生き残った者の掟
ー/ー 一九〇四(明治三十七)年二月、大日本帝国陸海軍は満州(現在の中国東北部)に進駐するロシア帝国の陸海軍に先制攻撃を仕掛け、これを大いに破った。日露戦争の勃発である。
不凍港を求め南下政策を推し進めるロシアと朝鮮半島の支配を目論む日本の軍事衝突は世界各国の注目を集めた。約四十年前の明治維新で国際社会にデビューした新興国である日本が、世界有数の軍事大国であるロシアに宣戦布告したことは驚きを以って受け止められたのである。
各国の軍事有識者の多くは日本の不利を予想した。つい半世紀前まで時代遅れの火縄銃が標準装備だった日本が強大なロシアと戦って勝てるわけがないとの意見が大勢を占めたのである。
だが、事態は彼らの想定通りには進まなかった。豈図らんや、日本軍は満州の荒野や日本近海でロシア軍に連戦連勝したのである。
それもそのはず日本はロシアとの戦争に備え入念な準備を怠らなかった。日本軍の将兵が陸海で勝ち進んだのは、彼らにとっては当然のことだったと言っていい。
しかし大国ロシアは次第に底力を見せ始めた。ヨーロッパ方面に駐留していた軍隊をシベリア鉄道で満州へ送り込んできたのである。同様にバルチック艦隊を極東へ向けて出航させた。日本陸海軍は、これら敵の増援部隊に備えねばならなかった……が、こちらは国力が底を付き始めていた。日本軍は厳しい状況に追い込まれつつあったのだ。
その状況下で起きたのが黒溝台会戦である。一九〇五(明治三十八)年一月、ロシア軍は十万もの大軍で、わずか八千名程度の兵力で日本軍が守る黒溝台を強襲した。黒溝台の守備隊は、たちまち全滅の危機に陥った。
敵襲の報を受け、日本軍の総司令部は震撼した。そこが破られることになれば前線が完全に崩壊してしまう。ただちに予備兵力の第八師団を投入する。立見尚文中将隷下二万の将兵が吹雪の中を黒溝台へと進軍した。
その中に歩兵大尉福島泰蔵の姿があった。彼はロシア軍が冬期間に攻勢を仕掛けてくることを予期していた。雪と氷に閉ざされ行動を制限される厳寒の時期こそが日本軍にとって最も危険と考えた彼は、それに備え戦前に雪中行軍の訓練を実施していたのだった。
時は一九〇二(明治三十五)年一月に遡る。第八師団に属する弘前歩兵第三十一連隊の中隊長だった福島は入念に準備した上で三十八名を率いて八甲田山の雪中行軍を実施、それを成功させた。
一方、同じ第八師団の青森第五連隊は、同時期に同様の八甲田山雪中行軍訓練を敢行して総勢二百十名中百九十九名が死亡(そのうち六名は救出後に死亡)という前代未聞の数の犠牲者を出していた。
福島は死んだ者たちに誓った。その死を無駄にしないと。
黒溝台に到着した第八師団は五倍のロシア軍との四つ相撲に勝利した。冬季戦で圧倒的な強さを誇るロシア軍を、厳寒の八甲田山で鍛え上げられた将兵が叩きのめしたのである。
しかし日本軍の犠牲は大きかった。第八師団の死傷率は五割というから、ほぼ全滅である。
黒溝台会戦での戦死者には福島泰蔵大尉も含まれている。彼は死後、少佐に昇進した。三十八才だった。
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一九〇四(明治三十七)年二月、大日本帝国陸海軍は満州(現在の中国東北部)に進駐するロシア帝国の陸海軍に先制攻撃を仕掛け、これを大いに破った。日露戦争の勃発である。
不凍港を求め南下政策を推し進めるロシアと朝鮮半島の支配を目論む日本の軍事衝突は世界各国の注目を集めた。約四十年前の明治維新で国際社会にデビューした新興国である日本が、世界有数の軍事大国であるロシアに宣戦布告したことは驚きを以って受け止められたのである。
各国の軍事有識者の多くは日本の不利を予想した。つい半世紀前まで時代遅れの火縄銃が標準装備だった日本が強大なロシアと戦って勝てるわけがないとの意見が大勢を占めたのである。
だが、事態は彼らの想定通りには進まなかった。豈図らんや、日本軍は満州の荒野や日本近海でロシア軍に連戦連勝したのである。
それもそのはず日本はロシアとの戦争に備え入念な準備を怠らなかった。日本軍の将兵が陸海で勝ち進んだのは、彼らにとっては当然のことだったと言っていい。
しかし大国ロシアは次第に底力を見せ始めた。ヨーロッパ方面に駐留していた軍隊をシベリア鉄道で満州へ送り込んできたのである。同様にバルチック艦隊を極東へ向けて出航させた。日本陸海軍は、これら敵の増援部隊に備えねばならなかった……が、こちらは国力が底を付き始めていた。日本軍は厳しい状況に追い込まれつつあったのだ。
その状況下で起きたのが黒溝台会戦である。一九〇五(明治三十八)年一月、ロシア軍は十万もの大軍で、わずか八千名程度の兵力で日本軍が守る黒溝台を強襲した。黒溝台の守備隊は、たちまち全滅の危機に陥った。
敵襲の報を受け、日本軍の総司令部は震撼した。そこが破られることになれば前線が完全に崩壊してしまう。ただちに予備兵力の第八師団を投入する。立見尚文中将隷下二万の将兵が吹雪の中を黒溝台へと進軍した。
その中に歩兵大尉福島泰蔵の姿があった。彼はロシア軍が冬期間に攻勢を仕掛けてくることを予期していた。雪と氷に閉ざされ行動を制限される厳寒の時期こそが日本軍にとって最も危険と考えた彼は、それに備え戦前に雪中行軍の訓練を実施していたのだった。
時は一九〇二(明治三十五)年一月に遡る。第八師団に属する弘前歩兵第三十一連隊の中隊長だった福島は入念に準備した上で三十八名を率いて八甲田山の雪中行軍を実施、それを成功させた。
一方、同じ第八師団の青森第五連隊は、同時期に同様の八甲田山雪中行軍訓練を敢行して総勢二百十名中百九十九名が死亡(そのうち六名は救出後に死亡)という前代未聞の数の犠牲者を出していた。
福島は死んだ者たちに誓った。その死を無駄にしないと。
黒溝台に到着した第八師団は五倍のロシア軍との四つ相撲に勝利した。冬季戦で圧倒的な強さを誇るロシア軍を、厳寒の八甲田山で鍛え上げられた将兵が叩きのめしたのである。
しかし日本軍の犠牲は大きかった。第八師団の死傷率は五割というから、ほぼ全滅である。
黒溝台会戦での戦死者には福島泰蔵大尉も含まれている。彼は死後、少佐に昇進した。三十八才だった。