康は征夷大将軍に就任し、江戸に幕府を開いた。


おすすめ小説


おすすめ小説