ガチャガチャガチャ……
少し遠くに聞こえる金属音で私は目を覚ました。
1メートルほど離れた視線の先には白い壁。
頬から足のつま先にかけての左半身は、硬く冷たい真っ白な床に貼り付いている。
どれだけの時間眠っていたのだろう?
ゆっくり体を起こしてみるが、同じ体勢で固まっていた筋肉がギシギシ音を立てているかのように痛みを感じる。
「あ、ようやく気がついたか」
朦朧とする意識の中、背中の方から男の声がした。
振り向くと白いシャツに紺のブレザーを羽織った男がこちらを見ていた。
「このドア鍵かかってて開かないみたいだ」
彼はドアノブをガチャガチャと回しながら扉が開かないと不満そうに言っている。
――誰?そう私の頭の中に疑問が湧いたと同時に彼は声をかけてきた。
「何か覚えている事あるか?」
初めは彼の問いの意味が分からなかった。
「あなた……誰?」
彼は軽いため息をつくと頭を掻きながらこう言った。
「君、自分の名前わかる?」
私があなたを誰かと聞いたのに……そう不満を心に漏らした時、突然得も言われぬ不安が私を襲った。
私の名前……あれ?わからない?寝起きのぼんやりしてた頭が急に覚醒する。
周りを見渡し居場所を確認するが、8畳程度の四角い部屋で壁も床も天井までもが白一色。
ここはどこなの?こんな場所知らない。なぜ?いつ?どうやって?
「おーい、大丈夫か?」
完全にパニックに陥っている私に彼は間の抜けた声で聞いてきた。
こんな狭い空間に見知らぬ男と二人きり。
鍵もかかっていると言っていた。
壁の隅まであとずさり私は彼をにらみつける。
「わ、私に何か用ですか!」
恐怖で体が震える。何かにしがみつきたい一心で自分の両肩を強く抱きしめた。
「まぁまぁ、一旦落ち着こうか。どうやら君も記憶なくなってる感じみたいだな」
彼は腰を下ろし視線を座っている私の高さに合わせてそう言った。
「……君も?」
「そう、俺もさっき目が覚めたところで、どこだかわからないこの部屋にいた。何でここにいるんだって考えた時、自分の名前も忘れてることに気が付いた」
彼の言葉は普通信じられなさそうな内容だったが、今の私には不本意だけど共感できてしまう。
「で、見覚えはなかったが同じ部屋で眠っていた君なら、何か知ってるかなと少し期待したんだが……」
彼はそう確認してきたが、私は首を横に振るしかなかった。
「うん、ちょっと落ち着いてくれたかな。とりあえず自己紹介でもしたいところなんだけどな」
現状は変わらないけど同じ部屋にいた人が同じ境遇だったことを知り、私はなんとなく落ち着けていた。
もちろん彼の言うことを全部信用した訳ではないけれど、この狭い空間でギスギスしているよりも穏やかな時間が流れている方が好ましい。
幸い彼は人当たりの良さそうな雰囲気を醸し出してくれている。
「ポケット、何か入ってないか?」
彼にそう言われて、はじめて自分の服装に目を落とした。
私はこの白い部屋と同調してるかの様な白衣を纏っていた。
「俺のポケットにはこんなペンと名刺が入ってたんだけど」
見せてくれたものは、よく見慣れたボールペンと彼の物だと思われる名刺だった。
「フリージャーナリスト、坂本透さん?」
「そう書いてあるんだけど、正直これが俺の物って確証がないんだよな。名前を見ても口にしてもイマイチピンとこなくて」
私も白衣のポケットに手を入れてみると指先に薄く硬いものが触れるのが分かった。
取り出したそれはIDカード。
「なかなかの手がかり持ってるね。んーと、水原さん」
IDカードには知らない女性の顔写真とともに水原結衣と書かれている。
「これ私なんですか?」
「そうか、自分の顔も覚えてないのか。うん、同じ顔してるよ」
彼はIDカードと私を見比べてそう答えてくれた。
「L.M.S.研究開発部ですって。私もまったくピンとこないですね」
「そうか、結構思いだせそうなワードだけど。でも顔写真も同じだし、君は水原さんで良いんじゃないかな。その流れで言うと俺も坂本なのかな?文字だけじゃ判断つかないけど」
彼はそう言って名刺を裏返す。
「あと裏側にこんな文字が書かれてるんだよ。エングラム細胞、オプトジェネティクス……聞いたことある?」
彼の視線の先を覗き込むと、手書きの文字でその2行の単語が書かれていた。
「エングラム細胞というのは記憶を物理的に保存している神経細胞のことで。その細胞に光を用いてオン・オフさせる技術のことがオプトジェネティクスって言いますね」
あれ?なんで私そんな事を説明できてるんだろう?
「……すまん、何を言ってるのか分からない」
聞き覚えのない言葉に対して彼は正解の反応を示す。
私だって本来なら同じ反応をしていただろう。
でも、なぜか私はその2つの言葉の説明ができてしまう。
「えーっとですね、実験の話なんですけど。まずマウスをある箱に入れて軽い電気ショックを与えます。そうするとこの箱に対してちょっと嫌な記憶が残りますよね」
「お、おう」
「次に、その時活発に働いていた脳細胞に光を当てることでオン・オフの切り替えができるように……」
まるで台本を読んでいるかのようにそんな説明がスラスラと言葉にできている。
「……させる事ができる技術をオプトジェネティクスというんです」
「うーん、すまん。途中から全く頭に入ってこなかった……でも、何でそんな知識は残ってるんだ?」
「正直、私も戸惑っています。なぜなんでしょう……」
自分の名前も顔も、この部屋の事も何も覚えていないのに。
エングラム細胞?オプトジェネティクス?なんでそんな言葉や意味まで覚えているの?
理解しがたいそんな状況に身体が震えてきた。
「でもL.M.S.っていうのは覚えてないんだよな?」
「そうですね。その研究をしてたみたいですけど」
見覚えのないIDカードがそれを証明している。
「でも、まぁ覚えてることがあったのは少し前向きになれる話じゃないか?」
「え?」
「だって、さっきまでは二人とも何も覚えていない状態だったんだから。とりあえずそのエングラム細胞とやらから、何か繋がらないか考えてみようぜ」
私が1人だったらもっとこの現状に怯えていただろうと思う。彼の前向きな考えは少し気持ちを落ち着かせてくれた。
「うん、確かに。あとあなたがジャーナリストっていう仮説も取り入れましょうよ。何か繋がらないですかね」
「そうだな……今、手元にある材料で話を組み立てるとしたら」
「組み立てるとしたら?」
「君はL.M.S.という研究をしていて、その取材でジャーナリストの俺がやってきた」
彼がロジカルにストーリーを紡ぎだす。
「あー、なるほど」
「で、俺の取材力が優秀すぎて、知られてはいけない事まで知ってしまい」
「ん?」
「口封じのために監禁された」
早くもロジカルが崩壊しつつあるような。
「ほほう、ではなぜ私も?」
そんな疑問に彼は一瞬考え答える。
「……例えば、共犯者だったとか?」
まぁ、スジは通っているのかもしれない。
「記憶がないから、完全に否定も出来ないですけど。知られてはいけないってどんな事でしょうかね」
「よくある話で言えば、上層部の汚職とか非合法の実験とか?」
「記憶をなくして鍵のかかった部屋に閉じ込められてますからね。とんでもない秘密に行き着いてしまったのかも」
私のそんな相槌に彼は意外だなという顔をしている。
「自分で言うのもなんだが、こんなトンデモ仮説の話に乗っかってくれるんだな」
「何せ整理する為の材料が少なすぎますからね。豊かな想像力に対するリスペクトです」
「協力的でありがたいけど……エングラム細胞とオプトジェネティクス。やっぱり覚えている事から掘り起こそうか」
彼は名刺の裏を見て二つの単語を口にする。
「さっきは全然耳に入らなかったんだが、もう一度説明してもらえないか……できるだけわかりやすい感じで」
「そうですね。ではまず、人の記憶ってどこにあると思いますか?」
「そりゃ……脳、だよな?」
「ええ。詳しく言うとややこしいのでざっくり説明すると、記憶って脳の中に点々と散らばって保存されてるんです」
「点々?」
「はい。たとえば怖かったとか楽しかったみたいな体験があると、その時一緒に反応した神経細胞の集まりができます。それが、その記憶そのものになります」
「神経細胞の集まりが、記憶?」
「そう。そしてその集まりをエングラム細胞って呼びます。名前は聞き慣れないかもしれないですけど、要は記憶のスイッチみたいなものですね」
「スイッチ……」
「で、オプトジェネティクスっていうのは、そのスイッチを光でオン・オフできるようにする技術です」
「光で?」
「ええ。光を当てると、思い出したり。逆に当てなければ、思い出せなかったり」
彼は少し黙ってから、乾いた笑いを漏らした。
「脳の神経細胞に光を当てるとかイマイチ想像ができないけど、簡単に説明してもらうとそんな話なんだな」
「かなり端折ってますが噛み砕いてみました。なんとなく理解できました?」
「細かい理屈は置いておいて、ひとつ分かった事がある。その技術の応用で記憶喪失が人為的に再現できそうだなって」
私も彼に説明しながらその事が頭をよぎっていた。
「そんな……この研究はPTSDみたいなトラウマになった記憶を忘れさせたり軽減させるのが目的で」
自然と研究という言葉が口からこぼれた事に自分で驚く。研究?していたの?私が?
「うっ……」
彼が急にこめかみを押さえて苦しみだした。
「大丈夫ですか!?」
ほんの数秒で痛みは消えたようで、彼は大丈夫だとつぶやく。
「急にフラッシュバックが起きた」
彼は驚いた表情で私の顔を見つめながら言葉を続ける。
「嘘みたいな話だが、急に記憶が流れ込んできた」
「何か思い出したんですか?」
「全部じゃないけど断片的に。やっぱりこの名刺は俺のものだった。俺は坂本透だったよ。水原さん、思い出せないか」
どういう訳か彼の記憶が完全ではないけど急に戻ってきたという事だった。
きっかけらしいきっかけがなかった分、疑わしく感じてしまうのだけれど。
「私はやっぱり治療を目的としたオプトジェネティクスの研究をしていたけど、いつからか研究チームとは違う素性の分からない人たちを所内で見かける事が多くなっていた」
彼は私にそう説明をされたと言う。
「そう、でも君がその事を教授や准教授に問いただしても聞く耳を持ってもらえなかったらしい……どうかな、まだ何も思い出せないかい?」
私の名前は水原結依、L.M.S.の……というかオプトジェネティクスの研究をしていた。
その研究の裏で怪しい動きを感じていた—―
「うっ」
目を瞑り記憶を呼び起こそうとしていた私は、急に瞼の裏が眩しく光った気がした。
その瞬間、知っていたはずの記憶が流れ込んでくる。
「大丈夫か?」
彼が心配をして声をかけてくれた。
「私もきました、フラッシュバック」
「思い出したか?」
「いつここに閉じ込められたかはわかりませんが、そうなった原因は思い出しました。坂本さん、ごめんなさい私のせいで……」
ジャーナリストの坂本さんをこの研究所に呼び込んだのは私だった。
始まりは更衣室のロッカーを開いた時に拾った一通の封筒だった。誰かが扉に挟んでいたのだろうか?表には私の名前が書いてあり、裏には何も書かれていなかった。
不審に思ったけれど封筒を開けてみると数枚の紙が入っていた。
”記憶の消去と上書きの実験が行われている”
書き出しの一行に衝撃が走る。続く内容はオプトジェネティクスの技術を流用して人の記憶を自由に改ざんするという計画だった。使用方法例は多岐にわたって書かれていた。
分かりやすいところでは、事件の被害者に、された事を忘れてもらい事件自体が無かった事にしてしまうというもの。逆で言えば全く関係ない人に加害者としての記憶を上書きし犯人に仕立てるというもの。
一番恐怖を感じたのは政治の世界での悪用。国を動かす立場の人間の記憶を都合の良い様に改ざんしてしまうのだ。それは国内の問題にとどまらず、外交の問題にも及びかねない危険な行為だった。
衝撃的な内容の手紙であった。とはいえ現段階では信憑性のない怪文書である。
私は同じ研究チームのリーダーにこの事を話した。彼も近頃現れた素性の分からない人たちの存在に危惧していたので、上に掛け合ってみると言ってくれた。
数日たってリーダーは異動という名目で挨拶もなく姿を消した。
怖くなった私は知り合いのつてで外部からの助けを呼ぶ。それが坂本さんだった。
「初めて聞いた時はそんな事が可能なのかって思ったよ。そもそもどうやって被験者をその実験にかけるんだってね」
「この実験の怖いところは経験した記憶を無かった事にできてしまうところなんですよね」
「少し強引な、例えば拉致の類で連れてきてもその記憶を消してしまえば、研究所に来たことを知らずに都合の良い記憶を植え付けられてしまう。もう何でもありだ」
「ところでどこで記憶が途切れてますか?」
「あれだな、君と一緒にSPみたいな黒いスーツの男達に追われて廊下を走ってたところかな」
「私も同じです」
「で、今この状況だ」
私達は捕まり記憶の改ざんの実験をされたという事だろう。
「でも例の実験はまだ未完成なのでしょうか」
「あぁ、こんな簡単に思い出せたら怪文書のような事にはならなそうだな。まぁ、とりあえずお互いの素性と今置かれている状況は思い出せた」
「そうですね、次はこの事を世間に公表するためにこの部屋から出ていかなくちゃ」
私達は頷き合いこの部屋の探索を始めることにした。
とは言えこの部屋に調べるものはほとんどない。
四角い部屋。天井も壁も床もすべてが白い空間。
おそらく床は縦と横の長さが同じ正方形だと思われる。
なぜなら床には30cm×30cmほどのタイルが縦に12枚、横に12枚の計144枚敷き詰めれているからだ。
「ドアはやっぱり鍵がかかってて開かないですね」
私はドアノブを壊してしまえと思う勢いでガチャガチャと回してみたけど、扉は開きそうになかった。
「でも、ちょっと気になるんですよね」
「何か見つけたのか?」
「この鍵穴なんですけど……私たちって閉じ込められてるはずですよね」
「いまさら何を言って」
「ドアノブの下に鍵を差し込む穴があるんですよ。おかしくないですか?」
「……言われてみればおかしいな。部屋内に鍵穴って確かに不自然だ。普通内側なら施錠できるツマミみたいな金具が付いてるか」
「ですよね、それが普通。しかも閉じ込めておくなら、その金具も無い方が自然ですよね」
「……つまり、何が言いたい?」
「何か試されてる……とか」
私の言葉に彼は部屋を見回し始めた。きっと私と同じことを考えたのだろう。
部屋にある物といえば天井に埋め込まれているダウンライト。あとは扉の向かい側の壁に付いている壁がけ時計。
「監視されてるとしたら、あの時計にカメラが仕込まれてるかもしれないですね。まぁ、確証なんてひとつもないんですけど。鍵穴が部屋の内側にあって何か違和感あるってだけで」
「だけど試されているとしたらこの部屋に鍵が隠されてるかもしれないな」
扉のある壁と時計がある壁。残りの左右の壁は白いだけで何もなさそう。そう思っていたところ、彼は部屋の隅に近寄り壁を触っていた。
「お、何か紙が貼ってあったぞ」
白い紙は白い壁に擬態して一見分かりづらくなっていたけど簡単に剝がせたようだ。
「白紙の紙ですか」
私は近づいて覗き込みそう呟いた。
「裏は方眼紙だな」
「折って鍵にするとか……ちょっと無理か」
「紙を剥がした所も何もないな。あと気になるところと言えば」
「あれですよね」
私達は壁に掛けられている時計に視線を移す。
2つ気になることがあった。1つは私達が目を覚ましてから、時間を示す針が止まったまま動いてないこと。もう1つは文字盤に書かれているものが数字ではなく何かの記号であるという事。
「あの記号、何か知っているか?」
「初めて見ました」
「怪しいな」
「ですね」
「調べてみるか」
時計は彼が手を伸ばすとギリギリ下端が触れる高さに掛けられている。指先で上に持ち上げようとしているみたいだけれど全く動かないようだ。
「下についてるリューズは回すことができるけど」
連動して時計の針も動き出した。
「動いたところで?……だよな」
「他に手がかりはないですかね……ん?」
私は少しの違和感を感じ、白い壁の前でしゃがむと下の方を触れてみる。
「何かデコボコしてますね」
彼も同じようにしゃがんで壁を触ってみる。
「何か彫られているな」
「……これ、アレですね」
壁にはつい先ほど初めて見た記号が彫られていた。
時計に書かれている記号は12種類あり、壁に彫られている記号はその中のいくつかと同じものがあった。
「タイルの列ごとに記号が彫られてますね」
「で、列によって彫られている記号の数が違うと……」
多いところは3つも縦に記号が並んで彫られていた。
「あの〜私、ひらめいちゃったんですけど。この記号って数字を表してますよね」
「時計の数字とリンクしてるって事だな」
四面の壁を確認するとひらめきは確信に変わった。
「それで記号が彫られている壁は時計の壁と左隣の壁の2面だけ」
「確かに右側と後ろの扉がある壁には彫られてないな」
「四角いマス目と二辺に数字ですよ。何か見たことありません?」
私はもう分かるでしょって顔をして彼を見たけどピンときていないようだ。
「もしかして、パズルとかやりません?」
「ジグソーパズルなんかは子供の頃やったかな」
「ピクロスって知らないですか?」
「聞いたことあるけどやったことないな。クロスワード的な感じか?」
「うーん、ジグソーパズルよりは近いかな。お絵かきロジックとかとも言うんですけどね。あるルールに沿ってマス目を塗っていくと最終的に絵が浮かび上がるというパズルです」
「ほう」
「やりながら説明した方が分かりやすいと思うので、さっきの紙を貸して貰えます?」
彼から壁に貼ってあった白い紙を受け取ると裏返した。
「これが方眼紙っていうのもピンときたきっかけです。あとここで使えとばかりに坂本さんが持っていたボールペン……やっぱり私達、試されてる感じがしますね」
「記憶を消されて閉じ込められて、でも部屋から出たければ出てみろって……目的が謎だな。とりあえず説明続けてもらえるか」
「はい。ではまず、この部屋と同じように縦12マス横12マス入るように四角く線を引きます」
私は方眼紙の点線に沿って大きな正方形を書き込んだ。
「このままでも良いんですけど、分かりやすくするために中の点線も全部なぞって線を引いちゃいますね」
大きな正方形の中に144個のマス目が作られた。
「そうか、これが床のタイルを表しているってことだな」
彼が理解している事を確認して私は頷く。
「そしてこの壁に掘られている記号ですが。例えばこの記号、あの時計の文字盤と照らし合わすと」
私が指さした記号は時計の6の場所に書かれている。
「つまりこの記号は……6を表していると」
「正解です。それにならって彫られている記号を数字に変換して枠の外に書き込んでいくと……こんな感じになります」
正方形の枠外、左側と上側に数字が埋められたその図はまさにピクロスの問題になったいた。
「あぁ、確かに見たことあるなこんなパズル。水原さん、こういうの得意かい?」
「はい、こういうの得意分野なんで任せてもらっても構いませんよ」
それから20分ほど経っただろうか。他に手がかりがないか部屋を調べていた彼を横目にパズルを完成させた。
「よし、できた。こんな感じになりました」
方眼紙に浮き上がった絵は3時ちょうどを指した時計の様だった。
「あの時計を3時に合わせろって事なのか?」
「ですかね、とりあえずやってみましょう。私は手が届かないのでお願いします」
「そうだな。俺の得意分野だ……背が高いだけの話な」
笑いながら彼は時計の下まで行くと手を伸ばしリューズを回した。
「こんなところか」
「そうですね」
時計の針は3時ちょうどを指している。だけど何も起こらない。
「あれ、全く見当違いな事してますかね。私たち」
私は方眼紙に目を落とし、間違いがないか見直してみる。
「いや、パズルの問題っぽくなるのは偶然にしちゃできすぎてる。考え方は合ってると思うけどな」
「あ!1マス塗り忘れてるところありました」
そう言って塗り足した場所は、時計の3の数字が示す場所だった。
「うーん、これで合ってるんだけどな。何なんだろうこれ」
「実はこのマス、3じゃなくて12を表しているとか」
「なるほど、じゃぁ45度左に回転させたとすると……」
「9時だな」
「9時ですね」
彼がもう一度リューズを回し今度は9時に針を合わせてみる。だけど時計に変化はない。
「これも違うのか?」
彼がそう言い終える瞬間、バタンっという音とともに時計が90度手前に倒れた。続けてカランと音を立て何かが床に落ちる。私はその音の正体を見つけ拾い上げた。
「やりましたね、鍵ですよ」
「まさか本当に鍵が隠されているとはな。だけど部屋を出たところでどうやって逃げるかは出たとこ次第だな」
「おそらく部屋は監視されてるでしょうし、作戦考えたところで全て筒抜けですよね」
2人並んでドアに近づき私は鍵を差し込もうとする。
「あれ?これじゃない」
手に入れた鍵と鍵穴の形が合っていない。これでは差し込むことも出来ない。
「くそ、バカにしやがって。出られる可能性をちらつかせて、やっぱりからかわれているだけか」
同じように私も悔しくなったけれど、ふと時計が視界に入ると異変に気付く。
「ちょっと待ってください。あれ見てください」
私の言葉で彼も手前に開いた時計を注視する。
「時計のあった場所に空洞が見えませんか?」
角度的に奥の方が見えないけれど、確かに時計で隠れていた場所に四角い穴が空いている。
今度は2人で時計の壁に近づき見上げてみるが、奥の方が死角になり何も見えない。
「申し訳ないのですが馬になってもらえますか?」
私はそんな提案をする。
「まぁ、俺の得意分野か」
彼はおとなしく四つん這いになり、私は遠慮なくその背中に乗りかかった。
「何か見えたか?」
足元で彼の苦しそうな声が聞こえる。私は目の前に見えているものに対して少し固まっていた。
「【開】って書いてあるボタンがあるんですけど、押しちゃっても良いですかね?」
「あからさまだな。さっきの鍵といい、また喜ばせた後がっかりさせる気じゃ……」
あまりにシュールな絵に思考が止まっていると、彼はおかしな持論を語り出す。
「そうか、分かったぞ。これは喜んだ後に悲しませるという感情の起伏が狙いなのでは!?その事が脳内で何らかのエネルギーを発生させ、それを収集する実験を俺たちはやらされて……」
「とりあえず押してみますね」
カチャっという音が扉の方から聞こえた。
「え、あ、開いたのか?」
私たちが振り向くと扉はゆっくり自動で開いていった。
「無事脱出おめでとうございます。今回お使いになられたIDカード、名刺、ボールペン、小さな鍵等のアイテムは本日の記念品としてお持ち帰りください。なおSNSによるネタバレになるような情報発信は禁止となっておりますのでよろしくお願いします」
脱出を祝うBGMと共に、女性の明るいアナウンスが部屋に流れる。
「え?あ〜!」「お〜、これはすごいな」
私たちはお互いの顔を見てそれぞれ感嘆の声を漏らした。
「めちゃくちゃリアル!噂以上の没入感でしたね」
私は未体験の衝撃に興奮を抑えられていなかった。
「これはネタバレ禁止になるわけだね。あ、えーと、改めまして坂本透です」
彼は少しよそよそしい雰囲気をまとわせて自己紹介をした。
「あ、知ってます。私は水原結衣といいます」
私も少しかしこまって名前を伝える。
「あ〜、知ってます」
私たちは同時に笑い出す。
「あの〜、初対面で馬になれなんてひどい事してすみませんでした」
「いやいや、何かパズルとかあんまりやったことなくて、全部任せちゃって頼りなかったね」
「そんな事ないです。たまたまこういう謎解きが得意な方だったので」
「まぁ、立ち話もなんだから外でゆっくり話しましょうか」
「そうですね、行きましょうか」
そう言って私たちは、記憶喪失という稀有な経験をした真っ白い部屋をあとにした。
——本日はマッチングアトラクションL.M.S.へようこそ!最新技術による記憶喪失体験と、そんな極限状況での特別な出会い。一緒に協力し合いながら部屋の謎を解き、無事脱出することができるでしょうか!
え?ちゃんと記憶が戻るのかが不安ですって?安心してください、そんな方たちにも楽しんでいただけるように一定の時間が過ぎると自然と断片的に記憶が戻るアシストシステムも搭載しております。ぜひこの機会に疑似記憶喪失体験をお楽しみくださいませ。ロストメモリーシステムはあなたを特別な空間に誘います