半魚人の方がマシだった。
人生で一度でもこんなことを思う日が来るなんて、夢にも思わないだろう。
白い羽に黄色いくちばし。その上にちょんと小さな鼻の穴。ペタペタする水かきつきの短い足。誰かの名前を叫ぼうとしても「ガー」と濁音しか出ない。
水面に映る姿は、紛れもないアヒルだ。
そう、オレはアヒルになっていた。
なぜ? と聞かれてもそれはオレが知りたい。
半魚人ならまだ人魚のロマンがあっただろ。泳げるし、陸にも上がれるし、喋れるかもしれない。
下半身が魚でも顔はイケメンでいられたかもしれないのに。
例え化け物でも、人って文字があるじゃないかっ。
なのに現実は、アヒルって……。
最初は夢かと思ったさ。
どこかにいるオレが見ている長い夢。だから早く醒めろ、って何度も願った。
でも――。
プールの縁に立つと、水かきのついたオレンジの足が勝手に前へのめり、水へとぽちゃん。
考えようと葦になろうとするも、首は勝手に左右に揺れて餌を探そうとする。
食いたくもない虫をくちばしで啄む度に、理性が一つ死ぬ気がした。まあ、味は感じないんだがな。
オレの惨状など知らない周囲のアヒルたちは、ぐぇ、ぐぇ、ぐわぐわっと愉快な合唱をしている。
その音は、悪魔の笑い声にも思えた。
耳を塞ぎたいと思っても、どこにあるのか知らねえよ、自分の体なのに。
くりっとした円な瞳に、映るのはアヒル。
そして、オレの瞳が見ているのもまたアヒルだった。
アヒル(本物)とアヒル(オレ)が見つめ合う。
何も始まらない。
ただ、自分がアヒルだという事実が、無情に突き付けられる。
アヒルのくちばしで虫を啄む。
アヒルの足で水をかいて泳ぐ。
アヒルの声で、ぐぇ、ぐぇ、と鳴く。
アヒルの羽で、バサバサと風を受ける。
アヒルの尻尾は、ぴこぴこと揺れる。
そしてオレは、今日もまた、アヒルのオレとして生きている。
そんなオレでも、時折ふと人間だったときの記憶が思い出すことができた。
目を瞑れば思い出す――いつも見ていた家族の顔や、友達の笑い声――。
でも、その顔や声も微かなものだ。
あと少しで分かりそうなのに、霧がかってるように最後のピースがハマらない。
嗚呼。もしかしたらオレの頭がおかしくなっただけで、本当はまだ人間なのではないか?
プカプカと水に浮きながら、オレはそんなことを思い、空を見上げていることが多くなっていた。
果てしない青空。優雅に流れる雲。
遠くに見える飛行機雲――。
雲と同じ色の羽根があるというのに、オレはあそこまで飛べやしない。
飛べたとしても、アヒルの羽根ではきっと途中で力尽きるだろな。
そもそもオレは、なぜアヒルになったんだ?
いや、そもそもオレは人間だったのだろうか?
この姿になってもう随分と経つ、気がする。
なのに、オレの中にはまだ人間の記憶がある。それがとても不思議だ。
青空を見上げていると、いつもそんなことを考えちまう。
ふと、空の向こうに白い影がゆっくりと旋回しているのが見えた。
――白鳥か?
ああ、学校のプールで浮かぶだけのアヒルじゃなくて、あの白鳥になれたらまだマシだったのかもしれない…。
ああ、くそ。白鳥に憧れるなんて『人間だった頃のオレ』を自分から手放しているじゃないか。
そんな時だった。
声が聞こえたのは。
『――もう一度生を受けたいのなら、お前の愛した女を孕ませろ。さすればお前の魂はまたその胎に宿るだろう』
「グぇっ!?」
突然オレが声を出したせいか、周りにいたアヒルたちが不審な目を向けてきた。
――なんだ今の……? 気のせいか?
短い言葉なら、風の音とか色々理由が付けられたが、はっきりとした一音一音が頭にこびり付く。
もう一度空を仰ぐが、影はなかった。
神の声。
そう思った。
オレをアヒルにしたのは神で、オレをアヒルにした理由があの言葉だったなら?
だが、その神の声はオレにとんでもないことを告げたな。
アヒルと人間。
生物学とか物理学とか考えるまでもなく、不可能だ。
でも、オレはアヒルになっている。
なら、アヒルが人間になることも出来るんじゃないか?
いや、そんなことが本当に出来るのか?
オレは白鳥じゃなくて、アヒルだぞ?
アヒルが人間になる方法なんて、アヒルは考えもしない。その逆もまた、然り――。
そもそもオレの愛した女って誰だよ。悲しいことに、思い当たる人間はいない。
出来る、出来ない。
頭の中で自問自答を何度も繰り返す。
でも、答えは出ない。
オレはアヒル。アヒルは人間になれない。
なら、オレは一体なんなんだ?
アヒルの体に、人間の魂。
それが今のオレだ。
答えのない自問は、オレをアヒルに縛り付ける呪いのようにさえ思えてしまう。
そして夜になった。
風がないせいか、水面はいつも以上に穏やかに見えた。
でもオレの心は荒れた海のように静まらないでいた。
どうすりゃいい?
答えは出ないが、考え続けるしかないのが辛い。
そよそよと風が吹く度に、オレの心はぐらぐら揺れ動く。
小さな星を見ながら、いっそこのまま水に沈んでしまおうか――。……やめておこうか。話のオチがお涙頂戴みたいになるのは。
まあ、そんな冗談はさておき、こんな悩めるオレに千載一遇の出来事が起こったのはすぐのことだった。
クエェェ……。
あくび代わりの情けない鳴き声を上げてから、オレの目覚めは始まる。
しかし、今日だけは違った。
いつものプールではなく、人間の部屋にいたからだ。
――ああ、そうだ……。
聴こえてくる雨音に、オレは思い出していく。
「雨も風も強くなってきたね〜。避難してきて良かったね、しらたま」
しらたま。
それが今のオレの名前だ。
ベッドの上でスマートフォンを弄りながら、オレに話しかけてきたのは、しらたまの名付け親だった気がする。
確か――。
ぐるりと部屋を見渡すと、賞状が目に入った。
綾野明 智琉。
あやのあ、でいいのか?
分からない。知っている名前のような気がするが、記憶を辿ろうにも、頭の中には靄がかかるばかりだ。
綾野明は生物委員で、よくアヒルたちの世話をしてくれている。
「雨音って好きだけど台風は激しいからちょっと嫌かなあ……しらたまもそう思うよね?」
台風。
そう台風だ。
台風が来るというので、オレは学校のプールから綾野明の自宅へ避難して来ていたのだ。
雨音は確かに好きだ。あんなに落ち着く音はなかなかないぜ。
……と言いたいところだが、生憎今のオレには言葉を発することは敵わない。
「グぇ」
と、代わりに小さな返事が出た。
部屋の隅っこにバスタオルが敷かれ、オレはそれをベッドにしていた。
餌皿と水入れもあり、まあどこからどうみても愛玩動物の飼育そのものだな。
おまけに黄色いおもちゃのアヒルたちが、儀式でもするようにオレを囲っている。綾野明の趣味なんだろうか……。
オレは羽を膨らませながら、嘴でおもちゃのアヒルをつつき、ぷぅ〜と軽快な音を鳴らした。
「んふふ〜、可愛いなぁ」
綾野明がオレを見ている。
純粋な綾野明の瞳には、ただのアヒルだろうな。
『愛する女を――』
あの神の声をオレはずっと頭の中で 反芻している。
神様がくれたチャンス。綾野明には悪いが利用させてもらうぜ。
別に愛した女でも、好きだった子でもない。
ただ、オレの前にたまたま現れただ。
これが正解なのか、どれだけ考えても、アヒルの脳じゃ分からない。
このどす黒いイヤな感情は、きっとオレじゃない。まだ消化されていない虫が腹の中で暴れているのだろう。
オレはおもちゃのアヒルを、ぷぁぷぁ鳴らしながら気持ちを落ち着かせようとする。
綾野明は呑気にスマホでオレを撮影していた。
綾野明から見れば、きっと台風に怯える愛らしい小動物であろう。
オレよりも細くて白い指。
ものを掴み、触れ、抱くことが出来る手。
はっきりと意志表示が出来る声。
色々なことを記憶し考えられる頭。
自由に歩ける足。
髪頭目鼻口喉表情――。
人間のありとあらゆる部位。
もうオレにはないもの。
――いいな。
誰にも届かない声が、心の内で反響していた。
オレはおもちゃのアヒルから嘴を離し、ゆっくりと目を閉じる。
アヒルになったのがつい一昨日なことのように思えるし、数ヶ月一年以上経っているような気もする。
アヒルとして生涯を過ごす――それだけは嫌だ。
オレにはまだまだやりたいことが沢山あったはずだ。だが、そのやりたいこともあんまり思い出せない。
オレは目を開けて綾野明を見た。
「……ん? どうしたの、しらたま?」
視線に気付いたのか綾野明が、スマホから目を離した。
だが、オレはすぐに綾野明から目を逸らしていた。
見ていられなかったからだ。いや、見れなかったんだ。
そんな目で見るなよ……。オレをそんな目で見つめるなよッ!!
「グエェ」
と、オレは威嚇するように鳴いていた。
……頼むから話しかけてこないでくれ。
こんなちっぽけなアヒルに惨めな思いをさせないでくれ……。
そんなオレの思いとは裏腹に、彼女はニコニコしながらこちらに近づいてくる。
「あ、もしかしてぇ、お腹が空いちゃったのかな? しらたまは食いしん坊だからね」
違うッ! オレはお前と同じ人間だったんだッ!!
そう言いたいが言えないのがもどかしい。
「ぐ、グワワッ!」
すると綾野明は、オレの頭を優しく撫でてきた。
「大丈夫よ〜朝には台風もどっか行ってるから」
まだ風雨に怯えていると思ったのか、綾野明は小さな子どもをあやすように何度もオレの頭を摩り、優しい言葉を掛けてくる。
「わぐん、ぁグぇ」
ちょっと待っててね〜、と外の風雨とは正反対な気の抜けた声で、綾野明は部屋から出ると、またすぐに戻ってきた。
「はい、どーぞ」
切り刻まれた野菜が、餌入れに敷き詰められていく。
ペレットや虫に比べればマシだが、今は腹を満たしたい気分ではなかった。
しかし、オレは綾野明が持ってきた餌入れに嘴を突っ込んでいた。
腹が減っていたわけではないのに、体が勝手に動いていたのだ。
オレはただ目の前の餌をついばむ。
まるで暴飲暴食のように――いや、アヒルになったこの体は本能で動いているんだろう。だから無意識だ。
目の前に餌があるのなら食う。虫がいれば食べる。それが生き物の性なのだ。
「うんうん。いい食べっぷりだ」
餌にがっつくオレの姿に、綾野明は満足気に笑っていた。
惨めだ。
だがこの惨めさも今日で終わりにしてやる。
オレは野菜を、ぺろりと平らげていた。
綾野明が眠った時が勝負の時だ。
失敗は許されない――(そもそも成功はあるのか?) 神からのお題、直球で考えるがよくないんだ、とオレはオレなり解釈してみた。
ほらなんか比喩的な意味だったりするよな? な?
例えば、「彼女の心を掴む」とか、「彼女の人生に深く関わる」とか…。
電気が落ちた部屋に残ったのは、窓が風に揺れる音だけだった。その音はまるで、オレの鼓動そのままのようにも思えた。
豆電球が部屋を灯す中で、オレは枕元で綾野明の寝顔を見つめていた。
久しぶりに感じるベッドの感触に、出ない涙が出そうになるが、今は感傷に浸っている場合じゃない。
すぅすぅと穏やかな寝息と共に、綾野明の微かな体温が伝わってくる。
「ググッ…」
小さく唸りながら、くるっと一回転。
ふと、綾野明の腕が掛布団から少しはみ出しているのが見えた。
白い肌が暗闇にぼんやりと浮き上がっている。
オレはそっと近づき、彼女の指先に嘴を寄せてみた。
人間の体温だ。
あの時見た白鳥は、今どこで羽根を休めているだろう。
白く、優雅な翼がオレの魂を揺さぶる。
理由なんてない。ただ、そうあるべきだ、とアヒルの身体が訴えている。
ぶるッと羽根が震えた。
水かきの足が勝手にバタつく。
嘴が開く。
鳴き声じゃなく、言葉を出そうとする。
でも喉から洩れるのは、ただの濁った「グァアアア……」だけ。
これはオレの本能だ。
アヒルとしての本能。
理屈になっていない理屈。
オスがオスであるように。メスがメスであるように。
オレはゆっくりと綾野明の顔に、嘴を近づけていく。
そして唇と嘴が、ちょん、と触れ合った。
柔らかい感触に、思わず体が震えるが――これはキスではない。
ただ触れただけだと、自分に言い聞かし、すぐに嘴を離す。
…これで良いはずだよな?
これは神話なんだ。
オレが再び産まれ変わるための――。
綾野明。
もし、人間に戻れたら生物委員の手伝いとたまには昼飯くらいは奢ってやる。
だから、悪く思うな。
どんな罪でも背負う覚悟で、オレは嘴を今度は首筋へと伸ばしていく。
嘴の先端が彼女の首筋に触れる。
弾力と柔らかさ。それは万物の摂理を超えた何かに思えた。
そっと嘴を離す。
「ん〜むにゃっ……」
くすぐったいのか、綾野明の口元が少しだけ動いたが、起きる気配はない。
思えば――オレは人間の頃から何かを成し遂げたことがなかった気がする。
勉強もスポーツも中途半端で、いつだって誰かに流されて生きてきた。
だからきっと、こんなアヒルになっちまったのかな。
でも、今は違う。オレは今、自分の意志で動いている。
だから、この魂はオレだけのものだ。
不思議と魂は晴れやかだった。
「グエェ」
オレの嘴から、甘い鳴き声が響く。
ああ、そうか。人間に戻るときって、こんな気分なのか。
オレと綾野明の魂が混ざり合うように溶けていった。
……
……
…………
……ん? あれ……? ここは……どこだ?
いや、そもそもオレは誰だ?
アヒルだ。いや、違う。人間だったはずだ。でも今はアヒルだ。じゃあ人間だ。いや、アヒルだ……。
混濁した意識に、頭がおかしくなりになる。
いや、違う。オレはもう人間じゃない。アヒルだ。
でも、人間だ。いや、アヒルだ。
アヒルの体に人間の心があるはずなのに、その境界線が曖昧になっていく。
もう何も考えられない。
ただ、この体と心が混ざり合う感覚は悪くないと思った。
ああ――そうか……これが……神からのご褒美なんだ……。
オレはゆっくりと目を閉じていく――。
これはアヒルが試した小さな挑戦。
人間が試した馬鹿げた実験。
白鳥のように美しい羽根は持っていないけれど、でもいつかきっと飛べる日が来るはずだから。
いや、飛ぶんだ。この足で。
晴天の下。
グァアッッ! と、プールに浮かんでいた一羽のアヒルが鳴いた。
その近くには、真っ黄色なおもちゃのアヒルがぷかぷかと浮いている。
いつもの時間にいつもの生物委員が小屋の掃除をし、アヒルたちへ餌をまいている。
クワっ。ググっ。クエー。
アヒルたちの鳴き声は、どこか幸福の音に似ている。
アヒルたちは好き勝手に鳴いたり、ペタペタとプールサイドを歩いたり、水に浮かんだり、餌をつついたり、自由に生きている。
オレはというと――。
水面を見ていていた。
そんなオレを一羽のアヒルが見ている。
黄色のくちばしに真っ白な羽根は、ピカピカの一年生のようだ。
クワァっ、とアヒルがオレに向かって何かを訴えるように鳴いた。
まるで、昔のオレのように。
その小さな瞳に宿る魂を、オレは確かに知っている。
風が吹いて水面が小さく揺れた。
また台風が来るかもな。
オレはそう心の中で呟きながら、水面にぷかぷか浮かぶおもちゃのアヒルをつつく。
クエーッ! と、アヒルは怒ったように鳴いた。
そして、オレに向かって水をかけてきた。
そんなオレたちを見て、他のアヒルたちは楽しそうに笑っているようだった。
これは――オレが試したちっぽけな挑戦の物語。