憎しみの河
ー/ー 序章 悲劇の誕生
淡い光に包まれた秋の日、奈津子は妹と川原で遊んでいた。彼女は川辺に咲く花を集め、小さなブーケを作ると、それを妹の手に握らせる。
「お姉ちゃん、ありがとう」
「もっと可愛くしてあげる」
草で冠を編み、妹の頭に乗せると、可憐な七歳の花が咲いた。
辺りが薄っすらと陰り、山の上にどんよりとした雲が垂れ込めた。
「佳代子、帰るわよ」
「やだ。もっと遊ぶ」
「姉ちゃんの言うことを聞いて」
奈津子は、両親から聞かされた鉄砲水の怖さを思い出す。
急いで側道まで駆け上がると、小雨が降り出した。すぐに豪雨となり、姉妹はずぶ濡れとなって家にたどり着く。
「どうしたの」と驚く母に、「急に雨が降ったの」と奈津子。
佳代子がくしゃみをし、鼻水を垂らすと、母は小さなおでこに手を当てた。
「熱があるんじゃない?」
母は佳代子を風呂場に連れて行き、濡れた服を脱がせると、シャワーで体を温めてから、桃色のパジャマを着せた。
午後十時。降り続いた雨がようやくやみ、山あいは静けさに包まれていた。
両親は上流での決壊を心配したが、警報は解除され、川は穏やかに流れていると思われた。
奈津子は二階の子供部屋にあるベッドの下段で寝る。上段は佳代子の寝床だが、姉妹はいつも一緒に下段で寝ていた。
「佳代子、そろそろ寝るよ」
「今日は、お母さんと一緒に寝る」
「どうして?」
「風邪をひいちゃったの」
佳代子は一階で両親と川の字になって寝る。
午前0時。奈津子は夢で水が流れるような音を聞く。やがて砂利の流れのような細かい振動に変わり、彼女は目を覚ます。
なんだろう?
振動が急に激しさを増し、奈津子の体が小刻みに揺れる。明かりが消えて木がきしむ音が響き、家全体が船のように揺れる。
彼女が悲鳴を上げると、揺れは収まり、不気味な静けさが訪れる。
暗闇の中、彼女は階段を駆け降りると、足を濡らす水に気づき、その場で立ち止まる。手探りで壁に触れると、階段の電球がついた。
水面に顔を近づけると、薄っすらと濁った水面の下のほうに、小さな人影が見えた。
「佳代子!」
水面は分厚いガラスのように冷たく、どんな叫びも通さない。まだ十一歳の奈津子に潜る勇気はなく、ただ泣き叫ぶしかない。その人影は水に押し流され、奈津子の視界から去っていった。
砂防ダムの決壊から二日後、奈津子は仮設された安置所で家族の遺体を確認する。
青いビニールシートに三人の遺体が並べられている。両親の体は酷く傷ついていたが、妹の顔には傷ひとつなく、ただ眠っているようにしか見えない。
「姉ちゃんだよ。起きて」
妹は草の冠を握りしめていた。
「佳代子! 姉ちゃんを赦して!」
奈津子は自分を責めた。
ああ、あの子は待っていたんだ。草の冠を握りしめ、あたしが助けに来ると思ってたんだ……
そのトラウマは悲しみを憎しみに変え、奈津子は自分の処罰を望む。処罰とは一種の救済である。親類が彼女を引き取らなければ、彼女は手首を切っていたに違いない。
牧場を営む親類が奈津子を引き取った。その牧場は祖父母と、奈津子の母の妹である叔母と、その夫の四人で営まれていた。
「今日からここは、なっちゃんの家だからね」
「おばさん。お世話になります」
「思いっきり甘えていいんだから」
叔母夫婦には子供がいなかった。彼らは実の親以上の愛を心に誓い、祖父母も奈津子を優しく見守った。
その甲斐あってか、奈津子に明るい笑顔が戻り、心の傷は遠からず癒えるものと思われた。
奈津子が保護された翌年の夏、彼女が住む田舎町で事件が起きようとしていた。
二人のチンピラが、駐車場で煙草を吹かしながら、コンビニの様子をうかがっていた。拓哉と慎吾が店を襲うタイミングを図っていたのだ。
第一章 拓哉
二人のチンピラの生い立ちを語ろう。まずは拓哉から。
彼は寂れた港町の公衆便所で産声を上げた。
母親は若いころからアル中で、吹き溜まりのような安酒場に入り浸り、春を売って酒代を稼いだ。赤ん坊をほったらかして呑んだくれ、眠っている拓哉を指差して、お酒と交換してよと言い、客にからんだりもした。
拓哉は父親を知らず、母親からはクズと呼ばれて幼少期を過ごす。
冬の朝、酔い潰れて寝転ぶ母の足元で、凍えながら給食代を乞う。
「無駄飯食いのゴミクズめ」と怒鳴られ、空き缶を投げつけられた。
お腹が空いたと言えば、「自分で盗ってこい」と突き放され、万引したパンを持ち帰れば、「なんで一個だけなんだ」と怒鳴られ、また殴られる。
顔に青アザを作って登校しても、教師は見て見ぬふりをし、荒れた家庭に介入しようとはしない。
拓哉は一瞬たりとも愛されることなく育ったからか、ひどく短気で、こらえ性のない性格をしていた。
彼はシンナーに手を出し、ゲームセンターに入り浸り、万引きや恐喝に明け暮れる。
ある日、拓哉は肩が当たったと言って通行人をいきなり切りつけ、警察が出動する事態となった。
その逮捕劇も滑稽なまでに愚かだ。彼はナイフ片手に狂犬のごとく吠えた。
「かかって来い。刺されたい奴はどいつだ」
「ナイフを捨てなさい」
「うるせえ。なめんじゃねえぞ」
ついに警官は拳銃を構える。
「上等だ。撃ってみろ」
目的は威嚇だ。撃つわけがない。
「おらおら、どうした。撃てねえのか」
拓哉は調子に乗って腕を振り回し、手からナイフを飛ばす。彼は警棒で打ちのめされて、数人の警察官に取り押さえられる。
「奴がぶつかってきたんだ!」
「大人しくしなさい」
「畜生! 俺は被害者だぞ!」
馬鹿げた言い分ではあるが、見方を変えれば真実である。それは見捨てられた子供の叫びでもあったから。
拓哉は身柄を拘束されて、お決まりのレーンに乗った。彼は少年院でも、些細なことで騒ぎを起こしたから、慎吾以外に相手をする者はいなかった。
拓哉は慎吾のことを、「ちょっと変わった野郎」と思っていた。
拓哉は人付き合いには、拳と刃物が付き物と思っていたが、慎吾を前にすると、それを使う気が起きない。
慎吾はいつも冷静で、拓哉が粗暴な態度を見せても、軽い冗談で受け流すのだ。
第二章 慎吾
次は慎吾の生い立ちを語ろう。
彼は小中ともに成績が優秀で、少年院で行われた知能検査の数値も高い。
父親は家庭をかえりみない遊び人で、パチンコに狂い、持ち玉が尽きれば、幼い慎吾に玉拾いをさせた。
「このクズが。もっと拾ってこい」
慎吾も拓哉と同じように、親からクズと呼ばれて幼少期を過ごす。
殴られて唇を切った慎吾は、ゴキブリのように店内を這い回り、店員に注意されるまで玉を拾い集めた。
慎吾の父は子供の愛し方を知らない。彼も虐待されて育ったのだ。結局、慎吾の父は他所に女をつくって家を出て行った。
慎吾には美咲という二つ年下の妹がいた。
母親は育児放棄していたから、美咲の面倒はすべて彼がみた。だが、給食や教材の費用までは、どうすることもできない。
「お母さん。美咲が使うノートを買いたいんだけど……」
「あたしに何の恨みがあるの! 出て行け!」
母親は髪を掻きむしって声を上げた。慎吾は父の拳以上に、その金切り声が怖かった。
結局、慎吾は万引きに手を染めることになる。たまに見つかったが、その場で叱られるだけで、警察や学校への通報はされなかった。
慎吾は、美咲から友達がいじめられていると聞けば、飛んでいって悪ガキどもを叱りつけた。
数人のクラスメイト相手に殴り合いをしたこともある。イジメを止めようとしてのことだ。
彼は優しく正義感のある少年だったが、ある事件をきっかけに人生の歯車が狂う。
彼が中三のとき、美咲が河に身を投げて死んだのだ。
いつも陰でいじめられていた美咲は、ある日、工場の跡地にある倉庫に呼び出され、クズどもに取り囲まれて自慰を強要される。総勢十人ほどの少年少女が、ニヤニヤしながら携帯をかざしていたのだ。
美咲は画像を拡散すると脅迫され、金がないなら稼ぐ方法を教えてやると言われる。勇気をふり絞って交番に行くが、学校で相談しろと言われて帰されてしまう。
だが学校での相談は無意味だ。教師は隠蔽しか考えていない。それが生徒の中の常識だった。
美咲はクズどもに言われるまま春を売り、ずるずると地獄にはまり込んでいった。
それでも兄に相談をしなかった。いや、できなかった。慎吾は彼女が死んでから日記の存在を知る。
「今日、おじさんにホテルに連れて行かれた。やめてって言ったら、叩かれて服を脱がされた。兄ちゃん、助けて。でも、こんなこと、兄ちゃんに言えない。言いたくない」
涙で文字がにじんでいた。慎吾は怒りと悲しみに打ち震える。
なぜ俺は気づかなかったんだ。この糞野郎、お前が死ね。
加害者の親たちは、自殺の原因は美咲の家庭環境にあると口をそろえて証言し、学校と警察は事件化を見送った。
イジメ事件は教育者のキャリアの汚点になるし、警察にとっても、少年事件は評価されない『美味しくない事件』なのだ。
慎吾は美咲が身を投げた河を見つめながら、彼女と過ごした日々を振り返る。
放課後の校門で自分を待つ美咲。一緒に河原で道草をして、野良猫たちと遊んだ日が懐かしい。美咲が猫と遊びたいと言うから、彼が餌をやって仲良くなったのだ。
彼は妹の後を追おうと思った。しかし、やるべきことがあった。彼は憎悪を抱きながらも、冷静に復讐の機会をうかがう。
主犯格の二人は、彼と同じ三年生の男女だ。
彼は平静を装いながら一部始終を観察し、彼らが美咲を呼び出した倉庫でやっていることを突き止める。
彼は二人が卒業式の日も必ずヤルと確信し、式が終わると倉庫に先回りして待ち伏せをする。
案の定、二人が現れてヤリはじめると、彼は鉄パイプを握りしめてタイミングを図る。
女子は作業台の上で股を開いてあえぎ、男子は立ったまま腰を動かしている。男子が女子の腹にまき散らした瞬間、後頭部に鉄パイプが振り下ろされた。
男子がのたうち回る間に、女子を後ろ手に手錠で固定し、ロープで作業台の脚に縛りつける。
男子の体に鉄パイプを何度も振り下ろすと、スポーツバッグから斧を取り出して言う。
「おい。まだ死ぬなよ」
床一面が血の海と化し、女の方に振り向くと、口から血があふれていた。恐怖のあまり、自分で舌を噛み千切ったのだ。
慎吾は女の前髪をつかんで言う。
「どうだ? 気分は」
女は命乞いをするが、血の泡を噴くだけで言葉にならない。
「俺の妹はな、お前に殺されたんだ」
慎吾がナイフでとどめを刺すと、女はだらりと頭を垂れた。彼は死にゆく様子を眺めながら煙草を吹かす。
俺が間抜けだから美咲は死んだ。全部俺のせいだ。
彼は吸いかけの煙草を握りしめるが、肌を焼く火でさえも、悲しみをかき消すことはできない。
彼は自ら出頭して身柄を拘束され、お決まりのレーンに乗った。
後追い自殺を考えた彼であったが、少年院で自殺を図ることはなかった。
同じような境遇で育った者が大勢いたし、拓哉との出会いが大きかった。
昼食のときのことだ。
「おい。この肉を食ってくれよ」と拓哉に声をかけられた。
「いいのか?」
「安い肉は食えねえんだよ。俺は上流階級の出だからな」
「本当か?」
「見りゃ分かるじゃねえか」
慎吾はクスクスと笑った。
「馬鹿野郎! 俺はセレブだ!」
「そうだな。確かにセレブだ。でも悪いから、俺の飯を半分食ってくれよ」
「おう悪いなあ。やっぱ米が一番だぜ」
慎吾は拓哉といると不思議に心が休まった。拓哉には裏表がないからだ。ただ、ないと言うより作れないのだ。裏表を作る前に爆発してしまうから。
慎吾はトイレ掃除の際に、死んだ妹のことを拓哉に話した。便器を拭きながら復讐のことを話すと、拓哉らしい言葉が返ってきた。
「そんな奴らは挽肉にしてやりゃいいんだ。生き返らせろ。俺が料理してやるぜ」
さすがに慎吾も呆れた。
「そんな料理、犬も食わないよ」
「馬鹿野郎! てめえ妹が可愛くねえのか! 俺ならソッコーだぜ」
「お前、俺の気持ちが分かるか?」
「わからねえよ。俺はずっと一人だったからな。あーあ、俺にも妹がいたら良かったな」
滑稽なまでに愚かな拓哉。愛を知らずに育った拓哉。ある意味において、慎吾以上に悲惨だった。
慎吾はそんな彼を不憫に思い、社会への憎しみを更に募らせる。復讐。その冷たい炎を胸に秘め、拓哉とともに「その日」を迎えるのだ。
第三章 愚か者の所業
奈津子が牧場を営む親戚に引き取られた翌年の夏、その田舎町で事件が起きようとしていた。
その日は猛暑となり、コンビニの駐車場は焼けるような暑さだ。
拓哉と慎吾はバイクの横で煙草を吸いながら、店内の様子をうかがっている。狙っているコンビニは、競争相手が少ないからか繁盛している。
彼らはクソみたいな過去を振り返りながら、客が消えるのを待っていた。
拓哉はアスファルトにつばを吐く。
「あの野郎、検査とか言って、俺のケツの穴に指を入れやがった。ありゃ奴の趣味だ。どう見ても股間が大きかったんだ」
慎吾はげらげらと笑う。
「いいじゃねえか。けつの穴くらい貸してやれよ」
「馬鹿野郎! いつかあいつ、ぶっ殺してやる!」
「おい、客がいなくなったぜ。そろそろやるか」
「おう。派手に行こうぜ」
彼らは煙草を投げ捨てた。
「ちょっと待て」と慎吾。
小さな女の子がまだ店内にいた。
「ガキなんて気にすんな」と拓哉。
「だめだ。あの子が行ってからだ」
「じれってえなあ。こういうのはパンパンといかねえと」
女の子は店を出ると、揺れる陽炎の中へ幻のように消えた。
「行くぞ!」と拓哉。
彼らは目出し帽をかぶって突入すると、若い店員にナイフを突きつけた。
「じっとしてろ」と慎吾。
「長生きはするもんだぜ」と拓哉。
拓哉がナイフで威嚇し、慎吾は電話線を引き千切ってレジの金を奪う。
「慎吾! ポップコーンも頼むぜ!」
「どうでもいい! 行くぞ!」
拓哉は「サツを呼んだら殺すぞ」と若者を脅し、ポップコーンを鷲掴みにして店を飛び出す。
彼らがアクセルを回すと、カラーボールが拓哉のバイクのそばで弾け、そのスニーカーを塗料で汚した。彼はバイクから降りると、リュックからバールを出す。
慎吾は「ほっとけ」と叫ぶが、拓哉は完全に切れている。
「いくらしたと思う? ディオールだぞ!」
「盗んだ金で買ったんだろ」
「うるせえ! あの野郎。頭叩き割って脳みそを踏みつぶしてやる」
警察は彼らを寸でのところで取り逃がし、県下に緊急非常配備を敷く。山あいにサイレンが鳴り響き、蝉の声が蹴散らされた。
慎吾の心配をよそに、拓哉はマフラーを吹かして御機嫌だ。鼻歌は尾崎の名曲。もちろんバイクは盗んだものだ。
パトカーのサイレンが徐々に近づいてくる。慎吾は「山に入るぞ!」と叫び、左ウィンカーを出す。
彼らは車道から林道に入り、小石を跳ね上げながら走り続けるが、拓哉のバイクの前輪がバーストし、彼は派手に転倒した。
「拓哉、大丈夫か?」
「畜生、貧乏人が。こんなポンコツを置いときやがて」
もうバイクは役に立たない。彼らはリュックを背負って山中を彷徨い歩く。やがて薄暗くなり、疲労と空腹が募る。
「腹が減ったなあ」と拓哉。
ふいに森が途切れ、視界が開ける。彼らの眼前に牧草地帯が広がっていた。
「おい、あれを見ろ」
慎吾が指差す先に、仄かな灯が揺れていた。二人はその光に向かって歩き、大きな木造家屋のそばの草むらに身をひそめる。
二人は家族の声に聞き入る。彼らには手に入らなかった声だ。
「楽しそうだな」と拓哉。
「家族団欒ってやつだろ」と慎吾。
拓哉は唇を噛んで言う。
「いい気なもんだぜ。こっちは腹ペコだってのによ」
第四章 惨劇の夜
その晩も、酪農家の食卓はにぎやかだった。
叔母夫婦には子供がおらず、奈津子が我が子に思えた。祖父母も孫娘を温かく見守った。彼らは、水害で家族を失った奈津子を心配し、精一杯の愛情を注いだのだ。
だが奈津子はそれに甘えない。彼女は箸を置くと祖父に言う。
「なんでもやります。他人と思って下さい」
「よし。朝五時から牛舎で働け」
祖父が笑みを浮かべると、叔母が声を上げる。
「なっちゃんは小学生よ! 意地悪ね!」
「お父さんは冗談を言ったんだよ」と叔父がなだめた。
そのときドアが閉まる音が響いた。
「あらいけない。鍵を掛けるの忘れたかしら」
「おばさん。あたし、見てきます」
奈津子が玄関に行き、鍵を掛けようとすると、カサカサと草の擦れる音が聞こえた。
猪でもいるのかしら?
少しだけドアを開けると、メリーの鳴き声が聞こえた。
メリー、どうしたの?
メリーとは母牛と生き別れた雌の子牛のことだ。
肉親を失った少女たちは、出会った瞬間に打ち解けた。奈津子はメリーを妹のように可愛がり、メリーも彼女に心を開いた。
彼女がメリーの元へ行こうとすると叔母の声が響いた。
「なっちゃん! 誰か来たの!」
「誰もいません! ちょっと牛舎を見てきます!」
メリーは奈津子を見ると鳴き止んだ。
「大丈夫。あたしが守ってあげる」
彼女はメリーの頭に頬ずりをし、おでこに口づけをする。
その様子を、二匹の獣が陰から見ていた。
「可愛いじゃねえか。やっちまうか?」
「おい、いい加減にしろ」
「冗談に決まってんだろ」
奈津子がドアに鍵を掛けて居間に戻ると、七時のニュースがコンビニで起きた事件を報じていた。
祖母は箸をとめて祖父に言う。
「あんたがお酒を買う店よ。こんな田舎なのに物騒だねえ」
ニュースは若い店員の死を伝え、防犯カメラの映像を流す。
すると牛の鳴き声が響く。
「見てくるから食べていてよ」と叔父。
「おじさん。あたしも行きます」
「ひとりで十分だから」
彼が食卓を離れると、叔母はまた祖父に文句を言う。
「小学生に朝の作業ができるわけないでしょ」
「わかってるよ。しつこい奴だなあ」
「あんたに似たのさ」と祖母が皮肉を言うと、牛たちの騒ぐ声が響いた。
「なにかしら? 見てくるわ」と叔母。
「おばさん。あたしも手伝います」
「なっちゃんはいいの。ご飯を食べていてね」
そう言い残し、叔母も食卓を離れた。
歌番組の最初の演歌が終わると、祖父は味噌汁を飲み干し、お椀を食卓にことんと置いた。
「奈津子。酪農が好きか?」
「はい。動物が好きなんです」
「メリーか?」
「ほかの牛たちも大好きです」
「酪農はきついから、まだ無理だな」
「どんな試練も乗り越えてみせます」
十二歳とは思えぬ受け答えに、祖父はほとほと感心した。
そのとき木のきしむ音が響き、居間のドアがわずかに開く。
「お疲れ様。牛舎でなにがあったんだ?」
ドアの向こうから返事はない。
「なにしてる? 早く入ってこいよ」
ドアの向こうは暗く、何も見えないが、奈津子は不穏な気配を感じ取っていた。二匹の獣が手を振りながら笑っていたのだ。
不気味な声が聞こえた。
「なっちゃん。試練が始まるよ。なっちゃん」
「誰なんだ!」と祖父が怒鳴ると、木のドアが全開し、クズどもが姿を見せた。
「なんの用だ!」と祖父が怒鳴る。
「飯食わせろよ」「ビールあるか」
彼らは土足で侵入し、冷蔵庫のドアを開けて物色した。
「娘たちに何をした?」と祖父。
拓哉はがつがつと料理をむさぼり、うめき声を上げる。「畜生、いいもん食ってやがるぜ」
慎吾は鎮静系の錠剤をつまみに、静かにビールを飲む。
しばらくすると画面が急に切り替わり、警察が犯人を特定したとのニュース速報が流れた。
慎吾は錠剤を噛み砕き、拓哉は料理を口に入れたまま固まった。
キャスターは、容疑者は未成年だから氏名は公表できないとし、コメントを述べた。
「少年の人権は十分尊重されるべきです。しかし、何をしても赦されていいわけではありません」
正論である。だが憎しみに支配された者に効力はない。
「俺たち死刑かな?」と拓哉。
「だろうな」と興味なさげな慎吾。
「でも、俺たち未成年だぜ」
「三人じゃ無理だろ」
サイレンが遠くで鳴り響き、祖父が罵倒を始める。
「人殺しめ。少年だから赦されると思うなよ」
「赦してくれなんて言ってないよ」と慎吾。
「クズどもめ!」
クズ。彼らが親から散々浴びせられた言葉だ。
そのとき牛舎からメリーの鳴き声が響いた。
「メリーが怯えてる……」と奈津子。
「君はメリーが好きなんだね?」と慎吾。
「メリーはあたしの妹なの」
「どうして?」
「佳代子が死んだから、今はメリーが妹なの」
「佳代子って?」
「あたしの妹」
「なぜ死んだの?」
「大雨が降って、水に呑まれたの」
「そうだったんだ」
「でも本当は、佳代子を殺したのは、あたし」
慎吾は息を飲んだ。
「あの子は水の中で、あたしの助けを待っていた。でも、あたしは……」
慎吾はそれ以上言うなとばかりに奈津子から目をそらした。しかし、やがて重い口を開く。
「お兄さんにも妹がいた。美咲っていうんだ。彼女も死んじゃったんだ」
「どうして死んじゃったの?」
「ひどいイジメに遭ったんだ。誰も助けてくれなかった」
「先生は?」
「先生も警察も、見て見ぬふりさ」
慎吾はため息をつき、奈津子に聞く。
「ところで、君はメリーの運命を聞いているの?」
「運命?」
「やはり聞いてないのか」
「ステーキになるんだ」と拓哉。
「おい拓哉」
「なんだよ。本当のことだろ」
「納屋に斧があっただろ。持ってきてくれよ」
「なにするんだ?」
慎吾は祖父母を横目で見る。
「こりゃまいったな」と拓哉は言い、納屋に道具を取りに行った。
「なっちゃん。お兄さんが、メリーを守ってあげるからね」
拓哉が斧を持ってくると、慎吾はメリーの運命を回避すべく、それを何度も振り下ろす。
奈津子は耳をふさいで目を閉じるが、断末魔の悲鳴が聞こえ、鈍い振動が伝わってくる。
慎吾はことを終えると、台所から濡れタオルを持ってきて、奈津子の正面に座った。
「もう目を開けてもいいよ」
奈津子が目を開けると、慎吾がその瞳を真っ直ぐに見つめる。
「お兄さんの顔だけを見て」
慎吾は奈津子の顔に散った血飛沫を、濡れタオルで丁寧にふき取る。
「君の試練が始まった。乗り越えるには、憎しみを捨てるしかない。お兄さんにはできなかった。君はできる?」
「うん」
「そうか。良かった」
慎吾は奈津子を抱きしめて震える。奈津子を守りたかった。だが冷酷な現実を否応なく理解する。
美咲を守れなかった俺が、この子を守る? ふざけるな、糞野郎……
第五章 ただひとつの道
事件から二十四年。奈津子は三十六歳の主婦になっていた。
夫と一人娘の三人家族。一見幸せな家庭に見える。だが彼女の心は癒えておらず、慎吾の声が今も脳裏に響いていた。
『君の試練が始まった。乗り越えるには憎しみを捨てるしかない。お兄さんはできなかった。』
いつも彼女はその続きをつぶやくのだ。
「きみはできる?」、そして苦しみながら「うん」とうなずく。
慎吾の運命が、憎しみは破滅しか生まないと教えてくれた。彼女は家族のことだけを考え、過去を振り返らないようにしたが、ちょっとした事件のニュースを聞いただけで悲惨な光景が蘇った。
何年もの間、家族に内緒で精神科にも通った。心的外傷後ストレス障害と診断され、処罰は一時的な満足を与えるに過ぎないと言われた。心理療法を続けてみたが、心が癒えることはなく、彼女は治療を諦めた。
ついに彼女は神の力にすがる。聖書を手に取り、その言葉に救いを求める。
新約聖書『マタイによる福音書』第18章。ペトロはイエスに聞く。
「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」
イエスは言う。
「七の七十倍までも赦しなさい」
それが無限回を意味することは言うまでもない。
奈津子は赦すことで憎しみを断とうとするが、それはあまりに辛く、不可能とさえ思えた。
奈津子は悩み抜いた末、郊外の丘に建つ古い教会を訪ねることにした。
石造りの礼拝堂はひっそりと静まり返り、ステンドグラスから差す光が、床に七色の模様を描いていた。
神父は彼女のために時間を割いてくれた。礼拝堂には他に誰もいない。
彼女が神父の前に立ち、深々と頭を下げると、若い神父は慈愛に満ちた声で告げる。
「悲しむ人は幸いです。その人は慰められるでしょう」
奈津子の頬を涙が伝う。
「神父様、私を助けてください」
彼女がひざまずこうとすると、神父はそれを止める。
「椅子に掛けて話してください」
彼女は震えながら懺悔を始める。
「私は子供のころ、家族を水害で失いました。あのとき、小さな人影が水面の下のほうに見えたのです。なのに私は飛び込まなかった。妹は助けを求めていたに違いないのに」
涙がこぼれ、言葉が続かない。
「無理に話さなくても良いのです」
「大丈夫です。聞いてもらいたいのは、災害のことではありません。心に巣食う、憎しみについて話したいのです」
彼女は涙を流しながら、牧場での惨劇のすべてを話し、その光景が頭から離れず、一日たりとも憎しみから解放されないと告白をする。
「憎しみに取り憑かれ、気が狂いそうです。このままでは、誰かを傷つけてしまう……」
そして彼女は核心へ迫る。
「教えて下さい。赦すことで、憎しみを断つことができますか? それをできるのは、復讐ではないですか? 犯人が死刑になれば、憎しみも消えるのではないですか?」
長い沈黙が訪れ、礼拝堂は静寂に包まれた。
やがて神父は穏やかに話し始める。
「自分はアーミッシュと暮らしたことがあるのです」
※アーミッシュ(Amish)とは、古きプロテスタント農民の生活様式を守る共同体。現代文明から距離を置くキリスト教の一派。
神父はアーミッシュの村で遭遇した、ある事件について話し始めた。
「四年前、私はペンシルベニア州の教会に留学し、アーミッシュの村に滞在しました。彼らと一緒に聖書を読んでいると、遠くから銃声が聞こえました。武装した男が小学校に押し入ったのです。罪なき少女たちがショットガンで撃たれ、五人の命が奪われました。誰もが憎しみに呑まれても仕方ないほどの惨劇です。でもその夜、犠牲となった少女の祖父は、涙を流す孫たちに言いました。『犯人を悪く思うな。彼を赦すのだ』と。村の人々は、犯人の妻の家を訪ねました。泣き崩れる彼女に向かって、『私たちは彼を赦し、あなたと子供たちのために祈ります』と言いました」
奈津子は神父に問うた。
「犯人を赦したのですか? 五人もの子供が殺されたのに」
「そうです。憎しみを持ち続ければ、心はさらに深く傷つきます。だから彼らは、ただひとつの道である赦しを選びました」
「ただひとつの道?」
「復讐は間違った選択です。それをすれば、心はより深く憎しみに染まります」
「神父様、私はその人たちのように強くありません」
「赦しとは、主が人間に課した最大の試練であり、唯一の選択なのです」
彼女は声を震わせて問う。
「なら犯人を赦せば、憎しみは断たれるのですね?」
「赦す者こそ真の王者です。安心しなさい。サタンは退くでしょう」
神父と慎吾の言葉が重なり合い、奈津子の心に一条の光が差す。
憎しみを捨てよう。それが、ただひとつの道なのだから。
奈津子はその答えを信じ、大胆な決断を下す。
第六章 憎しみと悲しみ
奈津子は死刑に反対する。犯罪を助長するとの声が多く上がったが、彼女の意志は固かった。
被害者遺族Xの意志が死刑反対運動に勢いを与え、当局が刑の執行をためらうと、死刑囚の一人である拓哉は手を叩いて喜んだ。
彼は面会に訪れる支援者に、いつも愚痴をこぼしていた。
「俺がやったのはコンビニの兄ちゃんだけだ。牧場の奴らを皆殺しにしたの慎吾だぜ。二人以上が死刑の相場だろ。なのに俺まで死刑なんて、おかしいじゃねえか」
慎吾は相棒とは真逆な意志を表明する。彼は死刑反対運動に反対するのだ。
慎吾は面会を拒んだから、奈津子は何度も刑務所に書簡を送り、愚かなことはやめて欲しいと訴えた。
「私は憎しみを捨て、あなたを赦します。お願いします。生きてください」
だが返信には頑なな意志が綴られていた。
「なっちゃん。死刑に反対しないで欲しい。俺は死にたい。でも自殺はしない。俺は偽善者どもに殺しをさせるつもりだ。そうなれば、奴らも俺と同じ、殺し屋だからな」
悲しくも愚かな復讐である。だが奈津子は諦めない。
慎吾の説得は密かに行われた。奈津子は家族の目に触れないよう、局留めで書簡のやりとりを続けていた。
慎吾が生まれ育った境遇を知るたび、奈津子の憎しみは悲しみに変わっていった。
慎吾の手紙には、妹を思う兄の優しさが滲み出ていた。
「美咲は猫を飼いたいと言った。でも市営住宅じゃだめなんだ。俺は毎日河原に通い、そこにいる猫の親子に餌をあげて仲良くなった。美咲を河原に連れて行き、猫たちに会わせると大喜びだ。でもある日、処分場の回収車が堤防沿いに停車していた。車の荷台から猫たちの鳴き声が聞こえる。美咲はいやだ、いやだと泣き叫んだ。俺は『大丈夫。きっと誰かが飼ってくれるから』と言ったんだ」
彼の優しさは、佳代子を思う奈津子の気持ちと重なり、憎しみは涙となって流れだした。
私はあの人を死なせない。必ず救ってみせる。
実は、奈津子の他にもうひとり、慎吾の手紙を読んでいる者がいた。ひっそりと目を通し、慎吾の過去に、己の現在を重ね合わせる者が。
復讐の否定は卑怯者の言い逃れ。愛する者に対する裏切り。その者には、そうとしか思えなかった。
第七章 綾香と麻弥
奈津子には一人娘がいた。名を綾香という。
彼女は中一の春に美術部に入ると、たちまち周囲を圧倒した。
市展、県展で学校が推薦する作品は常に彼女の絵になり、他の部員の作品は霞んでしまった。
綾香は媚びることが嫌いで、周囲に合わせようなんて気は全くなかったから、部活はおろか、クラスでも常に浮いた存在だった。
中二の春、一人の女子が綾香の前に現れる。それは運命的な出会いだった。
麻弥(まや)はおどおどしながら教壇に立ち、クラスメイトに挨拶をする。
「みなさん、よろしく、お願いします」
淡い花びらのように存在が薄く、綾香でさえも、その才能に気づかなかった。
麻弥は美術部に入り、綾香を驚かせる。綾香は自分を超える才能に初めて出会ったのだ。
綾香の絵は異様なほど写実的で、妥協を許さぬ性格がにじみ出ていた。
片や麻弥の絵は、牧歌的な光に包まれており、穏やかな性格をうかがわせた。
素人の評価は圧倒的なものに傾きがちだ。だが才能は才能を理解する。
綾香は晩飯時に奈津子に言う。
「お母さん。凄い子が転校してきたの。あたし、その子と友達になるつもりよ」
「良かったわね。なら、遊びに来てもらったら」
綾香はキャンバスに向かう麻弥に声をかける。
「上手だね。あたしなんて足元にも及ばない」
「そんなことないです。綾香さんの絵、とても素敵です」
「さん付けなんてやめて。綾香って呼んで」
「あやか……」
「麻弥。次の土曜、あたしの部屋で一緒に絵を描こうよ」
こうして綾香の部屋は、ふたりのアトリエとなった。
彼女たちは絵ばかり描いていたわけではない。好きな小説や将来の夢を語り合った。そして恋についても。
「麻弥は好きな子がいるの?」
麻弥は何も答えない。
「ねえ。教えてよ」
「いないと思う。綾香は?」
「えっ、あたし? あたしも、いないと思う」
綾香は慌てて取り繕うが、それは無駄であった。
麻弥は「本当に?」と言い、綾香の目を見つめる。
綾香は観念した。麻弥の知性を欺けても、感性を欺くことはできない。
「麻弥。あたしの好きな人はね」
すると麻弥が言葉を遮った。
「綾香。ごめん。あたし、嘘を言った。本当は好きな人がいるの」
「だれ?」
夏休みに入ると、ふたりは涼しい部屋で大胆な手法を採用する。
「麻弥。あたしを描いてくれる?」
「うん」
「服を脱いでいい?」
麻弥は綾香の裸体を繊細なタッチで描いた。麻弥の眼差しは肉体の奥底にある実体を捉える。
麻弥は描き終わると言った。
「綾香、あたしも描いて欲しいの」
「そう来ると思った」
「綺麗に描かないでね。嘘はいやよ」
「あたしが、そんな間抜けだと思う?」
ふたりは十四歳にして官能を知る。それは人間の手垢とは無縁な、清純な喜びだった。
第八章 踏みにじられた官能
夏休み明けのある日、麻弥のカバンからA4のスケッチブックが消えた。
そこには綾香の裸体が描かれていた。そのデッサンは麻弥が想像に任せて描いたものだ。肉体はおろか、心まで描いたような小品で、麻弥は言葉にならない思いを、その絵に託したのだ。
麻弥はカバンの中にノートの切れ端を見つける。
『返して欲しいなら、明日の放課後、一人で体育館の倉庫においで。来なければ絵をコピーしてばらまくからね』
麻弥は綾香に相談をしなかった。いや、できなかった。
あたしは、なんて馬鹿なんだろう。綾香の裸をカバンに入れて、教室に置いておくなんて……
麻弥は自力で解決しようとするが、クズどもが彼女を待ち受けていた。
「よく来たわね」
女は仮面を付けているが、同じクラスの女子だと声でわかる。彼女も美術部で、綾香を心底憎んでいた。綾香を傷つけるために、麻弥を狙ったのだ。
「お願い。スケッチブックを返して」
「これがそんなに大切なの?」
女は麻弥の足元にそれを投げ捨てる。
麻弥が拾って倉庫から出ようとすると、五匹の獣が行く手をふさいだ。全員仮面を付けているが、クラスの男子だと声で分かる。
彼らは麻弥の腕をつかみ、服を引き裂くと、四つん這いにさせて手足を押さえる。泣き叫ぶ麻弥の姿を、鬼畜女子がスケッチブックに描く。
「もっと口をあけろ」
「おい、顎が外れないか?」
彼らはげらげらと笑う。
「歯を立てるな!」
鈍い音が倉庫に響き、床に赤い斑点ができた。
「あーあ、こいつ鼻いったな」
「早く血をふけ」
「このまま返したらバレるぞ」
「兄貴に車を回してもらうから、マットの袋をはがせ」
「なんで?」
「このまま乗せたら、シートが汚れるだろ!」
翌日の早朝、麻弥の携帯からメールが届く。
『綾香、郵便受けを見てね』
綾香は郵便受けから麻弥のスケッチブックを取り出すと、何度も麻弥の携帯を鳴らす。しかし、いくら呼んでも彼女は出ない。
麻弥、なにがあったの?
警察は容疑者を割り出したが、少年たちが麻弥を河に突き落とした証拠は見つからず、彼女の死は自殺として処理された。
少年たちは、麻弥は自分から車に乗ってきたと口を揃えて言った。ドライブの途中で彼女を降ろし、家まで送ると言ったら、彼女は暗い表情で、一人になりたいと言ったと供述した。
麻弥には精神科への通院履歴があった。軽い鬱症状があったのだ。
また、犯行を疑われた少年の中に、地元を牛耳る県会議員の孫がいたことも、捜査に影響を及ぼしたに違いない。
まともな検死すらされず、鼻骨の損傷は河へ落下した際にできたとされた。
だが綾香には犯人がわかっていた。クズどもは彼女を横目で見ては、明からさまに笑っていたからだ。
やがて彼女は、クラスの誰もがニヤニヤと笑っていることに気づく。麻弥が描いた綾香の裸体がコピーされ、拡散されていたのだ。
だが彼女は学校に訴えなかった。教師は隠蔽しか頭にないし、そんなことをすればクズどもは警戒する。
彼女は両親にも相談をしない。
父に相談すれば担任に相談しろと言うだけだし、母は人を憎んではいけないと、口癖のように言っていた。
綾香はクズどもを油断させるために平静を装う。毎日クラスの風景をB5のノートに描き、彼らを静かに観察していた。
綾香は自分の部屋で、麻弥が描いた自分の裸体を一日中眺めていることもあった。
肌寒い秋の夕暮れ時。綾香は麻弥のスケッチブックを閉じると、クラスの日常を描いたB5のノートと一緒に、机の引き出しの奥にしまった。
麻弥、あたしの最高傑作を見せてあげる。
その言葉は約束であると同時に、麻弥を手に掛けた者たちへの宣告でもあった。
第九章 憎しみの継承
麻弥の死からほどなくして慎吾の元に薄い封書が届く。封を開けると、一枚の便箋に、奈津子の筆跡で書かれていた。
『一度だけ面会してください。あなたがそれでも死を望むなら、私は諦めます』
「彼女」が指定された時刻に面会室に入って待っていると、やがて慎吾が現れた。ふたりはアクリル板越しに見つめ合う。
なぜか彼女はサングラスを掛けたまま黙っているから、仕方なく慎吾から話しかけた。
「家族がいるんだろ。こんなことは、しないほうがいい」
彼女は何も言わない。
「俺の意志が変わることはない。だから、もう死刑に反対しないでくれ」
すると彼女はサングラスを外し、小さな声で言う。
「あたしが誰かわかる?」
奈津子の顔は慎吾の脳裏に焼きついていた。化粧をしても、見間違えるとは思えない。ただ、彼女の顔は少女のままだった。
「君は誰だ?」
彼女は慎吾の背後に立つ刑務官をチラッと見てから、アクリル板に顔を近づけ、さらに声を潜める。
「やっぱり、お母さんにそっくりなのね」
「君は彼女の娘なのか?」
「しっ、小さな声で話して」
綾香は母の筆跡をまね、免許証を偽造したのだ。
「なんの真似だ」
綾香は慎吾の目を見つめる。
「知っているのよ。あなたが優しい人だって」
「知ったような口を聞くな」
「美咲さんのことも、復讐のことも知っている。あたし、あなたの気持ちがわかるわ」
「黙れ。お前に何がわかる」
「お願い。ひとつだけ教えて。そしたら、すぐに帰るから」
「何が聞きたい?」
「復讐したことを、後悔してる?」
綾香が林間学校に出発する日の前夜、奈津子は海外にいる夫と電話で口論をしていた。
奈津子は綾香を林間学校に行かせたくないと言うが、夫は耳を貸さない。
「お願い、わかって。どうしても行かせたくないの」
「どうして?」
「なにか悪い予感がするの」
「なに馬鹿なこと言ってるんだ」
いつの間にか綾香がそばに立っていた。
「お母さん。あたし、みんなと仲良くなりたいの」
「でも……」
「奈津子。そこに綾香がいるんだろ。代わってくれ」
奈津子は娘に受話器を渡す。
「綾香。一人で絵ばかり描いてちゃいけない。気持ちを切り替えて、新しい友達を作りなさい」
「うん。そうする」
「持ち物は全部用意したのか?」
「大丈夫。もう準備はできているわ」
指定された持ち物はもちろんのこと、綾香はカレーに入れる特別な食材まで用意していた。わざわざ郊外の山奥まで行って採ってきたのだ。
翌日は朝から青空が広がり、絶好の遠足日和となった。紅葉を迎えた渓谷で飯盒炊爨をし、キャンプ場の近くで合宿する予定だ。
「みんなでカレーを作るのよ」と綾香は嬉しそうに言うが、彼女は香辛料にアレルギーがあった。
「あなた、カレーなんて食べて大丈夫なの?」
「あたしは作るだけ。美味しいカレーを作って、みんなに食べてもらうの」
あることが奈津子の不安を駆り立てていた。
先週、綾香の部屋を掃除していると見つけたのだ。机の引き出しを開けると、綾香の裸体が描かれたスケッチブックがあり、それに寄り添うようにB5のノートがあった。そこには教室の日常が描かれていたが、クラスメイトの顔に、ことごとく目が無い。奈津子は一瞬寒気がした。
あの子はクラスの子たちを憎んでいる。合宿に行きたがるなんて、どう考えてもおかしい。
「綾香、やっぱり何か悪い予感がするの」
「大丈夫、心配のしすぎ」
綾香はテーブルにつくと、目玉焼きを箸で食べ始めた。
「お母さん。フォークとって」
食器棚からフォークを取り出し、テーブルの方に振り向いた瞬間、奈津子はそれを手から落とし、何かが割れたような音が脳裏に響いた。
朝のニュースが、当時十八歳だった二人の死刑囚の最期を伝えたのだ。
奈津子は床に崩れ落ち、手をついて涙をこぼした。
あの人を救えなかった……
致命的な瞬間だった。奈津子は赦す相手を永遠に失い、その喪失感は果てしない。片や綾香は処刑された者たちを犠牲者と認識する。
奈津子が顔を上げると、綾香が目の前に立っていた。
「お母さん。何があったの?」
「なんでもないの。気にしないで」
「お母さんは、なにか恐ろしい経験をしたんじゃないの?」
「なに言ってるの! そんなことないわ!」
「なら、あたしの思い過ごしね」
綾香は母をじっと見つめる。
「お母さん。どうしても行かなくちゃいけないの」
綾香はリュックを背負い、部屋から出て行った。
第十章 憎しみの決壊
その日の正午、綾香はクラスメイトと一緒にキャンプを楽しんでいた。
真っ青な空と、鮮血のような紅葉。その景色は、綾香の最高傑作に相応しい背景だった。
綾香は初めて神に感謝した。
神様、たまには、いいことをするのね。
彼女は六つのカプセルをポケットに忍ばせていた。中身は粉末化された「食材」だ。
確かに綾香は飯盒炊爨を楽しんでいるように見える。その笑顔の完璧さゆえ、彼女を嫌う者でさえ疑わない。
ある生徒が、玉ねぎは入れたかと聞けば、綾香はルーをかき混ぜながら「ごめん、忘れてた」と言い、申し訳なさそうに謝る。
ただ彼女の視線の先には、女一人と男五人のグループがいた。麻弥を罠にはめた連中だ。彼女は六つのカプセルを握りしめた。彼女は六つの皿にルーを盛ると、それを彼らの元へ運んだ。
「これ、あんた作ったの?」と鬼畜女子。
「うん。頑張って作ったのよ」と綾香は困った顔をする。迫真の演技だ。
「不味かったら、ゆるさねえぞ」と脅したのは、麻弥の顔に拳を振り下ろしたゴミクズだった。
綾香は涙を浮かべて震える。
「そんときゃ、お前の体で払わせるからな」
「ひゃははは! そりゃすげえや!」
クズどもの大笑いを、綾香は冷ややかな眼差しで見つめる。
馬鹿め。笑っていられるのも今のうちよ。
午後一時。奈津子が洗濯物をたたんでいると、学校から緊急のメールが入る。
『林間学校で食中毒が発生し、警察と救急隊が来ています。詳細は追って連絡します』
テレビをつけると、黄色いテープが張り巡らされたキャンプ場が映し出された。騒然とする現場を背景に、若い女のリポーターが早口で伝える。
「カレーを食べた六人の生徒が救急搬送されました。既に心肺停止とのこと。警察は毒物混入事件として捜査を開始しました」
電話は繋がらず、奈津子はメールを送る。
『綾香、大丈夫なの? カレーを食べたの?』
『作っただけだから心配しないで』
トリカブトの粉末が検出された。それは犯行現場周辺の森にも自生しているが、部外者が採取してキャンプ場へ侵入したり、学校関係者が森に採りに行ったとは考えにくい。そんなことをすれば、簡単に目撃されてしまうからだ。
教職員も調べられたが、誰にも動機がない。いじめの報復という線でも捜査は進められた。だが容疑者は多数にのぼり、捜査は難航すると思われた。
だが、綾香の名前が徐々に浮上した。
被害者は彼女のクラスに集中しており、彼女が死んだ生徒たちを憎んでいたとの証言を、警察は聴取していたのだ。
事件から二ヶ月後、黒いセダンが、奈津子の家のそばで豹のように待機していた。
ベテランの刑事はダッシュボードに駐車禁止除外車証を置くと、若い刑事に指示を出す。
「お前だけで行ってこい。居間に入ったら、さりげなく娘の部屋を見ていいかと聞け。くれぐれも無理をするなよ」
「わかりました」
若い刑事はインターホンを鳴らす。
「どちら様ですか?」
「警察です。少しお聞きしたいことがあるのですが」
奈津子がドアを開けると、背広姿の若者が警察手帳を見せた。
「警視庁捜査一課の稲垣といいます。綾香さんのことで、少しお聞きしたいのですが」
「なんでしょうか?」
「御近所の目もありますから、上がらせてもらっていいですか?」
奈津子は彼を居間に通すと、熱いコーヒーを出した。
「娘が何かしたんですか?」
「綾香さんがってわけじゃないんです。例の事件のことで、生徒全員の自宅を周っているんですから」
「そうですか」
「事件のことで、綾香さんは何か言ってませんでしたか?」
「あの子は香辛料にアレルギーがあるんです。だからカレーを食べなかったんです」
「ええ知ってますよ。綾香さんを疑っているわけじゃありません」
「家で事件のことなんて話しません。暗い気持ちになるので」
「そうですか。もし良ければ、ちょっと綾香さんの部屋を見せてもらえないですか? 無理なら結構ですが」
「いえ。別に構いませんが」
彼は部屋に入ると、壁に張ってある絵に注目した。
「綾香さんは絵が上手なんですね」
「あの子は美術部だったんです」
「今は違うんですか?」
「周囲に馴染めなくて、辞めてしまったんです」
「それにしても上手だなぁ。自分も学生のころ絵を描いていたんです。でも、とてもかなわない。綾香さんはきっと天才ですよ」
「いえ、そんなことは」
彼は机の上の分厚いスケッチブックに指先で触れた。
「見てもいいですか?」
「ええ。どうぞ」
彼は描かれた人物を確かめながら、ゆっくりと紙をめくる。
「これは、お母さんですね」
「はい」
「見事に特徴をとらえてますよ。この男性は?」
「それは夫です」
「ご主人の絵が少ないですね」
「主人は海外に赴任しているんです。それに仕事だけの人だから、絵のモデルなんて」
「そうですか」
ほとんどが奈津子の肖像画で、たまに父親や俳優の絵が現れる。
やがて絵は途絶えて白紙となる。それでも彼はめくり続け、最終ページで指が止まる。暗い目をした男の顔が描かれていた。
「これは誰ですか?」
奈津子がその男と対面したのは二十四年前。当時彼は十八歳で、奈津子は十二歳。顔の輪郭は同じだが、目の雰囲気が変わっていた。当時は冷酷な目をしていたが、今は悲しみに満ちている。
綾香は悲しみが氷結したような眼差しを、たった一度、それも数分間会っただけで、見事に描き切ったのだ。
奈津子は息を呑んだ。あの子は知っている……。急に目眩がして床に崩れ落ちた。
「奥さん! 大丈夫ですか!」
「貧血がひどくて」
「すみません。立たせたままで」
「その男の人、知りません」
「いいんですよ。きっと俳優か何かでしょう」
彼は奈津子をソファーに寝かせた。
「突然お邪魔してすみませんでした。今日のところは、これで失礼します」
彼は一礼し、ドアを閉めて出ていった。
最終章 憎しみの大河
奈津子は悟った。
あの子は、あたしの過去を知っている……
もう隠すことに意味はない。その夜、奈津子は牧場での惨劇を語り終えると言った。
「母さんは子供のころ、土石流で家族を失った。あの夜、妹と一緒に寝ていれば、全てが変わっていたような気がするの」
「どうして話してくれなかったの?」
「これは凄く恐ろしいことなのよ。こんなことに、あなたを巻き込みたくない」
奈津子の瞳から、とめどなく涙がこぼれる。
「お母さん。明日、警察に連れて行って」
「だめ! そんなことをしても、亡くなった子たちは戻らないのよ」
「なら、あたし一人で行く」
その夜、奈津子は綾香と一緒に寝た。眠れなかった。いや眠りたくなかった。娘を抱いていれば、わずかに幸せを感じられたから。
奈津子は憎しみの激流を予感した。たとえ、それに呑まれても、娘を決して離さない。そう心に誓うのだ。
「お母さん。ごめんね」と綾香。
奈津子は娘を抱きしめる。もはや言葉はいらない。温もりが全てだ。綾香は母の運命に思いを馳せ、その腕の中で泣き続ける。
彼女たちのベッドは、憎しみの大河へ乗り出す筏(いかだ)だった。ふたりは抱き合ったまま、永遠に漂流したいと思っていた。
終わり
淡い光に包まれた秋の日、奈津子は妹と川原で遊んでいた。彼女は川辺に咲く花を集め、小さなブーケを作ると、それを妹の手に握らせる。
「お姉ちゃん、ありがとう」
「もっと可愛くしてあげる」
草で冠を編み、妹の頭に乗せると、可憐な七歳の花が咲いた。
辺りが薄っすらと陰り、山の上にどんよりとした雲が垂れ込めた。
「佳代子、帰るわよ」
「やだ。もっと遊ぶ」
「姉ちゃんの言うことを聞いて」
奈津子は、両親から聞かされた鉄砲水の怖さを思い出す。
急いで側道まで駆け上がると、小雨が降り出した。すぐに豪雨となり、姉妹はずぶ濡れとなって家にたどり着く。
「どうしたの」と驚く母に、「急に雨が降ったの」と奈津子。
佳代子がくしゃみをし、鼻水を垂らすと、母は小さなおでこに手を当てた。
「熱があるんじゃない?」
母は佳代子を風呂場に連れて行き、濡れた服を脱がせると、シャワーで体を温めてから、桃色のパジャマを着せた。
午後十時。降り続いた雨がようやくやみ、山あいは静けさに包まれていた。
両親は上流での決壊を心配したが、警報は解除され、川は穏やかに流れていると思われた。
奈津子は二階の子供部屋にあるベッドの下段で寝る。上段は佳代子の寝床だが、姉妹はいつも一緒に下段で寝ていた。
「佳代子、そろそろ寝るよ」
「今日は、お母さんと一緒に寝る」
「どうして?」
「風邪をひいちゃったの」
佳代子は一階で両親と川の字になって寝る。
午前0時。奈津子は夢で水が流れるような音を聞く。やがて砂利の流れのような細かい振動に変わり、彼女は目を覚ます。
なんだろう?
振動が急に激しさを増し、奈津子の体が小刻みに揺れる。明かりが消えて木がきしむ音が響き、家全体が船のように揺れる。
彼女が悲鳴を上げると、揺れは収まり、不気味な静けさが訪れる。
暗闇の中、彼女は階段を駆け降りると、足を濡らす水に気づき、その場で立ち止まる。手探りで壁に触れると、階段の電球がついた。
水面に顔を近づけると、薄っすらと濁った水面の下のほうに、小さな人影が見えた。
「佳代子!」
水面は分厚いガラスのように冷たく、どんな叫びも通さない。まだ十一歳の奈津子に潜る勇気はなく、ただ泣き叫ぶしかない。その人影は水に押し流され、奈津子の視界から去っていった。
砂防ダムの決壊から二日後、奈津子は仮設された安置所で家族の遺体を確認する。
青いビニールシートに三人の遺体が並べられている。両親の体は酷く傷ついていたが、妹の顔には傷ひとつなく、ただ眠っているようにしか見えない。
「姉ちゃんだよ。起きて」
妹は草の冠を握りしめていた。
「佳代子! 姉ちゃんを赦して!」
奈津子は自分を責めた。
ああ、あの子は待っていたんだ。草の冠を握りしめ、あたしが助けに来ると思ってたんだ……
そのトラウマは悲しみを憎しみに変え、奈津子は自分の処罰を望む。処罰とは一種の救済である。親類が彼女を引き取らなければ、彼女は手首を切っていたに違いない。
牧場を営む親類が奈津子を引き取った。その牧場は祖父母と、奈津子の母の妹である叔母と、その夫の四人で営まれていた。
「今日からここは、なっちゃんの家だからね」
「おばさん。お世話になります」
「思いっきり甘えていいんだから」
叔母夫婦には子供がいなかった。彼らは実の親以上の愛を心に誓い、祖父母も奈津子を優しく見守った。
その甲斐あってか、奈津子に明るい笑顔が戻り、心の傷は遠からず癒えるものと思われた。
奈津子が保護された翌年の夏、彼女が住む田舎町で事件が起きようとしていた。
二人のチンピラが、駐車場で煙草を吹かしながら、コンビニの様子をうかがっていた。拓哉と慎吾が店を襲うタイミングを図っていたのだ。
第一章 拓哉
二人のチンピラの生い立ちを語ろう。まずは拓哉から。
彼は寂れた港町の公衆便所で産声を上げた。
母親は若いころからアル中で、吹き溜まりのような安酒場に入り浸り、春を売って酒代を稼いだ。赤ん坊をほったらかして呑んだくれ、眠っている拓哉を指差して、お酒と交換してよと言い、客にからんだりもした。
拓哉は父親を知らず、母親からはクズと呼ばれて幼少期を過ごす。
冬の朝、酔い潰れて寝転ぶ母の足元で、凍えながら給食代を乞う。
「無駄飯食いのゴミクズめ」と怒鳴られ、空き缶を投げつけられた。
お腹が空いたと言えば、「自分で盗ってこい」と突き放され、万引したパンを持ち帰れば、「なんで一個だけなんだ」と怒鳴られ、また殴られる。
顔に青アザを作って登校しても、教師は見て見ぬふりをし、荒れた家庭に介入しようとはしない。
拓哉は一瞬たりとも愛されることなく育ったからか、ひどく短気で、こらえ性のない性格をしていた。
彼はシンナーに手を出し、ゲームセンターに入り浸り、万引きや恐喝に明け暮れる。
ある日、拓哉は肩が当たったと言って通行人をいきなり切りつけ、警察が出動する事態となった。
その逮捕劇も滑稽なまでに愚かだ。彼はナイフ片手に狂犬のごとく吠えた。
「かかって来い。刺されたい奴はどいつだ」
「ナイフを捨てなさい」
「うるせえ。なめんじゃねえぞ」
ついに警官は拳銃を構える。
「上等だ。撃ってみろ」
目的は威嚇だ。撃つわけがない。
「おらおら、どうした。撃てねえのか」
拓哉は調子に乗って腕を振り回し、手からナイフを飛ばす。彼は警棒で打ちのめされて、数人の警察官に取り押さえられる。
「奴がぶつかってきたんだ!」
「大人しくしなさい」
「畜生! 俺は被害者だぞ!」
馬鹿げた言い分ではあるが、見方を変えれば真実である。それは見捨てられた子供の叫びでもあったから。
拓哉は身柄を拘束されて、お決まりのレーンに乗った。彼は少年院でも、些細なことで騒ぎを起こしたから、慎吾以外に相手をする者はいなかった。
拓哉は慎吾のことを、「ちょっと変わった野郎」と思っていた。
拓哉は人付き合いには、拳と刃物が付き物と思っていたが、慎吾を前にすると、それを使う気が起きない。
慎吾はいつも冷静で、拓哉が粗暴な態度を見せても、軽い冗談で受け流すのだ。
第二章 慎吾
次は慎吾の生い立ちを語ろう。
彼は小中ともに成績が優秀で、少年院で行われた知能検査の数値も高い。
父親は家庭をかえりみない遊び人で、パチンコに狂い、持ち玉が尽きれば、幼い慎吾に玉拾いをさせた。
「このクズが。もっと拾ってこい」
慎吾も拓哉と同じように、親からクズと呼ばれて幼少期を過ごす。
殴られて唇を切った慎吾は、ゴキブリのように店内を這い回り、店員に注意されるまで玉を拾い集めた。
慎吾の父は子供の愛し方を知らない。彼も虐待されて育ったのだ。結局、慎吾の父は他所に女をつくって家を出て行った。
慎吾には美咲という二つ年下の妹がいた。
母親は育児放棄していたから、美咲の面倒はすべて彼がみた。だが、給食や教材の費用までは、どうすることもできない。
「お母さん。美咲が使うノートを買いたいんだけど……」
「あたしに何の恨みがあるの! 出て行け!」
母親は髪を掻きむしって声を上げた。慎吾は父の拳以上に、その金切り声が怖かった。
結局、慎吾は万引きに手を染めることになる。たまに見つかったが、その場で叱られるだけで、警察や学校への通報はされなかった。
慎吾は、美咲から友達がいじめられていると聞けば、飛んでいって悪ガキどもを叱りつけた。
数人のクラスメイト相手に殴り合いをしたこともある。イジメを止めようとしてのことだ。
彼は優しく正義感のある少年だったが、ある事件をきっかけに人生の歯車が狂う。
彼が中三のとき、美咲が河に身を投げて死んだのだ。
いつも陰でいじめられていた美咲は、ある日、工場の跡地にある倉庫に呼び出され、クズどもに取り囲まれて自慰を強要される。総勢十人ほどの少年少女が、ニヤニヤしながら携帯をかざしていたのだ。
美咲は画像を拡散すると脅迫され、金がないなら稼ぐ方法を教えてやると言われる。勇気をふり絞って交番に行くが、学校で相談しろと言われて帰されてしまう。
だが学校での相談は無意味だ。教師は隠蔽しか考えていない。それが生徒の中の常識だった。
美咲はクズどもに言われるまま春を売り、ずるずると地獄にはまり込んでいった。
それでも兄に相談をしなかった。いや、できなかった。慎吾は彼女が死んでから日記の存在を知る。
「今日、おじさんにホテルに連れて行かれた。やめてって言ったら、叩かれて服を脱がされた。兄ちゃん、助けて。でも、こんなこと、兄ちゃんに言えない。言いたくない」
涙で文字がにじんでいた。慎吾は怒りと悲しみに打ち震える。
なぜ俺は気づかなかったんだ。この糞野郎、お前が死ね。
加害者の親たちは、自殺の原因は美咲の家庭環境にあると口をそろえて証言し、学校と警察は事件化を見送った。
イジメ事件は教育者のキャリアの汚点になるし、警察にとっても、少年事件は評価されない『美味しくない事件』なのだ。
慎吾は美咲が身を投げた河を見つめながら、彼女と過ごした日々を振り返る。
放課後の校門で自分を待つ美咲。一緒に河原で道草をして、野良猫たちと遊んだ日が懐かしい。美咲が猫と遊びたいと言うから、彼が餌をやって仲良くなったのだ。
彼は妹の後を追おうと思った。しかし、やるべきことがあった。彼は憎悪を抱きながらも、冷静に復讐の機会をうかがう。
主犯格の二人は、彼と同じ三年生の男女だ。
彼は平静を装いながら一部始終を観察し、彼らが美咲を呼び出した倉庫でやっていることを突き止める。
彼は二人が卒業式の日も必ずヤルと確信し、式が終わると倉庫に先回りして待ち伏せをする。
案の定、二人が現れてヤリはじめると、彼は鉄パイプを握りしめてタイミングを図る。
女子は作業台の上で股を開いてあえぎ、男子は立ったまま腰を動かしている。男子が女子の腹にまき散らした瞬間、後頭部に鉄パイプが振り下ろされた。
男子がのたうち回る間に、女子を後ろ手に手錠で固定し、ロープで作業台の脚に縛りつける。
男子の体に鉄パイプを何度も振り下ろすと、スポーツバッグから斧を取り出して言う。
「おい。まだ死ぬなよ」
床一面が血の海と化し、女の方に振り向くと、口から血があふれていた。恐怖のあまり、自分で舌を噛み千切ったのだ。
慎吾は女の前髪をつかんで言う。
「どうだ? 気分は」
女は命乞いをするが、血の泡を噴くだけで言葉にならない。
「俺の妹はな、お前に殺されたんだ」
慎吾がナイフでとどめを刺すと、女はだらりと頭を垂れた。彼は死にゆく様子を眺めながら煙草を吹かす。
俺が間抜けだから美咲は死んだ。全部俺のせいだ。
彼は吸いかけの煙草を握りしめるが、肌を焼く火でさえも、悲しみをかき消すことはできない。
彼は自ら出頭して身柄を拘束され、お決まりのレーンに乗った。
後追い自殺を考えた彼であったが、少年院で自殺を図ることはなかった。
同じような境遇で育った者が大勢いたし、拓哉との出会いが大きかった。
昼食のときのことだ。
「おい。この肉を食ってくれよ」と拓哉に声をかけられた。
「いいのか?」
「安い肉は食えねえんだよ。俺は上流階級の出だからな」
「本当か?」
「見りゃ分かるじゃねえか」
慎吾はクスクスと笑った。
「馬鹿野郎! 俺はセレブだ!」
「そうだな。確かにセレブだ。でも悪いから、俺の飯を半分食ってくれよ」
「おう悪いなあ。やっぱ米が一番だぜ」
慎吾は拓哉といると不思議に心が休まった。拓哉には裏表がないからだ。ただ、ないと言うより作れないのだ。裏表を作る前に爆発してしまうから。
慎吾はトイレ掃除の際に、死んだ妹のことを拓哉に話した。便器を拭きながら復讐のことを話すと、拓哉らしい言葉が返ってきた。
「そんな奴らは挽肉にしてやりゃいいんだ。生き返らせろ。俺が料理してやるぜ」
さすがに慎吾も呆れた。
「そんな料理、犬も食わないよ」
「馬鹿野郎! てめえ妹が可愛くねえのか! 俺ならソッコーだぜ」
「お前、俺の気持ちが分かるか?」
「わからねえよ。俺はずっと一人だったからな。あーあ、俺にも妹がいたら良かったな」
滑稽なまでに愚かな拓哉。愛を知らずに育った拓哉。ある意味において、慎吾以上に悲惨だった。
慎吾はそんな彼を不憫に思い、社会への憎しみを更に募らせる。復讐。その冷たい炎を胸に秘め、拓哉とともに「その日」を迎えるのだ。
第三章 愚か者の所業
奈津子が牧場を営む親戚に引き取られた翌年の夏、その田舎町で事件が起きようとしていた。
その日は猛暑となり、コンビニの駐車場は焼けるような暑さだ。
拓哉と慎吾はバイクの横で煙草を吸いながら、店内の様子をうかがっている。狙っているコンビニは、競争相手が少ないからか繁盛している。
彼らはクソみたいな過去を振り返りながら、客が消えるのを待っていた。
拓哉はアスファルトにつばを吐く。
「あの野郎、検査とか言って、俺のケツの穴に指を入れやがった。ありゃ奴の趣味だ。どう見ても股間が大きかったんだ」
慎吾はげらげらと笑う。
「いいじゃねえか。けつの穴くらい貸してやれよ」
「馬鹿野郎! いつかあいつ、ぶっ殺してやる!」
「おい、客がいなくなったぜ。そろそろやるか」
「おう。派手に行こうぜ」
彼らは煙草を投げ捨てた。
「ちょっと待て」と慎吾。
小さな女の子がまだ店内にいた。
「ガキなんて気にすんな」と拓哉。
「だめだ。あの子が行ってからだ」
「じれってえなあ。こういうのはパンパンといかねえと」
女の子は店を出ると、揺れる陽炎の中へ幻のように消えた。
「行くぞ!」と拓哉。
彼らは目出し帽をかぶって突入すると、若い店員にナイフを突きつけた。
「じっとしてろ」と慎吾。
「長生きはするもんだぜ」と拓哉。
拓哉がナイフで威嚇し、慎吾は電話線を引き千切ってレジの金を奪う。
「慎吾! ポップコーンも頼むぜ!」
「どうでもいい! 行くぞ!」
拓哉は「サツを呼んだら殺すぞ」と若者を脅し、ポップコーンを鷲掴みにして店を飛び出す。
彼らがアクセルを回すと、カラーボールが拓哉のバイクのそばで弾け、そのスニーカーを塗料で汚した。彼はバイクから降りると、リュックからバールを出す。
慎吾は「ほっとけ」と叫ぶが、拓哉は完全に切れている。
「いくらしたと思う? ディオールだぞ!」
「盗んだ金で買ったんだろ」
「うるせえ! あの野郎。頭叩き割って脳みそを踏みつぶしてやる」
警察は彼らを寸でのところで取り逃がし、県下に緊急非常配備を敷く。山あいにサイレンが鳴り響き、蝉の声が蹴散らされた。
慎吾の心配をよそに、拓哉はマフラーを吹かして御機嫌だ。鼻歌は尾崎の名曲。もちろんバイクは盗んだものだ。
パトカーのサイレンが徐々に近づいてくる。慎吾は「山に入るぞ!」と叫び、左ウィンカーを出す。
彼らは車道から林道に入り、小石を跳ね上げながら走り続けるが、拓哉のバイクの前輪がバーストし、彼は派手に転倒した。
「拓哉、大丈夫か?」
「畜生、貧乏人が。こんなポンコツを置いときやがて」
もうバイクは役に立たない。彼らはリュックを背負って山中を彷徨い歩く。やがて薄暗くなり、疲労と空腹が募る。
「腹が減ったなあ」と拓哉。
ふいに森が途切れ、視界が開ける。彼らの眼前に牧草地帯が広がっていた。
「おい、あれを見ろ」
慎吾が指差す先に、仄かな灯が揺れていた。二人はその光に向かって歩き、大きな木造家屋のそばの草むらに身をひそめる。
二人は家族の声に聞き入る。彼らには手に入らなかった声だ。
「楽しそうだな」と拓哉。
「家族団欒ってやつだろ」と慎吾。
拓哉は唇を噛んで言う。
「いい気なもんだぜ。こっちは腹ペコだってのによ」
第四章 惨劇の夜
その晩も、酪農家の食卓はにぎやかだった。
叔母夫婦には子供がおらず、奈津子が我が子に思えた。祖父母も孫娘を温かく見守った。彼らは、水害で家族を失った奈津子を心配し、精一杯の愛情を注いだのだ。
だが奈津子はそれに甘えない。彼女は箸を置くと祖父に言う。
「なんでもやります。他人と思って下さい」
「よし。朝五時から牛舎で働け」
祖父が笑みを浮かべると、叔母が声を上げる。
「なっちゃんは小学生よ! 意地悪ね!」
「お父さんは冗談を言ったんだよ」と叔父がなだめた。
そのときドアが閉まる音が響いた。
「あらいけない。鍵を掛けるの忘れたかしら」
「おばさん。あたし、見てきます」
奈津子が玄関に行き、鍵を掛けようとすると、カサカサと草の擦れる音が聞こえた。
猪でもいるのかしら?
少しだけドアを開けると、メリーの鳴き声が聞こえた。
メリー、どうしたの?
メリーとは母牛と生き別れた雌の子牛のことだ。
肉親を失った少女たちは、出会った瞬間に打ち解けた。奈津子はメリーを妹のように可愛がり、メリーも彼女に心を開いた。
彼女がメリーの元へ行こうとすると叔母の声が響いた。
「なっちゃん! 誰か来たの!」
「誰もいません! ちょっと牛舎を見てきます!」
メリーは奈津子を見ると鳴き止んだ。
「大丈夫。あたしが守ってあげる」
彼女はメリーの頭に頬ずりをし、おでこに口づけをする。
その様子を、二匹の獣が陰から見ていた。
「可愛いじゃねえか。やっちまうか?」
「おい、いい加減にしろ」
「冗談に決まってんだろ」
奈津子がドアに鍵を掛けて居間に戻ると、七時のニュースがコンビニで起きた事件を報じていた。
祖母は箸をとめて祖父に言う。
「あんたがお酒を買う店よ。こんな田舎なのに物騒だねえ」
ニュースは若い店員の死を伝え、防犯カメラの映像を流す。
すると牛の鳴き声が響く。
「見てくるから食べていてよ」と叔父。
「おじさん。あたしも行きます」
「ひとりで十分だから」
彼が食卓を離れると、叔母はまた祖父に文句を言う。
「小学生に朝の作業ができるわけないでしょ」
「わかってるよ。しつこい奴だなあ」
「あんたに似たのさ」と祖母が皮肉を言うと、牛たちの騒ぐ声が響いた。
「なにかしら? 見てくるわ」と叔母。
「おばさん。あたしも手伝います」
「なっちゃんはいいの。ご飯を食べていてね」
そう言い残し、叔母も食卓を離れた。
歌番組の最初の演歌が終わると、祖父は味噌汁を飲み干し、お椀を食卓にことんと置いた。
「奈津子。酪農が好きか?」
「はい。動物が好きなんです」
「メリーか?」
「ほかの牛たちも大好きです」
「酪農はきついから、まだ無理だな」
「どんな試練も乗り越えてみせます」
十二歳とは思えぬ受け答えに、祖父はほとほと感心した。
そのとき木のきしむ音が響き、居間のドアがわずかに開く。
「お疲れ様。牛舎でなにがあったんだ?」
ドアの向こうから返事はない。
「なにしてる? 早く入ってこいよ」
ドアの向こうは暗く、何も見えないが、奈津子は不穏な気配を感じ取っていた。二匹の獣が手を振りながら笑っていたのだ。
不気味な声が聞こえた。
「なっちゃん。試練が始まるよ。なっちゃん」
「誰なんだ!」と祖父が怒鳴ると、木のドアが全開し、クズどもが姿を見せた。
「なんの用だ!」と祖父が怒鳴る。
「飯食わせろよ」「ビールあるか」
彼らは土足で侵入し、冷蔵庫のドアを開けて物色した。
「娘たちに何をした?」と祖父。
拓哉はがつがつと料理をむさぼり、うめき声を上げる。「畜生、いいもん食ってやがるぜ」
慎吾は鎮静系の錠剤をつまみに、静かにビールを飲む。
しばらくすると画面が急に切り替わり、警察が犯人を特定したとのニュース速報が流れた。
慎吾は錠剤を噛み砕き、拓哉は料理を口に入れたまま固まった。
キャスターは、容疑者は未成年だから氏名は公表できないとし、コメントを述べた。
「少年の人権は十分尊重されるべきです。しかし、何をしても赦されていいわけではありません」
正論である。だが憎しみに支配された者に効力はない。
「俺たち死刑かな?」と拓哉。
「だろうな」と興味なさげな慎吾。
「でも、俺たち未成年だぜ」
「三人じゃ無理だろ」
サイレンが遠くで鳴り響き、祖父が罵倒を始める。
「人殺しめ。少年だから赦されると思うなよ」
「赦してくれなんて言ってないよ」と慎吾。
「クズどもめ!」
クズ。彼らが親から散々浴びせられた言葉だ。
そのとき牛舎からメリーの鳴き声が響いた。
「メリーが怯えてる……」と奈津子。
「君はメリーが好きなんだね?」と慎吾。
「メリーはあたしの妹なの」
「どうして?」
「佳代子が死んだから、今はメリーが妹なの」
「佳代子って?」
「あたしの妹」
「なぜ死んだの?」
「大雨が降って、水に呑まれたの」
「そうだったんだ」
「でも本当は、佳代子を殺したのは、あたし」
慎吾は息を飲んだ。
「あの子は水の中で、あたしの助けを待っていた。でも、あたしは……」
慎吾はそれ以上言うなとばかりに奈津子から目をそらした。しかし、やがて重い口を開く。
「お兄さんにも妹がいた。美咲っていうんだ。彼女も死んじゃったんだ」
「どうして死んじゃったの?」
「ひどいイジメに遭ったんだ。誰も助けてくれなかった」
「先生は?」
「先生も警察も、見て見ぬふりさ」
慎吾はため息をつき、奈津子に聞く。
「ところで、君はメリーの運命を聞いているの?」
「運命?」
「やはり聞いてないのか」
「ステーキになるんだ」と拓哉。
「おい拓哉」
「なんだよ。本当のことだろ」
「納屋に斧があっただろ。持ってきてくれよ」
「なにするんだ?」
慎吾は祖父母を横目で見る。
「こりゃまいったな」と拓哉は言い、納屋に道具を取りに行った。
「なっちゃん。お兄さんが、メリーを守ってあげるからね」
拓哉が斧を持ってくると、慎吾はメリーの運命を回避すべく、それを何度も振り下ろす。
奈津子は耳をふさいで目を閉じるが、断末魔の悲鳴が聞こえ、鈍い振動が伝わってくる。
慎吾はことを終えると、台所から濡れタオルを持ってきて、奈津子の正面に座った。
「もう目を開けてもいいよ」
奈津子が目を開けると、慎吾がその瞳を真っ直ぐに見つめる。
「お兄さんの顔だけを見て」
慎吾は奈津子の顔に散った血飛沫を、濡れタオルで丁寧にふき取る。
「君の試練が始まった。乗り越えるには、憎しみを捨てるしかない。お兄さんにはできなかった。君はできる?」
「うん」
「そうか。良かった」
慎吾は奈津子を抱きしめて震える。奈津子を守りたかった。だが冷酷な現実を否応なく理解する。
美咲を守れなかった俺が、この子を守る? ふざけるな、糞野郎……
第五章 ただひとつの道
事件から二十四年。奈津子は三十六歳の主婦になっていた。
夫と一人娘の三人家族。一見幸せな家庭に見える。だが彼女の心は癒えておらず、慎吾の声が今も脳裏に響いていた。
『君の試練が始まった。乗り越えるには憎しみを捨てるしかない。お兄さんはできなかった。』
いつも彼女はその続きをつぶやくのだ。
「きみはできる?」、そして苦しみながら「うん」とうなずく。
慎吾の運命が、憎しみは破滅しか生まないと教えてくれた。彼女は家族のことだけを考え、過去を振り返らないようにしたが、ちょっとした事件のニュースを聞いただけで悲惨な光景が蘇った。
何年もの間、家族に内緒で精神科にも通った。心的外傷後ストレス障害と診断され、処罰は一時的な満足を与えるに過ぎないと言われた。心理療法を続けてみたが、心が癒えることはなく、彼女は治療を諦めた。
ついに彼女は神の力にすがる。聖書を手に取り、その言葉に救いを求める。
新約聖書『マタイによる福音書』第18章。ペトロはイエスに聞く。
「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」
イエスは言う。
「七の七十倍までも赦しなさい」
それが無限回を意味することは言うまでもない。
奈津子は赦すことで憎しみを断とうとするが、それはあまりに辛く、不可能とさえ思えた。
奈津子は悩み抜いた末、郊外の丘に建つ古い教会を訪ねることにした。
石造りの礼拝堂はひっそりと静まり返り、ステンドグラスから差す光が、床に七色の模様を描いていた。
神父は彼女のために時間を割いてくれた。礼拝堂には他に誰もいない。
彼女が神父の前に立ち、深々と頭を下げると、若い神父は慈愛に満ちた声で告げる。
「悲しむ人は幸いです。その人は慰められるでしょう」
奈津子の頬を涙が伝う。
「神父様、私を助けてください」
彼女がひざまずこうとすると、神父はそれを止める。
「椅子に掛けて話してください」
彼女は震えながら懺悔を始める。
「私は子供のころ、家族を水害で失いました。あのとき、小さな人影が水面の下のほうに見えたのです。なのに私は飛び込まなかった。妹は助けを求めていたに違いないのに」
涙がこぼれ、言葉が続かない。
「無理に話さなくても良いのです」
「大丈夫です。聞いてもらいたいのは、災害のことではありません。心に巣食う、憎しみについて話したいのです」
彼女は涙を流しながら、牧場での惨劇のすべてを話し、その光景が頭から離れず、一日たりとも憎しみから解放されないと告白をする。
「憎しみに取り憑かれ、気が狂いそうです。このままでは、誰かを傷つけてしまう……」
そして彼女は核心へ迫る。
「教えて下さい。赦すことで、憎しみを断つことができますか? それをできるのは、復讐ではないですか? 犯人が死刑になれば、憎しみも消えるのではないですか?」
長い沈黙が訪れ、礼拝堂は静寂に包まれた。
やがて神父は穏やかに話し始める。
「自分はアーミッシュと暮らしたことがあるのです」
※アーミッシュ(Amish)とは、古きプロテスタント農民の生活様式を守る共同体。現代文明から距離を置くキリスト教の一派。
神父はアーミッシュの村で遭遇した、ある事件について話し始めた。
「四年前、私はペンシルベニア州の教会に留学し、アーミッシュの村に滞在しました。彼らと一緒に聖書を読んでいると、遠くから銃声が聞こえました。武装した男が小学校に押し入ったのです。罪なき少女たちがショットガンで撃たれ、五人の命が奪われました。誰もが憎しみに呑まれても仕方ないほどの惨劇です。でもその夜、犠牲となった少女の祖父は、涙を流す孫たちに言いました。『犯人を悪く思うな。彼を赦すのだ』と。村の人々は、犯人の妻の家を訪ねました。泣き崩れる彼女に向かって、『私たちは彼を赦し、あなたと子供たちのために祈ります』と言いました」
奈津子は神父に問うた。
「犯人を赦したのですか? 五人もの子供が殺されたのに」
「そうです。憎しみを持ち続ければ、心はさらに深く傷つきます。だから彼らは、ただひとつの道である赦しを選びました」
「ただひとつの道?」
「復讐は間違った選択です。それをすれば、心はより深く憎しみに染まります」
「神父様、私はその人たちのように強くありません」
「赦しとは、主が人間に課した最大の試練であり、唯一の選択なのです」
彼女は声を震わせて問う。
「なら犯人を赦せば、憎しみは断たれるのですね?」
「赦す者こそ真の王者です。安心しなさい。サタンは退くでしょう」
神父と慎吾の言葉が重なり合い、奈津子の心に一条の光が差す。
憎しみを捨てよう。それが、ただひとつの道なのだから。
奈津子はその答えを信じ、大胆な決断を下す。
第六章 憎しみと悲しみ
奈津子は死刑に反対する。犯罪を助長するとの声が多く上がったが、彼女の意志は固かった。
被害者遺族Xの意志が死刑反対運動に勢いを与え、当局が刑の執行をためらうと、死刑囚の一人である拓哉は手を叩いて喜んだ。
彼は面会に訪れる支援者に、いつも愚痴をこぼしていた。
「俺がやったのはコンビニの兄ちゃんだけだ。牧場の奴らを皆殺しにしたの慎吾だぜ。二人以上が死刑の相場だろ。なのに俺まで死刑なんて、おかしいじゃねえか」
慎吾は相棒とは真逆な意志を表明する。彼は死刑反対運動に反対するのだ。
慎吾は面会を拒んだから、奈津子は何度も刑務所に書簡を送り、愚かなことはやめて欲しいと訴えた。
「私は憎しみを捨て、あなたを赦します。お願いします。生きてください」
だが返信には頑なな意志が綴られていた。
「なっちゃん。死刑に反対しないで欲しい。俺は死にたい。でも自殺はしない。俺は偽善者どもに殺しをさせるつもりだ。そうなれば、奴らも俺と同じ、殺し屋だからな」
悲しくも愚かな復讐である。だが奈津子は諦めない。
慎吾の説得は密かに行われた。奈津子は家族の目に触れないよう、局留めで書簡のやりとりを続けていた。
慎吾が生まれ育った境遇を知るたび、奈津子の憎しみは悲しみに変わっていった。
慎吾の手紙には、妹を思う兄の優しさが滲み出ていた。
「美咲は猫を飼いたいと言った。でも市営住宅じゃだめなんだ。俺は毎日河原に通い、そこにいる猫の親子に餌をあげて仲良くなった。美咲を河原に連れて行き、猫たちに会わせると大喜びだ。でもある日、処分場の回収車が堤防沿いに停車していた。車の荷台から猫たちの鳴き声が聞こえる。美咲はいやだ、いやだと泣き叫んだ。俺は『大丈夫。きっと誰かが飼ってくれるから』と言ったんだ」
彼の優しさは、佳代子を思う奈津子の気持ちと重なり、憎しみは涙となって流れだした。
私はあの人を死なせない。必ず救ってみせる。
実は、奈津子の他にもうひとり、慎吾の手紙を読んでいる者がいた。ひっそりと目を通し、慎吾の過去に、己の現在を重ね合わせる者が。
復讐の否定は卑怯者の言い逃れ。愛する者に対する裏切り。その者には、そうとしか思えなかった。
第七章 綾香と麻弥
奈津子には一人娘がいた。名を綾香という。
彼女は中一の春に美術部に入ると、たちまち周囲を圧倒した。
市展、県展で学校が推薦する作品は常に彼女の絵になり、他の部員の作品は霞んでしまった。
綾香は媚びることが嫌いで、周囲に合わせようなんて気は全くなかったから、部活はおろか、クラスでも常に浮いた存在だった。
中二の春、一人の女子が綾香の前に現れる。それは運命的な出会いだった。
麻弥(まや)はおどおどしながら教壇に立ち、クラスメイトに挨拶をする。
「みなさん、よろしく、お願いします」
淡い花びらのように存在が薄く、綾香でさえも、その才能に気づかなかった。
麻弥は美術部に入り、綾香を驚かせる。綾香は自分を超える才能に初めて出会ったのだ。
綾香の絵は異様なほど写実的で、妥協を許さぬ性格がにじみ出ていた。
片や麻弥の絵は、牧歌的な光に包まれており、穏やかな性格をうかがわせた。
素人の評価は圧倒的なものに傾きがちだ。だが才能は才能を理解する。
綾香は晩飯時に奈津子に言う。
「お母さん。凄い子が転校してきたの。あたし、その子と友達になるつもりよ」
「良かったわね。なら、遊びに来てもらったら」
綾香はキャンバスに向かう麻弥に声をかける。
「上手だね。あたしなんて足元にも及ばない」
「そんなことないです。綾香さんの絵、とても素敵です」
「さん付けなんてやめて。綾香って呼んで」
「あやか……」
「麻弥。次の土曜、あたしの部屋で一緒に絵を描こうよ」
こうして綾香の部屋は、ふたりのアトリエとなった。
彼女たちは絵ばかり描いていたわけではない。好きな小説や将来の夢を語り合った。そして恋についても。
「麻弥は好きな子がいるの?」
麻弥は何も答えない。
「ねえ。教えてよ」
「いないと思う。綾香は?」
「えっ、あたし? あたしも、いないと思う」
綾香は慌てて取り繕うが、それは無駄であった。
麻弥は「本当に?」と言い、綾香の目を見つめる。
綾香は観念した。麻弥の知性を欺けても、感性を欺くことはできない。
「麻弥。あたしの好きな人はね」
すると麻弥が言葉を遮った。
「綾香。ごめん。あたし、嘘を言った。本当は好きな人がいるの」
「だれ?」
夏休みに入ると、ふたりは涼しい部屋で大胆な手法を採用する。
「麻弥。あたしを描いてくれる?」
「うん」
「服を脱いでいい?」
麻弥は綾香の裸体を繊細なタッチで描いた。麻弥の眼差しは肉体の奥底にある実体を捉える。
麻弥は描き終わると言った。
「綾香、あたしも描いて欲しいの」
「そう来ると思った」
「綺麗に描かないでね。嘘はいやよ」
「あたしが、そんな間抜けだと思う?」
ふたりは十四歳にして官能を知る。それは人間の手垢とは無縁な、清純な喜びだった。
第八章 踏みにじられた官能
夏休み明けのある日、麻弥のカバンからA4のスケッチブックが消えた。
そこには綾香の裸体が描かれていた。そのデッサンは麻弥が想像に任せて描いたものだ。肉体はおろか、心まで描いたような小品で、麻弥は言葉にならない思いを、その絵に託したのだ。
麻弥はカバンの中にノートの切れ端を見つける。
『返して欲しいなら、明日の放課後、一人で体育館の倉庫においで。来なければ絵をコピーしてばらまくからね』
麻弥は綾香に相談をしなかった。いや、できなかった。
あたしは、なんて馬鹿なんだろう。綾香の裸をカバンに入れて、教室に置いておくなんて……
麻弥は自力で解決しようとするが、クズどもが彼女を待ち受けていた。
「よく来たわね」
女は仮面を付けているが、同じクラスの女子だと声でわかる。彼女も美術部で、綾香を心底憎んでいた。綾香を傷つけるために、麻弥を狙ったのだ。
「お願い。スケッチブックを返して」
「これがそんなに大切なの?」
女は麻弥の足元にそれを投げ捨てる。
麻弥が拾って倉庫から出ようとすると、五匹の獣が行く手をふさいだ。全員仮面を付けているが、クラスの男子だと声で分かる。
彼らは麻弥の腕をつかみ、服を引き裂くと、四つん這いにさせて手足を押さえる。泣き叫ぶ麻弥の姿を、鬼畜女子がスケッチブックに描く。
「もっと口をあけろ」
「おい、顎が外れないか?」
彼らはげらげらと笑う。
「歯を立てるな!」
鈍い音が倉庫に響き、床に赤い斑点ができた。
「あーあ、こいつ鼻いったな」
「早く血をふけ」
「このまま返したらバレるぞ」
「兄貴に車を回してもらうから、マットの袋をはがせ」
「なんで?」
「このまま乗せたら、シートが汚れるだろ!」
翌日の早朝、麻弥の携帯からメールが届く。
『綾香、郵便受けを見てね』
綾香は郵便受けから麻弥のスケッチブックを取り出すと、何度も麻弥の携帯を鳴らす。しかし、いくら呼んでも彼女は出ない。
麻弥、なにがあったの?
警察は容疑者を割り出したが、少年たちが麻弥を河に突き落とした証拠は見つからず、彼女の死は自殺として処理された。
少年たちは、麻弥は自分から車に乗ってきたと口を揃えて言った。ドライブの途中で彼女を降ろし、家まで送ると言ったら、彼女は暗い表情で、一人になりたいと言ったと供述した。
麻弥には精神科への通院履歴があった。軽い鬱症状があったのだ。
また、犯行を疑われた少年の中に、地元を牛耳る県会議員の孫がいたことも、捜査に影響を及ぼしたに違いない。
まともな検死すらされず、鼻骨の損傷は河へ落下した際にできたとされた。
だが綾香には犯人がわかっていた。クズどもは彼女を横目で見ては、明からさまに笑っていたからだ。
やがて彼女は、クラスの誰もがニヤニヤと笑っていることに気づく。麻弥が描いた綾香の裸体がコピーされ、拡散されていたのだ。
だが彼女は学校に訴えなかった。教師は隠蔽しか頭にないし、そんなことをすればクズどもは警戒する。
彼女は両親にも相談をしない。
父に相談すれば担任に相談しろと言うだけだし、母は人を憎んではいけないと、口癖のように言っていた。
綾香はクズどもを油断させるために平静を装う。毎日クラスの風景をB5のノートに描き、彼らを静かに観察していた。
綾香は自分の部屋で、麻弥が描いた自分の裸体を一日中眺めていることもあった。
肌寒い秋の夕暮れ時。綾香は麻弥のスケッチブックを閉じると、クラスの日常を描いたB5のノートと一緒に、机の引き出しの奥にしまった。
麻弥、あたしの最高傑作を見せてあげる。
その言葉は約束であると同時に、麻弥を手に掛けた者たちへの宣告でもあった。
第九章 憎しみの継承
麻弥の死からほどなくして慎吾の元に薄い封書が届く。封を開けると、一枚の便箋に、奈津子の筆跡で書かれていた。
『一度だけ面会してください。あなたがそれでも死を望むなら、私は諦めます』
「彼女」が指定された時刻に面会室に入って待っていると、やがて慎吾が現れた。ふたりはアクリル板越しに見つめ合う。
なぜか彼女はサングラスを掛けたまま黙っているから、仕方なく慎吾から話しかけた。
「家族がいるんだろ。こんなことは、しないほうがいい」
彼女は何も言わない。
「俺の意志が変わることはない。だから、もう死刑に反対しないでくれ」
すると彼女はサングラスを外し、小さな声で言う。
「あたしが誰かわかる?」
奈津子の顔は慎吾の脳裏に焼きついていた。化粧をしても、見間違えるとは思えない。ただ、彼女の顔は少女のままだった。
「君は誰だ?」
彼女は慎吾の背後に立つ刑務官をチラッと見てから、アクリル板に顔を近づけ、さらに声を潜める。
「やっぱり、お母さんにそっくりなのね」
「君は彼女の娘なのか?」
「しっ、小さな声で話して」
綾香は母の筆跡をまね、免許証を偽造したのだ。
「なんの真似だ」
綾香は慎吾の目を見つめる。
「知っているのよ。あなたが優しい人だって」
「知ったような口を聞くな」
「美咲さんのことも、復讐のことも知っている。あたし、あなたの気持ちがわかるわ」
「黙れ。お前に何がわかる」
「お願い。ひとつだけ教えて。そしたら、すぐに帰るから」
「何が聞きたい?」
「復讐したことを、後悔してる?」
綾香が林間学校に出発する日の前夜、奈津子は海外にいる夫と電話で口論をしていた。
奈津子は綾香を林間学校に行かせたくないと言うが、夫は耳を貸さない。
「お願い、わかって。どうしても行かせたくないの」
「どうして?」
「なにか悪い予感がするの」
「なに馬鹿なこと言ってるんだ」
いつの間にか綾香がそばに立っていた。
「お母さん。あたし、みんなと仲良くなりたいの」
「でも……」
「奈津子。そこに綾香がいるんだろ。代わってくれ」
奈津子は娘に受話器を渡す。
「綾香。一人で絵ばかり描いてちゃいけない。気持ちを切り替えて、新しい友達を作りなさい」
「うん。そうする」
「持ち物は全部用意したのか?」
「大丈夫。もう準備はできているわ」
指定された持ち物はもちろんのこと、綾香はカレーに入れる特別な食材まで用意していた。わざわざ郊外の山奥まで行って採ってきたのだ。
翌日は朝から青空が広がり、絶好の遠足日和となった。紅葉を迎えた渓谷で飯盒炊爨をし、キャンプ場の近くで合宿する予定だ。
「みんなでカレーを作るのよ」と綾香は嬉しそうに言うが、彼女は香辛料にアレルギーがあった。
「あなた、カレーなんて食べて大丈夫なの?」
「あたしは作るだけ。美味しいカレーを作って、みんなに食べてもらうの」
あることが奈津子の不安を駆り立てていた。
先週、綾香の部屋を掃除していると見つけたのだ。机の引き出しを開けると、綾香の裸体が描かれたスケッチブックがあり、それに寄り添うようにB5のノートがあった。そこには教室の日常が描かれていたが、クラスメイトの顔に、ことごとく目が無い。奈津子は一瞬寒気がした。
あの子はクラスの子たちを憎んでいる。合宿に行きたがるなんて、どう考えてもおかしい。
「綾香、やっぱり何か悪い予感がするの」
「大丈夫、心配のしすぎ」
綾香はテーブルにつくと、目玉焼きを箸で食べ始めた。
「お母さん。フォークとって」
食器棚からフォークを取り出し、テーブルの方に振り向いた瞬間、奈津子はそれを手から落とし、何かが割れたような音が脳裏に響いた。
朝のニュースが、当時十八歳だった二人の死刑囚の最期を伝えたのだ。
奈津子は床に崩れ落ち、手をついて涙をこぼした。
あの人を救えなかった……
致命的な瞬間だった。奈津子は赦す相手を永遠に失い、その喪失感は果てしない。片や綾香は処刑された者たちを犠牲者と認識する。
奈津子が顔を上げると、綾香が目の前に立っていた。
「お母さん。何があったの?」
「なんでもないの。気にしないで」
「お母さんは、なにか恐ろしい経験をしたんじゃないの?」
「なに言ってるの! そんなことないわ!」
「なら、あたしの思い過ごしね」
綾香は母をじっと見つめる。
「お母さん。どうしても行かなくちゃいけないの」
綾香はリュックを背負い、部屋から出て行った。
第十章 憎しみの決壊
その日の正午、綾香はクラスメイトと一緒にキャンプを楽しんでいた。
真っ青な空と、鮮血のような紅葉。その景色は、綾香の最高傑作に相応しい背景だった。
綾香は初めて神に感謝した。
神様、たまには、いいことをするのね。
彼女は六つのカプセルをポケットに忍ばせていた。中身は粉末化された「食材」だ。
確かに綾香は飯盒炊爨を楽しんでいるように見える。その笑顔の完璧さゆえ、彼女を嫌う者でさえ疑わない。
ある生徒が、玉ねぎは入れたかと聞けば、綾香はルーをかき混ぜながら「ごめん、忘れてた」と言い、申し訳なさそうに謝る。
ただ彼女の視線の先には、女一人と男五人のグループがいた。麻弥を罠にはめた連中だ。彼女は六つのカプセルを握りしめた。彼女は六つの皿にルーを盛ると、それを彼らの元へ運んだ。
「これ、あんた作ったの?」と鬼畜女子。
「うん。頑張って作ったのよ」と綾香は困った顔をする。迫真の演技だ。
「不味かったら、ゆるさねえぞ」と脅したのは、麻弥の顔に拳を振り下ろしたゴミクズだった。
綾香は涙を浮かべて震える。
「そんときゃ、お前の体で払わせるからな」
「ひゃははは! そりゃすげえや!」
クズどもの大笑いを、綾香は冷ややかな眼差しで見つめる。
馬鹿め。笑っていられるのも今のうちよ。
午後一時。奈津子が洗濯物をたたんでいると、学校から緊急のメールが入る。
『林間学校で食中毒が発生し、警察と救急隊が来ています。詳細は追って連絡します』
テレビをつけると、黄色いテープが張り巡らされたキャンプ場が映し出された。騒然とする現場を背景に、若い女のリポーターが早口で伝える。
「カレーを食べた六人の生徒が救急搬送されました。既に心肺停止とのこと。警察は毒物混入事件として捜査を開始しました」
電話は繋がらず、奈津子はメールを送る。
『綾香、大丈夫なの? カレーを食べたの?』
『作っただけだから心配しないで』
トリカブトの粉末が検出された。それは犯行現場周辺の森にも自生しているが、部外者が採取してキャンプ場へ侵入したり、学校関係者が森に採りに行ったとは考えにくい。そんなことをすれば、簡単に目撃されてしまうからだ。
教職員も調べられたが、誰にも動機がない。いじめの報復という線でも捜査は進められた。だが容疑者は多数にのぼり、捜査は難航すると思われた。
だが、綾香の名前が徐々に浮上した。
被害者は彼女のクラスに集中しており、彼女が死んだ生徒たちを憎んでいたとの証言を、警察は聴取していたのだ。
事件から二ヶ月後、黒いセダンが、奈津子の家のそばで豹のように待機していた。
ベテランの刑事はダッシュボードに駐車禁止除外車証を置くと、若い刑事に指示を出す。
「お前だけで行ってこい。居間に入ったら、さりげなく娘の部屋を見ていいかと聞け。くれぐれも無理をするなよ」
「わかりました」
若い刑事はインターホンを鳴らす。
「どちら様ですか?」
「警察です。少しお聞きしたいことがあるのですが」
奈津子がドアを開けると、背広姿の若者が警察手帳を見せた。
「警視庁捜査一課の稲垣といいます。綾香さんのことで、少しお聞きしたいのですが」
「なんでしょうか?」
「御近所の目もありますから、上がらせてもらっていいですか?」
奈津子は彼を居間に通すと、熱いコーヒーを出した。
「娘が何かしたんですか?」
「綾香さんがってわけじゃないんです。例の事件のことで、生徒全員の自宅を周っているんですから」
「そうですか」
「事件のことで、綾香さんは何か言ってませんでしたか?」
「あの子は香辛料にアレルギーがあるんです。だからカレーを食べなかったんです」
「ええ知ってますよ。綾香さんを疑っているわけじゃありません」
「家で事件のことなんて話しません。暗い気持ちになるので」
「そうですか。もし良ければ、ちょっと綾香さんの部屋を見せてもらえないですか? 無理なら結構ですが」
「いえ。別に構いませんが」
彼は部屋に入ると、壁に張ってある絵に注目した。
「綾香さんは絵が上手なんですね」
「あの子は美術部だったんです」
「今は違うんですか?」
「周囲に馴染めなくて、辞めてしまったんです」
「それにしても上手だなぁ。自分も学生のころ絵を描いていたんです。でも、とてもかなわない。綾香さんはきっと天才ですよ」
「いえ、そんなことは」
彼は机の上の分厚いスケッチブックに指先で触れた。
「見てもいいですか?」
「ええ。どうぞ」
彼は描かれた人物を確かめながら、ゆっくりと紙をめくる。
「これは、お母さんですね」
「はい」
「見事に特徴をとらえてますよ。この男性は?」
「それは夫です」
「ご主人の絵が少ないですね」
「主人は海外に赴任しているんです。それに仕事だけの人だから、絵のモデルなんて」
「そうですか」
ほとんどが奈津子の肖像画で、たまに父親や俳優の絵が現れる。
やがて絵は途絶えて白紙となる。それでも彼はめくり続け、最終ページで指が止まる。暗い目をした男の顔が描かれていた。
「これは誰ですか?」
奈津子がその男と対面したのは二十四年前。当時彼は十八歳で、奈津子は十二歳。顔の輪郭は同じだが、目の雰囲気が変わっていた。当時は冷酷な目をしていたが、今は悲しみに満ちている。
綾香は悲しみが氷結したような眼差しを、たった一度、それも数分間会っただけで、見事に描き切ったのだ。
奈津子は息を呑んだ。あの子は知っている……。急に目眩がして床に崩れ落ちた。
「奥さん! 大丈夫ですか!」
「貧血がひどくて」
「すみません。立たせたままで」
「その男の人、知りません」
「いいんですよ。きっと俳優か何かでしょう」
彼は奈津子をソファーに寝かせた。
「突然お邪魔してすみませんでした。今日のところは、これで失礼します」
彼は一礼し、ドアを閉めて出ていった。
最終章 憎しみの大河
奈津子は悟った。
あの子は、あたしの過去を知っている……
もう隠すことに意味はない。その夜、奈津子は牧場での惨劇を語り終えると言った。
「母さんは子供のころ、土石流で家族を失った。あの夜、妹と一緒に寝ていれば、全てが変わっていたような気がするの」
「どうして話してくれなかったの?」
「これは凄く恐ろしいことなのよ。こんなことに、あなたを巻き込みたくない」
奈津子の瞳から、とめどなく涙がこぼれる。
「お母さん。明日、警察に連れて行って」
「だめ! そんなことをしても、亡くなった子たちは戻らないのよ」
「なら、あたし一人で行く」
その夜、奈津子は綾香と一緒に寝た。眠れなかった。いや眠りたくなかった。娘を抱いていれば、わずかに幸せを感じられたから。
奈津子は憎しみの激流を予感した。たとえ、それに呑まれても、娘を決して離さない。そう心に誓うのだ。
「お母さん。ごめんね」と綾香。
奈津子は娘を抱きしめる。もはや言葉はいらない。温もりが全てだ。綾香は母の運命に思いを馳せ、その腕の中で泣き続ける。
彼女たちのベッドは、憎しみの大河へ乗り出す筏(いかだ)だった。ふたりは抱き合ったまま、永遠に漂流したいと思っていた。
終わり
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
序章 悲劇の誕生
淡い光に包まれた秋の日、奈津子は妹と川原で遊んでいた。彼女は川辺に咲く花を集め、小さなブーケを作ると、それを妹の手に握らせる。
「お姉ちゃん、ありがとう」
「もっと可愛くしてあげる」
草で冠を編み、妹の頭に乗せると、可憐な七歳の花が咲いた。
辺りが薄っすらと陰り、山の上にどんよりとした雲が垂れ込めた。
「佳代子、帰るわよ」
「やだ。もっと遊ぶ」
「姉ちゃんの言うことを聞いて」
奈津子は、両親から聞かされた鉄砲水の怖さを思い出す。
急いで側道まで駆け上がると、小雨が降り出した。すぐに豪雨となり、姉妹はずぶ濡れとなって家にたどり着く。
「どうしたの」と驚く母に、「急に雨が降ったの」と奈津子。
佳代子がくしゃみをし、鼻水を垂らすと、母は小さなおでこに手を当てた。
「熱があるんじゃない?」
母は佳代子を風呂場に連れて行き、濡れた服を脱がせると、シャワーで体を温めてから、桃色のパジャマを着せた。
「お姉ちゃん、ありがとう」
「もっと可愛くしてあげる」
草で冠を編み、妹の頭に乗せると、可憐な七歳の花が咲いた。
辺りが薄っすらと陰り、山の上にどんよりとした雲が垂れ込めた。
「佳代子、帰るわよ」
「やだ。もっと遊ぶ」
「姉ちゃんの言うことを聞いて」
奈津子は、両親から聞かされた鉄砲水の怖さを思い出す。
急いで側道まで駆け上がると、小雨が降り出した。すぐに豪雨となり、姉妹はずぶ濡れとなって家にたどり着く。
「どうしたの」と驚く母に、「急に雨が降ったの」と奈津子。
佳代子がくしゃみをし、鼻水を垂らすと、母は小さなおでこに手を当てた。
「熱があるんじゃない?」
母は佳代子を風呂場に連れて行き、濡れた服を脱がせると、シャワーで体を温めてから、桃色のパジャマを着せた。
午後十時。降り続いた雨がようやくやみ、山あいは静けさに包まれていた。
両親は上流での決壊を心配したが、警報は解除され、川は穏やかに流れていると思われた。
奈津子は二階の子供部屋にあるベッドの下段で寝る。上段は佳代子の寝床だが、姉妹はいつも一緒に下段で寝ていた。
「佳代子、そろそろ寝るよ」
「今日は、お母さんと一緒に寝る」
「どうして?」
「風邪をひいちゃったの」
佳代子は一階で両親と川の字になって寝る。
午前0時。奈津子は夢で水が流れるような音を聞く。やがて砂利の流れのような細かい振動に変わり、彼女は目を覚ます。
なんだろう?
振動が急に激しさを増し、奈津子の体が小刻みに揺れる。明かりが消えて木がきしむ音が響き、家全体が船のように揺れる。
彼女が悲鳴を上げると、揺れは収まり、不気味な静けさが訪れる。
暗闇の中、彼女は階段を駆け降りると、足を濡らす水に気づき、その場で立ち止まる。手探りで壁に触れると、階段の電球がついた。
水面に顔を近づけると、薄っすらと濁った水面の下のほうに、小さな人影が見えた。
「佳代子!」
水面は分厚いガラスのように冷たく、どんな叫びも通さない。まだ十一歳の奈津子に潜る勇気はなく、ただ泣き叫ぶしかない。その人影は水に押し流され、奈津子の視界から去っていった。
両親は上流での決壊を心配したが、警報は解除され、川は穏やかに流れていると思われた。
奈津子は二階の子供部屋にあるベッドの下段で寝る。上段は佳代子の寝床だが、姉妹はいつも一緒に下段で寝ていた。
「佳代子、そろそろ寝るよ」
「今日は、お母さんと一緒に寝る」
「どうして?」
「風邪をひいちゃったの」
佳代子は一階で両親と川の字になって寝る。
午前0時。奈津子は夢で水が流れるような音を聞く。やがて砂利の流れのような細かい振動に変わり、彼女は目を覚ます。
なんだろう?
振動が急に激しさを増し、奈津子の体が小刻みに揺れる。明かりが消えて木がきしむ音が響き、家全体が船のように揺れる。
彼女が悲鳴を上げると、揺れは収まり、不気味な静けさが訪れる。
暗闇の中、彼女は階段を駆け降りると、足を濡らす水に気づき、その場で立ち止まる。手探りで壁に触れると、階段の電球がついた。
水面に顔を近づけると、薄っすらと濁った水面の下のほうに、小さな人影が見えた。
「佳代子!」
水面は分厚いガラスのように冷たく、どんな叫びも通さない。まだ十一歳の奈津子に潜る勇気はなく、ただ泣き叫ぶしかない。その人影は水に押し流され、奈津子の視界から去っていった。
砂防ダムの決壊から二日後、奈津子は仮設された安置所で家族の遺体を確認する。
青いビニールシートに三人の遺体が並べられている。両親の体は酷く傷ついていたが、妹の顔には傷ひとつなく、ただ眠っているようにしか見えない。
「姉ちゃんだよ。起きて」
妹は草の冠を握りしめていた。
「佳代子! 姉ちゃんを赦して!」
奈津子は自分を責めた。
ああ、あの子は待っていたんだ。草の冠を握りしめ、あたしが助けに来ると思ってたんだ……
そのトラウマは悲しみを憎しみに変え、奈津子は自分の処罰を望む。処罰とは一種の救済である。親類が彼女を引き取らなければ、彼女は手首を切っていたに違いない。
青いビニールシートに三人の遺体が並べられている。両親の体は酷く傷ついていたが、妹の顔には傷ひとつなく、ただ眠っているようにしか見えない。
「姉ちゃんだよ。起きて」
妹は草の冠を握りしめていた。
「佳代子! 姉ちゃんを赦して!」
奈津子は自分を責めた。
ああ、あの子は待っていたんだ。草の冠を握りしめ、あたしが助けに来ると思ってたんだ……
そのトラウマは悲しみを憎しみに変え、奈津子は自分の処罰を望む。処罰とは一種の救済である。親類が彼女を引き取らなければ、彼女は手首を切っていたに違いない。
牧場を営む親類が奈津子を引き取った。その牧場は祖父母と、奈津子の母の妹である叔母と、その夫の四人で営まれていた。
「今日からここは、なっちゃんの家だからね」
「おばさん。お世話になります」
「思いっきり甘えていいんだから」
叔母夫婦には子供がいなかった。彼らは実の親以上の愛を心に誓い、祖父母も奈津子を優しく見守った。
その甲斐あってか、奈津子に明るい笑顔が戻り、心の傷は遠からず癒えるものと思われた。
「今日からここは、なっちゃんの家だからね」
「おばさん。お世話になります」
「思いっきり甘えていいんだから」
叔母夫婦には子供がいなかった。彼らは実の親以上の愛を心に誓い、祖父母も奈津子を優しく見守った。
その甲斐あってか、奈津子に明るい笑顔が戻り、心の傷は遠からず癒えるものと思われた。
奈津子が保護された翌年の夏、彼女が住む田舎町で事件が起きようとしていた。
二人のチンピラが、駐車場で煙草を吹かしながら、コンビニの様子をうかがっていた。拓哉と慎吾が店を襲うタイミングを図っていたのだ。
二人のチンピラが、駐車場で煙草を吹かしながら、コンビニの様子をうかがっていた。拓哉と慎吾が店を襲うタイミングを図っていたのだ。
第一章 拓哉
二人のチンピラの生い立ちを語ろう。まずは拓哉から。
彼は寂れた港町の公衆便所で産声を上げた。
母親は若いころからアル中で、吹き溜まりのような安酒場に入り浸り、春を売って酒代を稼いだ。赤ん坊をほったらかして呑んだくれ、眠っている拓哉を指差して、お酒と交換してよと言い、客にからんだりもした。
拓哉は父親を知らず、母親からはクズと呼ばれて幼少期を過ごす。
冬の朝、酔い潰れて寝転ぶ母の足元で、凍えながら給食代を乞う。
「無駄飯食いのゴミクズめ」と怒鳴られ、空き缶を投げつけられた。
お腹が空いたと言えば、「自分で盗ってこい」と突き放され、万引したパンを持ち帰れば、「なんで一個だけなんだ」と怒鳴られ、また殴られる。
顔に青アザを作って登校しても、教師は見て見ぬふりをし、荒れた家庭に介入しようとはしない。
拓哉は一瞬たりとも愛されることなく育ったからか、ひどく短気で、こらえ性のない性格をしていた。
彼はシンナーに手を出し、ゲームセンターに入り浸り、万引きや恐喝に明け暮れる。
ある日、拓哉は肩が当たったと言って通行人をいきなり切りつけ、警察が出動する事態となった。
その逮捕劇も滑稽なまでに愚かだ。彼はナイフ片手に狂犬のごとく吠えた。
「かかって来い。刺されたい奴はどいつだ」
「ナイフを捨てなさい」
「うるせえ。なめんじゃねえぞ」
ついに警官は拳銃を構える。
「上等だ。撃ってみろ」
目的は威嚇だ。撃つわけがない。
「おらおら、どうした。撃てねえのか」
拓哉は調子に乗って腕を振り回し、手からナイフを飛ばす。彼は警棒で打ちのめされて、数人の警察官に取り押さえられる。
「奴がぶつかってきたんだ!」
「大人しくしなさい」
「畜生! 俺は被害者だぞ!」
馬鹿げた言い分ではあるが、見方を変えれば真実である。それは見捨てられた子供の叫びでもあったから。
彼は寂れた港町の公衆便所で産声を上げた。
母親は若いころからアル中で、吹き溜まりのような安酒場に入り浸り、春を売って酒代を稼いだ。赤ん坊をほったらかして呑んだくれ、眠っている拓哉を指差して、お酒と交換してよと言い、客にからんだりもした。
拓哉は父親を知らず、母親からはクズと呼ばれて幼少期を過ごす。
冬の朝、酔い潰れて寝転ぶ母の足元で、凍えながら給食代を乞う。
「無駄飯食いのゴミクズめ」と怒鳴られ、空き缶を投げつけられた。
お腹が空いたと言えば、「自分で盗ってこい」と突き放され、万引したパンを持ち帰れば、「なんで一個だけなんだ」と怒鳴られ、また殴られる。
顔に青アザを作って登校しても、教師は見て見ぬふりをし、荒れた家庭に介入しようとはしない。
拓哉は一瞬たりとも愛されることなく育ったからか、ひどく短気で、こらえ性のない性格をしていた。
彼はシンナーに手を出し、ゲームセンターに入り浸り、万引きや恐喝に明け暮れる。
ある日、拓哉は肩が当たったと言って通行人をいきなり切りつけ、警察が出動する事態となった。
その逮捕劇も滑稽なまでに愚かだ。彼はナイフ片手に狂犬のごとく吠えた。
「かかって来い。刺されたい奴はどいつだ」
「ナイフを捨てなさい」
「うるせえ。なめんじゃねえぞ」
ついに警官は拳銃を構える。
「上等だ。撃ってみろ」
目的は威嚇だ。撃つわけがない。
「おらおら、どうした。撃てねえのか」
拓哉は調子に乗って腕を振り回し、手からナイフを飛ばす。彼は警棒で打ちのめされて、数人の警察官に取り押さえられる。
「奴がぶつかってきたんだ!」
「大人しくしなさい」
「畜生! 俺は被害者だぞ!」
馬鹿げた言い分ではあるが、見方を変えれば真実である。それは見捨てられた子供の叫びでもあったから。
拓哉は身柄を拘束されて、お決まりのレーンに乗った。彼は少年院でも、些細なことで騒ぎを起こしたから、慎吾以外に相手をする者はいなかった。
拓哉は慎吾のことを、「ちょっと変わった野郎」と思っていた。
拓哉は人付き合いには、拳と刃物が付き物と思っていたが、慎吾を前にすると、それを使う気が起きない。
慎吾はいつも冷静で、拓哉が粗暴な態度を見せても、軽い冗談で受け流すのだ。
拓哉は慎吾のことを、「ちょっと変わった野郎」と思っていた。
拓哉は人付き合いには、拳と刃物が付き物と思っていたが、慎吾を前にすると、それを使う気が起きない。
慎吾はいつも冷静で、拓哉が粗暴な態度を見せても、軽い冗談で受け流すのだ。
第二章 慎吾
次は慎吾の生い立ちを語ろう。
彼は小中ともに成績が優秀で、少年院で行われた知能検査の数値も高い。
父親は家庭をかえりみない遊び人で、パチンコに狂い、持ち玉が尽きれば、幼い慎吾に玉拾いをさせた。
「このクズが。もっと拾ってこい」
慎吾も拓哉と同じように、親からクズと呼ばれて幼少期を過ごす。
殴られて唇を切った慎吾は、ゴキブリのように店内を這い回り、店員に注意されるまで玉を拾い集めた。
慎吾の父は子供の愛し方を知らない。彼も虐待されて育ったのだ。結局、慎吾の父は他所に女をつくって家を出て行った。
慎吾には美咲という二つ年下の妹がいた。
母親は育児放棄していたから、美咲の面倒はすべて彼がみた。だが、給食や教材の費用までは、どうすることもできない。
「お母さん。美咲が使うノートを買いたいんだけど……」
「あたしに何の恨みがあるの! 出て行け!」
母親は髪を掻きむしって声を上げた。慎吾は父の拳以上に、その金切り声が怖かった。
結局、慎吾は万引きに手を染めることになる。たまに見つかったが、その場で叱られるだけで、警察や学校への通報はされなかった。
彼は小中ともに成績が優秀で、少年院で行われた知能検査の数値も高い。
父親は家庭をかえりみない遊び人で、パチンコに狂い、持ち玉が尽きれば、幼い慎吾に玉拾いをさせた。
「このクズが。もっと拾ってこい」
慎吾も拓哉と同じように、親からクズと呼ばれて幼少期を過ごす。
殴られて唇を切った慎吾は、ゴキブリのように店内を這い回り、店員に注意されるまで玉を拾い集めた。
慎吾の父は子供の愛し方を知らない。彼も虐待されて育ったのだ。結局、慎吾の父は他所に女をつくって家を出て行った。
慎吾には美咲という二つ年下の妹がいた。
母親は育児放棄していたから、美咲の面倒はすべて彼がみた。だが、給食や教材の費用までは、どうすることもできない。
「お母さん。美咲が使うノートを買いたいんだけど……」
「あたしに何の恨みがあるの! 出て行け!」
母親は髪を掻きむしって声を上げた。慎吾は父の拳以上に、その金切り声が怖かった。
結局、慎吾は万引きに手を染めることになる。たまに見つかったが、その場で叱られるだけで、警察や学校への通報はされなかった。
慎吾は、美咲から友達がいじめられていると聞けば、飛んでいって悪ガキどもを叱りつけた。
数人のクラスメイト相手に殴り合いをしたこともある。イジメを止めようとしてのことだ。
彼は優しく正義感のある少年だったが、ある事件をきっかけに人生の歯車が狂う。
彼が中三のとき、美咲が河に身を投げて死んだのだ。
いつも陰でいじめられていた美咲は、ある日、工場の跡地にある倉庫に呼び出され、クズどもに取り囲まれて自慰を強要される。総勢十人ほどの少年少女が、ニヤニヤしながら携帯をかざしていたのだ。
美咲は画像を拡散すると脅迫され、金がないなら稼ぐ方法を教えてやると言われる。勇気をふり絞って交番に行くが、学校で相談しろと言われて帰されてしまう。
だが学校での相談は無意味だ。教師は隠蔽しか考えていない。それが生徒の中の常識だった。
美咲はクズどもに言われるまま春を売り、ずるずると地獄にはまり込んでいった。
それでも兄に相談をしなかった。いや、できなかった。慎吾は彼女が死んでから日記の存在を知る。
「今日、おじさんにホテルに連れて行かれた。やめてって言ったら、叩かれて服を脱がされた。兄ちゃん、助けて。でも、こんなこと、兄ちゃんに言えない。言いたくない」
涙で文字がにじんでいた。慎吾は怒りと悲しみに打ち震える。
なぜ俺は気づかなかったんだ。この糞野郎、お前が死ね。
加害者の親たちは、自殺の原因は美咲の家庭環境にあると口をそろえて証言し、学校と警察は事件化を見送った。
イジメ事件は教育者のキャリアの汚点になるし、警察にとっても、少年事件は評価されない『美味しくない事件』なのだ。
慎吾は美咲が身を投げた河を見つめながら、彼女と過ごした日々を振り返る。
放課後の校門で自分を待つ美咲。一緒に河原で道草をして、野良猫たちと遊んだ日が懐かしい。美咲が猫と遊びたいと言うから、彼が餌をやって仲良くなったのだ。
彼は妹の後を追おうと思った。しかし、やるべきことがあった。彼は憎悪を抱きながらも、冷静に復讐の機会をうかがう。
主犯格の二人は、彼と同じ三年生の男女だ。
彼は平静を装いながら一部始終を観察し、彼らが美咲を呼び出した倉庫でやっていることを突き止める。
彼は二人が卒業式の日も必ずヤルと確信し、式が終わると倉庫に先回りして待ち伏せをする。
案の定、二人が現れてヤリはじめると、彼は鉄パイプを握りしめてタイミングを図る。
女子は作業台の上で股を開いてあえぎ、男子は立ったまま腰を動かしている。男子が女子の腹にまき散らした瞬間、後頭部に鉄パイプが振り下ろされた。
男子がのたうち回る間に、女子を後ろ手に手錠で固定し、ロープで作業台の脚に縛りつける。
男子の体に鉄パイプを何度も振り下ろすと、スポーツバッグから斧を取り出して言う。
「おい。まだ死ぬなよ」
床一面が血の海と化し、女の方に振り向くと、口から血があふれていた。恐怖のあまり、自分で舌を噛み千切ったのだ。
慎吾は女の前髪をつかんで言う。
「どうだ? 気分は」
女は命乞いをするが、血の泡を噴くだけで言葉にならない。
「俺の妹はな、お前に殺されたんだ」
慎吾がナイフでとどめを刺すと、女はだらりと頭を垂れた。彼は死にゆく様子を眺めながら煙草を吹かす。
俺が間抜けだから美咲は死んだ。全部俺のせいだ。
彼は吸いかけの煙草を握りしめるが、肌を焼く火でさえも、悲しみをかき消すことはできない。
彼は自ら出頭して身柄を拘束され、お決まりのレーンに乗った。
後追い自殺を考えた彼であったが、少年院で自殺を図ることはなかった。
同じような境遇で育った者が大勢いたし、拓哉との出会いが大きかった。
昼食のときのことだ。
「おい。この肉を食ってくれよ」と拓哉に声をかけられた。
「いいのか?」
「安い肉は食えねえんだよ。俺は上流階級の出だからな」
「本当か?」
「見りゃ分かるじゃねえか」
慎吾はクスクスと笑った。
「馬鹿野郎! 俺はセレブだ!」
「そうだな。確かにセレブだ。でも悪いから、俺の飯を半分食ってくれよ」
「おう悪いなあ。やっぱ米が一番だぜ」
慎吾は拓哉といると不思議に心が休まった。拓哉には裏表がないからだ。ただ、ないと言うより作れないのだ。裏表を作る前に爆発してしまうから。
慎吾はトイレ掃除の際に、死んだ妹のことを拓哉に話した。便器を拭きながら復讐のことを話すと、拓哉らしい言葉が返ってきた。
「そんな奴らは挽肉にしてやりゃいいんだ。生き返らせろ。俺が料理してやるぜ」
さすがに慎吾も呆れた。
「そんな料理、犬も食わないよ」
「馬鹿野郎! てめえ妹が可愛くねえのか! 俺ならソッコーだぜ」
「お前、俺の気持ちが分かるか?」
「わからねえよ。俺はずっと一人だったからな。あーあ、俺にも妹がいたら良かったな」
滑稽なまでに愚かな拓哉。愛を知らずに育った拓哉。ある意味において、慎吾以上に悲惨だった。
慎吾はそんな彼を不憫に思い、社会への憎しみを更に募らせる。復讐。その冷たい炎を胸に秘め、拓哉とともに「その日」を迎えるのだ。
数人のクラスメイト相手に殴り合いをしたこともある。イジメを止めようとしてのことだ。
彼は優しく正義感のある少年だったが、ある事件をきっかけに人生の歯車が狂う。
彼が中三のとき、美咲が河に身を投げて死んだのだ。
いつも陰でいじめられていた美咲は、ある日、工場の跡地にある倉庫に呼び出され、クズどもに取り囲まれて自慰を強要される。総勢十人ほどの少年少女が、ニヤニヤしながら携帯をかざしていたのだ。
美咲は画像を拡散すると脅迫され、金がないなら稼ぐ方法を教えてやると言われる。勇気をふり絞って交番に行くが、学校で相談しろと言われて帰されてしまう。
だが学校での相談は無意味だ。教師は隠蔽しか考えていない。それが生徒の中の常識だった。
美咲はクズどもに言われるまま春を売り、ずるずると地獄にはまり込んでいった。
それでも兄に相談をしなかった。いや、できなかった。慎吾は彼女が死んでから日記の存在を知る。
「今日、おじさんにホテルに連れて行かれた。やめてって言ったら、叩かれて服を脱がされた。兄ちゃん、助けて。でも、こんなこと、兄ちゃんに言えない。言いたくない」
涙で文字がにじんでいた。慎吾は怒りと悲しみに打ち震える。
なぜ俺は気づかなかったんだ。この糞野郎、お前が死ね。
加害者の親たちは、自殺の原因は美咲の家庭環境にあると口をそろえて証言し、学校と警察は事件化を見送った。
イジメ事件は教育者のキャリアの汚点になるし、警察にとっても、少年事件は評価されない『美味しくない事件』なのだ。
慎吾は美咲が身を投げた河を見つめながら、彼女と過ごした日々を振り返る。
放課後の校門で自分を待つ美咲。一緒に河原で道草をして、野良猫たちと遊んだ日が懐かしい。美咲が猫と遊びたいと言うから、彼が餌をやって仲良くなったのだ。
彼は妹の後を追おうと思った。しかし、やるべきことがあった。彼は憎悪を抱きながらも、冷静に復讐の機会をうかがう。
主犯格の二人は、彼と同じ三年生の男女だ。
彼は平静を装いながら一部始終を観察し、彼らが美咲を呼び出した倉庫でやっていることを突き止める。
彼は二人が卒業式の日も必ずヤルと確信し、式が終わると倉庫に先回りして待ち伏せをする。
案の定、二人が現れてヤリはじめると、彼は鉄パイプを握りしめてタイミングを図る。
女子は作業台の上で股を開いてあえぎ、男子は立ったまま腰を動かしている。男子が女子の腹にまき散らした瞬間、後頭部に鉄パイプが振り下ろされた。
男子がのたうち回る間に、女子を後ろ手に手錠で固定し、ロープで作業台の脚に縛りつける。
男子の体に鉄パイプを何度も振り下ろすと、スポーツバッグから斧を取り出して言う。
「おい。まだ死ぬなよ」
床一面が血の海と化し、女の方に振り向くと、口から血があふれていた。恐怖のあまり、自分で舌を噛み千切ったのだ。
慎吾は女の前髪をつかんで言う。
「どうだ? 気分は」
女は命乞いをするが、血の泡を噴くだけで言葉にならない。
「俺の妹はな、お前に殺されたんだ」
慎吾がナイフでとどめを刺すと、女はだらりと頭を垂れた。彼は死にゆく様子を眺めながら煙草を吹かす。
俺が間抜けだから美咲は死んだ。全部俺のせいだ。
彼は吸いかけの煙草を握りしめるが、肌を焼く火でさえも、悲しみをかき消すことはできない。
彼は自ら出頭して身柄を拘束され、お決まりのレーンに乗った。
後追い自殺を考えた彼であったが、少年院で自殺を図ることはなかった。
同じような境遇で育った者が大勢いたし、拓哉との出会いが大きかった。
昼食のときのことだ。
「おい。この肉を食ってくれよ」と拓哉に声をかけられた。
「いいのか?」
「安い肉は食えねえんだよ。俺は上流階級の出だからな」
「本当か?」
「見りゃ分かるじゃねえか」
慎吾はクスクスと笑った。
「馬鹿野郎! 俺はセレブだ!」
「そうだな。確かにセレブだ。でも悪いから、俺の飯を半分食ってくれよ」
「おう悪いなあ。やっぱ米が一番だぜ」
慎吾は拓哉といると不思議に心が休まった。拓哉には裏表がないからだ。ただ、ないと言うより作れないのだ。裏表を作る前に爆発してしまうから。
慎吾はトイレ掃除の際に、死んだ妹のことを拓哉に話した。便器を拭きながら復讐のことを話すと、拓哉らしい言葉が返ってきた。
「そんな奴らは挽肉にしてやりゃいいんだ。生き返らせろ。俺が料理してやるぜ」
さすがに慎吾も呆れた。
「そんな料理、犬も食わないよ」
「馬鹿野郎! てめえ妹が可愛くねえのか! 俺ならソッコーだぜ」
「お前、俺の気持ちが分かるか?」
「わからねえよ。俺はずっと一人だったからな。あーあ、俺にも妹がいたら良かったな」
滑稽なまでに愚かな拓哉。愛を知らずに育った拓哉。ある意味において、慎吾以上に悲惨だった。
慎吾はそんな彼を不憫に思い、社会への憎しみを更に募らせる。復讐。その冷たい炎を胸に秘め、拓哉とともに「その日」を迎えるのだ。
第三章 愚か者の所業
奈津子が牧場を営む親戚に引き取られた翌年の夏、その田舎町で事件が起きようとしていた。
その日は猛暑となり、コンビニの駐車場は焼けるような暑さだ。
拓哉と慎吾はバイクの横で煙草を吸いながら、店内の様子をうかがっている。狙っているコンビニは、競争相手が少ないからか繁盛している。
彼らはクソみたいな過去を振り返りながら、客が消えるのを待っていた。
拓哉はアスファルトにつばを吐く。
「あの野郎、検査とか言って、俺のケツの穴に指を入れやがった。ありゃ奴の趣味だ。どう見ても股間が大きかったんだ」
慎吾はげらげらと笑う。
「いいじゃねえか。けつの穴くらい貸してやれよ」
「馬鹿野郎! いつかあいつ、ぶっ殺してやる!」
「おい、客がいなくなったぜ。そろそろやるか」
「おう。派手に行こうぜ」
彼らは煙草を投げ捨てた。
「ちょっと待て」と慎吾。
小さな女の子がまだ店内にいた。
「ガキなんて気にすんな」と拓哉。
「だめだ。あの子が行ってからだ」
「じれってえなあ。こういうのはパンパンといかねえと」
その日は猛暑となり、コンビニの駐車場は焼けるような暑さだ。
拓哉と慎吾はバイクの横で煙草を吸いながら、店内の様子をうかがっている。狙っているコンビニは、競争相手が少ないからか繁盛している。
彼らはクソみたいな過去を振り返りながら、客が消えるのを待っていた。
拓哉はアスファルトにつばを吐く。
「あの野郎、検査とか言って、俺のケツの穴に指を入れやがった。ありゃ奴の趣味だ。どう見ても股間が大きかったんだ」
慎吾はげらげらと笑う。
「いいじゃねえか。けつの穴くらい貸してやれよ」
「馬鹿野郎! いつかあいつ、ぶっ殺してやる!」
「おい、客がいなくなったぜ。そろそろやるか」
「おう。派手に行こうぜ」
彼らは煙草を投げ捨てた。
「ちょっと待て」と慎吾。
小さな女の子がまだ店内にいた。
「ガキなんて気にすんな」と拓哉。
「だめだ。あの子が行ってからだ」
「じれってえなあ。こういうのはパンパンといかねえと」
女の子は店を出ると、揺れる陽炎の中へ幻のように消えた。
「行くぞ!」と拓哉。
彼らは目出し帽をかぶって突入すると、若い店員にナイフを突きつけた。
「じっとしてろ」と慎吾。
「長生きはするもんだぜ」と拓哉。
拓哉がナイフで威嚇し、慎吾は電話線を引き千切ってレジの金を奪う。
「慎吾! ポップコーンも頼むぜ!」
「どうでもいい! 行くぞ!」
拓哉は「サツを呼んだら殺すぞ」と若者を脅し、ポップコーンを鷲掴みにして店を飛び出す。
彼らがアクセルを回すと、カラーボールが拓哉のバイクのそばで弾け、そのスニーカーを塗料で汚した。彼はバイクから降りると、リュックからバールを出す。
慎吾は「ほっとけ」と叫ぶが、拓哉は完全に切れている。
「いくらしたと思う? ディオールだぞ!」
「盗んだ金で買ったんだろ」
「うるせえ! あの野郎。頭叩き割って脳みそを踏みつぶしてやる」
「行くぞ!」と拓哉。
彼らは目出し帽をかぶって突入すると、若い店員にナイフを突きつけた。
「じっとしてろ」と慎吾。
「長生きはするもんだぜ」と拓哉。
拓哉がナイフで威嚇し、慎吾は電話線を引き千切ってレジの金を奪う。
「慎吾! ポップコーンも頼むぜ!」
「どうでもいい! 行くぞ!」
拓哉は「サツを呼んだら殺すぞ」と若者を脅し、ポップコーンを鷲掴みにして店を飛び出す。
彼らがアクセルを回すと、カラーボールが拓哉のバイクのそばで弾け、そのスニーカーを塗料で汚した。彼はバイクから降りると、リュックからバールを出す。
慎吾は「ほっとけ」と叫ぶが、拓哉は完全に切れている。
「いくらしたと思う? ディオールだぞ!」
「盗んだ金で買ったんだろ」
「うるせえ! あの野郎。頭叩き割って脳みそを踏みつぶしてやる」
警察は彼らを寸でのところで取り逃がし、県下に緊急非常配備を敷く。山あいにサイレンが鳴り響き、蝉の声が蹴散らされた。
慎吾の心配をよそに、拓哉はマフラーを吹かして御機嫌だ。鼻歌は尾崎の名曲。もちろんバイクは盗んだものだ。
パトカーのサイレンが徐々に近づいてくる。慎吾は「山に入るぞ!」と叫び、左ウィンカーを出す。
彼らは車道から林道に入り、小石を跳ね上げながら走り続けるが、拓哉のバイクの前輪がバーストし、彼は派手に転倒した。
「拓哉、大丈夫か?」
「畜生、貧乏人が。こんなポンコツを置いときやがて」
もうバイクは役に立たない。彼らはリュックを背負って山中を彷徨い歩く。やがて薄暗くなり、疲労と空腹が募る。
「腹が減ったなあ」と拓哉。
ふいに森が途切れ、視界が開ける。彼らの眼前に牧草地帯が広がっていた。
「おい、あれを見ろ」
慎吾が指差す先に、仄かな灯が揺れていた。二人はその光に向かって歩き、大きな木造家屋のそばの草むらに身をひそめる。
二人は家族の声に聞き入る。彼らには手に入らなかった声だ。
「楽しそうだな」と拓哉。
「家族団欒ってやつだろ」と慎吾。
拓哉は唇を噛んで言う。
「いい気なもんだぜ。こっちは腹ペコだってのによ」
慎吾の心配をよそに、拓哉はマフラーを吹かして御機嫌だ。鼻歌は尾崎の名曲。もちろんバイクは盗んだものだ。
パトカーのサイレンが徐々に近づいてくる。慎吾は「山に入るぞ!」と叫び、左ウィンカーを出す。
彼らは車道から林道に入り、小石を跳ね上げながら走り続けるが、拓哉のバイクの前輪がバーストし、彼は派手に転倒した。
「拓哉、大丈夫か?」
「畜生、貧乏人が。こんなポンコツを置いときやがて」
もうバイクは役に立たない。彼らはリュックを背負って山中を彷徨い歩く。やがて薄暗くなり、疲労と空腹が募る。
「腹が減ったなあ」と拓哉。
ふいに森が途切れ、視界が開ける。彼らの眼前に牧草地帯が広がっていた。
「おい、あれを見ろ」
慎吾が指差す先に、仄かな灯が揺れていた。二人はその光に向かって歩き、大きな木造家屋のそばの草むらに身をひそめる。
二人は家族の声に聞き入る。彼らには手に入らなかった声だ。
「楽しそうだな」と拓哉。
「家族団欒ってやつだろ」と慎吾。
拓哉は唇を噛んで言う。
「いい気なもんだぜ。こっちは腹ペコだってのによ」
第四章 惨劇の夜
その晩も、酪農家の食卓はにぎやかだった。
叔母夫婦には子供がおらず、奈津子が我が子に思えた。祖父母も孫娘を温かく見守った。彼らは、水害で家族を失った奈津子を心配し、精一杯の愛情を注いだのだ。
だが奈津子はそれに甘えない。彼女は箸を置くと祖父に言う。
「なんでもやります。他人と思って下さい」
「よし。朝五時から牛舎で働け」
祖父が笑みを浮かべると、叔母が声を上げる。
「なっちゃんは小学生よ! 意地悪ね!」
「お父さんは冗談を言ったんだよ」と叔父がなだめた。
そのときドアが閉まる音が響いた。
「あらいけない。鍵を掛けるの忘れたかしら」
「おばさん。あたし、見てきます」
奈津子が玄関に行き、鍵を掛けようとすると、カサカサと草の擦れる音が聞こえた。
猪でもいるのかしら?
少しだけドアを開けると、メリーの鳴き声が聞こえた。
メリー、どうしたの?
メリーとは母牛と生き別れた雌の子牛のことだ。
肉親を失った少女たちは、出会った瞬間に打ち解けた。奈津子はメリーを妹のように可愛がり、メリーも彼女に心を開いた。
彼女がメリーの元へ行こうとすると叔母の声が響いた。
「なっちゃん! 誰か来たの!」
「誰もいません! ちょっと牛舎を見てきます!」
メリーは奈津子を見ると鳴き止んだ。
「大丈夫。あたしが守ってあげる」
彼女はメリーの頭に頬ずりをし、おでこに口づけをする。
その様子を、二匹の獣が陰から見ていた。
「可愛いじゃねえか。やっちまうか?」
「おい、いい加減にしろ」
「冗談に決まってんだろ」
叔母夫婦には子供がおらず、奈津子が我が子に思えた。祖父母も孫娘を温かく見守った。彼らは、水害で家族を失った奈津子を心配し、精一杯の愛情を注いだのだ。
だが奈津子はそれに甘えない。彼女は箸を置くと祖父に言う。
「なんでもやります。他人と思って下さい」
「よし。朝五時から牛舎で働け」
祖父が笑みを浮かべると、叔母が声を上げる。
「なっちゃんは小学生よ! 意地悪ね!」
「お父さんは冗談を言ったんだよ」と叔父がなだめた。
そのときドアが閉まる音が響いた。
「あらいけない。鍵を掛けるの忘れたかしら」
「おばさん。あたし、見てきます」
奈津子が玄関に行き、鍵を掛けようとすると、カサカサと草の擦れる音が聞こえた。
猪でもいるのかしら?
少しだけドアを開けると、メリーの鳴き声が聞こえた。
メリー、どうしたの?
メリーとは母牛と生き別れた雌の子牛のことだ。
肉親を失った少女たちは、出会った瞬間に打ち解けた。奈津子はメリーを妹のように可愛がり、メリーも彼女に心を開いた。
彼女がメリーの元へ行こうとすると叔母の声が響いた。
「なっちゃん! 誰か来たの!」
「誰もいません! ちょっと牛舎を見てきます!」
メリーは奈津子を見ると鳴き止んだ。
「大丈夫。あたしが守ってあげる」
彼女はメリーの頭に頬ずりをし、おでこに口づけをする。
その様子を、二匹の獣が陰から見ていた。
「可愛いじゃねえか。やっちまうか?」
「おい、いい加減にしろ」
「冗談に決まってんだろ」
奈津子がドアに鍵を掛けて居間に戻ると、七時のニュースがコンビニで起きた事件を報じていた。
祖母は箸をとめて祖父に言う。
「あんたがお酒を買う店よ。こんな田舎なのに物騒だねえ」
ニュースは若い店員の死を伝え、防犯カメラの映像を流す。
すると牛の鳴き声が響く。
「見てくるから食べていてよ」と叔父。
「おじさん。あたしも行きます」
「ひとりで十分だから」
彼が食卓を離れると、叔母はまた祖父に文句を言う。
「小学生に朝の作業ができるわけないでしょ」
「わかってるよ。しつこい奴だなあ」
「あんたに似たのさ」と祖母が皮肉を言うと、牛たちの騒ぐ声が響いた。
「なにかしら? 見てくるわ」と叔母。
「おばさん。あたしも手伝います」
「なっちゃんはいいの。ご飯を食べていてね」
そう言い残し、叔母も食卓を離れた。
祖母は箸をとめて祖父に言う。
「あんたがお酒を買う店よ。こんな田舎なのに物騒だねえ」
ニュースは若い店員の死を伝え、防犯カメラの映像を流す。
すると牛の鳴き声が響く。
「見てくるから食べていてよ」と叔父。
「おじさん。あたしも行きます」
「ひとりで十分だから」
彼が食卓を離れると、叔母はまた祖父に文句を言う。
「小学生に朝の作業ができるわけないでしょ」
「わかってるよ。しつこい奴だなあ」
「あんたに似たのさ」と祖母が皮肉を言うと、牛たちの騒ぐ声が響いた。
「なにかしら? 見てくるわ」と叔母。
「おばさん。あたしも手伝います」
「なっちゃんはいいの。ご飯を食べていてね」
そう言い残し、叔母も食卓を離れた。
歌番組の最初の演歌が終わると、祖父は味噌汁を飲み干し、お椀を食卓にことんと置いた。
「奈津子。酪農が好きか?」
「はい。動物が好きなんです」
「メリーか?」
「ほかの牛たちも大好きです」
「酪農はきついから、まだ無理だな」
「どんな試練も乗り越えてみせます」
十二歳とは思えぬ受け答えに、祖父はほとほと感心した。
そのとき木のきしむ音が響き、居間のドアがわずかに開く。
「お疲れ様。牛舎でなにがあったんだ?」
ドアの向こうから返事はない。
「なにしてる? 早く入ってこいよ」
ドアの向こうは暗く、何も見えないが、奈津子は不穏な気配を感じ取っていた。二匹の獣が手を振りながら笑っていたのだ。
不気味な声が聞こえた。
「なっちゃん。試練が始まるよ。なっちゃん」
「誰なんだ!」と祖父が怒鳴ると、木のドアが全開し、クズどもが姿を見せた。
「なんの用だ!」と祖父が怒鳴る。
「飯食わせろよ」「ビールあるか」
彼らは土足で侵入し、冷蔵庫のドアを開けて物色した。
「娘たちに何をした?」と祖父。
拓哉はがつがつと料理をむさぼり、うめき声を上げる。「畜生、いいもん食ってやがるぜ」
慎吾は鎮静系の錠剤をつまみに、静かにビールを飲む。
しばらくすると画面が急に切り替わり、警察が犯人を特定したとのニュース速報が流れた。
慎吾は錠剤を噛み砕き、拓哉は料理を口に入れたまま固まった。
キャスターは、容疑者は未成年だから氏名は公表できないとし、コメントを述べた。
「少年の人権は十分尊重されるべきです。しかし、何をしても赦されていいわけではありません」
正論である。だが憎しみに支配された者に効力はない。
「俺たち死刑かな?」と拓哉。
「だろうな」と興味なさげな慎吾。
「でも、俺たち未成年だぜ」
「三人じゃ無理だろ」
サイレンが遠くで鳴り響き、祖父が罵倒を始める。
「人殺しめ。少年だから赦されると思うなよ」
「赦してくれなんて言ってないよ」と慎吾。
「クズどもめ!」
クズ。彼らが親から散々浴びせられた言葉だ。
そのとき牛舎からメリーの鳴き声が響いた。
「メリーが怯えてる……」と奈津子。
「君はメリーが好きなんだね?」と慎吾。
「メリーはあたしの妹なの」
「どうして?」
「佳代子が死んだから、今はメリーが妹なの」
「佳代子って?」
「あたしの妹」
「なぜ死んだの?」
「大雨が降って、水に呑まれたの」
「そうだったんだ」
「でも本当は、佳代子を殺したのは、あたし」
慎吾は息を飲んだ。
「あの子は水の中で、あたしの助けを待っていた。でも、あたしは……」
慎吾はそれ以上言うなとばかりに奈津子から目をそらした。しかし、やがて重い口を開く。
「お兄さんにも妹がいた。美咲っていうんだ。彼女も死んじゃったんだ」
「どうして死んじゃったの?」
「ひどいイジメに遭ったんだ。誰も助けてくれなかった」
「先生は?」
「先生も警察も、見て見ぬふりさ」
慎吾はため息をつき、奈津子に聞く。
「ところで、君はメリーの運命を聞いているの?」
「運命?」
「やはり聞いてないのか」
「ステーキになるんだ」と拓哉。
「おい拓哉」
「なんだよ。本当のことだろ」
「納屋に斧があっただろ。持ってきてくれよ」
「なにするんだ?」
慎吾は祖父母を横目で見る。
「こりゃまいったな」と拓哉は言い、納屋に道具を取りに行った。
「なっちゃん。お兄さんが、メリーを守ってあげるからね」
「奈津子。酪農が好きか?」
「はい。動物が好きなんです」
「メリーか?」
「ほかの牛たちも大好きです」
「酪農はきついから、まだ無理だな」
「どんな試練も乗り越えてみせます」
十二歳とは思えぬ受け答えに、祖父はほとほと感心した。
そのとき木のきしむ音が響き、居間のドアがわずかに開く。
「お疲れ様。牛舎でなにがあったんだ?」
ドアの向こうから返事はない。
「なにしてる? 早く入ってこいよ」
ドアの向こうは暗く、何も見えないが、奈津子は不穏な気配を感じ取っていた。二匹の獣が手を振りながら笑っていたのだ。
不気味な声が聞こえた。
「なっちゃん。試練が始まるよ。なっちゃん」
「誰なんだ!」と祖父が怒鳴ると、木のドアが全開し、クズどもが姿を見せた。
「なんの用だ!」と祖父が怒鳴る。
「飯食わせろよ」「ビールあるか」
彼らは土足で侵入し、冷蔵庫のドアを開けて物色した。
「娘たちに何をした?」と祖父。
拓哉はがつがつと料理をむさぼり、うめき声を上げる。「畜生、いいもん食ってやがるぜ」
慎吾は鎮静系の錠剤をつまみに、静かにビールを飲む。
しばらくすると画面が急に切り替わり、警察が犯人を特定したとのニュース速報が流れた。
慎吾は錠剤を噛み砕き、拓哉は料理を口に入れたまま固まった。
キャスターは、容疑者は未成年だから氏名は公表できないとし、コメントを述べた。
「少年の人権は十分尊重されるべきです。しかし、何をしても赦されていいわけではありません」
正論である。だが憎しみに支配された者に効力はない。
「俺たち死刑かな?」と拓哉。
「だろうな」と興味なさげな慎吾。
「でも、俺たち未成年だぜ」
「三人じゃ無理だろ」
サイレンが遠くで鳴り響き、祖父が罵倒を始める。
「人殺しめ。少年だから赦されると思うなよ」
「赦してくれなんて言ってないよ」と慎吾。
「クズどもめ!」
クズ。彼らが親から散々浴びせられた言葉だ。
そのとき牛舎からメリーの鳴き声が響いた。
「メリーが怯えてる……」と奈津子。
「君はメリーが好きなんだね?」と慎吾。
「メリーはあたしの妹なの」
「どうして?」
「佳代子が死んだから、今はメリーが妹なの」
「佳代子って?」
「あたしの妹」
「なぜ死んだの?」
「大雨が降って、水に呑まれたの」
「そうだったんだ」
「でも本当は、佳代子を殺したのは、あたし」
慎吾は息を飲んだ。
「あの子は水の中で、あたしの助けを待っていた。でも、あたしは……」
慎吾はそれ以上言うなとばかりに奈津子から目をそらした。しかし、やがて重い口を開く。
「お兄さんにも妹がいた。美咲っていうんだ。彼女も死んじゃったんだ」
「どうして死んじゃったの?」
「ひどいイジメに遭ったんだ。誰も助けてくれなかった」
「先生は?」
「先生も警察も、見て見ぬふりさ」
慎吾はため息をつき、奈津子に聞く。
「ところで、君はメリーの運命を聞いているの?」
「運命?」
「やはり聞いてないのか」
「ステーキになるんだ」と拓哉。
「おい拓哉」
「なんだよ。本当のことだろ」
「納屋に斧があっただろ。持ってきてくれよ」
「なにするんだ?」
慎吾は祖父母を横目で見る。
「こりゃまいったな」と拓哉は言い、納屋に道具を取りに行った。
「なっちゃん。お兄さんが、メリーを守ってあげるからね」
拓哉が斧を持ってくると、慎吾はメリーの運命を回避すべく、それを何度も振り下ろす。
奈津子は耳をふさいで目を閉じるが、断末魔の悲鳴が聞こえ、鈍い振動が伝わってくる。
慎吾はことを終えると、台所から濡れタオルを持ってきて、奈津子の正面に座った。
「もう目を開けてもいいよ」
奈津子が目を開けると、慎吾がその瞳を真っ直ぐに見つめる。
「お兄さんの顔だけを見て」
慎吾は奈津子の顔に散った血飛沫を、濡れタオルで丁寧にふき取る。
「君の試練が始まった。乗り越えるには、憎しみを捨てるしかない。お兄さんにはできなかった。君はできる?」
「うん」
「そうか。良かった」
慎吾は奈津子を抱きしめて震える。奈津子を守りたかった。だが冷酷な現実を否応なく理解する。
美咲を守れなかった俺が、この子を守る? ふざけるな、糞野郎……
奈津子は耳をふさいで目を閉じるが、断末魔の悲鳴が聞こえ、鈍い振動が伝わってくる。
慎吾はことを終えると、台所から濡れタオルを持ってきて、奈津子の正面に座った。
「もう目を開けてもいいよ」
奈津子が目を開けると、慎吾がその瞳を真っ直ぐに見つめる。
「お兄さんの顔だけを見て」
慎吾は奈津子の顔に散った血飛沫を、濡れタオルで丁寧にふき取る。
「君の試練が始まった。乗り越えるには、憎しみを捨てるしかない。お兄さんにはできなかった。君はできる?」
「うん」
「そうか。良かった」
慎吾は奈津子を抱きしめて震える。奈津子を守りたかった。だが冷酷な現実を否応なく理解する。
美咲を守れなかった俺が、この子を守る? ふざけるな、糞野郎……
第五章 ただひとつの道
事件から二十四年。奈津子は三十六歳の主婦になっていた。
夫と一人娘の三人家族。一見幸せな家庭に見える。だが彼女の心は癒えておらず、慎吾の声が今も脳裏に響いていた。
『君の試練が始まった。乗り越えるには憎しみを捨てるしかない。お兄さんはできなかった。』
いつも彼女はその続きをつぶやくのだ。
「きみはできる?」、そして苦しみながら「うん」とうなずく。
慎吾の運命が、憎しみは破滅しか生まないと教えてくれた。彼女は家族のことだけを考え、過去を振り返らないようにしたが、ちょっとした事件のニュースを聞いただけで悲惨な光景が蘇った。
何年もの間、家族に内緒で精神科にも通った。心的外傷後ストレス障害と診断され、処罰は一時的な満足を与えるに過ぎないと言われた。心理療法を続けてみたが、心が癒えることはなく、彼女は治療を諦めた。
ついに彼女は神の力にすがる。聖書を手に取り、その言葉に救いを求める。
新約聖書『マタイによる福音書』第18章。ペトロはイエスに聞く。
「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」
イエスは言う。
「七の七十倍までも赦しなさい」
それが無限回を意味することは言うまでもない。
奈津子は赦すことで憎しみを断とうとするが、それはあまりに辛く、不可能とさえ思えた。
夫と一人娘の三人家族。一見幸せな家庭に見える。だが彼女の心は癒えておらず、慎吾の声が今も脳裏に響いていた。
『君の試練が始まった。乗り越えるには憎しみを捨てるしかない。お兄さんはできなかった。』
いつも彼女はその続きをつぶやくのだ。
「きみはできる?」、そして苦しみながら「うん」とうなずく。
慎吾の運命が、憎しみは破滅しか生まないと教えてくれた。彼女は家族のことだけを考え、過去を振り返らないようにしたが、ちょっとした事件のニュースを聞いただけで悲惨な光景が蘇った。
何年もの間、家族に内緒で精神科にも通った。心的外傷後ストレス障害と診断され、処罰は一時的な満足を与えるに過ぎないと言われた。心理療法を続けてみたが、心が癒えることはなく、彼女は治療を諦めた。
ついに彼女は神の力にすがる。聖書を手に取り、その言葉に救いを求める。
新約聖書『マタイによる福音書』第18章。ペトロはイエスに聞く。
「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」
イエスは言う。
「七の七十倍までも赦しなさい」
それが無限回を意味することは言うまでもない。
奈津子は赦すことで憎しみを断とうとするが、それはあまりに辛く、不可能とさえ思えた。
奈津子は悩み抜いた末、郊外の丘に建つ古い教会を訪ねることにした。
石造りの礼拝堂はひっそりと静まり返り、ステンドグラスから差す光が、床に七色の模様を描いていた。
神父は彼女のために時間を割いてくれた。礼拝堂には他に誰もいない。
彼女が神父の前に立ち、深々と頭を下げると、若い神父は慈愛に満ちた声で告げる。
「悲しむ人は幸いです。その人は慰められるでしょう」
奈津子の頬を涙が伝う。
「神父様、私を助けてください」
彼女がひざまずこうとすると、神父はそれを止める。
「椅子に掛けて話してください」
彼女は震えながら懺悔を始める。
「私は子供のころ、家族を水害で失いました。あのとき、小さな人影が水面の下のほうに見えたのです。なのに私は飛び込まなかった。妹は助けを求めていたに違いないのに」
涙がこぼれ、言葉が続かない。
「無理に話さなくても良いのです」
「大丈夫です。聞いてもらいたいのは、災害のことではありません。心に巣食う、憎しみについて話したいのです」
彼女は涙を流しながら、牧場での惨劇のすべてを話し、その光景が頭から離れず、一日たりとも憎しみから解放されないと告白をする。
「憎しみに取り憑かれ、気が狂いそうです。このままでは、誰かを傷つけてしまう……」
そして彼女は核心へ迫る。
「教えて下さい。赦すことで、憎しみを断つことができますか? それをできるのは、復讐ではないですか? 犯人が死刑になれば、憎しみも消えるのではないですか?」
長い沈黙が訪れ、礼拝堂は静寂に包まれた。
やがて神父は穏やかに話し始める。
「自分はアーミッシュと暮らしたことがあるのです」
※アーミッシュ(Amish)とは、古きプロテスタント農民の生活様式を守る共同体。現代文明から距離を置くキリスト教の一派。
石造りの礼拝堂はひっそりと静まり返り、ステンドグラスから差す光が、床に七色の模様を描いていた。
神父は彼女のために時間を割いてくれた。礼拝堂には他に誰もいない。
彼女が神父の前に立ち、深々と頭を下げると、若い神父は慈愛に満ちた声で告げる。
「悲しむ人は幸いです。その人は慰められるでしょう」
奈津子の頬を涙が伝う。
「神父様、私を助けてください」
彼女がひざまずこうとすると、神父はそれを止める。
「椅子に掛けて話してください」
彼女は震えながら懺悔を始める。
「私は子供のころ、家族を水害で失いました。あのとき、小さな人影が水面の下のほうに見えたのです。なのに私は飛び込まなかった。妹は助けを求めていたに違いないのに」
涙がこぼれ、言葉が続かない。
「無理に話さなくても良いのです」
「大丈夫です。聞いてもらいたいのは、災害のことではありません。心に巣食う、憎しみについて話したいのです」
彼女は涙を流しながら、牧場での惨劇のすべてを話し、その光景が頭から離れず、一日たりとも憎しみから解放されないと告白をする。
「憎しみに取り憑かれ、気が狂いそうです。このままでは、誰かを傷つけてしまう……」
そして彼女は核心へ迫る。
「教えて下さい。赦すことで、憎しみを断つことができますか? それをできるのは、復讐ではないですか? 犯人が死刑になれば、憎しみも消えるのではないですか?」
長い沈黙が訪れ、礼拝堂は静寂に包まれた。
やがて神父は穏やかに話し始める。
「自分はアーミッシュと暮らしたことがあるのです」
※アーミッシュ(Amish)とは、古きプロテスタント農民の生活様式を守る共同体。現代文明から距離を置くキリスト教の一派。
神父はアーミッシュの村で遭遇した、ある事件について話し始めた。
「四年前、私はペンシルベニア州の教会に留学し、アーミッシュの村に滞在しました。彼らと一緒に聖書を読んでいると、遠くから銃声が聞こえました。武装した男が小学校に押し入ったのです。罪なき少女たちがショットガンで撃たれ、五人の命が奪われました。誰もが憎しみに呑まれても仕方ないほどの惨劇です。でもその夜、犠牲となった少女の祖父は、涙を流す孫たちに言いました。『犯人を悪く思うな。彼を赦すのだ』と。村の人々は、犯人の妻の家を訪ねました。泣き崩れる彼女に向かって、『私たちは彼を赦し、あなたと子供たちのために祈ります』と言いました」
奈津子は神父に問うた。
「犯人を赦したのですか? 五人もの子供が殺されたのに」
「そうです。憎しみを持ち続ければ、心はさらに深く傷つきます。だから彼らは、ただひとつの道である赦しを選びました」
「ただひとつの道?」
「復讐は間違った選択です。それをすれば、心はより深く憎しみに染まります」
「神父様、私はその人たちのように強くありません」
「赦しとは、主が人間に課した最大の試練であり、唯一の選択なのです」
彼女は声を震わせて問う。
「なら犯人を赦せば、憎しみは断たれるのですね?」
「赦す者こそ真の王者です。安心しなさい。サタンは退くでしょう」
神父と慎吾の言葉が重なり合い、奈津子の心に一条の光が差す。
憎しみを捨てよう。それが、ただひとつの道なのだから。
奈津子はその答えを信じ、大胆な決断を下す。
「四年前、私はペンシルベニア州の教会に留学し、アーミッシュの村に滞在しました。彼らと一緒に聖書を読んでいると、遠くから銃声が聞こえました。武装した男が小学校に押し入ったのです。罪なき少女たちがショットガンで撃たれ、五人の命が奪われました。誰もが憎しみに呑まれても仕方ないほどの惨劇です。でもその夜、犠牲となった少女の祖父は、涙を流す孫たちに言いました。『犯人を悪く思うな。彼を赦すのだ』と。村の人々は、犯人の妻の家を訪ねました。泣き崩れる彼女に向かって、『私たちは彼を赦し、あなたと子供たちのために祈ります』と言いました」
奈津子は神父に問うた。
「犯人を赦したのですか? 五人もの子供が殺されたのに」
「そうです。憎しみを持ち続ければ、心はさらに深く傷つきます。だから彼らは、ただひとつの道である赦しを選びました」
「ただひとつの道?」
「復讐は間違った選択です。それをすれば、心はより深く憎しみに染まります」
「神父様、私はその人たちのように強くありません」
「赦しとは、主が人間に課した最大の試練であり、唯一の選択なのです」
彼女は声を震わせて問う。
「なら犯人を赦せば、憎しみは断たれるのですね?」
「赦す者こそ真の王者です。安心しなさい。サタンは退くでしょう」
神父と慎吾の言葉が重なり合い、奈津子の心に一条の光が差す。
憎しみを捨てよう。それが、ただひとつの道なのだから。
奈津子はその答えを信じ、大胆な決断を下す。
第六章 憎しみと悲しみ
奈津子は死刑に反対する。犯罪を助長するとの声が多く上がったが、彼女の意志は固かった。
被害者遺族Xの意志が死刑反対運動に勢いを与え、当局が刑の執行をためらうと、死刑囚の一人である拓哉は手を叩いて喜んだ。
彼は面会に訪れる支援者に、いつも愚痴をこぼしていた。
「俺がやったのはコンビニの兄ちゃんだけだ。牧場の奴らを皆殺しにしたの慎吾だぜ。二人以上が死刑の相場だろ。なのに俺まで死刑なんて、おかしいじゃねえか」
被害者遺族Xの意志が死刑反対運動に勢いを与え、当局が刑の執行をためらうと、死刑囚の一人である拓哉は手を叩いて喜んだ。
彼は面会に訪れる支援者に、いつも愚痴をこぼしていた。
「俺がやったのはコンビニの兄ちゃんだけだ。牧場の奴らを皆殺しにしたの慎吾だぜ。二人以上が死刑の相場だろ。なのに俺まで死刑なんて、おかしいじゃねえか」
慎吾は相棒とは真逆な意志を表明する。彼は死刑反対運動に反対するのだ。
慎吾は面会を拒んだから、奈津子は何度も刑務所に書簡を送り、愚かなことはやめて欲しいと訴えた。
「私は憎しみを捨て、あなたを赦します。お願いします。生きてください」
だが返信には頑なな意志が綴られていた。
「なっちゃん。死刑に反対しないで欲しい。俺は死にたい。でも自殺はしない。俺は偽善者どもに殺しをさせるつもりだ。そうなれば、奴らも俺と同じ、殺し屋だからな」
悲しくも愚かな復讐である。だが奈津子は諦めない。
慎吾は面会を拒んだから、奈津子は何度も刑務所に書簡を送り、愚かなことはやめて欲しいと訴えた。
「私は憎しみを捨て、あなたを赦します。お願いします。生きてください」
だが返信には頑なな意志が綴られていた。
「なっちゃん。死刑に反対しないで欲しい。俺は死にたい。でも自殺はしない。俺は偽善者どもに殺しをさせるつもりだ。そうなれば、奴らも俺と同じ、殺し屋だからな」
悲しくも愚かな復讐である。だが奈津子は諦めない。
慎吾の説得は密かに行われた。奈津子は家族の目に触れないよう、局留めで書簡のやりとりを続けていた。
慎吾が生まれ育った境遇を知るたび、奈津子の憎しみは悲しみに変わっていった。
慎吾の手紙には、妹を思う兄の優しさが滲み出ていた。
「美咲は猫を飼いたいと言った。でも市営住宅じゃだめなんだ。俺は毎日河原に通い、そこにいる猫の親子に餌をあげて仲良くなった。美咲を河原に連れて行き、猫たちに会わせると大喜びだ。でもある日、処分場の回収車が堤防沿いに停車していた。車の荷台から猫たちの鳴き声が聞こえる。美咲はいやだ、いやだと泣き叫んだ。俺は『大丈夫。きっと誰かが飼ってくれるから』と言ったんだ」
彼の優しさは、佳代子を思う奈津子の気持ちと重なり、憎しみは涙となって流れだした。
私はあの人を死なせない。必ず救ってみせる。
慎吾が生まれ育った境遇を知るたび、奈津子の憎しみは悲しみに変わっていった。
慎吾の手紙には、妹を思う兄の優しさが滲み出ていた。
「美咲は猫を飼いたいと言った。でも市営住宅じゃだめなんだ。俺は毎日河原に通い、そこにいる猫の親子に餌をあげて仲良くなった。美咲を河原に連れて行き、猫たちに会わせると大喜びだ。でもある日、処分場の回収車が堤防沿いに停車していた。車の荷台から猫たちの鳴き声が聞こえる。美咲はいやだ、いやだと泣き叫んだ。俺は『大丈夫。きっと誰かが飼ってくれるから』と言ったんだ」
彼の優しさは、佳代子を思う奈津子の気持ちと重なり、憎しみは涙となって流れだした。
私はあの人を死なせない。必ず救ってみせる。
実は、奈津子の他にもうひとり、慎吾の手紙を読んでいる者がいた。ひっそりと目を通し、慎吾の過去に、己の現在を重ね合わせる者が。
復讐の否定は卑怯者の言い逃れ。愛する者に対する裏切り。その者には、そうとしか思えなかった。
復讐の否定は卑怯者の言い逃れ。愛する者に対する裏切り。その者には、そうとしか思えなかった。
第七章 綾香と麻弥
奈津子には一人娘がいた。名を綾香という。
彼女は中一の春に美術部に入ると、たちまち周囲を圧倒した。
市展、県展で学校が推薦する作品は常に彼女の絵になり、他の部員の作品は霞んでしまった。
綾香は媚びることが嫌いで、周囲に合わせようなんて気は全くなかったから、部活はおろか、クラスでも常に浮いた存在だった。
中二の春、一人の女子が綾香の前に現れる。それは運命的な出会いだった。
麻弥(まや)はおどおどしながら教壇に立ち、クラスメイトに挨拶をする。
「みなさん、よろしく、お願いします」
淡い花びらのように存在が薄く、綾香でさえも、その才能に気づかなかった。
麻弥は美術部に入り、綾香を驚かせる。綾香は自分を超える才能に初めて出会ったのだ。
綾香の絵は異様なほど写実的で、妥協を許さぬ性格がにじみ出ていた。
片や麻弥の絵は、牧歌的な光に包まれており、穏やかな性格をうかがわせた。
素人の評価は圧倒的なものに傾きがちだ。だが才能は才能を理解する。
綾香は晩飯時に奈津子に言う。
「お母さん。凄い子が転校してきたの。あたし、その子と友達になるつもりよ」
「良かったわね。なら、遊びに来てもらったら」
綾香はキャンバスに向かう麻弥に声をかける。
「上手だね。あたしなんて足元にも及ばない」
「そんなことないです。綾香さんの絵、とても素敵です」
「さん付けなんてやめて。綾香って呼んで」
「あやか……」
「麻弥。次の土曜、あたしの部屋で一緒に絵を描こうよ」
こうして綾香の部屋は、ふたりのアトリエとなった。
彼女は中一の春に美術部に入ると、たちまち周囲を圧倒した。
市展、県展で学校が推薦する作品は常に彼女の絵になり、他の部員の作品は霞んでしまった。
綾香は媚びることが嫌いで、周囲に合わせようなんて気は全くなかったから、部活はおろか、クラスでも常に浮いた存在だった。
中二の春、一人の女子が綾香の前に現れる。それは運命的な出会いだった。
麻弥(まや)はおどおどしながら教壇に立ち、クラスメイトに挨拶をする。
「みなさん、よろしく、お願いします」
淡い花びらのように存在が薄く、綾香でさえも、その才能に気づかなかった。
麻弥は美術部に入り、綾香を驚かせる。綾香は自分を超える才能に初めて出会ったのだ。
綾香の絵は異様なほど写実的で、妥協を許さぬ性格がにじみ出ていた。
片や麻弥の絵は、牧歌的な光に包まれており、穏やかな性格をうかがわせた。
素人の評価は圧倒的なものに傾きがちだ。だが才能は才能を理解する。
綾香は晩飯時に奈津子に言う。
「お母さん。凄い子が転校してきたの。あたし、その子と友達になるつもりよ」
「良かったわね。なら、遊びに来てもらったら」
綾香はキャンバスに向かう麻弥に声をかける。
「上手だね。あたしなんて足元にも及ばない」
「そんなことないです。綾香さんの絵、とても素敵です」
「さん付けなんてやめて。綾香って呼んで」
「あやか……」
「麻弥。次の土曜、あたしの部屋で一緒に絵を描こうよ」
こうして綾香の部屋は、ふたりのアトリエとなった。
彼女たちは絵ばかり描いていたわけではない。好きな小説や将来の夢を語り合った。そして恋についても。
「麻弥は好きな子がいるの?」
麻弥は何も答えない。
「ねえ。教えてよ」
「いないと思う。綾香は?」
「えっ、あたし? あたしも、いないと思う」
綾香は慌てて取り繕うが、それは無駄であった。
麻弥は「本当に?」と言い、綾香の目を見つめる。
綾香は観念した。麻弥の知性を欺けても、感性を欺くことはできない。
「麻弥。あたしの好きな人はね」
すると麻弥が言葉を遮った。
「綾香。ごめん。あたし、嘘を言った。本当は好きな人がいるの」
「だれ?」
「麻弥は好きな子がいるの?」
麻弥は何も答えない。
「ねえ。教えてよ」
「いないと思う。綾香は?」
「えっ、あたし? あたしも、いないと思う」
綾香は慌てて取り繕うが、それは無駄であった。
麻弥は「本当に?」と言い、綾香の目を見つめる。
綾香は観念した。麻弥の知性を欺けても、感性を欺くことはできない。
「麻弥。あたしの好きな人はね」
すると麻弥が言葉を遮った。
「綾香。ごめん。あたし、嘘を言った。本当は好きな人がいるの」
「だれ?」
夏休みに入ると、ふたりは涼しい部屋で大胆な手法を採用する。
「麻弥。あたしを描いてくれる?」
「うん」
「服を脱いでいい?」
麻弥は綾香の裸体を繊細なタッチで描いた。麻弥の眼差しは肉体の奥底にある実体を捉える。
麻弥は描き終わると言った。
「綾香、あたしも描いて欲しいの」
「そう来ると思った」
「綺麗に描かないでね。嘘はいやよ」
「あたしが、そんな間抜けだと思う?」
ふたりは十四歳にして官能を知る。それは人間の手垢とは無縁な、清純な喜びだった。
「麻弥。あたしを描いてくれる?」
「うん」
「服を脱いでいい?」
麻弥は綾香の裸体を繊細なタッチで描いた。麻弥の眼差しは肉体の奥底にある実体を捉える。
麻弥は描き終わると言った。
「綾香、あたしも描いて欲しいの」
「そう来ると思った」
「綺麗に描かないでね。嘘はいやよ」
「あたしが、そんな間抜けだと思う?」
ふたりは十四歳にして官能を知る。それは人間の手垢とは無縁な、清純な喜びだった。
第八章 踏みにじられた官能
夏休み明けのある日、麻弥のカバンからA4のスケッチブックが消えた。
そこには綾香の裸体が描かれていた。そのデッサンは麻弥が想像に任せて描いたものだ。肉体はおろか、心まで描いたような小品で、麻弥は言葉にならない思いを、その絵に託したのだ。
麻弥はカバンの中にノートの切れ端を見つける。
『返して欲しいなら、明日の放課後、一人で体育館の倉庫においで。来なければ絵をコピーしてばらまくからね』
麻弥は綾香に相談をしなかった。いや、できなかった。
あたしは、なんて馬鹿なんだろう。綾香の裸をカバンに入れて、教室に置いておくなんて……
麻弥は自力で解決しようとするが、クズどもが彼女を待ち受けていた。
「よく来たわね」
女は仮面を付けているが、同じクラスの女子だと声でわかる。彼女も美術部で、綾香を心底憎んでいた。綾香を傷つけるために、麻弥を狙ったのだ。
「お願い。スケッチブックを返して」
「これがそんなに大切なの?」
女は麻弥の足元にそれを投げ捨てる。
麻弥が拾って倉庫から出ようとすると、五匹の獣が行く手をふさいだ。全員仮面を付けているが、クラスの男子だと声で分かる。
彼らは麻弥の腕をつかみ、服を引き裂くと、四つん這いにさせて手足を押さえる。泣き叫ぶ麻弥の姿を、鬼畜女子がスケッチブックに描く。
「もっと口をあけろ」
「おい、顎が外れないか?」
彼らはげらげらと笑う。
「歯を立てるな!」
鈍い音が倉庫に響き、床に赤い斑点ができた。
「あーあ、こいつ鼻いったな」
「早く血をふけ」
「このまま返したらバレるぞ」
「兄貴に車を回してもらうから、マットの袋をはがせ」
「なんで?」
「このまま乗せたら、シートが汚れるだろ!」
そこには綾香の裸体が描かれていた。そのデッサンは麻弥が想像に任せて描いたものだ。肉体はおろか、心まで描いたような小品で、麻弥は言葉にならない思いを、その絵に託したのだ。
麻弥はカバンの中にノートの切れ端を見つける。
『返して欲しいなら、明日の放課後、一人で体育館の倉庫においで。来なければ絵をコピーしてばらまくからね』
麻弥は綾香に相談をしなかった。いや、できなかった。
あたしは、なんて馬鹿なんだろう。綾香の裸をカバンに入れて、教室に置いておくなんて……
麻弥は自力で解決しようとするが、クズどもが彼女を待ち受けていた。
「よく来たわね」
女は仮面を付けているが、同じクラスの女子だと声でわかる。彼女も美術部で、綾香を心底憎んでいた。綾香を傷つけるために、麻弥を狙ったのだ。
「お願い。スケッチブックを返して」
「これがそんなに大切なの?」
女は麻弥の足元にそれを投げ捨てる。
麻弥が拾って倉庫から出ようとすると、五匹の獣が行く手をふさいだ。全員仮面を付けているが、クラスの男子だと声で分かる。
彼らは麻弥の腕をつかみ、服を引き裂くと、四つん這いにさせて手足を押さえる。泣き叫ぶ麻弥の姿を、鬼畜女子がスケッチブックに描く。
「もっと口をあけろ」
「おい、顎が外れないか?」
彼らはげらげらと笑う。
「歯を立てるな!」
鈍い音が倉庫に響き、床に赤い斑点ができた。
「あーあ、こいつ鼻いったな」
「早く血をふけ」
「このまま返したらバレるぞ」
「兄貴に車を回してもらうから、マットの袋をはがせ」
「なんで?」
「このまま乗せたら、シートが汚れるだろ!」
翌日の早朝、麻弥の携帯からメールが届く。
『綾香、郵便受けを見てね』
綾香は郵便受けから麻弥のスケッチブックを取り出すと、何度も麻弥の携帯を鳴らす。しかし、いくら呼んでも彼女は出ない。
麻弥、なにがあったの?
『綾香、郵便受けを見てね』
綾香は郵便受けから麻弥のスケッチブックを取り出すと、何度も麻弥の携帯を鳴らす。しかし、いくら呼んでも彼女は出ない。
麻弥、なにがあったの?
警察は容疑者を割り出したが、少年たちが麻弥を河に突き落とした証拠は見つからず、彼女の死は自殺として処理された。
少年たちは、麻弥は自分から車に乗ってきたと口を揃えて言った。ドライブの途中で彼女を降ろし、家まで送ると言ったら、彼女は暗い表情で、一人になりたいと言ったと供述した。
麻弥には精神科への通院履歴があった。軽い鬱症状があったのだ。
また、犯行を疑われた少年の中に、地元を牛耳る県会議員の孫がいたことも、捜査に影響を及ぼしたに違いない。
まともな検死すらされず、鼻骨の損傷は河へ落下した際にできたとされた。
だが綾香には犯人がわかっていた。クズどもは彼女を横目で見ては、明からさまに笑っていたからだ。
やがて彼女は、クラスの誰もがニヤニヤと笑っていることに気づく。麻弥が描いた綾香の裸体がコピーされ、拡散されていたのだ。
だが彼女は学校に訴えなかった。教師は隠蔽しか頭にないし、そんなことをすればクズどもは警戒する。
彼女は両親にも相談をしない。
父に相談すれば担任に相談しろと言うだけだし、母は人を憎んではいけないと、口癖のように言っていた。
綾香はクズどもを油断させるために平静を装う。毎日クラスの風景をB5のノートに描き、彼らを静かに観察していた。
綾香は自分の部屋で、麻弥が描いた自分の裸体を一日中眺めていることもあった。
肌寒い秋の夕暮れ時。綾香は麻弥のスケッチブックを閉じると、クラスの日常を描いたB5のノートと一緒に、机の引き出しの奥にしまった。
麻弥、あたしの最高傑作を見せてあげる。
その言葉は約束であると同時に、麻弥を手に掛けた者たちへの宣告でもあった。
少年たちは、麻弥は自分から車に乗ってきたと口を揃えて言った。ドライブの途中で彼女を降ろし、家まで送ると言ったら、彼女は暗い表情で、一人になりたいと言ったと供述した。
麻弥には精神科への通院履歴があった。軽い鬱症状があったのだ。
また、犯行を疑われた少年の中に、地元を牛耳る県会議員の孫がいたことも、捜査に影響を及ぼしたに違いない。
まともな検死すらされず、鼻骨の損傷は河へ落下した際にできたとされた。
だが綾香には犯人がわかっていた。クズどもは彼女を横目で見ては、明からさまに笑っていたからだ。
やがて彼女は、クラスの誰もがニヤニヤと笑っていることに気づく。麻弥が描いた綾香の裸体がコピーされ、拡散されていたのだ。
だが彼女は学校に訴えなかった。教師は隠蔽しか頭にないし、そんなことをすればクズどもは警戒する。
彼女は両親にも相談をしない。
父に相談すれば担任に相談しろと言うだけだし、母は人を憎んではいけないと、口癖のように言っていた。
綾香はクズどもを油断させるために平静を装う。毎日クラスの風景をB5のノートに描き、彼らを静かに観察していた。
綾香は自分の部屋で、麻弥が描いた自分の裸体を一日中眺めていることもあった。
肌寒い秋の夕暮れ時。綾香は麻弥のスケッチブックを閉じると、クラスの日常を描いたB5のノートと一緒に、机の引き出しの奥にしまった。
麻弥、あたしの最高傑作を見せてあげる。
その言葉は約束であると同時に、麻弥を手に掛けた者たちへの宣告でもあった。
第九章 憎しみの継承
麻弥の死からほどなくして慎吾の元に薄い封書が届く。封を開けると、一枚の便箋に、奈津子の筆跡で書かれていた。
『一度だけ面会してください。あなたがそれでも死を望むなら、私は諦めます』
「彼女」が指定された時刻に面会室に入って待っていると、やがて慎吾が現れた。ふたりはアクリル板越しに見つめ合う。
なぜか彼女はサングラスを掛けたまま黙っているから、仕方なく慎吾から話しかけた。
「家族がいるんだろ。こんなことは、しないほうがいい」
彼女は何も言わない。
「俺の意志が変わることはない。だから、もう死刑に反対しないでくれ」
すると彼女はサングラスを外し、小さな声で言う。
「あたしが誰かわかる?」
奈津子の顔は慎吾の脳裏に焼きついていた。化粧をしても、見間違えるとは思えない。ただ、彼女の顔は少女のままだった。
「君は誰だ?」
彼女は慎吾の背後に立つ刑務官をチラッと見てから、アクリル板に顔を近づけ、さらに声を潜める。
「やっぱり、お母さんにそっくりなのね」
「君は彼女の娘なのか?」
「しっ、小さな声で話して」
綾香は母の筆跡をまね、免許証を偽造したのだ。
「なんの真似だ」
綾香は慎吾の目を見つめる。
「知っているのよ。あなたが優しい人だって」
「知ったような口を聞くな」
「美咲さんのことも、復讐のことも知っている。あたし、あなたの気持ちがわかるわ」
「黙れ。お前に何がわかる」
「お願い。ひとつだけ教えて。そしたら、すぐに帰るから」
「何が聞きたい?」
「復讐したことを、後悔してる?」
『一度だけ面会してください。あなたがそれでも死を望むなら、私は諦めます』
「彼女」が指定された時刻に面会室に入って待っていると、やがて慎吾が現れた。ふたりはアクリル板越しに見つめ合う。
なぜか彼女はサングラスを掛けたまま黙っているから、仕方なく慎吾から話しかけた。
「家族がいるんだろ。こんなことは、しないほうがいい」
彼女は何も言わない。
「俺の意志が変わることはない。だから、もう死刑に反対しないでくれ」
すると彼女はサングラスを外し、小さな声で言う。
「あたしが誰かわかる?」
奈津子の顔は慎吾の脳裏に焼きついていた。化粧をしても、見間違えるとは思えない。ただ、彼女の顔は少女のままだった。
「君は誰だ?」
彼女は慎吾の背後に立つ刑務官をチラッと見てから、アクリル板に顔を近づけ、さらに声を潜める。
「やっぱり、お母さんにそっくりなのね」
「君は彼女の娘なのか?」
「しっ、小さな声で話して」
綾香は母の筆跡をまね、免許証を偽造したのだ。
「なんの真似だ」
綾香は慎吾の目を見つめる。
「知っているのよ。あなたが優しい人だって」
「知ったような口を聞くな」
「美咲さんのことも、復讐のことも知っている。あたし、あなたの気持ちがわかるわ」
「黙れ。お前に何がわかる」
「お願い。ひとつだけ教えて。そしたら、すぐに帰るから」
「何が聞きたい?」
「復讐したことを、後悔してる?」
綾香が林間学校に出発する日の前夜、奈津子は海外にいる夫と電話で口論をしていた。
奈津子は綾香を林間学校に行かせたくないと言うが、夫は耳を貸さない。
「お願い、わかって。どうしても行かせたくないの」
「どうして?」
「なにか悪い予感がするの」
「なに馬鹿なこと言ってるんだ」
いつの間にか綾香がそばに立っていた。
「お母さん。あたし、みんなと仲良くなりたいの」
「でも……」
「奈津子。そこに綾香がいるんだろ。代わってくれ」
奈津子は娘に受話器を渡す。
「綾香。一人で絵ばかり描いてちゃいけない。気持ちを切り替えて、新しい友達を作りなさい」
「うん。そうする」
「持ち物は全部用意したのか?」
「大丈夫。もう準備はできているわ」
指定された持ち物はもちろんのこと、綾香はカレーに入れる特別な食材まで用意していた。わざわざ郊外の山奥まで行って採ってきたのだ。
奈津子は綾香を林間学校に行かせたくないと言うが、夫は耳を貸さない。
「お願い、わかって。どうしても行かせたくないの」
「どうして?」
「なにか悪い予感がするの」
「なに馬鹿なこと言ってるんだ」
いつの間にか綾香がそばに立っていた。
「お母さん。あたし、みんなと仲良くなりたいの」
「でも……」
「奈津子。そこに綾香がいるんだろ。代わってくれ」
奈津子は娘に受話器を渡す。
「綾香。一人で絵ばかり描いてちゃいけない。気持ちを切り替えて、新しい友達を作りなさい」
「うん。そうする」
「持ち物は全部用意したのか?」
「大丈夫。もう準備はできているわ」
指定された持ち物はもちろんのこと、綾香はカレーに入れる特別な食材まで用意していた。わざわざ郊外の山奥まで行って採ってきたのだ。
翌日は朝から青空が広がり、絶好の遠足日和となった。紅葉を迎えた渓谷で飯盒炊爨をし、キャンプ場の近くで合宿する予定だ。
「みんなでカレーを作るのよ」と綾香は嬉しそうに言うが、彼女は香辛料にアレルギーがあった。
「あなた、カレーなんて食べて大丈夫なの?」
「あたしは作るだけ。美味しいカレーを作って、みんなに食べてもらうの」
あることが奈津子の不安を駆り立てていた。
先週、綾香の部屋を掃除していると見つけたのだ。机の引き出しを開けると、綾香の裸体が描かれたスケッチブックがあり、それに寄り添うようにB5のノートがあった。そこには教室の日常が描かれていたが、クラスメイトの顔に、ことごとく目が無い。奈津子は一瞬寒気がした。
あの子はクラスの子たちを憎んでいる。合宿に行きたがるなんて、どう考えてもおかしい。
「綾香、やっぱり何か悪い予感がするの」
「大丈夫、心配のしすぎ」
綾香はテーブルにつくと、目玉焼きを箸で食べ始めた。
「お母さん。フォークとって」
食器棚からフォークを取り出し、テーブルの方に振り向いた瞬間、奈津子はそれを手から落とし、何かが割れたような音が脳裏に響いた。
朝のニュースが、当時十八歳だった二人の死刑囚の最期を伝えたのだ。
奈津子は床に崩れ落ち、手をついて涙をこぼした。
あの人を救えなかった……
致命的な瞬間だった。奈津子は赦す相手を永遠に失い、その喪失感は果てしない。片や綾香は処刑された者たちを犠牲者と認識する。
奈津子が顔を上げると、綾香が目の前に立っていた。
「お母さん。何があったの?」
「なんでもないの。気にしないで」
「お母さんは、なにか恐ろしい経験をしたんじゃないの?」
「なに言ってるの! そんなことないわ!」
「なら、あたしの思い過ごしね」
綾香は母をじっと見つめる。
「お母さん。どうしても行かなくちゃいけないの」
綾香はリュックを背負い、部屋から出て行った。
「みんなでカレーを作るのよ」と綾香は嬉しそうに言うが、彼女は香辛料にアレルギーがあった。
「あなた、カレーなんて食べて大丈夫なの?」
「あたしは作るだけ。美味しいカレーを作って、みんなに食べてもらうの」
あることが奈津子の不安を駆り立てていた。
先週、綾香の部屋を掃除していると見つけたのだ。机の引き出しを開けると、綾香の裸体が描かれたスケッチブックがあり、それに寄り添うようにB5のノートがあった。そこには教室の日常が描かれていたが、クラスメイトの顔に、ことごとく目が無い。奈津子は一瞬寒気がした。
あの子はクラスの子たちを憎んでいる。合宿に行きたがるなんて、どう考えてもおかしい。
「綾香、やっぱり何か悪い予感がするの」
「大丈夫、心配のしすぎ」
綾香はテーブルにつくと、目玉焼きを箸で食べ始めた。
「お母さん。フォークとって」
食器棚からフォークを取り出し、テーブルの方に振り向いた瞬間、奈津子はそれを手から落とし、何かが割れたような音が脳裏に響いた。
朝のニュースが、当時十八歳だった二人の死刑囚の最期を伝えたのだ。
奈津子は床に崩れ落ち、手をついて涙をこぼした。
あの人を救えなかった……
致命的な瞬間だった。奈津子は赦す相手を永遠に失い、その喪失感は果てしない。片や綾香は処刑された者たちを犠牲者と認識する。
奈津子が顔を上げると、綾香が目の前に立っていた。
「お母さん。何があったの?」
「なんでもないの。気にしないで」
「お母さんは、なにか恐ろしい経験をしたんじゃないの?」
「なに言ってるの! そんなことないわ!」
「なら、あたしの思い過ごしね」
綾香は母をじっと見つめる。
「お母さん。どうしても行かなくちゃいけないの」
綾香はリュックを背負い、部屋から出て行った。
第十章 憎しみの決壊
その日の正午、綾香はクラスメイトと一緒にキャンプを楽しんでいた。
真っ青な空と、鮮血のような紅葉。その景色は、綾香の最高傑作に相応しい背景だった。
綾香は初めて神に感謝した。
神様、たまには、いいことをするのね。
彼女は六つのカプセルをポケットに忍ばせていた。中身は粉末化された「食材」だ。
確かに綾香は飯盒炊爨を楽しんでいるように見える。その笑顔の完璧さゆえ、彼女を嫌う者でさえ疑わない。
ある生徒が、玉ねぎは入れたかと聞けば、綾香はルーをかき混ぜながら「ごめん、忘れてた」と言い、申し訳なさそうに謝る。
ただ彼女の視線の先には、女一人と男五人のグループがいた。麻弥を罠にはめた連中だ。彼女は六つのカプセルを握りしめた。彼女は六つの皿にルーを盛ると、それを彼らの元へ運んだ。
「これ、あんた作ったの?」と鬼畜女子。
「うん。頑張って作ったのよ」と綾香は困った顔をする。迫真の演技だ。
「不味かったら、ゆるさねえぞ」と脅したのは、麻弥の顔に拳を振り下ろしたゴミクズだった。
綾香は涙を浮かべて震える。
「そんときゃ、お前の体で払わせるからな」
「ひゃははは! そりゃすげえや!」
クズどもの大笑いを、綾香は冷ややかな眼差しで見つめる。
馬鹿め。笑っていられるのも今のうちよ。
真っ青な空と、鮮血のような紅葉。その景色は、綾香の最高傑作に相応しい背景だった。
綾香は初めて神に感謝した。
神様、たまには、いいことをするのね。
彼女は六つのカプセルをポケットに忍ばせていた。中身は粉末化された「食材」だ。
確かに綾香は飯盒炊爨を楽しんでいるように見える。その笑顔の完璧さゆえ、彼女を嫌う者でさえ疑わない。
ある生徒が、玉ねぎは入れたかと聞けば、綾香はルーをかき混ぜながら「ごめん、忘れてた」と言い、申し訳なさそうに謝る。
ただ彼女の視線の先には、女一人と男五人のグループがいた。麻弥を罠にはめた連中だ。彼女は六つのカプセルを握りしめた。彼女は六つの皿にルーを盛ると、それを彼らの元へ運んだ。
「これ、あんた作ったの?」と鬼畜女子。
「うん。頑張って作ったのよ」と綾香は困った顔をする。迫真の演技だ。
「不味かったら、ゆるさねえぞ」と脅したのは、麻弥の顔に拳を振り下ろしたゴミクズだった。
綾香は涙を浮かべて震える。
「そんときゃ、お前の体で払わせるからな」
「ひゃははは! そりゃすげえや!」
クズどもの大笑いを、綾香は冷ややかな眼差しで見つめる。
馬鹿め。笑っていられるのも今のうちよ。
午後一時。奈津子が洗濯物をたたんでいると、学校から緊急のメールが入る。
『林間学校で食中毒が発生し、警察と救急隊が来ています。詳細は追って連絡します』
テレビをつけると、黄色いテープが張り巡らされたキャンプ場が映し出された。騒然とする現場を背景に、若い女のリポーターが早口で伝える。
「カレーを食べた六人の生徒が救急搬送されました。既に心肺停止とのこと。警察は毒物混入事件として捜査を開始しました」
電話は繋がらず、奈津子はメールを送る。
『綾香、大丈夫なの? カレーを食べたの?』
『作っただけだから心配しないで』
『林間学校で食中毒が発生し、警察と救急隊が来ています。詳細は追って連絡します』
テレビをつけると、黄色いテープが張り巡らされたキャンプ場が映し出された。騒然とする現場を背景に、若い女のリポーターが早口で伝える。
「カレーを食べた六人の生徒が救急搬送されました。既に心肺停止とのこと。警察は毒物混入事件として捜査を開始しました」
電話は繋がらず、奈津子はメールを送る。
『綾香、大丈夫なの? カレーを食べたの?』
『作っただけだから心配しないで』
トリカブトの粉末が検出された。それは犯行現場周辺の森にも自生しているが、部外者が採取してキャンプ場へ侵入したり、学校関係者が森に採りに行ったとは考えにくい。そんなことをすれば、簡単に目撃されてしまうからだ。
教職員も調べられたが、誰にも動機がない。いじめの報復という線でも捜査は進められた。だが容疑者は多数にのぼり、捜査は難航すると思われた。
だが、綾香の名前が徐々に浮上した。
被害者は彼女のクラスに集中しており、彼女が死んだ生徒たちを憎んでいたとの証言を、警察は聴取していたのだ。
教職員も調べられたが、誰にも動機がない。いじめの報復という線でも捜査は進められた。だが容疑者は多数にのぼり、捜査は難航すると思われた。
だが、綾香の名前が徐々に浮上した。
被害者は彼女のクラスに集中しており、彼女が死んだ生徒たちを憎んでいたとの証言を、警察は聴取していたのだ。
事件から二ヶ月後、黒いセダンが、奈津子の家のそばで豹のように待機していた。
ベテランの刑事はダッシュボードに駐車禁止除外車証を置くと、若い刑事に指示を出す。
「お前だけで行ってこい。居間に入ったら、さりげなく娘の部屋を見ていいかと聞け。くれぐれも無理をするなよ」
「わかりました」
若い刑事はインターホンを鳴らす。
「どちら様ですか?」
「警察です。少しお聞きしたいことがあるのですが」
奈津子がドアを開けると、背広姿の若者が警察手帳を見せた。
「警視庁捜査一課の稲垣といいます。綾香さんのことで、少しお聞きしたいのですが」
「なんでしょうか?」
「御近所の目もありますから、上がらせてもらっていいですか?」
奈津子は彼を居間に通すと、熱いコーヒーを出した。
「娘が何かしたんですか?」
「綾香さんがってわけじゃないんです。例の事件のことで、生徒全員の自宅を周っているんですから」
「そうですか」
「事件のことで、綾香さんは何か言ってませんでしたか?」
「あの子は香辛料にアレルギーがあるんです。だからカレーを食べなかったんです」
「ええ知ってますよ。綾香さんを疑っているわけじゃありません」
「家で事件のことなんて話しません。暗い気持ちになるので」
「そうですか。もし良ければ、ちょっと綾香さんの部屋を見せてもらえないですか? 無理なら結構ですが」
「いえ。別に構いませんが」
彼は部屋に入ると、壁に張ってある絵に注目した。
「綾香さんは絵が上手なんですね」
「あの子は美術部だったんです」
「今は違うんですか?」
「周囲に馴染めなくて、辞めてしまったんです」
「それにしても上手だなぁ。自分も学生のころ絵を描いていたんです。でも、とてもかなわない。綾香さんはきっと天才ですよ」
「いえ、そんなことは」
彼は机の上の分厚いスケッチブックに指先で触れた。
「見てもいいですか?」
「ええ。どうぞ」
彼は描かれた人物を確かめながら、ゆっくりと紙をめくる。
「これは、お母さんですね」
「はい」
「見事に特徴をとらえてますよ。この男性は?」
「それは夫です」
「ご主人の絵が少ないですね」
「主人は海外に赴任しているんです。それに仕事だけの人だから、絵のモデルなんて」
「そうですか」
ほとんどが奈津子の肖像画で、たまに父親や俳優の絵が現れる。
やがて絵は途絶えて白紙となる。それでも彼はめくり続け、最終ページで指が止まる。暗い目をした男の顔が描かれていた。
「これは誰ですか?」
奈津子がその男と対面したのは二十四年前。当時彼は十八歳で、奈津子は十二歳。顔の輪郭は同じだが、目の雰囲気が変わっていた。当時は冷酷な目をしていたが、今は悲しみに満ちている。
綾香は悲しみが氷結したような眼差しを、たった一度、それも数分間会っただけで、見事に描き切ったのだ。
奈津子は息を呑んだ。あの子は知っている……。急に目眩がして床に崩れ落ちた。
「奥さん! 大丈夫ですか!」
「貧血がひどくて」
「すみません。立たせたままで」
「その男の人、知りません」
「いいんですよ。きっと俳優か何かでしょう」
彼は奈津子をソファーに寝かせた。
「突然お邪魔してすみませんでした。今日のところは、これで失礼します」
彼は一礼し、ドアを閉めて出ていった。
ベテランの刑事はダッシュボードに駐車禁止除外車証を置くと、若い刑事に指示を出す。
「お前だけで行ってこい。居間に入ったら、さりげなく娘の部屋を見ていいかと聞け。くれぐれも無理をするなよ」
「わかりました」
若い刑事はインターホンを鳴らす。
「どちら様ですか?」
「警察です。少しお聞きしたいことがあるのですが」
奈津子がドアを開けると、背広姿の若者が警察手帳を見せた。
「警視庁捜査一課の稲垣といいます。綾香さんのことで、少しお聞きしたいのですが」
「なんでしょうか?」
「御近所の目もありますから、上がらせてもらっていいですか?」
奈津子は彼を居間に通すと、熱いコーヒーを出した。
「娘が何かしたんですか?」
「綾香さんがってわけじゃないんです。例の事件のことで、生徒全員の自宅を周っているんですから」
「そうですか」
「事件のことで、綾香さんは何か言ってませんでしたか?」
「あの子は香辛料にアレルギーがあるんです。だからカレーを食べなかったんです」
「ええ知ってますよ。綾香さんを疑っているわけじゃありません」
「家で事件のことなんて話しません。暗い気持ちになるので」
「そうですか。もし良ければ、ちょっと綾香さんの部屋を見せてもらえないですか? 無理なら結構ですが」
「いえ。別に構いませんが」
彼は部屋に入ると、壁に張ってある絵に注目した。
「綾香さんは絵が上手なんですね」
「あの子は美術部だったんです」
「今は違うんですか?」
「周囲に馴染めなくて、辞めてしまったんです」
「それにしても上手だなぁ。自分も学生のころ絵を描いていたんです。でも、とてもかなわない。綾香さんはきっと天才ですよ」
「いえ、そんなことは」
彼は机の上の分厚いスケッチブックに指先で触れた。
「見てもいいですか?」
「ええ。どうぞ」
彼は描かれた人物を確かめながら、ゆっくりと紙をめくる。
「これは、お母さんですね」
「はい」
「見事に特徴をとらえてますよ。この男性は?」
「それは夫です」
「ご主人の絵が少ないですね」
「主人は海外に赴任しているんです。それに仕事だけの人だから、絵のモデルなんて」
「そうですか」
ほとんどが奈津子の肖像画で、たまに父親や俳優の絵が現れる。
やがて絵は途絶えて白紙となる。それでも彼はめくり続け、最終ページで指が止まる。暗い目をした男の顔が描かれていた。
「これは誰ですか?」
奈津子がその男と対面したのは二十四年前。当時彼は十八歳で、奈津子は十二歳。顔の輪郭は同じだが、目の雰囲気が変わっていた。当時は冷酷な目をしていたが、今は悲しみに満ちている。
綾香は悲しみが氷結したような眼差しを、たった一度、それも数分間会っただけで、見事に描き切ったのだ。
奈津子は息を呑んだ。あの子は知っている……。急に目眩がして床に崩れ落ちた。
「奥さん! 大丈夫ですか!」
「貧血がひどくて」
「すみません。立たせたままで」
「その男の人、知りません」
「いいんですよ。きっと俳優か何かでしょう」
彼は奈津子をソファーに寝かせた。
「突然お邪魔してすみませんでした。今日のところは、これで失礼します」
彼は一礼し、ドアを閉めて出ていった。
最終章 憎しみの大河
奈津子は悟った。
あの子は、あたしの過去を知っている……
もう隠すことに意味はない。その夜、奈津子は牧場での惨劇を語り終えると言った。
「母さんは子供のころ、土石流で家族を失った。あの夜、妹と一緒に寝ていれば、全てが変わっていたような気がするの」
「どうして話してくれなかったの?」
「これは凄く恐ろしいことなのよ。こんなことに、あなたを巻き込みたくない」
奈津子の瞳から、とめどなく涙がこぼれる。
「お母さん。明日、警察に連れて行って」
「だめ! そんなことをしても、亡くなった子たちは戻らないのよ」
「なら、あたし一人で行く」
あの子は、あたしの過去を知っている……
もう隠すことに意味はない。その夜、奈津子は牧場での惨劇を語り終えると言った。
「母さんは子供のころ、土石流で家族を失った。あの夜、妹と一緒に寝ていれば、全てが変わっていたような気がするの」
「どうして話してくれなかったの?」
「これは凄く恐ろしいことなのよ。こんなことに、あなたを巻き込みたくない」
奈津子の瞳から、とめどなく涙がこぼれる。
「お母さん。明日、警察に連れて行って」
「だめ! そんなことをしても、亡くなった子たちは戻らないのよ」
「なら、あたし一人で行く」
その夜、奈津子は綾香と一緒に寝た。眠れなかった。いや眠りたくなかった。娘を抱いていれば、わずかに幸せを感じられたから。
奈津子は憎しみの激流を予感した。たとえ、それに呑まれても、娘を決して離さない。そう心に誓うのだ。
「お母さん。ごめんね」と綾香。
奈津子は娘を抱きしめる。もはや言葉はいらない。温もりが全てだ。綾香は母の運命に思いを馳せ、その腕の中で泣き続ける。
彼女たちのベッドは、憎しみの大河へ乗り出す筏(いかだ)だった。ふたりは抱き合ったまま、永遠に漂流したいと思っていた。
奈津子は憎しみの激流を予感した。たとえ、それに呑まれても、娘を決して離さない。そう心に誓うのだ。
「お母さん。ごめんね」と綾香。
奈津子は娘を抱きしめる。もはや言葉はいらない。温もりが全てだ。綾香は母の運命に思いを馳せ、その腕の中で泣き続ける。
彼女たちのベッドは、憎しみの大河へ乗り出す筏(いかだ)だった。ふたりは抱き合ったまま、永遠に漂流したいと思っていた。
終わり