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店長の葛藤

ー/ー



 山はこんな俺にも優しい。
 仕事でやらかした時も、プライベートでしくじった時も、人間関係で孤立した時も、山にさえ来れば逃げ場がある。夥しい命の集合体、それが山だ。シティの喧騒と変わらない。こんなにも生き物が生息しているにも関わらず、山は静かで、空気が澄んでいる。
 毎月一回、山へ登るとき俺は、心に何らかの葛藤や悩みを抱えている。そんな俺のもやもやとした感情はいつも、山へ置いてくる。さながら鬱屈の不法投棄である。もしかすると昔の人が見た山の妖怪や魑魅魍魎は、そういった人々が置きっ放してきたネガティブな感情が創り出したものかもしれない。そう考えるほどに俺は山に甘えている。踏みしめる枯葉や小枝の砕ける感触とその音が、トレッキングシューズの足裏と鼓膜に心地よい。
 6月の山開きがすんですぐの時期。目に映る新緑が鮮やかで、木立では春ゼミが鳴いている。まだ三合目といったところだが、にじみ出る汗が心地よく、足元で咲いている花が愛らしい。
 愛らしいといえば、うちのスーパーに勤めている、パートの山本さんはいつも笑顔だ。雇われ店長の俺を気遣ってくれる優しい主婦だ。しかしながら優しいからといって、おもむろに笑顔がチャーミングですねなどと言うと、セクハラになる可能性がある。気遣いのお返しを気取り、セクハラをする上司は最低だ。何を言っても藪蛇になりかねないこの時勢に、センスが貧弱な中年が、アドリブでユーモアを出そうとするのは自殺行為だ。不慣れなことはしないに越したことはない。彼らのボスは臆病なのではなく、慎重なのである。
 そんなデキる上司を持つ山本さんは店の近くに住む主婦で、繁忙期や他の従業員の急な欠勤の日などの、出勤要請に快く応じてくれる。仕事の勘所も抑えているので手際が半端なく良い。彼女がシフトに入っていると何となく安心できるのは、俺だけではないはずだ。
 いつの間にか五合目まできた。ここには美しい景観を楽しめる展望スポットがある。俺はいつもそこで、妻が作ってくれる麦茶を飲むことにしている。出がけに水筒に氷をしこたま詰め、その上から愛妻麦茶を注いできた。ガスが少しかかっているものの、風力発電の風車がのどかに回り、海も見えるいつもの景色を見ながらキンキンに冷えた麦茶を飲んだ。麦茶は夏の味であると同時に、俺にとっての山の味でもある。
 だがいつも妻が作るものより味気ない気がした。塩気。塩気が足りないのである。俺の山麦茶にはいつも塩が一つまみ入っている。妻がミネラルを足してくれていたのである。初めの頃この塩麦茶には正直違和感があったが、慣れてみると疲労した身体には、不思議と美味しく感じるようになった。
 その愛妻が、今朝は子どもを連れて実家へ帰ってしまった。
 原因は俺にあるようだった。
 麦茶を水筒に注いだ後、冷水ポットを冷蔵庫に戻した。その瞬間を見計らったように妻が背後から現れ、戻したポットを再度取り出し俺の目の前にそれをかざした。
「どうして一センチの麦茶を残して戻すの」
 どうしてと言われても麦茶は少し残っているのだから、冷蔵庫に戻すのがサステナブルだろうといったような、ごく当たり前の返事をした。妻は、あなたは麦茶のポットを洗って、次のロットを作って置いてくれたことが過去に一度もない、といったようなことをうったえだした。
 俺は出来るだけ早めに家を出たかったので、今そんなことでなじり出す妻の気の利かなさに苛立った。適当にわかったわかった、と言ってポットをシンクに置き、帰ったらやるよと言った。その瞬間彼女の髪が天井に向かい逆立つのを俺は見た。
 それから妻は、俺の父親としての至らなさについて一方的に糾弾し始めた。
 クレーム対応に慣れている町スーパーの店長兼、家庭内苦情にも臨機応変に応えなければならない、お父さんとして分析してみる。彼女は、麦茶の件を引き合いに出し、とどのつまりは俺の思いやりのなさについて言及している。いつも帰りが遅い夫が、久しぶりに取れた休日を、自分のためだけに使う。そこに対して、妻は怒っているのではないか。
「そうだ。ミキとタケルも山へ来るかい?」
 俺としてはレジャーも兼ねた、素晴らしい打開策に思えたのだが、妻はタケルを連れて玄関を出ていった。
 玄関の扉が閉まる前の、息子のこちらを不思議そうに窺う眼差しが忘れられない。
「パパ、今度は何をしでかしたんだい」だが息子よ、パパは何がそれほどまでに悪かったのか、きみ同様に未だに不思議なんだよ。
頭頂部に差し掛かると傾斜がきつくなる。そこだけ樹皮が滑らかになっている、傍らの細木を掴んで登ってゆくと、バックパックに取り付けた熊鈴がチリンと鳴った。
 熊は怖い。人外ゆえ相手が何を考えているのか分からぬ所が怖い。体が大きく話が通じない。向こうの都合で、バイオレンスにうったえてくる者は総じて俺は怖い。
 春に入社した乙姫君は今風の好青年だ。勤務態度も真面目で人当たりがよく、パートのマダムたちに人気がある。人を見るときに俺が一番評価したい点は人望の有無だ。俺は彼に少しずつ重要な仕事を任せていったが、彼はそつなくこなしているようだ。
 乙姫君は幼少期から大学まで柔道に打ち込んでいた、猪首が頼もしい巨漢である。その図体でもって、目前に立ちふさがれると、かなりの威圧感がある。履歴書を見た時は、うちみたいな地域密着型の小規模スーパーに勤めずとも、何らかの用心棒として然るべき機関で活躍した方が稼げるのではないかと密かに思った。だが入社してきてほどなくして、彼の繊細さや慎重さに気づいた。というか一言でいうと結構なビビりだった。
 逞しく生き抜いている野生の熊も、実のところビビりが故に人間を見ると、先手必勝で攻撃してくると聞いたことがある。だが体格が熊じみた乙姫君は今のところ、狭い店内で出くわしたことにびっくりして、出会い頭に巴投げをしてくる様なことはない。
 そんな乙姫君が先日俺を、休憩時間に喫煙エリアに呼び出した。彼も俺も煙草を吸わない。部屋自体が煮しまったたような色の密室で、俺はBGM代わりに換気スイッチを押した。あの店のあの時間帯に、人気の無いスペースが他になかったのである
「悪い話が二つあるんです」
 そこは良い話と悪い話があって、どちらから聞きたいかという質問がセオリーじゃねえのと思ったが「じゃあマイルドな方からお願い」と俺は言った。
 山本さんなんですけど、から始まった彼の話は、俺にとってだいぶスキャンダラスなものだった。山本さんが品物の補充に行った後、エプロンのポケットが膨らんでいることがある。それとなく尋ねてみたところ、消費期限が間近な商品を入れている、と悪びれずに答えた。その後、彼女の退勤時間が来た。おつかれさまでしたとにこやかに挨拶をした後、ポケットを膨らませたままロッカールームへ消えた。そんなことが何度かあったため、再び乙姫君が山本さんに、何気なくポケットの品物の行方を尋ねた。彼女はいたずらが見つかった子どものようにペロッと舌を出した。そして内緒ねと言って売り場へ行ってしまった。
「窃盗じゃん!」
 俺は憧れのアイドルが妊娠して結婚するという話を、週刊文春で読んだオタクのようなリアクションをした。
「なに俺全然知らなかったよ、山本さんってそういう手癖があるの?」
 信じてて損したよ、俺の優しさが、セクハラか否か葛藤してた時間を返してよと頭を抱えたら、乙姫君が「直接店長が確かめた方が良いと思って」と優しく励ましてくれた。
 正直これ以上にエグい話はそうそうないだろうと高を括って、もう一個のほうを投下してくれよと促した。矢でも鉄砲でも持ってこいや、という顔をしていたところに、乙姫君が持ってきたのは辞表だった。
 喫煙室で漢二人しばらく見つめあった。
 一瞬、精肉部門のチーフが煙草を咥えながら近づいてくるのを感じたが、彼は我々を見て真顔になり、バックヤードに戻っていった。
「これは何だい、山本さんの疑惑と何か関係があってのことかな……」
 おそるおそる尋ねてみると、乙姫君は顔を覆い、店長すみませんと肩を震わせた。
「えっ、何……こわい何?」
「たなばたセットをいちまん……」
「えっ、何がいちまん?」
「よいこの七夕セット百個のところ、一万個発注しちゃってたんです……」
 狭い喫煙室で、巨漢が店長の膝で泣き崩れているような状況を、絶妙な角度から見た日配部門のチーフが、物わかりの良い顔で踵を返してバックヤードに消えた。
「わかった、良いよ、辞表出さなくていいよ。どうしても出したければ始末書を出してもらうかもしれないけども、もう良いよ……」
 自分でも何を言えばいいのか良く分からなかったのだがとりあえず、七夕セットとは何かと問うた。町内会のイベントのために受注していた、プラスチックの笹と飾りが入った、ちょっとした子どものおもちゃセットだと彼は言った。とはいえ、在庫にしておくには嵩張るし売りやすい物でもない。気づいた  時にはすでに遅かった。キャンセルが間に合わず、今日あたり納品されるはずだと言う。
 やらかしたミスを嘆いても解決しないぜ、と白い歯を光らせた俺は、その実途方に暮れたまま、乙姫君を喫煙室から引っ張りだした。
 それが昨日の出来事である。俺は山へ救いを求めに来たが、出るのは汗と腰痛のみで、良いアイデアは浮かばない。
 笹セット捌きと山本さんのテヘペロ窃盗の取り調べ、妻みか子への対処を考えて俺は頂上から、ガスのかかった下界を見下ろした。登頂に成功したものの、何とも晴れ晴れとしないこの眺望は、今の俺の気分と似ている。
 中途半端な達成感を抱きつつ水筒を傾ける。それだけは断固として清冽な麦茶が、無機質に俺ののどを降りていく。
 仕事や人間関係は塩入り麦茶に似ている。香ばしく淡い味わいの麦茶に塩を入れたものは初め違和を感じる。だが慣れてくると、塩なしだと味気なく感じてくる。当たり障りのない日常はそれなりに楽だ。だがそこにおもむろにぶちこまれる一つまみの塩の成分が、俺の日常に必須なのではないか。
 俺の愛する日帰り低山登山には、汗や腰痛はあるがヘルメットやハーネスが必要な危険さはない。熊や猪との遭遇も御免こうむりたいし、雪山へも来ない。恐怖感がトゥーマッチな、いわゆる「ひとつまみの塩」の域を超えたリスクやしんどさを俺は求めていない。
 この「結構めんどくさいけど致命的なダメージではない」日常。そして「結構疲れるけど翌日動けないほどではない」という、娯楽ともいえる肉体のみの純粋な疲労感を俺は愛しているからこそ登山を続けているのだ。
 みか子のことを考える。彼女の日常は、おそらく頂上の見えない登山だ。人はゴールがあるからこそ、そこまで頑張ろうと思える。しかし母親という立場上、この先いつまで麦茶を作り続けなくてはいけないのかという強迫観念にも似たプレッシャーでもって、追い詰められる心境になるときもあるだろう。
 物音でふと振り返ると、猿の親子が茂みに隠れるところだった。母猿の背中に小さな子猿がしがみつき、彼らの最後に居た父猿とみられる一匹の臀部が、鮮やかな茜色であるのを見た。彼らを呆然と見送ったのち、おもむろに強い寂しさを感じた。
 山本さんにはきちんと真相を聞き、もし精神疾患であるなら俺が受け入れよう。非の打ち所がないと思われた彼女に致命的な欠点があるのなら、それを許しうまく対処することが普段の恩返しになるのではないか。最後通告はいつだって最後でいい。そして乙姫君には業務命令だと言って織姫の格好で七夕セットを手売りさせる。当然俺は彦星コスだ。それで手打ちにしよう。
 スマートフォンを取り出す。山の頂であろうとも携帯の電波はバリバリきている。それが良い事か悪い事かなんて俺には分からないが、現代の奇跡に今は感謝をしたい。
 まず何を言うかも決めないまま、俺はみか子の番号を呼び出す。




みんなのリアクション

 山はこんな俺にも優しい。
 仕事でやらかした時も、プライベートでしくじった時も、人間関係で孤立した時も、山にさえ来れば逃げ場がある。夥しい命の集合体、それが山だ。シティの喧騒と変わらない。こんなにも生き物が生息しているにも関わらず、山は静かで、空気が澄んでいる。
 毎月一回、山へ登るとき俺は、心に何らかの葛藤や悩みを抱えている。そんな俺のもやもやとした感情はいつも、山へ置いてくる。さながら鬱屈の不法投棄である。もしかすると昔の人が見た山の妖怪や魑魅魍魎は、そういった人々が置きっ放してきたネガティブな感情が創り出したものかもしれない。そう考えるほどに俺は山に甘えている。踏みしめる枯葉や小枝の砕ける感触とその音が、トレッキングシューズの足裏と鼓膜に心地よい。
 6月の山開きがすんですぐの時期。目に映る新緑が鮮やかで、木立では春ゼミが鳴いている。まだ三合目といったところだが、にじみ出る汗が心地よく、足元で咲いている花が愛らしい。
 愛らしいといえば、うちのスーパーに勤めている、パートの山本さんはいつも笑顔だ。雇われ店長の俺を気遣ってくれる優しい主婦だ。しかしながら優しいからといって、おもむろに笑顔がチャーミングですねなどと言うと、セクハラになる可能性がある。気遣いのお返しを気取り、セクハラをする上司は最低だ。何を言っても藪蛇になりかねないこの時勢に、センスが貧弱な中年が、アドリブでユーモアを出そうとするのは自殺行為だ。不慣れなことはしないに越したことはない。彼らのボスは臆病なのではなく、慎重なのである。
 そんなデキる上司を持つ山本さんは店の近くに住む主婦で、繁忙期や他の従業員の急な欠勤の日などの、出勤要請に快く応じてくれる。仕事の勘所も抑えているので手際が半端なく良い。彼女がシフトに入っていると何となく安心できるのは、俺だけではないはずだ。
 いつの間にか五合目まできた。ここには美しい景観を楽しめる展望スポットがある。俺はいつもそこで、妻が作ってくれる麦茶を飲むことにしている。出がけに水筒に氷をしこたま詰め、その上から愛妻麦茶を注いできた。ガスが少しかかっているものの、風力発電の風車がのどかに回り、海も見えるいつもの景色を見ながらキンキンに冷えた麦茶を飲んだ。麦茶は夏の味であると同時に、俺にとっての山の味でもある。
 だがいつも妻が作るものより味気ない気がした。塩気。塩気が足りないのである。俺の山麦茶にはいつも塩が一つまみ入っている。妻がミネラルを足してくれていたのである。初めの頃この塩麦茶には正直違和感があったが、慣れてみると疲労した身体には、不思議と美味しく感じるようになった。
 その愛妻が、今朝は子どもを連れて実家へ帰ってしまった。
 原因は俺にあるようだった。
 麦茶を水筒に注いだ後、冷水ポットを冷蔵庫に戻した。その瞬間を見計らったように妻が背後から現れ、戻したポットを再度取り出し俺の目の前にそれをかざした。
「どうして一センチの麦茶を残して戻すの」
 どうしてと言われても麦茶は少し残っているのだから、冷蔵庫に戻すのがサステナブルだろうといったような、ごく当たり前の返事をした。妻は、あなたは麦茶のポットを洗って、次のロットを作って置いてくれたことが過去に一度もない、といったようなことをうったえだした。
 俺は出来るだけ早めに家を出たかったので、今そんなことでなじり出す妻の気の利かなさに苛立った。適当にわかったわかった、と言ってポットをシンクに置き、帰ったらやるよと言った。その瞬間彼女の髪が天井に向かい逆立つのを俺は見た。
 それから妻は、俺の父親としての至らなさについて一方的に糾弾し始めた。
 クレーム対応に慣れている町スーパーの店長兼、家庭内苦情にも臨機応変に応えなければならない、お父さんとして分析してみる。彼女は、麦茶の件を引き合いに出し、とどのつまりは俺の思いやりのなさについて言及している。いつも帰りが遅い夫が、久しぶりに取れた休日を、自分のためだけに使う。そこに対して、妻は怒っているのではないか。
「そうだ。ミキとタケルも山へ来るかい?」
 俺としてはレジャーも兼ねた、素晴らしい打開策に思えたのだが、妻はタケルを連れて玄関を出ていった。
 玄関の扉が閉まる前の、息子のこちらを不思議そうに窺う眼差しが忘れられない。
「パパ、今度は何をしでかしたんだい」だが息子よ、パパは何がそれほどまでに悪かったのか、きみ同様に未だに不思議なんだよ。
頭頂部に差し掛かると傾斜がきつくなる。そこだけ樹皮が滑らかになっている、傍らの細木を掴んで登ってゆくと、バックパックに取り付けた熊鈴がチリンと鳴った。
 熊は怖い。人外ゆえ相手が何を考えているのか分からぬ所が怖い。体が大きく話が通じない。向こうの都合で、バイオレンスにうったえてくる者は総じて俺は怖い。
 春に入社した乙姫君は今風の好青年だ。勤務態度も真面目で人当たりがよく、パートのマダムたちに人気がある。人を見るときに俺が一番評価したい点は人望の有無だ。俺は彼に少しずつ重要な仕事を任せていったが、彼はそつなくこなしているようだ。
 乙姫君は幼少期から大学まで柔道に打ち込んでいた、猪首が頼もしい巨漢である。その図体でもって、目前に立ちふさがれると、かなりの威圧感がある。履歴書を見た時は、うちみたいな地域密着型の小規模スーパーに勤めずとも、何らかの用心棒として然るべき機関で活躍した方が稼げるのではないかと密かに思った。だが入社してきてほどなくして、彼の繊細さや慎重さに気づいた。というか一言でいうと結構なビビりだった。
 逞しく生き抜いている野生の熊も、実のところビビりが故に人間を見ると、先手必勝で攻撃してくると聞いたことがある。だが体格が熊じみた乙姫君は今のところ、狭い店内で出くわしたことにびっくりして、出会い頭に巴投げをしてくる様なことはない。
 そんな乙姫君が先日俺を、休憩時間に喫煙エリアに呼び出した。彼も俺も煙草を吸わない。部屋自体が煮しまったたような色の密室で、俺はBGM代わりに換気スイッチを押した。あの店のあの時間帯に、人気の無いスペースが他になかったのである
「悪い話が二つあるんです」
 そこは良い話と悪い話があって、どちらから聞きたいかという質問がセオリーじゃねえのと思ったが「じゃあマイルドな方からお願い」と俺は言った。
 山本さんなんですけど、から始まった彼の話は、俺にとってだいぶスキャンダラスなものだった。山本さんが品物の補充に行った後、エプロンのポケットが膨らんでいることがある。それとなく尋ねてみたところ、消費期限が間近な商品を入れている、と悪びれずに答えた。その後、彼女の退勤時間が来た。おつかれさまでしたとにこやかに挨拶をした後、ポケットを膨らませたままロッカールームへ消えた。そんなことが何度かあったため、再び乙姫君が山本さんに、何気なくポケットの品物の行方を尋ねた。彼女はいたずらが見つかった子どものようにペロッと舌を出した。そして内緒ねと言って売り場へ行ってしまった。
「窃盗じゃん!」
 俺は憧れのアイドルが妊娠して結婚するという話を、週刊文春で読んだオタクのようなリアクションをした。
「なに俺全然知らなかったよ、山本さんってそういう手癖があるの?」
 信じてて損したよ、俺の優しさが、セクハラか否か葛藤してた時間を返してよと頭を抱えたら、乙姫君が「直接店長が確かめた方が良いと思って」と優しく励ましてくれた。
 正直これ以上にエグい話はそうそうないだろうと高を括って、もう一個のほうを投下してくれよと促した。矢でも鉄砲でも持ってこいや、という顔をしていたところに、乙姫君が持ってきたのは辞表だった。
 喫煙室で漢二人しばらく見つめあった。
 一瞬、精肉部門のチーフが煙草を咥えながら近づいてくるのを感じたが、彼は我々を見て真顔になり、バックヤードに戻っていった。
「これは何だい、山本さんの疑惑と何か関係があってのことかな……」
 おそるおそる尋ねてみると、乙姫君は顔を覆い、店長すみませんと肩を震わせた。
「えっ、何……こわい何?」
「たなばたセットをいちまん……」
「えっ、何がいちまん?」
「よいこの七夕セット百個のところ、一万個発注しちゃってたんです……」
 狭い喫煙室で、巨漢が店長の膝で泣き崩れているような状況を、絶妙な角度から見た日配部門のチーフが、物わかりの良い顔で踵を返してバックヤードに消えた。
「わかった、良いよ、辞表出さなくていいよ。どうしても出したければ始末書を出してもらうかもしれないけども、もう良いよ……」
 自分でも何を言えばいいのか良く分からなかったのだがとりあえず、七夕セットとは何かと問うた。町内会のイベントのために受注していた、プラスチックの笹と飾りが入った、ちょっとした子どものおもちゃセットだと彼は言った。とはいえ、在庫にしておくには嵩張るし売りやすい物でもない。気づいた  時にはすでに遅かった。キャンセルが間に合わず、今日あたり納品されるはずだと言う。
 やらかしたミスを嘆いても解決しないぜ、と白い歯を光らせた俺は、その実途方に暮れたまま、乙姫君を喫煙室から引っ張りだした。
 それが昨日の出来事である。俺は山へ救いを求めに来たが、出るのは汗と腰痛のみで、良いアイデアは浮かばない。
 笹セット捌きと山本さんのテヘペロ窃盗の取り調べ、妻みか子への対処を考えて俺は頂上から、ガスのかかった下界を見下ろした。登頂に成功したものの、何とも晴れ晴れとしないこの眺望は、今の俺の気分と似ている。
 中途半端な達成感を抱きつつ水筒を傾ける。それだけは断固として清冽な麦茶が、無機質に俺ののどを降りていく。
 仕事や人間関係は塩入り麦茶に似ている。香ばしく淡い味わいの麦茶に塩を入れたものは初め違和を感じる。だが慣れてくると、塩なしだと味気なく感じてくる。当たり障りのない日常はそれなりに楽だ。だがそこにおもむろにぶちこまれる一つまみの塩の成分が、俺の日常に必須なのではないか。
 俺の愛する日帰り低山登山には、汗や腰痛はあるがヘルメットやハーネスが必要な危険さはない。熊や猪との遭遇も御免こうむりたいし、雪山へも来ない。恐怖感がトゥーマッチな、いわゆる「ひとつまみの塩」の域を超えたリスクやしんどさを俺は求めていない。
 この「結構めんどくさいけど致命的なダメージではない」日常。そして「結構疲れるけど翌日動けないほどではない」という、娯楽ともいえる肉体のみの純粋な疲労感を俺は愛しているからこそ登山を続けているのだ。
 みか子のことを考える。彼女の日常は、おそらく頂上の見えない登山だ。人はゴールがあるからこそ、そこまで頑張ろうと思える。しかし母親という立場上、この先いつまで麦茶を作り続けなくてはいけないのかという強迫観念にも似たプレッシャーでもって、追い詰められる心境になるときもあるだろう。
 物音でふと振り返ると、猿の親子が茂みに隠れるところだった。母猿の背中に小さな子猿がしがみつき、彼らの最後に居た父猿とみられる一匹の臀部が、鮮やかな茜色であるのを見た。彼らを呆然と見送ったのち、おもむろに強い寂しさを感じた。
 山本さんにはきちんと真相を聞き、もし精神疾患であるなら俺が受け入れよう。非の打ち所がないと思われた彼女に致命的な欠点があるのなら、それを許しうまく対処することが普段の恩返しになるのではないか。最後通告はいつだって最後でいい。そして乙姫君には業務命令だと言って織姫の格好で七夕セットを手売りさせる。当然俺は彦星コスだ。それで手打ちにしよう。
 スマートフォンを取り出す。山の頂であろうとも携帯の電波はバリバリきている。それが良い事か悪い事かなんて俺には分からないが、現代の奇跡に今は感謝をしたい。
 まず何を言うかも決めないまま、俺はみか子の番号を呼び出す。


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