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#12

ー/ー



 極端に短い昼が終わり村が闇に沈む中、少年が家の戸を開いて中に入ると二人と一匹の全身が湿潤で温暖な空気に覆われる。毛の長い犬であるタローは家の中で一番温度の低い入り口が定位置なので室内に入った途端床に伏せ、少年は子供らしく元気に帰宅を、女はおずおずと「お邪魔します」と屋内に告げた。
 てっきり一人と一匹で帰って来るものだと思っていた夫婦は予期せぬ来客に顔を出し、先程家に帰って行く者達を騒がした客人だと一目で察したようだったが一応定型句を口にした。

「ライアン、そちらの方は?」
「紹介するよ、母さんも早くこっちに来て。この人はジロー、日本からのお客さんだよ」
「どうも久峩耳シロです」

「ほうジローさん。ということは熊を担いで来たのというのは君の事か」
「濁りません。シロです」

「ああすまない、外国の名前は不慣れでね。ジローさんだねわかった。今後は間違えないようにするよ」
「……ええ、お願いします」

 シロは既に間違っていることを伝えようかと思ったのだが、ライアンの耳は親譲りかと早々に諦める。キッチンで聞いていたのだろう母親がやって来てジローさん苦手な食べ物はなんて聞き始めたので、もう意を決した彼女は詰まることもなく何でも食べますと答えた。
 日本の話をしながら待っていると少年と母親の手で食卓の中心にスープの入った鍋と籠いっぱいに盛られたパンが置かれ、スープから香るハーブと焼きたてのパンのたてる暖かく素朴な香りが部屋中に漂い、空港を出てからカマクラで貰った干し肉と道端の雪しか口にしていなかった女の腹の虫を大きく鳴かせた。

「わー、今日のパンは焼きたてなんだね!」
「ええ、これからパン屋さんも休業期間に入るかもって言ってらしたから試しに作ってみたの」

「こら、ライアンまだ食べちゃだめだ。お祈りが先だろ?」
「祈り?」

「ジローさんは少しだけ待っててくれませんか?すぐに終わりますので」
「いえ気にしないでください。なんなら俺も一緒に」

「いえいえ、これは私達ネリットに続く埃くさい風習ですから。それにお客人に祈りを強制するなど死しても語られるべき悪徳です」
「そういうもんか。じゃあ待たせてもらおう」

 長四角い机の長辺に子供とシロが並んで座り、キッチンから母親が席に着いたことで向い側に両親が揃うと三人は姿勢を正して祈りの言葉を奉げ始める。

「タケトックの加護と、ヌリアユク、ナルサクの御目こぼしに感謝します」

 短い祈りだった。しかしとても堂に入っていて、長い間日常的に行われてきたことをありありと伝えてくる。その姿に女は一種の神々しさすら感じた。

「お待たせしました。さあお客人から」
「いいのか?」

「もちろん。」
「じゃあお言葉に甘えて、いただきます」

 当たり前すぎて普段は言葉にすらしない日本式の祈り言葉だったが、彼らの姿から今一度食材に深く感謝を伝えたくなった女は彼らにならい姿勢を正し、水平にした肘の先を指先までピンと伸ばし合掌して瞼を閉じる。
 人生で一番真剣な食前の祈りを奉げてから木の匙で唇の隙間からスープを注ぎ入れると、皿の大半は肉であったが仕上げに振られたハーブの香りの裏には確かな野菜の旨味があり、素朴ながらも手の掛かった金色の汁は大女の目を見開かせる。それを見てもう待ちきれなかったライアンもスープに浸ったゴロッとした肉を掬い咀嚼し、対面に座す夫婦の頬を綻ばせた。

「お口に合いましたか?」
「ええ、とても。これもこの地域の伝統的な物ですか?」

「まさか、この辺りは寒すぎて野菜が取れませんから。これは近年になってスーパーで野菜を手に入れられるようになってから作れるようになったものです」
「野菜がとれないってのは中々大変ですね」
「ええ、それはもう。私の親世代なんかは生物に頼り切りだったもんで。そうそう、口調を崩していただいても構いませんよ。なんだか窮屈そうだし、先程の貴方の祈りはとても美しかった。他所の村でどうかは分かりませんが、うちの村ではいつも通りでいてください。きっとその方が皆喜びます」

 普段から粗暴な口調の彼女の慣れぬ敬語を察してか、父親からの肩肘張らずに食事を楽しみましょうという提案に客人は右手首を左手で掴んで大きく伸びをする。そのまま目を固く閉じて左右に振り背骨をぱきぱき言わせながら村に入ってから力み続けていた上半身の筋肉をほぐした。

「ありがたい。実は村に来てから肩が凝ってしょうがなかったんだ。こんな口調だけど構わねーか?」
「ええ、人間自然にしているのが一番です。それにしても本当に日本人というのは礼儀正しいんですね」

「まあ礼儀ってもんでもないがな。義務教育の過程で、慣れない土地に行ったら地元の代表として見られることを肝に銘じて行動しろって口酸っぱく教えられんだ。ところで話は戻るんだが、野菜が育たないってなると、昔の人たちは何食ってたんだ?狩りだけじゃビタミンとか必要不可欠な栄養とれねーだろ」
「それが意外とそうでもないんです。ご先祖様は狩猟した獲物の生肉や内臓からビタミンを取っていたみたいですよ」

「生肉か。なるほど確かに肝臓なんかは栄養の宝庫だって聞くし、火ぃ使った料理ではそれも失われちまうらしいからな。俺もこれからの道中で参考にさせてもらおう」
「ほう、博識ですね。しかし白熊の肝臓だけは食べては食べてはいけませんよ」

「なんでだ?あれだけでかい図体してんだ、肝もでかくて食いでがありそうじゃねーか」
「ネリット族に昔から伝わる話なのですが、実は最近科学的な根拠も見つかりまして。白熊の肝臓はビタミンAというのが多すぎて、どうやらそれが致死量にまで達しているんだとか」

「食うとどうなる?」
「この辺りの人は食べないので実際に見た事はありませんが、腹痛に嘔吐、皮膚がはげ落ちたりするらしく、それにこの環境ですんでキャンプに戻れず亡くなった探検家も多いとか」

「そりゃ大変だな。ここで聞けて良かったぜ。俺が地元に帰ったらネリットのお陰でビタミン過剰で死なずに済んだって本に書かせてもらおう」
「はっはっは、それはいい。ではネリットとジローの未来に乾杯」

 話が弾んでいて気が付かなかったが、いつの間にか席を立ち盃を用意していた母親の手から飲み物が注がれる。
 女は対面から掲げられる小人用の樽にも見える盃の胴をぶつけあった。



次のエピソードへ進む #13


みんなのリアクション

 極端に短い昼が終わり村が闇に沈む中、少年が家の戸を開いて中に入ると二人と一匹の全身が湿潤で温暖な空気に覆われる。毛の長い犬であるタローは家の中で一番温度の低い入り口が定位置なので室内に入った途端床に伏せ、少年は子供らしく元気に帰宅を、女はおずおずと「お邪魔します」と屋内に告げた。
 てっきり一人と一匹で帰って来るものだと思っていた夫婦は予期せぬ来客に顔を出し、先程家に帰って行く者達を騒がした客人だと一目で察したようだったが一応定型句を口にした。
「ライアン、そちらの方は?」
「紹介するよ、母さんも早くこっちに来て。この人はジロー、日本からのお客さんだよ」
「どうも久峩耳シロです」
「ほうジローさん。ということは熊を担いで来たのというのは君の事か」
「濁りません。シロです」
「ああすまない、外国の名前は不慣れでね。ジローさんだねわかった。今後は間違えないようにするよ」
「……ええ、お願いします」
 シロは既に間違っていることを伝えようかと思ったのだが、ライアンの耳は親譲りかと早々に諦める。キッチンで聞いていたのだろう母親がやって来てジローさん苦手な食べ物はなんて聞き始めたので、もう意を決した彼女は詰まることもなく何でも食べますと答えた。
 日本の話をしながら待っていると少年と母親の手で食卓の中心にスープの入った鍋と籠いっぱいに盛られたパンが置かれ、スープから香るハーブと焼きたてのパンのたてる暖かく素朴な香りが部屋中に漂い、空港を出てからカマクラで貰った干し肉と道端の雪しか口にしていなかった女の腹の虫を大きく鳴かせた。
「わー、今日のパンは焼きたてなんだね!」
「ええ、これからパン屋さんも休業期間に入るかもって言ってらしたから試しに作ってみたの」
「こら、ライアンまだ食べちゃだめだ。お祈りが先だろ?」
「祈り?」
「ジローさんは少しだけ待っててくれませんか?すぐに終わりますので」
「いえ気にしないでください。なんなら俺も一緒に」
「いえいえ、これは私達ネリットに続く埃くさい風習ですから。それにお客人に祈りを強制するなど死しても語られるべき悪徳です」
「そういうもんか。じゃあ待たせてもらおう」
 長四角い机の長辺に子供とシロが並んで座り、キッチンから母親が席に着いたことで向い側に両親が揃うと三人は姿勢を正して祈りの言葉を奉げ始める。
「タケトックの加護と、ヌリアユク、ナルサクの御目こぼしに感謝します」
 短い祈りだった。しかしとても堂に入っていて、長い間日常的に行われてきたことをありありと伝えてくる。その姿に女は一種の神々しさすら感じた。
「お待たせしました。さあお客人から」
「いいのか?」
「もちろん。」
「じゃあお言葉に甘えて、いただきます」
 当たり前すぎて普段は言葉にすらしない日本式の祈り言葉だったが、彼らの姿から今一度食材に深く感謝を伝えたくなった女は彼らにならい姿勢を正し、水平にした肘の先を指先までピンと伸ばし合掌して瞼を閉じる。
 人生で一番真剣な食前の祈りを奉げてから木の匙で唇の隙間からスープを注ぎ入れると、皿の大半は肉であったが仕上げに振られたハーブの香りの裏には確かな野菜の旨味があり、素朴ながらも手の掛かった金色の汁は大女の目を見開かせる。それを見てもう待ちきれなかったライアンもスープに浸ったゴロッとした肉を掬い咀嚼し、対面に座す夫婦の頬を綻ばせた。
「お口に合いましたか?」
「ええ、とても。これもこの地域の伝統的な物ですか?」
「まさか、この辺りは寒すぎて野菜が取れませんから。これは近年になってスーパーで野菜を手に入れられるようになってから作れるようになったものです」
「野菜がとれないってのは中々大変ですね」
「ええ、それはもう。私の親世代なんかは生物に頼り切りだったもんで。そうそう、口調を崩していただいても構いませんよ。なんだか窮屈そうだし、先程の貴方の祈りはとても美しかった。他所の村でどうかは分かりませんが、うちの村ではいつも通りでいてください。きっとその方が皆喜びます」
 普段から粗暴な口調の彼女の慣れぬ敬語を察してか、父親からの肩肘張らずに食事を楽しみましょうという提案に客人は右手首を左手で掴んで大きく伸びをする。そのまま目を固く閉じて左右に振り背骨をぱきぱき言わせながら村に入ってから力み続けていた上半身の筋肉をほぐした。
「ありがたい。実は村に来てから肩が凝ってしょうがなかったんだ。こんな口調だけど構わねーか?」
「ええ、人間自然にしているのが一番です。それにしても本当に日本人というのは礼儀正しいんですね」
「まあ礼儀ってもんでもないがな。義務教育の過程で、慣れない土地に行ったら地元の代表として見られることを肝に銘じて行動しろって口酸っぱく教えられんだ。ところで話は戻るんだが、野菜が育たないってなると、昔の人たちは何食ってたんだ?狩りだけじゃビタミンとか必要不可欠な栄養とれねーだろ」
「それが意外とそうでもないんです。ご先祖様は狩猟した獲物の生肉や内臓からビタミンを取っていたみたいですよ」
「生肉か。なるほど確かに肝臓なんかは栄養の宝庫だって聞くし、火ぃ使った料理ではそれも失われちまうらしいからな。俺もこれからの道中で参考にさせてもらおう」
「ほう、博識ですね。しかし白熊の肝臓だけは食べては食べてはいけませんよ」
「なんでだ?あれだけでかい図体してんだ、肝もでかくて食いでがありそうじゃねーか」
「ネリット族に昔から伝わる話なのですが、実は最近科学的な根拠も見つかりまして。白熊の肝臓はビタミンAというのが多すぎて、どうやらそれが致死量にまで達しているんだとか」
「食うとどうなる?」
「この辺りの人は食べないので実際に見た事はありませんが、腹痛に嘔吐、皮膚がはげ落ちたりするらしく、それにこの環境ですんでキャンプに戻れず亡くなった探検家も多いとか」
「そりゃ大変だな。ここで聞けて良かったぜ。俺が地元に帰ったらネリットのお陰でビタミン過剰で死なずに済んだって本に書かせてもらおう」
「はっはっは、それはいい。ではネリットとジローの未来に乾杯」
 話が弾んでいて気が付かなかったが、いつの間にか席を立ち盃を用意していた母親の手から飲み物が注がれる。
 女は対面から掲げられる小人用の樽にも見える盃の胴をぶつけあった。